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カレー小説 臆病者、カレーを食べる

持ち帰り ~臆病者、カレーを食べる~

作者: 侍 崗

持ち帰りカレー。便利で美味しいですよね。私もよく利用します。

お店で食べるのも良いのですが、家に持ち帰って他人の目を気にせず、好きに食べられるのも、また楽しいものです。

さて、今回の話は「カレーを持ち帰りにするけれど、自宅に帰りたくない男」が主人公です。

どうして彼は帰りたくないのか。

理由を知れば案外、よくある話なのかもしれません。

 孝敏は帰りたくなかった。

 珍しく残業もなく、上司や同僚は家内がうるさいからと早々に退散し、職場でできる事の殆どが明日以降への持ちこしとなり、ぽつりデスクに座るばかりで、することがなくなっても帰りたくはなかった。

 孝敏に伴侶は元より彼女などいない。親しい友人も皆、近所に住んでいる訳ではなかった。何処かで一晩飲み明かすという手も考えられたが、生憎の給料日前。そもそも孝敏はそこまで酒が強くない。数杯飲んだら酩酊し、忽ちカウンターに突っ伏し、店から放り出されるのが見えていた。

 歩きながら時間を潰そうにも、生憎の小雨模様。

 とてもじゃないが、散歩に適した日ではなかった。

 時計は18時をまわったばかりで、昼に食べた牛丼などとうに胃袋から消えている。空腹ではあったとしても、孝敏は自宅へ帰りたくなかった。

 孝敏は5週前に引っ越したばかりだった。家賃の更新を機に狛江から松原にある物件へ移り住んだのだ。兎に角貧窮している身であったが、通勤にかかる時間を削りたい一心で、安く、やや広く、そしてすぐにでも移れる物件を即決した。

 部屋を紹介した不動産屋は部屋を貸すことに消極的だった。その部屋はいわゆる「わけあり」でそれでもいいならという条件を出してきた。孝敏はこの駅も近く、日当たりのよい部屋を気に入っていた。

 そんな浅はかな決断をした自分を、孝敏は呪いたかった。

 引っ越した先には、事故物件につきものだとされる「アレ」が出るのだ。

 リフォームされて綺麗になっているとはいえ、築40年という物件だ。それは色々出てくる。配管の詰まりや電気系統の不便さ。エレベータのない鉄筋集合住宅。まだゴキブリやネズミが出てくる位なら可愛いものだ。「アレ」などテレビや本で知る程度で、こちらには関係ないとまで思っていたが、それを目の当たりにした今、笑いで鼻を鳴らす余裕もなくなっていた。

 どうしようかなどと考えているうちに、時間も経っていよう。

 そう思い机の上で組んでいた手を解き、向こうの壁に掛けられている時計を見て孝敏は絶望した。時計の針は、彼が望むほど進んではなかった。

 もう少し別の事について考え、気と時間を紛らわせようとしたところで、彼の腹の虫が声をあげ、それが人気のなくなった部屋に響き渡る。

 ここで孝敏はようやく帰る決心をした。

 岩本町にある勤め先の入ったビルからJRのガードをくぐり、外神田へ出た頃、彼の決心はほんの少しだけ揺らぎ、まっすぐ帰らせまいと彼の足は駅ではなく、中央通りを上野方面へ進ませた。

 マンガ専門の書店やゲームセンターをうろつくも、手元の財布にそんな余裕などない事を思い出し、落胆のうちに退店するといった行為を4回繰り返した後、中央通りから1本外れた通りを彼は歩いていた。

 平日とはいえすでに夕方である。特に用がある人間以外は通らないそこは、すれ違う人もまばらだった。少し北へ歩いたところで彼は十字路にぶつかり、空腹の孝敏は1つの選択を迫られた。

 片や昭和40年代から続く老舗のカレー屋と、行列のできるとんこつラーメンの店がある通り。片や都内に少数あるカウンターのみのカレーチェーンへ続く道。そこから先は、小雨と闇に阻まれて歩く気力が湧いてこなかった。

 ラーメンという気分ではなかった。であるなら、カレー屋の2択。ラーメン屋の向かいにあるカレー屋は魅力的である。決してそこに努める看板娘が可愛いからでない。こういう帰りたくないという陰鬱な気分を和らげ、なんとなく後押ししてくれる味だった。ならばと足を向けたものの孝敏はまたしても財布の中身を思い出し、次の1歩を踏み出すことを止めた。給料日前に千円札1枚を超える出費は痛かった。

 仕方なく彼はそちらへ進むのを諦め、カウンター式のカレーチェーンへ入ることにした。

 しかしそこも生憎の満席。狭いカウンター席でぎゅうぎゅうと肩を寄せ合い食べている人々の間に彼が腰を掛けられそうな席はなかった。並んだり待ったりすることがあまり好きでなかった彼の中で、帰りたくないという気持ちよりも空腹が膨れ上がってしまい、孝敏の指は彼の気づかぬ内に券売機の「持ち帰り」を押していた。

 ブラックカレーの辛さ5倍。から揚げ付を2度押し、カウンターレジ付近で食券を渡すと、彼は一度外へ出た。小雨のせいかひしめき合う人の体温か、店の中は蒸していたからだ。

 外は小雨のまま止む気配はなく、向かいのビルの妙な静けさを押しのけ中央通から聞こえる様々な騒音が小さく彼の耳へ入り込んだ。特に何をするわけでもなく、彼は軒下で立ち、薄暗くなった正面を呆けて見ていた。消極的な彼に反し、腹の虫だけは活発で、先程から「席に就けるまで待てばよかった」と大合唱しているのを彼は知っていた。

 そう時間もかからずカレーは出来上がり、彼は容器の入ったビニール袋を手渡されると、先程来た道を戻った。小雨は孝敏に優しくなかった。

 中央線で人に押され潰され、人波の途切れない新宿駅を経由し京王線に乗り換え、明大前から徒歩で数分歩いたところに孝敏の住むマンションはある。そこへ近づくにつれ、あれだけ周囲で歩いていた人の数は減り、マンションの付近まで来た時、孝敏は1人だった。露出している各階通路の蛍光灯は黄色をおび、邪魔にならない程度にその場だけを照らしている。壁は最近塗装工事が終わったばかりでまだ綺麗だが、同じく塗装を施された通路で等間隔に並ぶドアはわざとらしい茶色のせいか彼に違和感を覚えさせた。

 孝敏はマンションの正面で深呼吸をすると、右手で重たくなっているビニール袋を下げ、自室を目指した。この頃蛍光灯の調子が悪く不快な点滅をする2階の踊り場を通り過ぎ、3階の向かって右から3番目の部屋の前に来た時、彼の全身は何かを背負ったように重たかった。それは疲労のせいではなく、今から遭遇するであろう「それ」に対する嫌悪だった。

 彼は鞄から部屋のカギを取り出しドアをそっと開いた。

 ドアの先にある暗闇の、更にその先に彼は見てしまった。

 独身の孝敏は1人で住んでいる。出かける時には電気とガスの元栓、それに施錠のチェックを2回しないと気が済まない。今日も普段通り其々を2度ずつ確認してきたから灯りはついていなかった。電気もつかず外の暗さも手伝い、部屋の中は闇に溶け込んでいる筈なのに、はっきりそこに「居る」のだけが明らかに分かった。

 孝敏は慌ててドアを閉め、通路を挟んで対面にある落下防止の柵にしがみついた。

 その時、タイミングよく携帯が彼の胸ポケットで震えた。彼は恐る恐る携帯を取り出し、画面を見る。ロック画面にポップアップ表示されたのはチャットアプリのメッセージ着信を知らせる文字だった。着信通知の際、ロック画面でも内容を1行分表示される筈なのだが、その着信通知では文字化けしていて読めなかった。だが、その文字化けで彼はその内容を見たくなかったし、何処の誰が送っているか知っていたので、それ以上見る必要も感じなかった。

 再び通知が入ってきた。

 差出人は同様に文字化けをしているが、内容は読めた。

「ハヤクハイレ」

 たった1行が彼の心拍数を上げた。それは蒸し暑さからくるものとは別種類の汗を、彼の背中に流すのに充分な威力だった。

 諦めた彼は再びドアを開けると、中へ足を踏み入れた。彼の頭の中で暴れていた空腹の2文字は卑怯にも何処かへ隠れて見つからず、代わりに言い知れない不安だけがそこに胡坐をかいていた。

 暗闇の向こう。テレビのある居間のドアは、通気の為開きっぱなしで出ていて、ドアと対面に位置する奥の壁が見える。明りのついていない今、その黒一色でなければいけない空間に、ぼんやりと顔が浮かび上がって見えている。体はなく、ただそこに顔だけが見えている。遠くにある筈なのに表情ははっきりと孝敏の目に映り、色は辺りの闇に溶け込まない青白さだ。浮かび上がる顔は能面のような表情で、じっと孝敏の方を見ている。

 その顔から男か女かを判断することはできない。

 孝敏にはそれがどちらともとれるし、どちらでもない気がしていた。

 孝敏はその闇に浮かぶ顔から目を離せなくなっており、しかし後ろ手にドアを閉め、手近にある明りのスイッチを入れた。手前の空間が一気に明るくなり、狭い通路と浴室とトイレへつながるドアが姿を現した。しかし奥の部屋の電気をつけるには更に通路を歩かなければならない。相変わらず奥は暗闇で、件の顔も身動きひとつせずに彼の様子を伺っていた。

 靴を蹴るように脱ぎ歩く、たった数メートルの通路が彼には何里にも感じ、目を離せない顔への恐怖は1歩ごとに大きく膨らんでいった。居間へ近づいているのにもかかわらず、顔との距離は変わらないでいた。全く広くないこの単身者用の部屋で後ずさるほどの余裕はない。なのに此方がどれだけ近づこうとも青白く浮かぶ顔はその大きさを変えなかった。

 ようやく居間の前にたどり着き、孝敏は壁のスイッチを入れた。

 居間には蛍光灯の柔らかな明かりが満ち、孝敏を迎え入れた。

 しかし、孝敏の気が安らぐことはなかった。

 その顔自体は闇の中にあった時と同じ位置、明るくなった居間の隅でじっと彼の様子を伺っている。明りに照らされたからといって顔は影を落とさず、ぼんやりと空中に固定され、彼の様子をじっと伺っていた。

 彼は逃げ出したい気分をぐっとこらえ居間へと踏み入り、急いで足の短いテーブルに置かれたリモコンを手に取りテレビをつけた。テレビの画面には最近よく見るお笑い芸人が観衆の前で自身のネタを見せている様子が映し出されていた。

 彼らのネタは一言たりとも笑えなかった。しかし、今ここにある孝敏の不安と恐怖を紛らわせるには、それで充分だった。

 孝敏は少しだけテレビの音量を上げ、鞄と手に提げたビニール袋を置く。そうして顔が浮かんでいる部屋の隅を見ずにスーツを脱ぎ、壁に掛けた。それが終わると、背後に視線を感じながら、恐る恐る浴室へと向かうのがもはや孝敏の日課となっていた。

 彼は浴室へ入るとすりガラス張りのドアは見ない様に心がけている。

 少し油断しようものなら、気配と共に何者かがドアに張り付きこちらを覗いているのが判るからだ。シャンプーする時、孝敏は出来る限り楽しい事を考え、目を閉じない様にしている。そうしなければドアの外にいる「そいつ」が襲いかかってきそうだったからだ。実際にそういう目に遭ったことがないものの、誰もいない筈の自宅で何者かに見張られているという恐怖を、最小限に抑えたかったのだった。

 こうして疲れた体を少しもほぐせぬまま浴室を出て、居間に戻りテレビに向かってテーブルに座ったところで、ようやく孝敏に束の間の平穏が訪れた。しかし文字通り束の間の平穏は毎回携帯の着信によって終焉を迎える。

 ロック画面に表示されたメッセージは例によって差出人は文字化けしており、内容は「メシ」とだけ書かれていた。孝敏は恐怖と震えで携帯を放り投げる様にテーブルに置き、無視を決め込む。しかし、そうすると何度も、何度も、しつこく携帯は震え続け、ロック画面の表示はその都度文字化けを含んだテキストで埋め尽くされていき、時間が経てば今度はテレビにノイズが走り、音声が乱れ始める。孝敏が更に耳をふさぎ目を閉じて無視していると壁とドアが振動し、居間の電気が点灯と消灯を繰り返す。大体そうなる前に孝敏は携帯を手に取り居間から這いずって逃げ、チャットアプリを起動させる。

 アプリの着信は数十件。その全部が文字化けしている相手からの物だった。

 恐怖で涙をにじませながら孝敏はそれをすべて消し、振動と点滅の終わった居間へまた恐る恐る戻った。

 居間の隅に佇む顔は表情も変えず、じっと孝敏を見ている。

 そちらを見ずに素早く部屋へ入ると、彼はテーブルの上に置かれたビニール袋から買ってきたものを取り出して並べた。飯とカレーの詰まった白いプラスチック容器は時間の経過でできたてとはいかず、しかしほんのりと温かさを残している。

 孝敏が買ってきたカレーは2つだった。

 給料日前、独身一人暮らしの男がなけなしの銭で何故同じカレーを2つも買わなければならないのか。理由はただ一つ。そこで表情なく孝敏の様子を伺っている顔の為だった。

 顔は飯を食わない。

 しかし、孝敏1人のものだけ買ってこようものなら、先程以上に部屋が荒れるのだ。更に孝敏が食べるより安いもの、小さなものをチョイスしてこようものなら、皿は飛び、本はすべて本棚から落とされ、眠っている間オーディオ機器が勝手に逆回転で再生を始め、枕元に何者かが立つ気配と金縛りで一晩中苦しめられるのだ。

 それを恐れた孝敏はテイクアウトをするとき、同じものを2つ購入することとなったのである。

 それならばいっそその部屋を引っ越してしまえばいいだろうとここまでの話で思う読者が殆どだと思うが、先にも記したとおり、孝敏は貧窮する身である。なけなしの貯金で契約金を払い引っ越し業者を手配したので、今手元にすぐに引っ越せるような余裕など残ってはいなかった。不動産屋の再三の説得に耳を貸さず、同意書にサインをしたこともあり、彼は苦情を訴える勇気も持てないでいた。

 しかし人一倍怖がりで、幽霊や物の怪の類を避けたかった孝敏は、この数週の間に一度だけ親に金を借り夜逃げ同然での引っ越しも画策した。しかしどういう訳か頼む業者が軒並み事故、食中毒等のありえない理由で来ず、頼み込んでようやく手伝いに来て貰えることになった友人たちも親族の不幸や自身の怪我、病気で床に臥せってしまい、ついぞ孝敏の逃走の為の協力者はひとりも来なかったのだった。

 そういった理由もあり、孝敏は今もこうして仕方なくこの部屋に暮らしている。

 顔が現れたのは引っ越してきて10日ほど経った夜からだった。酔っぱらっていた孝敏は酩酊の中で夢でも見ているのだろうと思っていたが、何日たっても顔が消えることはなく、毎晩居間の隅でじっと孝敏の様子を伺っている。

 その顔に孝敏は覚えがなかった。

 この部屋がわけありという事は、この部屋で「そういう事になった」人物の顔かも判らないし、調べようもない。携帯で写真を撮っても顔が映る事はなく、誰に話しても信じて貰えなかった――尤も、孝敏はそこまで隣近所との付き合いをしているわけではないので、打ち明けはしていなかったが――。

 最初のうちこそ顔は孝敏をじっと表情なく見ているだけだったが、数日もすると寝ている彼の枕元に現れたり、テレビのチャンネルを変え始め、ついに最近は携帯のチャットアプリに言いたいことを送信してくるまでになった。

 アプリのメッセージは最初質の悪いいたずらか、大陸から送られてくる詐欺メールのそれだと思っていたが、こうも何度もかかってくる上に、文字化けした中から文字を拾ったところ、居間の隅でじっとみている顔がこちらの様子を伺っている内容という事がわかったのだった。

 孝敏が皿を広げたテーブルのテレビが見える位置につくと携帯が振動しメッセージが表示される。

「オマエ ムコウ」

 孝敏は慌てて反対側に座る。それは否が応にも顔の方を向かなければならない位置だ。ただでさえ見たくないものを見る形になってしまう。自分自身の自由でさえこの部屋にはないのだった。

 今この瞬間に限って言うならば、自由というのは飯の食い方だけだ。

 孝敏はその自由を最大限に利用するために顔の方を見ずに食事に没頭することにした。

 容器の蓋を開けると、円形のくぼみに黒色のカレーが香ばしい匂いを辺りに放つ。その横には白飯に乗ったから揚げとボイルされたインゲンに人参がでんと構える。孝敏はここまで食欲のそそる匂いと色を持ったこの一食に惹かれながらも、既にぬるくなった飯に少々の不満を持った。本来ならば温めなおせば済む話なのだが、孝敏は電子レンジを持たない。よって必然的に鍋とフライパンを駆使して温めなおす作業が余計に入ってしまい、孝敏本人もそこまで面倒な事は今更したいとも思わず、飯のぬるさを諦めていた。

 持ち帰りのカレーにおいて人が考えるのは「カレーをどう向けるか」。

 飯の方にカレーを持っていくか。カレーの中に飯を突っ込むかである。

 容器がそれぞれ独立している場合、そのどちらもいけるのだがこの容器は一体型となっている。スプーンですくっていくという単純な作業でも最後の方は底に溜まったカレーがすくえない構造だ。飯を投入することもカレーの入った窪みがそこまで大きくない為、飯があり得ない方向に溢れてしまうだろう。

 彼は少し考え、「最初かけ、最後投入」の方法に決め、まずはカレーをひと掬いし、口へ運んだ。コールタールを流し込んだような黒色のカレーは、味などそこにないように見えるが、実に味が濃縮されている。カレーの特有のスパイスの辛さが口の中に広がり、その後に来るのは油脂の甘味だ。その甘味が顔を出しているうちに彼はもう一口カレーをすくうと飯にかけ、口へと運んだ。今しがた味わったスパイスの風味と甘味が再び訪れる。しかし直後にはカレーが触れた部分から、最初に感じたものより数倍の辛さがじわりと湧き上がってきた。それは耐えきれないほどの辛さではなく、舌でジワジワと弱火のごとく小さく揺れる刺激である。そこへ混ざり合う飯の温度と炭水化物の甘さがそのスパイスたちを迎え撃つ。そこに邪魔をするものはなく、やがてそれらは結託し、残り火の様な辛さを拭わず喉の奥へと消えていった。

 何も刺激がないカレーを好んで求めない孝敏には、いい塩梅の辛さである。

 ひとしきりカレーと飯を味わうと、次に彼は野菜にカレーをかける。

 例えば彼が今口へ放り込んだ人参然り、ボイルされた野菜は何故こうも甘くなるのか。

 ただそれだけでも味が完結されてしまう程に甘味がある。そこへこの黒いカレーの辛さが混ざると更にそれが引き立つ。

 店で食べる時には既にそれが1つのセットとなっており気づかないものだが、持ち帰りだとこの様に個々を楽しむことができる。他の人の様に酒が飲めれば、それだけで酒のあてにできるのではないだろうかと孝敏は思ったが、生憎孝敏は家で晩酌をすることがない。冷蔵庫や戸棚に酒はなく、実際に試すこともできない。試したところで食事の半ばに酔っぱらって折角味わっているこのカレーの味が判らなくなるのも癪であると思った孝敏は、気を取り直して目の前にあるカレーへと意識を戻した。

 食事も中盤。ようやく付け合せのメイン、唐揚げにスプーンを伸ばした。

 時間が経っており、唐揚げは飯とカレーから出ていた蒸気を吸い込み、衣がしなりと柔らかくなっていた。しかしこの店のはパリパリとした食感など元からないので、そこまで気にするものでもない。唐揚げ自体には味が付いている。衣と脂の味の中にほんの少しの塩気が顔をのぞかせる。これもそれだけで充分おかずとして成り立つが、しかしカレーの付け合せである。孝敏は残り少なくなってきたカレーの中に唐揚げを浸して口へ放り込む。から揚げの油とカレーの中に残っている油の味が混ざり合い、カレーの香ばしさが柔らかい衣を包み込み、一度咀嚼する毎に中にある淡白な鶏肉の存在を際立たせるのだ。

 彼は更に飯を口へ運んだ。その白い飯が加わることで、ようやくカレーを纏った唐揚げは落ち着き、すっとその身を奥へと退場させていった。

 唐揚げはそう大きくもなく、数回口に運べば終わってしまう。孝敏は名残惜しい感じもしたが、ここらでこの晩餐も終盤である。付け合せを最後まで取っておくというのも野暮だ。

 次に孝敏はカレーの入った窪みの隣にある小さな窪みに目を向ける。そこには綺麗な赤色が所狭しと待ちかえまえている。カレーにはなくてはならない竹馬の友。その名も福神漬けである。

 この福神漬けというのは、孝敏にとって付け合せ界の陰の主役だった。他のボイルされた野菜、から揚げは大変魅力的でスポットが当たりがちだが、福神漬けの前ではただの前座に過ぎないとさえ思っている。これだけでカレーライスは何とでもなるとさえ思っていた。

 だから孝敏は後半の、それも残りわずかな頃まで福神漬けには手を付けずにいた。

 彼はまずスプーンで数切れすくい、飯の上に載せて口へ運ぶ。口の中に残るカレーの風味を損なわず、しかし福神漬けにある醤油の甘さと硬めの食感がトップに躍り出る。とても容器の隅にこじんまりと収まっていたと思えない程のじゃじゃ馬っぷりだった。

 口の中で噛みしめる程にその味わいは増し、先程の人参の甘さ、唐揚げの脂味などを拭い去っていく。

 そんな鮮烈な味を持つ福神漬けはカレーの雰囲気をがらりと変える。孝敏は先程と同様、飯の上に福神漬けを乗せ、今度はその飯ごとスプーンで掬い、残り少なくなったカレーの中に浸して食べる。福神漬けはカレーに包まれ一瞬大人しくはしているものの、しかしそれに紛れながら自分を見失う事をしなかった。筋が通った奴だと孝敏はいつも感心するのだ。カレーと飯の間で一瞬舌に触れる福神漬けの味が辛さと鍔迫り合いし、それでも最後には仲良く肩を組んで消えていく。その繰り返しだった。

 その迫力あるシーンをずっと楽しみたいと思えども、所詮福神漬けは小さな場所に収まっているもの。あっという間に容器の中から姿を消してしまった。

 彼は容器の中に残っている飯2口程度をかき集めると、カレーの窪みにすべて投げ入れ、殆どなくなってしまっているカレーをこそぎ取って口へと運んだ。

 これで終わり。

 孝敏はひとしきり食べ終わると、小さく溜息をついた。その溜息は一気に食べ終わった故の脱力か、感嘆からくるものなのか、孝敏本人にも定かではなかった。

 そこでふと携帯が鳴り続けていることに彼は気が付いた。ロック画面にはずらっと文字化けしたメッセージが連なっている。

 察するに顔からのものだ。

 孝敏はためらいながらもアプリを開き、内容を確認した。

 案の定、友人、知人、同僚などからのメッセージはなく、文字化けした相手先からの着信ばかりだった。文字化けした文章の中から読める文字を拾い上げ、それをつなげていくと「カライ」だの「ウマイ」だのとどうでもいい言葉ばかりだった。

 そもそも顔は定位置から少しも動いてはいない。ただじっとこちらを見ているだけなのに、味など判るのだろうか。孝敏はそんな疑問を抱いたがあまり不気味なそれを凝視したくもなかったし、食事を邪魔されるのはもっと嫌なのでそれ以上詮索することやめ、容器をまとめ、ゴミ箱へと放り込んだ。

 雨足は強くなったようで、テレビをつけているこの部屋にも地面を穿つ水の音が微かに入ってきた。


 ある時、孝敏はまたぽつり、ひとりだった。

 特に何をする気にもなれず、つい持ち帰りのカレー弁当等買ってしまい、家に着いた時点で、店の中で食ってくれば良かった等と後悔していた。

 孝敏の買ってくるカレーは2つだ。そのうち1つは夕食として食べる。もう1つは顔が食べている――のかどうかは定かではないが、感想は送られてくる――ものだが、結局量自体は減らないので、朝食に冷めきったそれを食べている。

 よく一晩寝かせたカレーはうまい等というが、それは恐らく煮込んだ状態で一晩なのであって、放置して冷めたものは、寝かせたのとはまた別物だと孝敏は冷めたカレーをほおばりながら毎度考えていた。その日の夜は全国に展開されている大手カレーチェーンの持ち帰りだった。

 トッピングは何種類もあり辛さも自分が好きな分だけ増すこともできるが、いかんせん財布には厳しい事で有名な店だ。しかしその日孝敏はそれが食べたくて仕方がなかった。別に仕事で嫌なことがあったわけではない。誰かと喧嘩をしたというわけでもない。ただ何となく、このカレーを偶に食べたくなるのだ。

 毎度のことながら、自宅におっかなびっくりで帰り、風呂に入りいつも通りに席に着くと彼は食事を開始した。食事をしているときと深く眠っている時、あの部屋の片隅でぼんやりと浮かぶ顔の存在を気にせずにいられるのだ。

 カレーは飯の容器へ一緒に収められているものの、カレーの入った容器は別に取り外せる。だからかけようが飯を放り込もうが自由にできる。飯の上には薄いカツが乗り、カレーの隅には、たまり色をした福神漬けが鎮座している。

 カレーは通常でも一般的なレトルトの中辛と比較すれば辛い方に入るのだが、孝敏はそこからもう少し辛くしてもらい、ささやかな厚みをした豚のロースカツを上に乗っけるのが好きだった。

 まずはいつも通り、カレーのみ口へ運ぶ。この店独特の、しかし「よくある」カレーの味の後にごく一部のスパイスの辛みが舌の横を刺激する。それは喉の奥も刺激し辛さを充分に残し、すぐに消えることはない。孝敏は水を一口飲み、飯を口にする。

 カレーの中には細切れの豚肉ブロックが幾つか入っており、水っぽいカレーの中にあって、それがたまにごろっとした姿を現す。本当に小さな塊であるにも関わらず、その主張は目の前に居座るカツのそれにも匹敵する態度のでかさだった。

 孝敏はカレーの容器を取り外し、カツの上からカレーをかける。カレーのスパイシーな匂いが鼻を抜け、カツとその周辺の飯は自分の色をすっかり変えてしまった。

 ここで飯とカツを同時に掬い上げて食べる。

 カレーの辛さはただただ辛い。しかしそれが先程隠されたカツと飯の存在をあらわにする。カツ自身に左程味はついていない。だからカレーを邪魔しない。その分、口に入れた時の舌触りや充実感が増す。このカツはそういう味わい方の為に作られた物なのだと、孝敏は毎回思うのである。

 ゆっくり味わいたいところではあるが、何しろ口の中は忙しいくらいに辛い。

 何度か咀嚼した後、すぐに呑み込まなければその先へとすすめなくなってしまう程だ。少し調子に乗って辛くしてしまったと孝敏は後悔するも、乗りかかった船である。どんどん食べなければいずれ辛さで心が折れてしまいそうだった。

 しかし辛い辛いと心でぼやいているが、決して不味いわけではない。寧ろ孝敏はこの店の味が好きだし寧ろ中毒になっているのではないかという頻度で食べている。だからこその辛さ増しだった。カレーと飯、カツを運ぶ毎に広がる香辛料の刺激的な匂いが食欲を加速させる。薄いカツは数切れしかない。インターバルとして挟むのが調度良いと思っている孝敏はカレーのかかっていない飯の部分を掬い上げ、カレーの中へ浸して食べる。カツのない飯とカレーだけだと辛さが余計に際立つ。最早彼の口から喉からなべてカレー一色に染まっている。

 終盤に差し掛かったところで、彼は福神漬けに手を伸ばす。

 たまり醤油につけたようなブラウン色のそれにはレンコンともう1つ、奇妙な形をしたものが目立っている。まるでプラナリアを彷彿とさせるそれの正体を最近まで孝敏は知らなかった。職場の人間曰く、なた豆という豆のさやだったらしい。なた豆について得意気に同僚が語る様をふと思い出しながら、孝敏はそのさやとレンコンを器用にスプーンに乗せて口へ放り込む。口の中の辛さは一気に醤油の味で緩和され、いや、醤油の味が彼の口中を支配し始めた。そこへカレーをつけない飯を投げ入れるが、飯は反抗など1つもせず福神漬けの放つ風味とあっけなく融和してしまった。

 これではいけないと思い、彼はすぐさまカレーを口の中へ注ぎ込む。口の中は醤油とスパイス連合軍の大戦争である。どちらも引けを取らない味の主張を繰り広げるが、それがうまい具合に調和し、最後はお互いひかず譲らず、そのうちいつの間にか休戦し、ともに腹の中へと納まった。

 これがこのまま何度も続くはずはなく、結局2度の争いは終わりとうとうカレーと飯と1切れのカツを残し福神漬けは容器から消えてしまった。

 この虚しさを埋めるべく、孝敏は一気にそれらを掻き込む様に貪った。

 すべてを食べきった後、カレーは口先にひりひりとした刺激を残し、飯やカツのその名残さえ夢と消して自身の強大さだけを孝敏に感じさせた。

 携帯に表示された最新のメッセージに「コレハカラスギル カゲンシロ」と送られてきていたが、孝敏にはどうでもよくなっており、しかし部屋の片隅に浮かぶ存在から目を逸らし、視線をテレビで流れるニュースへと向けた。


 ある日、孝敏は家路を2人で歩いていた。

 給料日後の夜。久しぶりに友人に呼びだされた飲み会は、彼の知らぬ女性たちが同席していた。友人のうち1人がセッティングした所謂「合コン」というものだった。

 どうしてそうなったか思い出せないが、そのうちの1人が孝敏の自宅までついてくる事となった。普通ならこの状況を、独身である彼は両手を上げて喜ぶべきだった。事実、電車に乗って最寄りの駅まではその後の事を考え表情には出さないものの、すこぶる浮かれていた。

 しかし孝敏は自室の前に来て初めて事の重大さに気が付いた。

 酔っぱらって気が大きくなってしまったのか、ここまで何の考えもなしに彼女を持ち帰ってしまった。あの部屋の片隅に浮かび上がる顔の事を何と説明すればいいのか、彼は真剣に考えだした。

 今から行先を変更しようにもお互い――彼女はどうだったかわからないが――かなり酒に飲まれており、飲みなおすという事も考えられなかったし、かといって他に進路変更しようにもこの辺りは閑静な住宅街である。先程までいた歓楽街と違い、連れ込み宿やカラオケなど付近にはなかった。

 しかしここで彼女を普通に部屋に上げてしまえば、顔と鉢合わせしやしないだろうか。そもそもあの顔が彼女に見えるのだろうか。互いが互いの存在を確認した時、大変な事態になるのではないか。

 孝敏は酔って鈍くなった頭の回転を何とか早めて思考を巡らせてみたが、今まさにしなだれかかっている彼女の胸が孝敏の腕に当たっているその感触で、彼はそれ以上考えるのを止めた。それは久しぶりに恐怖や不安に勝利した瞬間でもあった。

 彼は勢いに任せてドアを開けた。

 ドアの向こうはいつも通り暗がりで、居間の奥にはやはりいつものように、明りもないのにぼんやりと青白く能面のような顔が宙に浮かんでいる。いつもなら驚いて外へ飛び出してしまうところだが、今日はそうもいかなかった。何しろこれを逃すともうあとこの先何年、彼にこういったチャンスが訪れるか判らなかったからに他ならない。

 持ち帰ったものはカレーではない。あの顔が怒る理由など見当たらない。孝敏はそう勝手に解釈した。

 居間へ続く通路の電灯スイッチに手をかけようとしたその時、女性が「ここはあなた以外に誰か家族が住んでいるの?」と孝敏に聞いてきた。孝敏は驚いて彼女の方を見、いないと答えながらかぶりを振った。

 今しがたまで甘えた表情だった彼女の目は、部屋の奥を鋭く見つめながら孝敏の腕を引き、部屋の外へ連れ出すとドアを閉めた。

 あれが、あの顔が見えたのかと思った孝敏は、知らぬふりをしてどうしたのかと彼女に聞けば、彼女は自分の鞄をごそごそと探しながら「自分は『そういうもの』が見える体質で、あなたは気が付いていないかもしれないけれどここにはもう『そういうもの』が棲んでいる。現にあの部屋の奥、電気もついていないのにその姿が見えるのはおかしいと思っていた」と彼に言った。

 やはり彼女に勘付かれてしまった。というより引っ越してから今まで昼間に引っ越し業者か宅配業者が来る以外、誰も訪ねてこなかったので、あの顔が人に見えるのかどうかすら分からなかった。彼女の目を見る限り、酔った勢いの冗談とは考え辛かった。

 彼女は鞄の中をあさった後、その手に何かを掴んで鞄から取り上げた。

 彼女が手にしていたのは紙の束と、小さなビニール袋、それに小さなペットボトルだった。その紙の束の表面には何やら物々しい文字が書かれており、小さなビニール袋には白い粉のようなもの、ペットボトルには透明な液体が入っていた。彼女は「付け焼刃だけど、なんとかやってみる」とだけ言って再びドアノブに手をかけた。突然の展開に加えそれ以上の説明をもらえないでいる孝敏は、混乱したまま彼女に問いかけるも、彼女は最早彼の事など眼中に無い様子だった。孝敏は、彼女が絶対に触れてはいけない痛い種類の人間であることに、今さら気付いた。

「私これでも『何度か追い払ったことがある』から大丈夫」と彼女は言いながらドアをあけ、ズカズカと部屋へ入り込む。孝敏の混乱は更に深みを増した。

 その混乱をかいくぐる様に、孝敏のズボンのポケットに入れられた携帯電話が、先程から止めどなく震えている。孝敏には画面を見なくても、何処の何者からの着信であることが分かっていた。あの部屋の奥にある顔は表情を変えず浮かんではいるが、本当は何かに怒っているのか、知らぬ他人が入り込んできたことに驚いているのか、孝敏は分からなかった。

 そうしている間にも彼女は居間へ入り、何か物騒な言葉を含んだ言葉を呟くように吐き出しながら、あちこちに束にした紙を1枚1枚貼り、時に大声を上げ、時にビニール袋の中身とペットボトルの中身を撒き、またブツブツと小声で何かを唱え続けた。彼女の背後、彼の周りにある本棚からひとりでに本が飛び出し、電灯は揺れ、テレビが消点を繰り返し、戸棚が開いて食器がどんどん飛んでくる。携帯の着信を知らせる振動は休むことなく続き、そしてとうとう部屋のどこかから悲鳴のような何かが聞こえだした。

 しかし居間の隅に浮かぶ顔は表情を変えず、孝敏たちの様子をただ伺っているだけだ。

 この不思議な状況が孝敏の酩酊した頭の中で収集がつけられなくなっており、彼はただただその光景が可笑しくなって、笑い声を上げながら見守るしかなかった。

 彼がその夜覚えていたのは、そこまでだった。






 孝敏が目を覚ました時、窓からは夏の刺すような朝日が部屋を照らしていた。昨晩の光景が夢とまごうほどに部屋は静まり返っており、孝敏は布団の中にいる自分に気が付いた。

 目覚めると同時に彼は上半身にチリチリとした痛みを覚え起き上がった。彼の肩から胸から背中に沢山のひっかき傷が痛々しく刻まれていた。

 そして隣に温かい感触があることに気が付き、そっと視線を移すと、そこには女が一人、白い肌をさらけ出して眠っていた。その顔を見た孝敏は、昨日彼女を家まで連れ帰ったことが現実であったと思い出した。

 そして彼は目に入ったものを見て驚いた。この寝室にあてた部屋は台風の後の様に荒らされており、棚の物はすべて落ち、壁のポスターは破られ、カーテンレールは傾き、隣の部屋にあった筈のゲーム機がコードを付けたまま部屋の入口に顔をのぞかせていた。それに壁に何やら見慣れぬものが貼られている。薄く黄色を帯びた短冊状のそれは、寝室の壁という壁に何枚も貼られており、その1枚1枚に読めはしない文字がびっしりと書かれている。

 彼はその短冊状の紙から、昨晩の出来事が夢ではないことを知った。

 喉の渇きと頭痛を覚えた彼は、何も身に着けぬまま台所へ這うように移動し、流し台で割れずに生き残っていたカップに水を入れると一気に飲み干した。短冊状の紙はここにも、そして浴室のドアにも、振り返って見える居間にも貼られている。

 居間の状態はこの流し台から見える限りでも相当な荒れ具合であり、今の孝敏にその中身を確認する気力等どこからも湧きだしては来なかった。

 再びヨロヨロと寝室に戻り、布団の上に彼は座り込んだ。

 遠くからはラジオ体操第二が耳に届いた。蝉は朝からけたたましい叫び声をあげ、冷房もつけていない部屋は熱気を帯び、孝敏が先程飲んだ1杯の水も忽ち汗に変わっていき、首筋から背中へと流れた。

 暫く部屋を呆然と眺めていると、隣で眠っていた女がのそりと寝返りを打った。

 その顔は別段可愛げもなく、かといって醜くもなかった。しかしそれは完全に孝敏の好みとは違うものであり、彼は何故夕べ自分があんなに浮かれていたのかも思い出せないでいた。

 もう暫くすると、女は起き上がった。

 彼女と目があった孝敏はどうしていいかわからず、首だけ動かして頭を下げる。彼女は自分の姿を確認すると、布団を撒きつけ孝敏に寄り添った。孝敏は別にそれがうれしかった訳でもなく、ただただ昨日の彼女のあの異様な姿を思い出す事しかできないでいた。

 彼女は「もう大丈夫。ここにあなたが持ち帰っていたモノは、私が追い払ったから」と彼に告げた。

 そういえば気が付かなかったが、居間にあの顔の姿が見当たらなかった。彼女が何故鞄の中にあの様な怪しいものを入れているのか、それも含めて素性は知りたくもなかったが、もしあの顔がいなくなったとすれば幸いである。もう帰る度に怯えることもないし無駄に2食もカレーを買って帰ることはないのだ。孝敏は彼女のいう「追い払った」というところだけ感謝し、隣で甘えてくる女が早く帰っていかないかという事ばかり考えていた。

 ひとまずこの酷い有様を収束させたいと考えた孝敏は、伺えなかった箇所を見る為に女の問いかけに生返事で返しながら、居間へ続くドアを開けた。

 彼女の不貞腐れた声が、後ろから聞こえる。

「赤い服を着た女の霊だったんだけどね。あなたに何度も何か言いたげだったけど、力づくで追い出してやったわ。暫くもうここには寄り付けないと思うけど、私があなたに危害を加えさせないように守るから安心して」

 ――冗談じゃない。追い出した? 危害を加えないように守る? それに赤い服の女だって? じゃあこれはなんだ。この状況をどう説明するんだ。


 孝敏は彼女を見ることもなく、居間の惨状を凝視しながら心中で叫んだ。

 彼の正面にあるテレビ。その上の天井間際に、あの見えなくなったと思われた顔が移動しており、いつものように能面のようなつるっとした表情で孝敏をじっと見下ろしている。その監視カメラのごとき顔の視線は、彼の存在を冷たくとらえて離さなかった。

 床に転がった時計の針は間もなく7時と半分を指そうとしている。

 〈了〉




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