日常から異常へ
◇
思わず芽衣子はリッカの手を払ってしまった。
「あ……悪い。これ、大切なもんなんだ」
嘘をついた。こんなものは大切でもなんでもない。金属さえあればいくらでも数秒で作れる。
芽衣子は自分の特別な力を親友であるリッカにも隠していた。
中学時代にシルバーアクセサリーに興味を持ち、自作するまでに至っていた芽衣子であったが、ある日突然専用のキットや工具を用いずにシルバーの加工を行えるようになった。目の前に無地のリングを置き、どのようなデザインに仕上げようか頭の中でイメージし、いざ加工に取り掛かろうとしたときにはもう出来上がっていたのだ。
アメリカンコミック映画を含むアクションやファンタジー洋画を好む芽衣子はこの能力に興奮したもののそれをおおっぴらにしないように心に誓った。それも「ノブレス・オブリージュ」を題材とした映画の影響であり、この能力のせいで家族や友人に迷惑をかけることを恐れたからであった。
「私こそごめんね。ちょっち無神経だったわ。とりま誕プレありがと!リューコの誕生日にはヤバいもん返すね!」
そう言うとリッカは颯爽とコーヒーショップを後にした。
ヤバいもんってなんだよ、と思いながら芽衣子はいつものリッカの反応に安堵し、バングルを見つめつつため息をついた。
能力をおおっぴらにしない、隠したいと思っていても芽衣子はまだ十六歳の多感な時期であり、特別な能力を使わずにはいられなかった。趣味のシルバーアクセサリー作りは能力のおかげでその精度や頻度を増し、部屋に居るときには自室の金属製品を全て宙に浮かせたりと、まるで初めてオイルライターを渡された子供の様であった。
考えてみればリッカに言われた通り、こんなピッタリなバングルつけられるわけがない。
芽衣子はピアス、イヤーカフス、右手人差し指と左手小指のリングを不自然なところがないか、触ったり見つめたりして再確認した。
それから芽衣子はスマートフォンでネットニュースを見たり、高校の友人と他愛もない連絡を取り合って二時間ほどだらだらと過ごした後、店を後にした。
時刻は午後六時を過ぎており、五月になって日は伸びてきたもののアーケードの向こう側は夜の雰囲気を醸し出していた。仕事終わりの会社員や部活帰りの学生もあってかアーケード内はやや活気を見せている。
芽衣子はそんなアーケードを抜け、駅までの道を車道を走る車のライトに足元を照らされながら歩いた。
駅が近くなるにつれ街灯が多くなる。駅の近くには先ほどまでの商店とはまた色の違う店舗が並ぶ。芽衣子にはあまり馴染みのない繁華街というやつで、仕事終わりの大人たちが酒や食事を楽しむ場所だ。
いつもであればその繁華街を横目に見ながら駅まであと数分の道を辿るのだが、芽衣子は足を止めた。
五人の男女が目に入ったのだ。
三人が二十代の少し派手なスーツを着た男で、一人は三十代ぐらいであろう女でやたらファーのついた長いコートに身を包んでいた。
ここまでなら別に何の違和感も抱かなかった芽衣子だが、もう一人が気になった。
リッカと同じ制服を着た女子高生だ。
別に女子高生が身分を隠して夜の店で働くなんてのは聞いたことのある話だし、明るめの茶髪にスカート丈の短いその女子高生はいかにも「遊んでる」感も強く出ていた。
しかし、その横顔は暗く、なにかに怯えている様に芽衣子は感じた。
自ずと芽衣子の足はその五人を追ってしまっていた。
車同士がギリギリすれ違える程度の通りは両側に居酒屋やスナック、芽衣子からしたらややいかがわしいと思えるような店が立ち並んでいる。
五人が路地に入るのを見るとはや足をやめ駆け出す。角で止まりのぞき込むというさながらドラマの探偵ばりの動きで男女の動向を探った。
路地は暗く狭い。表に連なる飲食店の職員用の出入り口か勝手口が並び、店で出たごみ袋や室外機が路地の圧迫感を高めている。
五人組は女子高生を逃がさないかのように列の間に挟み込み、そんな路地を迷路のように進んでいく。
芽衣子はバレないよう向こうが曲がってから距離を詰めを繰り返していた。四、五回ほど曲がったところで五人が少しだけ開けたところに出るのを目撃し、その空間を路地の陰からのぞき込む。
四方を建物の壁に覆われぽっかりと空いてしまった空間がそこにはあった。飲食店で使われていたのであろう大型の家電製品が乱雑に投棄されており、その台数の多さや年季から不法に投棄されたものだと窺える。
「で、どうゆうことなの?」
女子学生を取り囲むように立っていたうちの一人の男が問う。
「俺らはさ、慈善事業で客紹介してんじゃないのよ。おめーに充てたおっさんからはめちゃクレームきてんのよ」
委縮してしまっている女子学生は震えた声でそれに答える。
「わ、私はパパ活だけって最初に……」
「おめーの仕事はそのパパを満足させることだろうがよォ!」
男は足元にあった一斗缶を盛大に蹴り上げ派手な音を響かせる。その中に入っていたネジやボルトといった小さな部品のいくつかが女子学生に当たり、彼女は痛みより恐怖により身体を縮める。
「それにさぁ、仲介料ちょろまかしてんだろ。おめーに充てた別の客が愚痴ってんのよ。お小遣い増やしてもサービスがないってよぉ!どういうことだ!?あん?取った分の半分は仲介料だろーが!計算合わねぇよな!?」
「レナ、私は悲しいよ。あんたが稼ぎたいっていうからコイツら紹介してやったのに、私の顔に泥ぬってさ。金は欲しいが楽して稼ぎたいだけ、嫌なことはしたくないなんて虫が良すぎないかい?おまけに売り上げのピンハネだなんて、情けない」
ファーの女が追い打ちをかけるかのように吐き捨てた。
「でもさ、おめー面だけはいいから需要あるし俺らとしてはもっと働いてほしいわけよ。この姉さんのメンツもあるしさ。今までのはこの説教でチャラってことにしてやるから、一つ約束してもらいたいんだわ。今後は同伴だけじゃなくお客の『サポート』までしますってさ」
うつむく女学生を下からのぞき込むように男はねっとりと言葉を吐く。
恐怖や畏怖からかついに涙を零してしまう彼女であったが、震えかすれた声を振り絞る。
「ご、ごめんなさい……も、もう、やりたくないです」
「それは、あれか?今まで通りの仕事しかしないってことか?」
「……全部やめたいです」
男は額を手で覆い、はぁとため息をついてから誰にともなく呟く。
「『指導』だな」
男の左手が乱暴に女学生の右手首を掴み上げ、彼女からは小さな悲鳴とも取れる声が上がる。
しかし、そこで異変が起こる。
女学生の腕を力強くつかんでいたはずの男の手が徐々に開かれていく。
「なっ……んだこりゃ」
そう漏らした男の手は銀色に鈍く光る「何か」で覆われており、その「何か」が男の手を彼女から引きはがし、挙手するかのようにその手は宙に上がっていく。
それは水銀のように波打っていたが、残った右手で払おうとしてもその表面を撫でるばかりであった。
浮いていく左手は挙手に留まらず男の身体をも宙に連れていく。
男は慌てふためいた声を漏らし身体をよじって逃れようとするが虚しく、銀色の左手にゆっくりと連れられていく。周りの人間もこの現状を理解できず、ただただ口をポカンと開けてその様を見つめていた。
女学生は尻もちをついていたが同様にこの異常な光景に目を奪われていたが、自分に手が差し出されていることに気が付く。
その差し出された右手の人差し指には銀の指輪。紺のセーラー服にスカジャンを着たその女は黒い髪の毛の先を炎で燃やしていた。女学生にはそう見えた。
「あー、ゲロが出そうだわ」
その言葉に宙の男に目を取られていた男女はその場の乱入者にようやく気が付く。
「言わせてもらうが、お前らは全員クソだ」
背中を向けて言う女。
路地裏の事情に、桐生芽衣子は割り入った。
芽衣子は女学生を引き起こし三人に向き直る。
「おまっ……」
なにかを言いかけた男の一人であったが、それを制するかのように芽衣子がその男を指さした。
「あんた、ズボンが落ちてるぜ?」
瞬間、男はその女の言う通りにスーツの下がずり落ちるのを感じ、慌ててそれを食い止める。
なぜ?そう思った男はあることに気が付く。ベルトの金具がなかった。ない、消失していたのだ。
「それにチャックも全開だ」
言われるがままに目が、手が動いてそれを確認してしまう男。そこには確かに開いたままの社会の窓が存在する。そもそもそれを閉じておくためのファスナーが失われているのだ。
宙に浮く男に続き、ズボンであたふたする男。そんな奇怪な光景を見せられ、残った男女は背筋がゾッとしていた。自分たちの理解の及ばない何かが彼女にはあると。
「おばさんはあれだな、高そうなネックレスをしてるな」
自分の番が回ってきた。血の気が引くような感覚に陥りながらも自身の胸元のネックレスに触れようとする。だが触れることは叶わなかった。
なぜなら女の胸元にあるべきネックレスは芽衣子が自身の手にぶら下げていたからだ。
「結構値の張るものだけど……センスはないな。慰謝料代わりにもらっとけ」
そう言って芽衣子は女学生にそれを手渡す。それと同時にファーの女は足の力が抜けペタリとその場に座り込んでしまう。
残った男はというと、入ってきた路地とはまた違った路地の方に逃げ込み姿を消してしまっていた。
芽衣子がふぅ、と息をつくと宙に浮いていた男が落ちてくる。暴れていたのでその男は着地に失敗し尻を強打していた。
「この娘に二度と手ぇ出すな。次は尻の痛みだけじゃ済まさねぇからな」
尻をさする男を見下し吐き捨てる。そうして芽衣子はポカンとした表情の女学生の手を引き、元来た路地に歩いて戻った。
「あ、あの……」
女学生は芽衣子に手を引かれ、これまでのことに困惑しながらもお礼だけは言おうと思った。
「ありが――」
「クソじゃないがお前もバカだ」
芽衣子の罵倒に遮られる。
「パパ活だかなんだか知らねぇけど、最初からそんなヤバそうなことに首突っ込んでんじゃねぇよ」
手を引きながら歩く芽衣子は振り向かずに言う。どんな事情で金が必要でこの方法で稼ごうとしたのかを知りはしないが、その行為を正しいとは思えなかった。
チャラついた雰囲気とは裏腹にその一言に反論するわけでもなく黙ってしまう女学生。芽衣子の一言が効いたのか、先ほどの恐怖がそうさせたのかはわからないが彼女なりに考えることがあったことは事実だった。
路地裏を抜け元の繁華街通りに戻る。そこでようやく芽衣子は女学生の腕を離した。
「今後この辺には近づくなよ。報復とかないとは言えないし。通学とか遠回りになるかもしれないけど我慢しろ。いいな?」
振り向くことなく背中で語る芽衣子。
そんな芽衣子の正面に回り込み、女学生は姿勢を正す。
「本当に、本当に、ありがとうございました!」
感謝を述べる彼女の顔は涙で化粧が崩れていた。しかし、そんなことを気にすることなく深々と頭を下げた。
芽衣子は複雑な感情だった。馬鹿な真似をしたこの女と先ほどの男たちに対する怒りや、その彼らがやっていることへのモヤモヤ、崩れた化粧顔面への面白さ、感謝されることの気恥ずかしさがそういう感情にさせている。どうしていいかわからず眉間にしわを寄せ、ガシガシと自分の頭を掻いて言う。
「あ゛ーもう!いいからもう行け!」
最終的に気恥ずかしさが勝っていた。
そうしてもう一度女学生の顔を見て笑ってやろうと思った。
が。
その顔は再び何かに怯えたような表情であった。
心なしか周囲もざわついているようにも感じた。
今の一瞬でなにかが変わったのだろう。
自分以外のみんなが気付いている。
つまり後ろだ。だから振り向いた。
そこには何かを振りかぶった、さっきの尻打ち男がいた。
全てがスローに感じる。走馬灯は見えないが。
男はあたしの顔を見ていた。
つまり、振りかぶった何かをあたしの頭に、もしくは顔に叩きつけるつもりなんだろう。
ヘタすりゃ死ぬかも。
あーあ。
恐怖や怒りよりも先に芽衣子は自問自答していた。
この状況に至るまで自分は「間違ったこと」をしただろうか、「後悔するような行動」を取っただろうかと。
否。
自分はやるべきことをした。
桐生芽衣子はそういう人間だった。