萎縮/マジェスティックジョーク
「……………………室長、ちゃんと寝てる?」
ラボへ出勤した白峰みど莉は、持ち前のじとりとした視線に、僅かばかりの心配を滲ませた。
あの少女の収容が開始されてから、すでに三週間になろうとしている。彼女の知る限り、鞍馬室長は独房と仮眠室、ラボを行き来するばかりで、自宅に戻ったのは数えるほどであった。天狗は人間ほど睡眠を必要としないが、学者ともなれば話は別である。不眠不休で頭脳を働かせ続けたりすれば、あっという間に限界が訪れよう。いくら鞍馬室長が三度の飯よりも呪符研究が好きだといっても、限度というものがある。
案の定、死んだ目で符の出力データと睨めっこをしている室長に、その言葉は届いていない。
「……………………室長ってば」
「どぇ? あ、あぁ白峰。おはよ、ってもうこんな時間か」
「……………………酷い隈」
「どうせ帰ったって眠れないんだもの。だったらここでデータ眺めてた方がマシよ。それに秋葉だってここに籠もりきりだし」
「……………………アレはラボが家だから」
みど莉はもうひとりの同僚を見やった。ニヤけ顔がまるまる隠れてしまうくらい大きな瓶底眼鏡を脂でべとべとにしながら、秋葉まな華は猛然と筆を動かしている。右手に左手、それに式神が七体で併せて九本。「うへへ」と声に出しながら呪符のデータをひたすら出力しつづける彼女は、お近づきになりたい類の者にはとても見えない。鼻高天狗は奇人変人揃いと揶揄されることも多いが、みど莉からすれば、その原因の八割はあの女である。
不眠不休の限界がどうの、という言説は、彼女に対してだけは成立しない。限界まで研究に頭を回転させ続けてはぶっ倒れるように眠る。そういうやり方でしか生きられない天才型天狗がアレであるのだから。みど莉も室長も、彼女の私生活矯正を何度も試みたが、常人のリズムで生活を送らせると途端に体調を壊すものだから、もうほとんど諦めている。
「……………………今日の妖圧最高値は?」
「十万とんで六百」
「……………………嘘でしょ、まだ更新するの」
「の、の伸び率が衰える素振りがみ、見えません。やっやややはりどこかで結界内の減圧を計るべきでは」
「だからどうやってよ。閉じ込めてる現状ですら影響が甚大なのに、結界に穴を開けた日にはもう何が起こるか」
「し、し、しかしもしも、もしも仮に、本当に、アレの秘めた妖力が、むむむ無尽蔵だとしたら」
「……………………無限。あり得ないわ、そんなの」
「かか仮定の話です。ここっ言葉通りのむ無限でなくても、たとえば一兆という数値を秘めていたとしたら、ふふ封じ込めできないという意味では同じことですし」
「私の呪符が、こんな単純な力に負けるだなんて……」
鞍馬室長は閉じた瞼を揉んだ。
独房の内側に沿って展開した防御結界は、すでに理論上の最高強度である。いかなる妖術もこの障壁は越えられないし、幽霊くらいならば触れただけで蒸発するレベルだ。現に、無数の神霊があの少女めがけて絶え間なく押し寄せているが、そのことごとくが痕跡も残さずに消えていく。当世一の秀才結界師たる鼻高天狗、鞍馬かお瑠の渾身の仕事であった。
だが、檻の中の少女はそんな矜持を粉々に砕いた。少女の慟哭は天文学的な質量の感情を吐き出し、その結界をただの圧力で無力化しているのだ。岩から水が染み出すように、鉄から錆が浮き出すように、強固なはずの結界を越えて外界へと影響がもたらされている。影響力は距離に比例しているようで、御山の外部結界こそ超えてはいないが、天狗社会が被っている影響は計り知れない。幹部連中はすっかりお冠で、かお瑠がもしも鞍馬一門の筆頭家の出自でなかったら、とっくにお役目から飛ばされていただろう。とにかくどうにかしろ、と四六時中せっつかれる毎日に、鞍馬家の御嬢様の我慢は限界に達していた。
「やっぱり、殺すしかないのかしら」
「……………………それは、最終手段」
「ととっととととんでもない! あれほど貴重なサンプル、研究価値は計り知れない!アレのげ原理や正体が分かれば、いくらでも応用が利きます」
「分かってるわよそんなこと! だけど現状でどうしようもないの。手に余って仕方ないのよ!」
「……………………時期尚早。それに殺処分による影響も未知数。結界符術の再強化を計るべき」
「あれ以上どうしろっていうのよ! 結界はただ重ねればいいってものでもないんだから! 門外漢は口を挟まないで!」
「かかかかか河童です! そうだ、河童に協力を取り付けましょう。かっ彼らの水流調整技術を、よよ妖力を流体の一種とか考えれば応用が」
「はぁ? なんで私が河童ごときに頭を下げないといけないわけ?」
「そそっそそっそれは考え方が古い! もはや種族間の身分差など過去の遺物! わ我々研究の徒としては、使えるものは何だって使うのが正道だと」
「アンタは良くても上が納得しないの! ガバナンスが分からない奴は黙りなさい!」
「……………………はっ」
みど莉は息を呑んだ。
自分の思考が、無根拠な怒りに支配されている。感情が勝手に塗り替えられている。おそらくは、このふたりも。
「……………………ふたりとも、ちょっと黙って」
「ちょっと、アンタに指図される覚えなんて」
「……………………静かに」
部下の冷たく沈み込んだ視線に射抜かれて、かお瑠もそれに気づいた。怒声に隠れていたそれが耳に入る。響いてくるのは、鳴き声のような、唸り声のような、身震いしそうに恐ろしい音。
アレが目覚めて、また慟哭しているのだ。
かお瑠は椅子を鳴らして立ち上がる。
「あぁもう、本当にイライラする!」
「……………………それはアレの影響。堪えて」
「アレの力を抜きにしてもイライラするって言ってるのよ!」
「ひゃあ、す、すす凄い。ももももう現時点の概算値で十一万を超えている!」
まな華は脇目もふらずに飛び出していった。その後を追おうとしたかお瑠を、みど莉は呼び止める。
「……………………まな華の言うことにも一理ある」
「あのナードの言動のどこによ?」
「……………………このラボだけでは限界。河童はともかく、外部の協力はやはり必要」
「協力って……」
「……………………アレを捕縛した際の様子、それを知る者」
「白狼に? あんな無骨者どもに何が分かるっていうのよ!」
「……………………その無骨な連中が、自分たちだけでアレを首尾良く捕獲できたと思う?」
「だって報告には三十三番隊が……。あ、まさか」
「……………………犬伏鴇を問い質すべき。奴は白狼にしては切れ者。何かを隠してる」
「あンのチビ犬!」
ふたりは早足でラボを後にする。残された七体の式神が、命令者を失ってしばらく右往左往していたが、やがて筆と紙で彼らにしか分からない手遊びを始めた。しかしそれもやがて怒りに支配され、互いを罵ってぶつかり合って、その衝撃で消滅してしまった。




