喟然/オピウムとベンゾ
何度目か分からない夢から目覚める。
確か、少女は夢の中で大きな空を泳いでいた。その鯨の子供は海と空の区別も付いていないものだから、水平線の向こうはそのまま空へ繋がっているのだと信じていた。海の底は冷たくて気持ちが良い。それならば空の上だって同じだろう。いつか母の元から独り立ちしたときには、まずあの雲の高さまで泳いでみようと、そう決めていた。眠る度に見る夢は、その予行演習だ。
何度目か分からない現実へ目覚める。
独房は酷い臭いがした。それにあの山中ほどではないとはいえ、冷え切っていた。臭いの原因ははっきりしている。少女の身体から出る赤かったり白かったり黒かったりするいろんなものが、辺りに散乱しているからだ。それらを垂れ流すたびに、研究者の中で一番偉そうな奴が何やら怒鳴り散らす。しかし何のことやらさっぱり分からなくて、ただ恐ろしいだけだった。さんざん投げ込まれた衣服も、ちくちくすることに一向に慣れないものだから、少女は触れることすらしなかった。
どうしたらいいのだろう。どうしたいのだろう。
どうしてなんだろう。どうしようもないのは。
久しぶりに穏やかな気持ちで目が覚めた。まだ空を泳いでいるような気さえした。風が身体を撫でる感覚が、まだ肌に残っていた。あの鯨は夢を現実にできたのだろうか。そんなことをぼんやりと考えているうちに、風の感覚がじんじんとした痛みに変わってくる。主に岩壁を殴ったり蹴ったりした手足が痛んでいた。起きあがって見てみると、赤かった傷口が真っ黒になっている。周囲からはじくじくと黄色い液体が溢れ出ていた。痛い。一度理解してしまうと、もう駄目だった。激痛が少女を捕らえてはなさない。
痛い、痛い、痛い!
本能的に、右手の傷口をしゃぶってみる。痛い。唇が、歯が、舌が、触れた場所から痛みが波のように広がっていく。じん、じん、じんと、そのリズムが鼓動と一致していることに気づく。口の中に溜まった、ぐにゅりとした何かを無理矢理飲み込んだ。けれど、すぐに吐き戻してしまった。手を突く。傷口を岩床が抉る。悲鳴を上げた。
痛い、痛い、痛い!
転げ回るほどに、少女の身体は黒ずんで、痛みは広がっていった。もはや痛いというよりは熱い。炎に包まれたようだ。少女は実際に炎に触れたことはないけれど、それでも夢で炎の熱さは学んでいる。赤く輝くあのゆらめきが、全身から立ち上がっている様子を幻視した。このまま燃え尽きてしまえば、自分は。
「――――――――ッ!」
涸れきった喉で叫んだ。恐怖があっという間に少女を包み込んで、幾重にも縛り上げた。このままでは、自分は痛みに焼き殺されてしまう。きっと死んでしまう。けれど、どうすれば良いのか分からない。この独房からはどこにも逃げられないし、炎を消し止める方法も知らない。狂ってしまいそうだった。
手足を打ち付ける。
皮膚が破れる。
炎が燃え上がる。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
誰か。
ねぇ。
誰か。
きて。
助けて。
誰か。
いや。
いや。
嫌。
嫌。
嫌…………。
暗闇を裂いて。
一条の光が射す。
蟠っていた風が巡り出す。
淀んでいた空気が、だんだんと澄んでいく。
少女は眩しさに目を細めた。腐った果実が弾けたみたいに、結界の穴からガスが抜けていった。新鮮な空気との対流が、少女の舌に甘い味を運んでくる。
息苦しさが消えた。息苦しかったことに、ようやく気がついた。
少女は大きく、大きく息を吸った。
光を背負って、人影が近づいてくる。風がそのひとの周囲で渦巻いている。覚えのある気配、覚えのある希望だった。そのひとは傍らに屈み込んで、汚物とともに少女の額へ貼り付いた髪を払った。
「――もう、大丈夫だから」
そのひと――鍵山雛は、あのときと同じことを言った。
前回は言葉が分からなかったけれど、今ならば自分も理解できる。彼女は、自分を救いたいと思って、だから来てくれたのだ。あのときも、今このときも、彼女は恐怖こそ持ったままだけれど、その奥底には彼女だけの持つ熱がある。他の人にはない温もりを、彼女は確かに持っている。
そしてそれを、少女へ分け与えようとしてくれるのだ。
このひとは。少女は思った。ようやく、やっと、少女は信じることができた。
このひとは、怖がらなくてもいい。
このひとは、私を傷つけない。
このひとは、我々を受け入れてくれる。
このひとは。手を握り返す。そこにある確かな熱を、もう離さないように。
少女は心の底から安堵した。そしてそのまま、夢を見ない眠りへと落下した。
「……………………信じられない」
みど莉は吐き気を堪えながら呟いた。酷い悪臭に、鼻が千切れて落っこちそうだった。
鼻の鈍い鼻高天狗でさえこうなのだから、と傍らの鴇を見てみれば、白目を剥き泡を吹いている。それでも立ったままでいられるのだから、白狼天狗の身体能力だけはたいしたものだ。
問い質された三十三番隊隊長は、雛の助力があったことをあっさりと白状し、さらには厄神へ話を付ける算段まで整えてくれた。まるで初めからそのつもりであったかのようだった。掌で転がされているような役回りに、鞍馬の御嬢様は終始苦虫を噛み潰したような顔をしていた。しかしどれだけ歯噛みしたとしても、アレの収容が限界を迎えていることは明白である。
鞍馬ラボは、失敗したのだ。
ではアレを殺処分するべきか? 上層部の答えは否だった。生まれて呼吸をしているだけでこれほどの影響をもたらす存在を、殺したときに何が起こるか。誰もその結論を出し得なかった。もちろん、生かしておいても何が起こるか分からないのだから同じことだ、殺せ、とする向きもあるにはあった。けれど殺処分派が勝てなかった理由は、「そもそも殺せないのではないか」という憶測が消えなかったことがまずひとつ。そしてもうひとつが、自身の感情を周囲に伝染させるという特性により、「死ぬ瞬間の感情を御山の全員が共有することになりはしないか」という主張で全員が黙り込んだせいだ。
妖怪は精神に存在を依存している。その精神が死の感情に染まってしまったとしたら、本当に死んでしまうかもしれない。その可能性が捨てきれないかぎりアレを殺すことはできない、という論理だ。
雛が独房に入るため、結界を解く瞬間は、非常に緊迫していた。結界によって抑え込まれていた妖力が一気に噴出すれば、この一帯ごと跡形なく吹き飛んでもおかしくはない。そのため、一度にすべてを解放するのではなく、ひと回り大きな結界を張ってから内側の結界を解除し、圧力を弱めたのちに同じことを繰り返していく、という手法をまな華が提案した。だが雛はそれを断り、退避したいものは退避するようにとだけ言って動じる気配もない。結局、天狗の矜持が邪魔をした。それに鴇が逃げないということは問題ないのだろうと、鼻高天狗たちも結界解除を至近距離で見届けることとした。
防御結界を即座に発動できるよう、みど莉はずっと身構えていたが、結果的にその必要はなかった。噴出し暴れ出した感情を、雛はまるで水飴のように掬い取ってみせたのである。感情を厄の一種とみなすことで能力のコントロール下に置いているのだろう、とまな華は興奮気味にまくしたてた。面目を潰された室長の表情の険しさが増した。
「……医者を呼んで」
少女を抱き抱えて、雛が戻ってくる。平静を装ってはいるが、その声には怒りが滲む。無理もない、とみど莉は溜息を吐いた。鍵山雛は、ひとのために厄を管理し続けている慈悲深き神だ。それがこんな有様の少女を見せられれば怒りもしよう。
しかし、室長は臆することもなく言った。
「天狗の医者が天狗以外を診ることはない。お前が今後これの面倒を見るというのなら、治療はお前自身の責任下で行うように」
「……………………室長、言い方」
「あっ、そう。それじゃ好きにさせてもらうわ」
「……まずはウチらの浴場で身体を洗ってやってよ。鞍馬殿、それくらいは私の権限で許可してもよろしいか?」
「良いでしょう。流石に見るに耐えない」
冷ややかな雛の視線に気づいているのかいないのか、かお瑠はしっしっと手を払い、さっさと出て行くよう促す。
みど莉は心の中で天を仰いだ。このプライドの高ささえなければ、本当は仲間思いのいいひとなんだけど。
厄神と白狼を見送ってから、ラボの三人はあらためて独房内の現実と向き合った。しっちゃかめっちゃかの観測機器に、完全に破壊された檻や結界呪符。そしてその奥には汚物にまみれた岩窟がある。雛が感情を手懐ける課程で、気塊が荒れ狂った結果だ。
これが致し方ない結論なのか、それとも故意の当てつけなのかは分からない。とりあえず確かなことは、貴重なデータと引き替えに高価な機器が失われたという事実。それに加えて、この後始末を自分たちでやらなければならないという現実である。
「……………………で、アレ、一体何?」
「わ、わわ私が思うに、アレは付喪神の一種だとかっ考えます。妖怪の最も原始的な形態、依代に宿った神霊が感情を持ち始めた段階。あああああアレはそれが、非常におおお大きな規模で発現したのではないかと」
「あぁもう、気に入らない。何であろうと関係ないわ。私たちの手に負えないものなんてあるわけがない。私のラボで扱ってるのは、外の世界の無味乾燥なサイエンスとも、河童の粗野なテクノロジーとも違う。この世界で最も崇高な力、秘密を封印している神秘。妖力学と結界術の応用で解き明かせない謎はない。あるわけがないのよ。この屈辱、いつか必ずリベンジしてやるわ。……あ、そういえば」
何かに思い当たったかお瑠の表情に、さっと朱が差した。
「八雲様、この件に気づかれておられるかしら……? いや、私の術は完璧よ。御山の外には絶対に……。あぁでも、私の術が未熟なせいで、あのお方に事態を察知されてしまったかも。いやだわ、こんな拙い有様、八雲様に見られでもしたら、恥ずかしくて恥ずかしくてもう死んでしまうかも」
鞍馬かお瑠は、妖怪の山で唯一と言ってよい八雲紫の信奉者である。その憧れは、尊敬というよりはもうほとんど恋であった。
「でもでも、そんな私を見かねて、お弟子にしていただけたりして……。あぁどうしようどうしよう、四六時中あのお方の側で手取り足取り、結界術のご指導をいただくだなんて、そんな夢みたいな話が」
「……………………さっさと片づけよ」
「ででっでは、式神をさっそく」
溜息とともに動き出したみど莉は、あの少女の正体について、ぼんやりと考える。付喪神、とまな華は言った。なるほどそれならば、彼女が常に纏っていたあの大量の能面の存在にも頷ける。付喪神は道具から変じ、妖怪と化した後もその道具を携え続けるものだからだ。つまりあの少女は能面の付喪神と推定できる。
ただ、付喪神は生まれたときは微弱な妖力しか纏っておらず、長い成長を続けることでようやく一丁前の妖怪の様になる、という例がほとんどである。あの少女のように、周囲の感情を強制的に同調させるなどという強力な力を持って生まれてきた付喪神など、前例を知らない。断じるには違和感が残る。
アレは、感情そのものだった。
鼻高天狗の少女は、付喪神という以上にあり得ない仮定を思考して、自分で笑い飛ばした。
あの少女は、もしかしたら、ひとのこころそのものなのではないか。




