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Sleeping princess

作者: 夕城ありあ

 ガタンゴトン、と一定のリズムを奏でながら電車が走る。会社や学校の帰宅時間のせいか、車内は押し競饅頭とまではいかないもののそれなりに混雑していて少しばかり息苦しい。公共の場だというのにも関わらずマナーを守っていない人は結構いるもので、甲高い声を上げて騒ぐ女子高生は勿論のこと、最大音量にして音楽を聞く者もいれば携帯端末で話している者もいて、迷惑なことこの上ない。ただひたすらに心の中で悪態をつきながら静かになるのを待った。

(……これだから嫌なんだ)

 隣りの人に分からないように溜息をつきながら、真斗は早く目的地につかないものかと思っていた。

 真斗は結構要領がいい。だからたとえ混んでいても大抵の時は座席に座ることができていたのだが、今日は空いていると狙っていた席の近くに小五月蝿い女子高生が座っていた為に、敢えて立つことを選んだ。

 今日も所属しているテニスクラブの練習があった。今はちょうどその帰りで、多少どころではなく疲れていることは否定できない。苦にならないはずの大き目のスポーツバックが少しだけ苦に思えて、後ろの壁に凭れた。

 大きなスポーツバックが邪魔になるといけないと思い、敢えて入り口辺りの場所を陣取り真斗は立っていた。しかし立つ乗客にとって何故か扉付近に固まりたがる習性があり、せっかく気を利かせた真斗のその好意は無意味に終っていた。しかしだからといって自分が動くことはせず、真斗はじっとその場所に居続けた。先日「視力が落ちるぞ」と啓人に注意されたというのも気にせずに、カバンから取り出した小さなノートを取り出してそれに目を通す。流石に本を読むのはきついかもしれないと思ったので、直筆で授業の要点などをまとめたノートで我慢する。

 集中すると自然に五月蝿いと思っていた人の声も耳に入らなくなり、真斗は静かにノートを見続けた。

 と、その時何故か耳に届いたのは何かがぶつかった鈍い音で。

「……?」

 何の音かと思い、真斗はノートから顔を上げる。

 あまり挙動不審にならないように軽く周りを見回して、そして向かいの反対側の扉の傍に一人の少女を発見した。

 歳は真斗と同じくらいで、今時の若者にしては真っ黒な髪を肩で切り揃えている。学生だろうと思ったものの、その上に着ているコートのせいで何処の学校の生徒かまでは分からなかった。

 別に、これといって秀でたところがあるわけではない少女。こんな人込みに紛れてしまったら気にする人などいないに違いない。

 では、どうして真斗がその少女を発見するに至ったのか。

 それは周りの人の笑い声を聞き取ったからだった。

 ちらちらと少女へと視線を向け、笑いを堪えるようにして口元を抑えながら少女の周りの人がしきりにその少女を気にしている。それにより、真斗は直感的にあの少女が何かをして、先程の鈍い音をたてたのだと理解したのである。

(……何がそんなにおかしいんだろうか…?)

 真斗はノートを閉じると、暇に任せてこっそりと少女へと視線を向けた。少女は当然ながら、真斗の視線には気づかない。もしかすると周りの人に笑われているのも気づいていないのでは、とさえ思えた。

 少女は肩から掛けていた鞄を反対の肩に掛けなおすと、疲れたのか壁にそっと凭れたようだった。そして何かの音楽を思い出しているのか、微妙に顔を上下させてリズムをとり弾める。

 そして、徐々にそのリズムが遅くなり、顔を俯かせている間が長くなっていった。

(あ……)

 と、真斗が思った時には少女はこっくりこっくりと船を漕ぎ始めていて。

(………立ちながら寝てる…)

 真斗はその少女に対して心から呆れてしまった。

 確かに電車の中は暖かくて眠るのには最適だと思われる。しかしそれはあくまでも席に座っている時に限られ、立っている場合は倒れたりする危険性もあるので普通ならば眠りに身を任せるなんてことはしないだろう。

 それを、あの少女は見事にやってみせているのである。

 再び零れる笑い声。

 どうやら少女が眠りに入ったのに気づき、周りの人が声を抑えて笑い始めたようだった。

 こっくりこっくりと、気持ち良さそうに顔を一定のリズムで上下させていたが、しだいに少女の体全体が揺れ始め、そのうち倒れるのではないかというくらいに大きくなり、見ているこちらがひやひやするほどになっていた。そして――


 ゴン…ッ。


 と、先程と全く同じ鈍い音が車内に響き渡った。

 寝ぼけてまだ虚ろな目を、はっと見開いて少女は目覚める。そして慌てて起立して姿勢を正すと、痛みが走るのか、額を撫で始めた。少し涙目になっているのは気のせいではあるまい。

 そして少女は再び眠り始めて同じ事が繰り返される。

 真斗は一通りの段階を見て、全てを理解した。

 鈍い音は少女が眠りこけて柱に頭をぶつけた音で。

 周りの人が笑っているのは少女のその行動のせいで。

 しかしどうしても、少女が何度も何度も額を柱でぶつけながらも眠り続ける気持ちが分からなかった。それほどまでに眠たいのか、とも思わなくもなかったがそれ以上に立って眠る少女の器用さに呆れが勝ってしまうのである。

 ガタンゴトンと揺れながら電車は走る。

 そして真斗の下車する一つ前の駅で、その少女はばたばたと慌しく電車から降りて行った。

 結局のところずっと少女の様子を気にかけていた自分に気づき、読みかけのまま閉じて手に持っていたノートを鞄の中へと押し込み、真斗は目的の駅で下車して駅を後にする。

(今度、朔太郎と啓人に話そう)

 いい話題ができた、と考えながら家へ向かう足を速めた。





「何、その女。だっせー!」

 腹を抱えて笑いながら啓人が大きな声を上げる。

 啓人ほど大げさに笑っていないものの、朔太郎もその横で面白そうに笑っている。

 真斗は目の前で笑い続けるクラブの友人二人を見て、「そうでしょ」と淡々と告げていた。

 あの日、少女を見かけてから次の練習の日である今日、早速話のネタにとばかりに真斗は二人に話していた。自分としては呆れが勝って笑えなかったのだが、少女の周りの人も笑っていたのだからこれは笑い話なのかもしれない、と頭の片隅で考える。

「でもよ、立ったまま寝るなんて器用だよなぁ…」

 笑いながらも感心し、うんうんと頷いてみせる朔太郎。

「特技は何処でも寝れますってことなんじゃねーの? ある意味羨ましいかもなー」

「…啓人だって何処でも寝れると思うけど?」

「流石の俺も、電車の中で立ったままは寝れないもん」

 昔からお泊りや昼寝をすると、真っ先に眠りにつくのは啓人だった。練習試合帰りのバスの中でも周りを気にせずに啓人はぐーぐーと眠りにつく。

 真斗の鋭い突っ込みも軽くながし、啓人は「へっへーん」と笑ってみせた。

「でもホントにどんな女なんだ、真斗?」

「至ってその辺りにいそうな平凡な人だったよ」

「……平凡って…」

 キツイ真斗の言葉に朔太郎は思わず苦笑いを零す。

 かない興味深々という顔を見せてくる啓人に、溜息を零しながらも真斗は覚えている少女の容姿について軽く説明した。その軽い説明に啓人は不満足そうではあったが、説明できるほどの特徴はなかったのでそれは真斗のせいではあるまい。

「でもよ、立ったまま寝るのもどうかと思うけど周りの様子に気づかないのもダサいよなー?」

「ホントに気づいてなかったのか?」

「気づいてたらそれなりの反応があるはずでしょ」

 たとえば顔を赤らめるなり、これ以上寝ないように気を張ったり、体を縮めるなり去り際に恥かしそうに走り去ったり。

 真斗が見ていた限りでは少女がそんな素振りを一つとして見せた様子はなかった。

「普通は自分に視線が集まってたら嫌でも居心地悪く思うって」

「…そうだよなぁ……。好奇の目で見られると妙に視線って分かるもんだしな」

「だろだろー? 鈍すぎだって、その女! どっかおかしいんじゃねーの?」

「……啓人、その辺にしときなよ」

 心の中では真斗も啓人と同じように思いながらも、とりあえず宥める為に言葉を掛ける。人事でしかないのだが、やはり何処かで誰かが自分のことを悪く言い合っているのは気持ちの悪いものだからだ。

 へいへい、と分かっているのか分かっていないのか分からない返事をして啓人は口を閉ざす。

 ちょうどその時、練習開始の笛の音が三人の耳に届き、その話題は打ち切りにしてコートに向かって走り出した。その途中で啓人が面白そうに「また見たら教えろよ」と真斗に告げる。真斗は呆れながらも「はいはい」と答え、その話題を頭から捨て去った。もうあの少女に会うことはないだろうと真斗は思っていたからだ。――だが、その真斗の考えは甘かったと知るのは数時間後のこと。

 その日も電車での帰宅途中、少女の姿を見てしまったのである。

 あの日と同じコートを着て同じ髪型で、同じ鞄を肩から掛けて少女は今日もまた扉横の壁に凭れるようにして立っていた。

 わりかし空いていたこともあり、電車に乗り込むなり真斗は椅子の一番端っこに、足元にスポーツバックを置いて座り込んだ。そして電車が動き始めて何気に視線を目の前の窓へと移した時、その横にいる少女の存在に気づいたのである。

 なんでまた会うのか、と思いはしたもののもしかしなくても自分と同じように定期的に何処かに通っているのかもしれないと思い直す。そう考えれば彼女があの日と同じ姿でいるのも、同じ時間帯の電車に乗っているのも、そして同じ車両に乗っているのも理由がつくからだ。何度も何度も繰り返し乗っていると、変わらないと分かっていながらもどの車両に乗るかという癖がついてしまうものだ。

 真斗はスポーツバックから小説本を取り出すと、静かにその本を読み始めた。今日は五月蝿い人たちがいないこともあり、静かな読書タイムが過ごせそうだと思っていた。

 そして本を読む合間をぬうようにして時々少女へと視線をこっそり向ける。

(……啓人に言われてるし)

 別に少女を気にかける必要は全くない。こうして自分が時々少女に視線を向けるのは啓人にまた見たら報告しろと言われているからなのだ、と。まるで言い訳をしているみたいだがそう心の中で呟きながら真斗は少女の様子を覗い続けた。

 今日も今日とて少女はこっくりこっくりと船をこぎ始める。そして柱に額をぶつけては、はっと目覚めて姿勢を正し、そしてまたこっくりこっくりと体を揺らし始めるという行動を繰り返していた。

 空いている為に周りに立っている人はいなかったものの、同じ車両の客はそんな少女を見てこっそりと笑いを零す。

 少女は自分が下車する駅の目前で、はっとしたように慌てて目を覚ますと駅名を確認してからばたばたと慌しくプラットホームの向こうへと姿を消した。

 そして真斗はまた次の練習の時にそのことを啓人に報告する。

 そしてその日の練習の帰り、真斗はまたその眠り続ける少女を見かける。

 同じことの繰り返し。

 気がつけば啓人の興味は少女からは離れていき、眠る少女を見かけても真斗が啓人に報告することはなくなっていた。

 それでも真斗は何となく気になり続けて、見かける度にこっそりと少女へと視線を走らせていた。





 テニスクラブの練習試合の後のせいか、真斗達はいつもの仲良し三人組ではなくて何故か大人数で街を歩いていた。所属しているテニスクラブは学校のものではなく、地域にある私用のテニスクラブである。その為に学校や住んでいる場所は違うのだが、駅までの道のりは皆同じということで自然に集団行動になってしまったからだ。今日の練習試合の場所である中学校近くの者や寄り道をして途中で集団から離れていった者達を除けばクラブのメンバーが勢ぞろいといってもよかった。

 初めはやはり大人数で歩くなどばからしいと思ったり、気に入らない人もいる為にウザイとさえ思っていたりもして仲良しグループ同士で行動することが多かった。それは今も同じなのだが、所詮誰もがテニス馬鹿ということなのか。テニスを話題にする時だけはウザイと思うことなくわいわいと賑わい談笑しながら自然に大勢で行動するようになっていた。今日の話題も今日行われた練習試合の反省と課題について。ミーティングは練習の時に監督を含めて行ったのだが、それだけではいいたいことは足りなかったのだろう。あーだこーだと皆が口々に言い始め、収集のつかない状態に陥っていた。そしていつもそれを収めるのはキャプテンかマシンガントークで問答無用で叩き伏せる副キャプテンの二人が多かった。

 皆が皆、同じジャージを着て同じような大きなスポーツバックを持っているのだから何かの部活の集団だというのは擦れ違う人たちにも分かる。一瞥はしたとしても気にすることはないのだが、それでも周りの人達がしきりに彼らに視線を向け続けるのは、彼らのほとんどが人目をひく容姿の持ち主だからに他ならない。もっとも、当の本人達にしてみれば周りの人が自分達をどう見ているのかなど全く気にしていないのだろうけれども。

 わいわいと騒いでいるものの常識人としてマナーは守るのが彼らのいい所でもあり、通行の邪魔にならないように極力気をつけて歩いていた。

 が、それでも大人数。

 いくら気をつけていても不注意で、という事も起こるもので。

 駅を目前にして、集団の先頭をきっていた男子が前方から来た人とぶつかっていた。

 ぶつかったとはいえ、ちょうど後ろを向いて歩いていた男子の背中に前方から来た人と肩がぶつかってしまったというくらいなもので大事になるはずもなく。

「あ、…す、すみません…っ!」

「いや、そんな…。後ろ向き出歩いていた俺が悪いんだし…」

 と、軽くやり取りを交わすだけで終っていた。

 ぶつかった男子を皆がからかい、「うるせー」とその男子が言い返す。とりたてて気にすることはなく、ただそれだけの事で終るはずだった。

 駅だから、という事で別れの挨拶を交わしながら蜘蛛の子を散らすようにしてクラブのメンバーは駅の改札口へと姿を消していく。――そんな中で。

「おーい真斗、何やってんだよー?」

「どうした、真斗?」

 後ろを振り返ったまま駅の中に入ろうとせずに、真斗は足を止めていた。

 自分達と同じように歩いているものと思った真斗が止まっていることに気づき、慌てて朔太郎と啓人は立ち止まっている真斗の元へと駆け戻る。

 声を掛けられて目のまで手を左右に振られて。

「…え、ああ……」

 真斗はようやく我に返って二人が自分を不思議そうに見ていることと、自分がその場に立ち止まっていたことに気づいた。

「何かあったのか…?」

 少しだけ心配そうに尋ねる朔太郎。人一倍気をつかう朔太郎だからこそ、真斗の今のおかしな状態が気になってしまったのだろう。勿論啓人だって朔太郎と同じように真斗の不審な行動を気にしている。真斗は何でもない、と二人に告げたのだがそれで誤魔化せるはずもなく。

「……よく電車で見かけている人がいたから気になっただけだよ」

 と、正直に立ち止まってしまった理由を話していた。

 初めは「ふーん…」とその言葉を鵜呑みにしていた啓人らだったが、突然「あ!!」と大きな声を上げたかと思えば、おかしそうに笑いを堪えながら言ってのけた。

「あの何処でも寝る女のことだろ?」

 すっかり忘れてたぜー、と思い出し笑いを零す啓人に、暫く考えていた朔太郎も同じように「あ!!」と声を上げる。

「…あの話の奴のことか……」

 よく顔を覚えていたなと尋ねる啓人に、真斗は「あれ以来ずっと同じ電車だったからね」と答えた。その後に啓人のことなので「何で最近報告しなかったんだよ」と言うかとも思ったのだが、自分でも興味がなくなっていたということを認識しているのか、その言葉は続けられなかった。それに対して真斗が啓人に対して成長したね、と思ったのはここだけの話である。

「……で、その女?」

 きょろきょろと辺りを見回しながら啓人は訪ねる。

 真斗は、指は差さなかったものの、少し離れた場所を歩く少女を服の色などで説明して教えた。

「あれってさっきあいつがぶつかった奴じゃねぇ…?」

「だから気づいたんだよ」

 思い出したように告げる朔太郎に淡々と真斗は言う。

 その少女は朔太郎の言う通り、先程クラブの男子がぶつかった相手だった。淡い色合いのピーコートを着て少し大きめのトートバックを肩から下げている肩までの長さの黒い髪の少女。

 友達と歩いているのか、少女の傍には数人の女子の姿が見られる。その女子達が今時の若者らしく髪を茶色く染めていることもあり、その集団の中でその少女は少しばかり目についた。また他の女子に比べて小柄だということも目につく理由の一つなのかもしれない。

 少し離れた後ろからでは少女をまじまじと見ることはできない。

「………ふーん、確かに何処にでもいそうな平凡な感じだなー」

「そうでしょ」

 それでもぱっと見て目を惹きつける魅力は感じられないので、啓人はそう感想を述べていた。しかし朔太郎はそうは思わなかったようで。

「…そうか? 今時の女と違うから特徴はねーけど違う意味で目を引くような気がするけどなぁ…」

「それはあの集団の中にいるからそう見えるだけじゃん。どこをどう見ても平凡としか言いようがないって」

「…そうかぁ…?」

 未だ納得しきれない朔太郎に、啓人はからかうようにしてあくまで少女は平凡なのだと言い切った。

 三人がその少女の感想を言い合っている間にも時間は過ぎていき、少女はどんどんと三人から離れていく。

「…さ、そろそろ帰るよ、二人とも」

 自分が立ち止まったことで二人の足を止めたのだという事実を無視して真斗は駅へ向かおうと足を向ける。――が、啓人は何かを企んでいる表情を見せると、二人に向かってにやりと笑った。

(……啓人の悪い癖が始まったな…)

 やれやれ、と真斗が思った時には既に遅く。

「何言ってんだよ。折角なんだから俺だってあの子のこと知りたいじゃんか。ちょっと後つけてみようぜー?」

 疑問系で語尾を上げているもののそれが疑問ではなく強制になることは言うまでもなく、啓人は楽しそうに今来た道をUターンし始めた。足取り軽く、楽しそうに少女の向かう方向へと歩き始める。

「………真斗…」

「………」

「……諦めた方がいいって」

「………はぁ…」

 言葉数少なめに、朔太郎と視線だけで思いを交し合って。

 真斗は諦めて啓人の後を追う為に駅とは逆方向に向かって歩き始めた。

 後をつけるといっても自分達以外にもたくさん歩いている人はいるので真斗達が不審な行動をしているのとは誰も気づくことはない、というよりも気にする人はいないようで、ターゲットである少女も後をつけている三人に気づくことはなかった。

 人の流れにのるようにして歩き続ける。

 そして数分程歩いたところで、少女は一言二言交わして友達らと別れて一人になったようだった。

「チャンスじゃねぇ?」

「何が?」

「もっちろん! 話し掛けるのが」

「え、ちょ……っ!?」

 真斗が止めようとした時、やはりまた遅く。

 啓人は少女に向かって手を振りながら走り出してしまった。

「そこの彼女ー♪」

 まるでナンパでもするような軽い口調で啓人は少女に向かって声を掛ける。

 しかし少女はまさか自分に話しかけられているのだとは思いもしないようで、気づかずにすたすたと歩き続けた。

「彼女ってばー」

 もう一度声を掛けるものの少女は気づかずにすたすたと歩き続ける。第三者である周りの人達の方が状況を理解しているようだった。

「ねえってば無視すんなよー」

 痺れをきらしたのか啓人が少女の肩をぐいっと掴む。

「え、き…、きゃああ…ッ!?」

 突然肩を掴まれて後ろに引っ張られてバランスを崩した少女は、慌てて必死で倒れまいと手をバタバタさせてバランスを取ると、倒れずにすんだことにほっと胸を撫で下ろし、ようやく啓人の存在に気がついた。

 きょとん、とした眼差しで啓人を見つめる。

 じっと静かに啓人の顔を見つめた後、不審そうに眉を顰める。そしていきなり何かにはっとしたように目を見開いた。

「す、す、すみません…! もしや先程から呼ばれていたのは私のことだったのでしょうか…!?」

 わたわたと慌てながら少女は何度も頭を下げ始める。

 何度も何度も謝りながら言葉を続けた。

「聞いた覚えのない声でしたので私ではないと思っていました…。本当にすみません…!!」

 謝り続けられ、今度は啓人が焦り始める。

 啓人としては興味本位で話してみたくて声を掛けただけであったのに、まさか気づかなかったということだけでこんなにも謝られるなどとは予想もしてなかったのだ。はっきりいって見知らぬ少女に声を掛けようとした時点で啓人に非があって少女に非はない。

 謝る少女に対して戸惑いながら、ちらりと真斗の方に助けを求めるようにして視線を向けた。

 真斗は大きく溜息をつくと、啓人と少女の傍へと歩み寄った。勿論朔太郎も一緒にだ。

「そんなに謝る必要はないと思うよ。声を掛けようとした啓人の方が悪いんだし」

 ほら謝って、と啓人を睨みつける。

 啓人は真斗に睨みつけられて、しぶしぶと少女に向かって一言謝った。

「そ、そんな…、気づかなかった私の方が悪いんですから……。あ、あの何か私、貴方方にしてしまったのでしょうか…?」

 啓人に謝られて更に挙動不審にわたわたとしながら、少女は顔を真青に青褪めて尋ねた。

「いや、貴方に何かをされた記憶はないけど」

「で、では私が何かを落としてそれを届けて下さった…とか…!? お、お手を煩わせてしまいすみません…!!」

「……いや、そうじゃなくて…」

 こちらが何かを言う前に少女があれやこれやとおかしな事を言い始めてしまうので、うまく話を進めることができない。

(……なんなんだ、彼女は…)

 と思ったのは、少女と直接話していた真斗だけが思ったことではないだろう。朔太郎も啓人も同じように思っていたに違いない。

 このままでは埒があかない。

 そう真斗は確信していた。そして何よりも無駄としかいえないこの会話を早く終らせてしまいたかった。

「――はい、そこまで」

 と。

 真斗は少女の顔のまん前で人差し指を立てた。

 突然のその行為に少女は驚き、思わず言葉を止める。

 少女のその瞬間を逃さずに、真斗は口を開いた。

「とりあえず、俺達は何もされてないから謝る必要はないよ。で、用件なんだけど、……電車でよく寝て額ぶつけてますよね?」

 まさに簡潔に用件だけを告げたその真斗の言葉に。

 少女は初め、何を言われたのか理解できなかったようだった。

 ――が、すぐにその言葉の意味を理解すると、一瞬にして火のように真っ赤に顔を染めた。

「え…、あ………今…何て……?」

 声を震わせて、少女が聞き返す。

 真斗はそんな少女の様子に気に掛けることなく、もう一度少女に向かって告げた。

「俺の見間違いじゃなかったら、電車でよく寝て額、ぶつけてますよね?」

「~~~~~ッ!!?」

 あまりのことに、少女は声にならない叫びを上げる。

 ばかみたいにぱくぱくと口を開いたり閉じたりするのを繰り返す。

「……も…もしかしなくても………見て…まし…た………?」

 恐る恐る尋ねる少女の瞳は、真斗に否定して下さいと告げていた。

 だが真斗は無情にも一度、少女に向かって頷き、

「俺が見てる見てないの問題じゃなくて、同じ車両の乗客全員が気づいてると思うよ」

「え、え……ええええ…ッ!!?」

 一寸前までは火のついたように真っ赤だった少女の顔は、瞬時にして今度は真っ青に早代わりし。

 真斗ら三人の視線が向けられる中で少女は石のように固まった。

 固まってしまった少女の心内が真斗らに分かるはずがない。ただ、今知らされた思いもよらぬ真実に打ちのめされているのは確かだった。

 しばらくして、ようやく焦点が定まってきた少女が復活の兆しをみせる。

「………」

 真斗を無言で見つめた後、「あ、その……え、……う…あ…」と意味不明の言葉を発したかと思えば少女は再び赤面し、脱兎の如く身を翻して走り出した。真斗らに何一言として告げることなく。

 少女を追いかけるべきかと思ったものの、そこまで関わるのもどうかと思い、真斗らは追いかけようとはしなかった。あっという間に少女の姿は真斗らの視界から消えてしまっていた。

「………よっぽど恥かしかったんだな…」

 ぽつりと呟いたのは朔太郎。

「……言わない方が良かったかもしんねー…」

 少しバツの悪そうな顔をしながら啓人が呟く。

「…………さあね。でも教えないよりは教えてあげたほうが親切だってことでいいんじゃないの?」

 真斗も少しだけバツの悪そうな表情をしながら、それでも自分達に都合のよい言葉を言って締めくくった。

「さ、今度こそ本当に帰るよ」

 くるりと方向転換し、真斗は立ち止まっている二人を置き去りにするようにしてさっさと歩き始める。その後を、二人は慌てて追いかける。

 そんな中、真斗は頭の片隅で少しばかり少女のことを振り返っていた。

(……そういえば名前とか知らないんだよね…)

 見知らぬ人から突然の真実の告白。普通ならばそれはどうだろう…?

 そう考えて、お節介以外の何物でもないなと思い返し、今度会ったら一言謝っておくべきかもしれないと考えていた。





 もしかしたら少女は過去の自分を恥じ、電車の時間帯を変えるかもしれないと真斗は考えていた。だが、もしかしたら、という真斗の考えに反して少女は同じ時間帯、同じ車両を選んで扉の横に佇んでいた。テニスの練習の帰り、電車に乗り込んできた真斗の姿を見るなり顔を赤らめて視線を逸らし、慌てて下を向き俯く。

 少女にあからさまに視線を逸らされたのは気分の悪いものだったが、真斗は少女を気にしないようにして空いている席へと向かい、椅子に座った。今日はどうやら人が少なく、車内の席も比較的座れる場所が沢山あった。それでもやはり真斗は好んで端の席を選んでいた。

 そして何事もないように、平然と本を読み始める。

 いつもと違っていたのは、少女が自分を時々気に掛けて視線を向けているという事だったが、真斗は敢えてその視線を無視し続けた。が、無視しても何故か少女のことが気になってしまう。

(……そういえばどうして席が空いてるのに座らないんだろう?)

 ふと、そんな考えが頭を過ぎって思わず少女へと視線を向けていた。

 少女は真斗を見てはいなかった。

 そして前みたいに船を漕いで眠りについているということもなかった。

 真斗に言われたことで、もう眠るものか、と誓ったのかもしれない。

 ――が、少女は見る限りとても眠そうだった。

 その眠たさに対して全神経を高めるようにして必死に追い出そうとし、肩を強張らせながら眠気と格闘し続ける。眉間に皺を寄せて目を大きく開き続けようとしているその表情は、はっきりいって少し恐く、ある意味面白い。

 ゆらりゆらりと体が揺れ始めれば、慌てて自分の足を踏みつけて痛みを与える。

 目が閉じそうになれば、慌てて頬を抓って痛みを与える。

 色々と試行錯誤しながら少女は眠気と戦い続けているようだった。

(………寝て額をぶつけるのもどうかと思うけど…これはこれで注目を集めるんじゃ…)

 少女と自分以外にも電車に乗っている乗客のメンバーはいつもと同じメンバーで。

 周りの人達もいつもと一味違う少女の様子に、心配するようにして視線を向けていたのである。

 何駅も過ぎ、時間はどんどんと過ぎていく。

 その分だけ少女の頬は真っ赤になっていった。

 ――と、不意に少女の体がぐらりと大きくふらついたのに真斗は気づいた。

(………!?)

 そのぐらつき方はいつもの眠っている時にこいでいる揺れ方とは違うように思えた。

 よくよく見てみれば少女の様子がどことなくおかしい。

 頬は何度も抓ったせいで真っ赤だというのに、顔はどんどんと青褪めていっている。視界も覚束なくなっているのか、手で目を覆うようにしては左右に頭を振り、意識をしっかりと保とうとしているようだった。

(…様子がおかしい……!?)

 もしかして気分が悪くなったのではないか。

 真斗がそう考えた時、タイミングよく電車は駅に止まり、停止する。

 止まった駅は、自分は勿論のこと少女が下車する駅ではなかった。

 しかし少女は覚束ない足取りで電車から降りていた。

「――ッ!?」

 それは、咄嗟の判断だったのか。

 気がつけば真斗は自分も少女と同じように、自分の荷物を慌てて抱えるとその駅に飛び降りていた。

 プシュウウ…ッ、と音を立てて扉が閉まる。

 電車はゆっくりと再び走り出した。

(何で飛び降りたんだ…!)

 と自分の咄嗟の行動を振り返り、思ったもののもう遅く、電車は遥か彼方まで走り去っている。

 真斗は、チッと小さく舌打ちすると、自分よりも先に降りた少女を追いかけようと辺りを見回した。

(いた……!)

 少女を見つけるのは簡単だった。

 降りた駅が比較的小さな駅だったことと、少女と自分を除く他の人達は電車から降りるなり早々、改札口へと向かっていたからだ。少女は未だふらふらとする覚束ない足取りで、壁をつたうようにしてゆっくりと歩いている。

 真斗は少女のもとへと駆け寄った。そして少女の腕を思い切り掴み、

「大丈夫…!?」

 声を掛けた。

 少女はゆっくりと真斗の方を振り返った。

「…………」

 振り返った少女の焦点は定まっておらず、何かを言おうとし―――そのまま意識を失った。

 意識をなくし、自分の足で立つことができなくなった少女の体はホームの地面に向かって倒れこもうとし、真斗が咄嗟に支えることでそれを免れた。

「ちょっと……」

 声を掛けるものの何も反応はない。

 自分の腕の中に、名前も知らないような一人の少女の姿。

「……俺に一体どうしろと…?」

 いつも飄々としている真斗にしては珍しく、戸惑い露に情けなくそう呟いていた。





「……う……ん…」

 目の前で少女が身動ぎ、小さく唸り声を上げる。

 その様子を見て、真斗はほっと胸を撫で下ろしていた。どうやらようやく少女のお目覚めのようである。

 ゆっくりと少女の瞼が開けられて、眩しそうに数回瞬きをした後、少女はぱっちりと目を開いて目覚めた。寝そべっていた体を起こし、周りをきょろきょろと見回す。そして目の前に座っている真斗の存在に気づき、きょとんとした眼差しを真斗へと向けてきた。

(……混乱してるね、彼女…)

 それも仕方がないかもしれない。

 今、真斗と少女がいる場所は小さな簡素な部屋で、少女は固くて質が悪いとはいえベッドの上に寝ているのだ。見知らぬ場所で目覚めて名前も知らない少年に看取られているのを混乱せずにはいられないだろう。

 真斗はこっそりと溜息を零す。そして目の前の少女に説明し始めた。

「……十四分。加藤さんが気絶していた時間だよ」

「え…? え…? え……?」

「覚えてないかもしれないけど、加藤さんは電車に酔って慌てて電車から駆け下りて、そのまま意識を失ったんだよ」

「え………?」

 真斗に言われたことが理解できなかったのか、少女は言われた事を自分で繰り返して言いながら必死に記憶の糸を辿っているようだった。そしてようやく思い出したのか、「あ…」と小さく声を上げた。

「ここは駅の救護室。倒れそうになった加藤さんを支えて、俺がここまで連れてきたってわけ。……理解した?」

 こくこくと首がもげてしまうのではと思うほどに頭を上下させて頷いていた少女だったが、突然またぐったりとしてベッドの上に体を沈めた。

 真斗はそんな少女に対してわざと少女が気づくように大きく溜息を零すと、起き上がろうとする少女をやんわりと止めた。

「…まだ顔に血の気が戻っていないようだからもう少し安静にしてるべきだね」

「……す…、すみま…せん…」

「謝るくらいなら早く気分良くなりなよ」

「………はい…」

 少女の声が小さくなる。

 そして少女は顔を隠すようにして布団を思い切り引っ張った。

 消えてしまいそうなほど小さな声で、

「……その…、ありがとうございました…」

 と真斗に向かってお礼の言葉を述べた。

 聞こえるか、聞こえないかの本当に小さな声だったものの、何故かその少女のお礼の言葉は真斗の胸にロウソクの灯のような、小さな温かさを感じさせた。

 真斗はその胸に感じる温かさを押さえ込み、できるだけ冷静な言葉で「気にすることはない」と答えると、話題を変えるようにして口を開いた。

「――で、どうして酔うくらいなら空いている席に座ろうとしなかったわけ?」

「そ…それは……」

「それは?」

「う………」

 答えることを躊躇った少女だったが、真斗に威圧されてしまい、降参するようにしてぽつぽつと事情を話し始めた。

「………座ると……寝てしまうん…です…」

「は?」

「座ると……寝てしまうんです、私……。それで、極力椅子に座らないように…していて……」

「立ってても寝てるでしょ? 加藤さんは」

「それは…そうなんですけど………。立ってれば……とりあえず起きれる…ので……」

「………」

「……だから………」

 真斗は頭の中で言われた言葉を整頓する。

 少女は乗り物酔いをする性質である。そして同時に電車に乗るとついつい寝てしまう癖がついている。眠れば酔うことはない。座ると深い眠りについてしまい降りるべき駅で降りることができないので、たとえ席が空いていたとしても立つことを選んでいた――と。

「………」

「………救いようがないね、それは…」

「…うう…っ…」

 情けないとばかりに更に布団の中に顔を埋める少女。

 本当に、心から真斗は呆れていた。そしてよくそんなので、電車で通い続けているとある意味感心した。

 再び真斗は溜息を零す。

 少女はなかなか布団から顔を出そうとしない。

 このままでは無駄に時間が過ぎていってしまうと考えた真斗は、それならばとばかりに口を開いた。

「――ゆきみヶ原高校二年D組、加藤莉子」

 真斗が口にしたのは少女の名前もろもろで。

 少女がその言葉にぴくりと反応した。

 もう一度真斗は同じ事を繰り返す。

「ゆきみヶ原高校二年D組、加藤莉子」

 少女は弾かれたように布団の中から起き上がり、驚愕に目を見開いて真斗を見つめた。

「……ど…して私の名前……知ってるんです…か……?」

 そういえばさっきも名前を呼ばれたような気がする、と今更ながらに少女は思い出したようだった。

 真斗は驚愕する少女に向かって、にっこりと微笑むと何かを取り出してそれを少女へと見せた。

 それは――少女の生徒手帳。

「あ……」

 いつの間に、と少女――莉子が呆然とするのを見て、真斗はもう一度意味ありげな微笑を浮かべた。

「ここに運ぶにあたって身元を確かめさせてもらったから」

 さすがに名前を知らない人を救護室に運ぶのもどうかと思ったから。

 そう言葉を続けながら真斗は椅子から立ち上がると、机の上に畳んであった莉子のコートと鞄を彼女に向かって差し出すと、未だ呆然とする少女に向かって「そろそろ行くよ」と短く告げた。

 慌てて莉子はコートに手を通し、ボタンを止めないまま鞄を手にとり真斗の後へと続く。

 救護室を出た所で駅員が真斗に向かって一言二言尋ね、それに対して真斗は短く答えた後に「ありがとうございます」とお礼の言葉を述べるとその場からすたすたと歩き去った。莉子もまた慌てて駅員さんにぺこりと頭を下げると、わけのわからないままただひたすらに真斗の後を追いかけた。

 真斗がようやく止めたのは、プラットホームの白線まで来た時だった。

 莉子もまたそこで足を止め、コートのボタンを閉じてから髪型などを整えて、しどろもどろに真斗の方に視線を向けた。

「……あの…、そ……の……」

 真斗は、莉子に向かってにっこりと微笑んだ。

 その微笑みは、長年真斗と付き合い続けてきた朔太郎達ならばその微笑の意味するところに気づいたのであろうが、莉子がそれに気づくわけがない。

 微笑まれたことで莉子もまた何となく微笑み返す。

「雨宮真斗。蘇南中学二年」

「…え……?」

「俺の名前」

「あ…、そうなん…ですか…?」

「そう」

「………………………………ええええええええっ! と、年下さんだったのですか…ッ!?」

 一テンポ遅れて莉子は驚きに大声を上げる。

 真斗はそんな莉子を見て、口元だけでくすっと笑ってみせた。

「……ま、それはおいといて。俺にいい案があるんだけど?」

「え…?」

「加藤さんが座ると眠ってしまうんでしょ? だったら俺が起こしてあげるよ」

「へ…? え……? 雨宮…君……?」

「まあ、その場合は俺がテニスのある日限定になるから毎日ってわけにはいかないけど、起こさないよりは起こしてあげた方がいいでしょ?」

「それは……そうです…けど…」

 起こしてもらうのは有り難い。でも今日も迷惑を掛けた上に起こしてもらうなんて申し訳ない、と莉子は言葉を続ける。

「――だから交換条件でどう? 俺も別にそこまで親切な人間じゃないしね」

「交換…条件……?」

 莉子が首を傾げる。

 どうやら莉子の真斗に対する警戒心は全くなくなっているらしい。そしてその交換条件というのが気になり始めているのを感じ取り、真斗は心の中でほくそ笑んだ。

「条件は、俺の座る分の席も確保してくれること」

 自分よりも先に前の駅から電車に乗り込んでいることを確認して、真斗が乗る駅の四つ前の駅だという答えに満足する。その駅ならば十分席を確保できる、と。

 電車が空いているか空いていないかは大体半々くらいの確率。真斗は要領がいいので空いていなくても席に座ることに抜け目なかったりするのだが、それでも安心して席に座れるのならばそれにこしたことはない。

 できれば椅子の端の位置がいい、と。莉子の荷物をその位置に置いて席を取っておいてほしい、と真斗は告げる。

「座る場所……ですか…?」

「ああ。一応俺もクラブで疲れてるからね。できるなら結構長い時間いる電車では座っていたいし」

 飄々と、しかしどことなく哀愁を漂わせて真斗は告げる。

 莉子はどうしようかと迷っているようだったが、そんな真斗の様子にはっとし、「分かりました」と返事をした。

「不肖ながらも私、雨宮君の席を確保して座ることにします!!」

 任せて下さい、と胸を張る莉子。

 真斗はできるだけ優しげな笑みを浮かべて――とはいえ普段あまり表情を変えないのでそこまで変化はなかったのだろうけれども――「ありがとう」とお礼を言った。





 その次のテニスの練習の日、電車に乗り込んだ真斗は自分が言った通りに一番端の位置に荷物を置いて椅子に座っている莉子の姿を見つけた。

 当然ながら莉子は自分の荷物に凭れるようにして眠り続けていて。

 それを見て真斗はくすっと笑いを零した。

 そして至って自然に莉子の荷物をどかしてその場所に座り、そこに置いてあった荷物を手で抱えて持つ。そして足元に置いた自分のスポーツバックから小説を取り出し、静かに読み始める。

 真斗が隣りに座ったことにも気づかずに懇々と眠り続ける莉子が真斗の肩に凭れるようにして倒れこんできたのに苦笑しながら。

 傍から見れば、そんな二人は可愛らしい恋人同士に見えたのかもしれない。

 いつも莉子の様子にはらはらしていた乗客は、そんな二人の様子に優しげな、見守るような視線を向けていた。

 ガタンゴトンと一定のリズムを奏でながら、今日も今日とて電車が走る。

 それは、とある車両での小さな物語――――。


十年以上前に書いた作品です。

……ちなみに電車で立ったまま寝て、ぶつけて笑われたのは過去の私です。(笑)

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