おじさんの夏休み
「さっきからおじさんの顔、なんか怖い」
向かい合った電車の座席で、少女がわたしにそんな事を言った。
車窓から吹き込む風にセミロングの髪を揺らしながら、その子は不機嫌な表情でわたしの顔を覗き込んでくる。
中学三年生の姪に凝視されて、たまらず視線を外してしまうのだ。
「おじさんていつも不景気な顔をしているし、ひとと正面から向き合おうとしないし」
「そうかな、そんな事ないよ」
「そんな事あるよ! 今日だってわざわざ花梨が新幹線のホームまで迎えに行ったのに、一度も花梨とちゃんと眼を合わせてくれなかったじゃん」
「花梨ちゃんの顔ちゃんと見ているよ」
そうは言ったものの、確かにわたしは誰かと視線を合わせるのが苦手だった。
今も花梨ちゃんの顔を見るふりをして、焦点を合わせているのは少女の鼻先だ。
「そんなんだから、おばさんに離婚されたんじゃないの。おじさん」
「うっ」
「まあ花梨は、あのおばさん嫌いだったけどね」
「……今それを言うかな」
「今だから言うんじゃないの」
わたしは知らなかったのだが、どうやら元妻は少女に嫌われていたらしい。
そんな元妻から離婚を切り出されたのは、電話口での事だった。
もういいでしょう。終わりにしない?
乾いた声で切り出された瞬間、わたしは呆然とした。何が原因でそうなってしまったのか、必死で考えたものだ。
まあ今にして思えばよくあるすれ違いだろう。
残業がちな毎日を送っていたある日。妻が左腕に原因不明の痺れがあると訴えたのだが、そうして日も経たないうちに痺れは左半身に広がって、歩くのもままならない程酷くなったのだ。
驚いて病院に行ったものの原因は不明。神経を取り除く手術をする事になったが、仕事のトラブルで手術の当日どうしても妻に付き添う事ができなかった。
間が悪いで済ませるには、タイミングが悪すぎた。
そうしてボタンのかけ違いが深刻なお互いの溝へと発展したのだ。
「子供もいなかったし、お互い三十路で、あいつもやり直すならこのタイミングだったんだよ」
「ふうん。でもおじさんはそれでフリーになれたんでしょ? 子供がいなくてラッキーだったね」
「いいもんか。俺は離婚したんだぞ?」
「あのひと自分勝手な性格だったし、このまま続いてもいい事なんてなかったって」
手術のおかげで回復の兆しを見せたものの、一時のつもりで妻を実家に送り返して以来、彼女が自宅に戻ってくる事はなかったのだ。
そうしてかかってきた電話に、わたしは絶句したわけである。
「……これからしばらくどうするの?」
「ひと夏ぐらいはゆっくり過ごすかな。兄貴の世話になるつもりだよ、何もやる気が起きないし、仕事も辞めちゃったし」
「いっそこっちで仕事探しなよ。そしたらわたしがお世話してあげるからさ」
「何言ってるんだ中学生。そんな事より今年受験なんだから勉強しろよ」
慰めてくれるつもりなのか「お世話してあげる」などと言われたわたしは苦笑した。
二両編成で瀬戸内を走る電車は、やがて故郷の駅ホームに滑り込んでいく。
電車がゆっくりと速度を落としたのを確認して、花梨ちゃんは立ち上がった。
「何ボサっとしてるのおじさん、行くよ?」
わたしはというと、あわてて手荷物を抱えてそれを追いかける。
寂れたホームに出てみれば、むっとした夏の湿気と蝉の鳴き声がわたしを出迎えてくれた。
「……荷物は本当にそれだけなの?」
「ああうん。引越しをするときに全部処分したから、残りは段ボールで送っておいた冬着ぐらいのものだよ」
キャリーカートを引きずりながら、わたしは実家へと向かう海岸沿いの国道を歩く。
並んだ少女はボストンバッグを受け取ると、両手に持ち駆けだした。途中クルリと振り返る。
「それにしても少な過ぎでしょ。全財産がそれっぽっちなんて」
元妻の去った自宅を改めて観察すれば、確かに生活空間とは思えないほど寂しい場所に見えた。
家具らしい家具といえば、いつも元妻が座っていたソファとテレビぐらいで、彼女の荷物が引き払われた後は酷くもの悲しい空間に様変わりした。
気持ちを後に引きずらないために、残った家財は部屋を引き払う機会にすべて処分する事にした。
おかげで手元に残ったのは、わずかの衣類と退職金。
人生にやる気を失って仕事を辞めてしまったのも、いったん故郷に帰るいいきっかけだった。
「荷物が多いと引っ越し代も馬鹿にならないだろ。独り暮らしするだけなら、それで十分さ」
「料理ぐらいするでしょう?」
「俺はそういうの苦手だし、コンビニや外食で済ませる」
「だからさ、ずっとウチにいればいいって言ってるじゃん。おじさんの部屋もそのままなんだから、こっちで働き先探しなよ」
「田舎は仕事がないしなぁ」
兄貴に似ず花梨ちゃんは甲斐甲斐しくわたしに世話を焼いてくれる。
それもそのはずで、この少女は兄嫁の連れ子だから血の繋がりは無いのだ。
兄貴夫婦が共働きで昼間は家を留守にしているのも、世話焼きをしてくれる理由のひとつなのかも知れない。何しろわたしの田舎は若い人間がほとんどいないものだから、暇を持て余してお節介ぐらいしかする事がないのだろう。他愛のないやりとりをしばらく続けていると、ようやく古めかしい和風建築の二階建てが見えてきた。
久方ぶりに実家の玄関を潜ると、懐かしい気分に満たされる。
それもつかの間、先に上がり框へ登った花梨ちゃんは、さっさと廊下の先へと姿を消してしまう。
「ホント今年は暑いよね。おじさん飲み物いる?」
どうやら向かった先は台所らしい。奥からしたその声にわたしは少し大きめの声で返事をした。
「いやいいよ。それより先に仏壇へお参りしておかないと」
「そうだね。もうすぐお盆だから、きっとおじいちゃんとおばあちゃんも帰って来てるよ」
他界した両親に、ただいまと離婚の報告をしなくちゃならない。
億劫な気持ちになりながら仏間へ向かう途中、台所をのぞき込むと花梨ちゃんの姿が飛び込んできた。
うちわを片手に麦茶の入ったグラスを口に運んでいる。その途中でわたしの視線に気がついたのか、少女はニコリともせずにこちらへ振り返った。そうして飲みかけのグラスをわたしに差し出す。
「んっ」
「ありがとう……」
わたしもやっぱり咽が渇いていると思ったのかも知れない。
少女の世話焼きをむげにするわけにも行かず、わたしはそれを受け取ってひと息に飲み干した。
◆
何もせず何も考えず、ただ暑い夏を汗かいて過ごす。
怠惰かもしれないが、元妻の去ったがらんどうの部屋に引きこもっていた時よりはずっとマシな時間を過ごしている。
少なくとも実家にいれば元妻との生活より以前を思い出して、気が紛らわせられる。
わたしはここ数日を、そんな風に感じながら過ごしていた。
「いったん田舎に帰ってきたのは、間違った選択じゃなかったはずだ」
離婚した当初は仕事も何も手につかず、職場でも失敗を繰り返していたものだ。
これ以上大きな失敗をしでかし、致命的な損失を会社にもたらす前に退職の決意をした。
そうしてみると、これまでの忙しい毎日が嘘の様に、怠惰と虚無に満たされたこの身が少しずつ腐っていく。そんな感覚に見舞われた。
「ここにいたら少なくとも時間にあくせくする事だけはないからな」
実家に戻って数日を経たある日の夕刻。湯船にゆったりと浸かりながら、天井を仰ぎ見てわたしはうそぶいた。
腐りかけていた気持ちが、わずかばかり立ち直った気がする。
おもむろに両手でお湯をすくい上げ、パシャリと顔に浴びせる。すると、
「おじさん?」
不意に脱衣所から声がした。
視線を向けると曇りガラスの向こうに揺れる花梨ちゃんのボンヤリとした姿があった。
「着替え、ここに置いとくから」
「ありがとう」
「もう! 汚れ物はちゃんと洗濯かごに入れておいて」
「ごめんごめん」
考え事をしていたせいで、今日はずいぶんお湯に浸かっていた。
気になった花梨ちゃんが様子を見に来たのかも知れない。
そろそろ出ようかと体を起こしてみたけれど、脱衣所にあった少女の気配が立ち去る様子がない。
怪訝な表情で曇りガラスの向こうを見ると、からかう様な悪戯っぽい花梨ちゃんの声がする。
「せっかくだから背中流してあげようか」
「……いや、体はもう洗った後だからいいよ。気持ちだけありがとう」
「何よ、せっかく気を利かせてあげたのに」
「夕飯の準備があるだろ。それにお母さんが帰ってくる時間だ」
「遠慮しなくていいよ!」
どうしたものかと返事に躊躇していると、ガラガラと扉を開いて花梨ちゃんが中を覗き込んできた。わたしはあわてて身をかがめながら、浴槽に戻るか出るかの曖昧な状態で立ち往生してしまった。
「いいからいいから、ほらこっちに出てきて」
「だから体はもう洗ったって」
「自分で洗うより、洗ってもらった方が気持ちいいでしょ?」
さすがに裸で風呂場に突入してきたわけではなく、Tシャツにハーフパンツというラフな格好の花梨ちゃん。わたしが素っ裸なのも気にせずに浴槽から引っ張り上げようとするのだが、
「ただいまー」
間延びした女性の声が、脱衣所の向こう側から聞こえてくるじゃないか。
恐らく花梨ちゃんの母親、兄嫁がパートを終えて帰宅したのだろう。
途端に罰の悪い顔をしてしまったわたしとは対照的に、悪戯がバレた子供の様な顔を見せて花梨ちゃんは脱衣所に出て行った。
「花梨あんたどこにいるのー?」
「はーい今行くよ、おじさんの洗濯物を洗うところだから!」
何かの誤解をされては気まずいと思ったのは確かだ。
その表情を見られたわたしは少女に不機嫌な顔をぶつけられてしまったが、これで収まらない。
「おじさん、続きはまた今度ねっ」
翻って脱衣所に出て行こうとした花梨ちゃんは、最後にこんな言葉を残した。
続きはなくていい。いくら甲斐甲斐しく世話を焼いてくれるにしても、これ以上はやりすぎだ。
年頃の少女が何を考えているのか、わたしが理解するには難しい。
◆
ある日、兄貴が晩酌に誘ってくれた。
普段あまり酒を口にしないわたしだが、きっと兄貴なりの気遣いだったのだろう。むかしながらの瓶ビールを畳の居間に持ってきて、一杯やらないかと切り出したのだ。
「勝、調子はどうだ?」
兄貴にそう聞かれたものの、可もなく不可もなく曖昧な返事をしておいた。
近頃は以前の生活を振り返るよりも、のんびりと故郷で過ごす時間が増えるにしたがって新しい生活をしているという実感がある。
むかしのアルバムを眺めていたりすると、実家での生活もまんざら悪くないと思いはじめる様になった。
「義姉さんや花梨ちゃんのおかげで、ボチボチだよ」
「そうか、ならよかった」
「けど、いつまでも兄貴たちに迷惑かけるわけにもいかないからな」
「気にするな。花梨も喜んでいるみたいだし、むかしから懐かれてるみたいじゃないか」
「そうかな。一時の事だろう」
当初、失業保険が切れるまでは何もせず過ごしているつもりだったが、今は少しずつ暇を持て余す様になってきた。
兄貴がいう様に、車を出して花梨ちゃんと買い物に付き合う事も時々ある。
「お前がこっちで仕事を探すなら、ウチの職場に聞いてみてもいいぞ」
「ありがとう。いつまでもボンヤリしているわけにもいかないから、決心がついたらお願いするかもしれない」
「製造業はどこも人手不足だからな、すぐにでも頭数は欲しいんだ。やってみるとこういう仕事も悪くないぞ?」
「それは兄貴が、義姉さんとそこで知り合えたからだろ」
空になったグラスにビールを注ぎながら、わたしは心の中で兄貴に感謝の言葉を述べた。
元の職種で仕事を探すとなれば地元では難しいことはわかる。
まだ両親が健在だった頃、年老いたふたりの面倒を見るために転職を選んで兄貴は地元に戻った。それがキッカケでいまの兄嫁と結婚したのだから、兄貴にとって地元に戻る選択は悪くなかったのだろう。
さすがにわたしは、しばらく恋愛だ結婚だと考えるのは面倒だと思った。
そうしていると二階から降りてきた花梨ちゃんが居間へやってきて顔を出す。
「おじさん、宿題わからないところあるから手伝って」
夏休みと言えば宿題か、懐かしいものだ。わたしと兄貴は顔を見合わせた。
兄貴はそのまま晩酌を続ける様だが、あまり酒の強くないわたしにはちょうどいい切り上げ時だ。立ち上がると兄貴に、
「兄貴と違って俺は結婚が向いてなかったんだと思うよ」
「お前はまだ若いんだから、決めつけてしまうのはどうかと思うぞ。生きてりゃまだチャンスはあるだろ」
「その時が来ればね」
飲み干したグラスを兄嫁に手渡して、花梨ちゃんと一緒に二階へ上がった。
階段を昇る途中、先を行く少女がわたしに質問をする。探るような声のトーンだった。
「……お父さんと何話してたの?」
「兄貴の職場を紹介してやろうかって」
「嘘、結婚の話してたでしょ」
「聞こえてたんじゃないか。まだチャンスはあるって言われたけど、しばらく考えられないって」
「お父さんの言う通りじゃん。先の事はわからないんだから決めつけはよくないよ。じゃ、どうぞ」
「お邪魔します」
少女の部屋はわたしと隣合わせ、子供の頃の兄貴が使っていた場所だ。
今では女の子の部屋らしく、壁にはセーラー服がかけてあったり棚にいくつか人形が置かれていたりする。
それに勉強机は兄貴が使っていたボロいのではなく、かわいらしいデザインのものだ。
ふすま一枚でしきられているので、久しぶりに自室で生活してみると少女のプライベートが何となく伝わってくるのが申し訳ない。
本人はさして気にしていない様だが、叔父としては気を遣ってしまう。いつまでも実家にいるのも問題だと思う理由はそこにもあった。
「これなんだけど、おじさん数学とか得意?」
「あんまり得意じゃないけど、中学の授業ならわかるかも知れない」
「ホントかなあ。お父さんに聞いたけど、文系だったんでしょ」
「あまり大人を舐めるなよ……?」
「じゃあこれ見て、こことここわかんないんだけど」
折り畳みの小さな机に宿題を広げた花梨ちゃんは、ポンポンとわからない問題を指し示す。
身を乗り出してどれどれと内容を確認し始めたところ、少女が横に移動してわたしと密着した。
「最近の中学生はこんな感じなのか――」
「うん、やっぱりどうしたらいいかわからないんじゃないの?」
「いや待って、思い出すから」
最近の中学生はこんなに発育がいいのか。
実のところ宿題よりも本音は別の事を考えていた。
覗き込む姿勢をすれば、くたびれた首回りのTシャツからノーブラらしき胸の突起が見え隠れする。それよりもありきたりだが、予想外に発育よろしいその胸がわたしの腕に触れて、言葉に詰まる。
いやもちろん、下劣な欲情もよおしたわけではない。
仮にも少女は十五になったばかりの子供であるし、わたしは三十路のおじさんだ。それも姪と叔父ではどうこうできるわけもなし。
だがしかし、
「どうしたの、もう降参?」
悪戯っぽく上目遣いに花梨ちゃんが、わざとらしくそんな言葉を言った瞬間。
その時になって、少女はあえてそれを押し付けているのだと悟った。
否、何かの間違えであって欲しい。何か間違いがあってからでは取り返しがつかない。
◆
野ざらしのガレージで、軽自動車のエンジンを回し待機する。
未だ姿を見せない花梨ちゃんを探して、バックミラーをチラ見した。
来た来た。玄関の戸締りをすると、少女はあわてた様子で小走りに助手席までやって来る。
わたしはと言うと、あまり気にしていない風に居住まいを改めながら平静を装った。
「いいか?」
「ごめんお待たせ」
OKだよ。と、シートベルトに手を回しながら朗らかに笑って返す花梨ちゃん。
ペーパードライバーのわたしは、慣れない手つきで軽自動車を発進させた。
「お昼何食べたい? 何でもいいよ」
「じゃあラーメンとか丼物以外。お父さんと出かけると、大体そういうところだから……」
「色々回ってみようか。パスタ屋さんとか確かあったよな」
「楽しみー」
目的地はふた駅向こう側にある、田舎のどうという事はないショッピングモールだ。
今日は「たまには外食しようよ」と花梨ちゃんに誘われて、車を出すことになった。
それにしても先日は映画に、その前は買い物にと、このところ頻繁に外へと連れ出されている気がするわたしだ。
それも出かけるときは決まって車を指定される。一時間に一本しか来ない点を除けば、国道沿いだからバス停も近いし駅もそれほど離れていないのだが、
「友達のカレシがさ、いつも車で遊びにつれて行ってくれるんだって」
「中学生が社会人のカレシと付き合ってんのか?!」
「ううん大学生だって、いつも自慢してくるんだ。だから花梨もせっかくの夏休みだし、思い出とか作りたいじゃん?」
「思い出か。でもその思い出がモールにお出かけするだけってのも、寂しいよな」
「そう思うなら、夏休みが終わるまでに色々連れてってよ。今年も遊園地行きたいし、プールにもまだ行ってないし。花梨とおもいっきり夏のデート楽しもっ」
スマホから視線を上げながら少女がそんな事を言う。
なるほど対抗心だったか。年上カレシを自慢されたのが悔しくて少女もわたしを使って車デートの真似事をしたかったのかも知れない。
「俺が中高生の頃は、遊ぶ時はみんな自転車だったな。たまに単車の免許を取ったやつが、それを自慢して他県まで遊びに行ったとか耳にしたし。兄貴とかもそうね」
「おじさんの場合はどうだったの」
「ん?」
「だからさ。おじさんが中学の時、デートとかどうしてたの?」
ハンドルを握り閉口したわたしを見上げて、嬉しそうに花梨ちゃんが覗き込んできた。
わたしは中高時代、誰かと付き合った経験も無ければ告白もしていない。言い訳をさせてもらうなら、そもそも男子校だったのだ。女子は学校にいなかったのだ。
「けど、そんなの何の理由にもならないよね。中学は共学だったんでしょ?」
「ぐっ」
「おじさんて、いつも受け身だし押しに弱そうだし、おばさんと結婚したのもあのひとからプロポーズされたからだよね。ほら、言い訳できないでしょ?」
「…………」
見事に切り捨てられてしまった。
赤信号に引っかかった時に少女を睨み返した。
「寂しい青春を送ってたんだねぇ」
「……」
「そういうおじさんの困った顔、花梨は好きだよ」
「…………」
ひと言釘を刺したかったのだが、
「……おじさん、青信号」
「あっすまん」
鼻歌交じりに上機嫌な少女は、あわてて軽自動車を発進させたわたしをチラチラ眺めていた。
「それよりおじさん、頬っぺたどうしたの」
「あ、え? これな……」
「うん」
「急に出かけるって決まったから、あわててしまってヒゲ剃りで切っちゃったんだよ」
「似合ってたのにもったいない」
そんな事を言われて、どう反応していいのか戸惑ってしまった。
何しろ、元妻は無精ヒゲが伸びているのを嫌がって、休みの日になるといつもそれを指摘していた。真逆の事を言われるとは思いもしなかったのだ。
人間というのは、油断しているときに褒められると酷く動揺を隠せない。
例えその言葉には意味が無くとも、元妻と反対の事を言われると混乱もする。
満足気な表情を浮かべて幸せ気分に浸るのはいいが、あまり大人をからかうものではない。
閉口したままでまたしばらく国道を走っていると、やがて開けた市街地へとやってくる。
そのままいくつかの信号に引っかかりながら交差点を左折すれば、この地域で一番大きな複合施設と、その周囲に店舗の集まった商業区画へと到着した。
シートベルトを緩めて身を乗り出した花梨ちゃんは、視界に飛び込んでくる飲食店の看板をさっそく物色しはじめた。
そこには兄貴が行きつけの中華フランチャイズやラーメン屋、丼物のチェーンだけでなく、パスタ専門店やファミレス、ちょっとした洋食専門店なども見えた。
「フードコートだと味気ないだろ。せっかくだから外の店も見て回る?」
「うん、平日だから混んでないね。夏休みだからもっとひとがいると思ったけど」
「まあ子供は夏休みだけど、普通の大人は違うからな」
「じゃあ、おじさんは普通の大人じゃないんだね」
「無職だからな……」
ひとまず軽自動車をモールの大きな駐車場へと滑り込ませ、ドアを開ける。
途端にまとわりつく様な湿気が襲いかかってくるが、花梨ちゃんは平気そうに外へと飛び出して「早く早く」とわたしを急かした。
手を引っ張られて向かう先は、どうやらパスタ屋の様だ。
わたしが出がけに口にしていたのもあるし、確かに時間帯のわりには空いている。きっと駐車場に進入する際に目にして狙いをつけていたのだろう。
「おじさんはサラリーマン時代、いつもお昼はどうしてたの?」
「営業車で出ている時は、回転寿司とかラーメン屋とか。後はファミレスとかが多かったかな」
「お昼からお寿司って豪華だねっ」
「豪華って言うか回転寿司だからな、手早く食べられるしいつもお寿司を食べてたわけじゃないよ。だってほら、うどんとか最近の回転寿司は色んなメニューがあるし」
そうなんだ。と、都会に憧れでも持っているのか、興味津々な風に質問をしてくる。
よほど忙しい時はコンビニで済ませたり味気ないものだが、期待に添える様に、出張の時は昼間からレストランで豪華な食事をした話などをかいつまんで説明した。
そもそも、うちの田舎では寿司屋と言えば回転寿司しかないので、回らないお寿司が少女には想像できないのかも知れない。
ご機嫌な花梨ちゃんと駐車場を挟んで向かいのパスタ屋に向かう途中。
不意に夏休み中の中高生だろうか、自転車で連れ立った若い男の子たちの姿が見えた。
自分がその年頃だった時も、こんな感じで近くの同級生たちと、このモールで集まっていた事がある。
目的は何という事はない小さなゲームセンターとカラオケ屋、あるいはバーガーショップを行き来するだけなのだが、時代は変わっても少年どものやる事は変わらないのだろう。
などと、少しの間自分の過去を思い起こしていたのだが、
「花梨じゃん」
唐突に自転車に跨っていた少年たちがスピードを落とし、そのうちのひとりが声を発して手を引いていた花梨ちゃんが体をビクつかせたのだ。
いつもは悪戯っぽい笑みを絶やさない少女が、とても嫌そうな顔をしてそこから視線を外した。
「お前、こんなとこで何してんの」
「……あんたには、関係ないでしょそんなの」
「ふうん。このひと新しいカレシか?」
「…………」
それはいくらなんでも無理がある。
少女と少年をチラリと見比べたが、地元の同級生という感じだろうか。
「……ご飯、食べに来ただけだけど。もういいでしょ、どいてくれない?」
年齢差ヤバくね? とか、それもう犯罪じゃん? とか。聞いていてたまらず吹き出しそうになる事を少年の連れたちは口にしている。
互いに顔見知りらしく彼らはニヤついていて、その言葉を聞いて花梨ちゃんはみるみる不機嫌になった。
一秒でも早くこの場を離れたかったのか、強引にわたしの腕に手を回し立ち去ろうとする。
「行こう、勝」
何を思ったのか上目遣いに視線を送った花梨ちゃんは、わたしをおじさんではなく名前で呼び、少年たちを驚かせたが、それも意に介さない強気な態度だ。
そのまま逃げる様に目の前のパスタ屋へと飛び込み、少女は口をへの字に曲げて閉ざしてしまったのだった。
「ご注文がお決まりの頃にまたお伺いしますね」
そう言い残した店員さんの立ち去った後も、しばらく無言の時間が過ぎた。
少年たちに学校でいじめられていたのかとも少し考えたが、どうも花梨ちゃんの露骨な態度からはそんな風にも感じられなかった。
むしろ過去に何かの遺恨があったのだろう。意味深に「新しい彼氏か」なんて聞かれていたし。
けれども、
「何も質問してこないの、おじさん」
苦笑を浮かべながら少女が気の済むまで好きにさせておこうと思ったところ、こんな事を言われてしまった。
その態度からして、むしろ花梨ちゃんは質問をして欲しいのだろう。
しかしわたしはと言うと、あえて曖昧に笑みを浮かべ続ける以上の事はしなかった。
深入りをしない、と言えば取り繕っているだけの言葉だろう。気にならないと言えば姪っ子の事であるし嘘になるが、それ以上に他者へ深入りすることは躊躇してしまう。
元妻との離婚後、以前に増して誰かと向き合うという行為に極端な苦手意識を持つ様になったわたしだ。
それを恐れて少女の視線をまともに受け止めきれず、ただ笑い、無言でメニュー表を差し出す以上の事が、今のわたしには出来なかった。
「もういいっ……」
あからさまにブスリとした表情でこちらを見やってきた少女は、メニューを奪う様に受け取るとまた黙り込んでしまった。
この日の昼食で口にしたアラビアータは、怒りん坊のパスタと呼ばれる様にわたしの胃の中で暴れた。
それはまるで少女の荒れ模様と被るみたいに、わたしの胃の中で存在感を示したのだ。
◆
今年もまたお盆の時期が訪れる。
窓の外は青一色の晴れ模様で狂った様に蝉が喚き散らしていた。部屋に視線を戻せば空気は相変わらずうだる様な暑さで、それを扇風機が静かにかき混ぜるのだった。
実家に戻ってから数週間が過ぎた。
いつまでもダラダラした生活を続けるわけにもいかず、そろそろ再就職について考えなければならない。
「仕事、探すか……」
あの日以来、わたしにとって実家の生活は酷く居心地の悪いものへとなり果てた。
それもそのはずだ。あれだけ世話焼きをしてくれていた花梨ちゃんが、あからさまにわたしに対して無視をする様になったからだ。
食事中も明後日の方向をわざとらしく向き、宿題のわからないところを聞きに来る事も無く、悪戯っぽくお風呂場に顔を出す事も当然無くなった。
「あんな態度を取れば、それも当然だよな」
軽蔑したとか、そもそも興味を失ってしまったのであれば、それは仕方のない事だ。
他者と深く関係を持つ事に疲れてしまったわたしは、相手の事を必要以上に知りたくないと拒絶反応が働いた。花梨ちゃんにしてみれば相談を、話を聞いてもらいたかったはずなのに。
深いため息をして、わたしは未開封のまま放置していた段ボールをいくつか開ける。吊るしの安物スーツを引っ張り出した。
わたし自身に就職口の当てがあっての事ではない。ひとまず兄貴の世話になって、製造業の面接でも受けてみようかと思いはじめたところである。
そうして安スーツをクリーニングへ出そうと考えたところで、わたしは不意に顔をしかめてしまったのだ。
「あれ、クリーニング屋ってどこにあったかな」
長らく実家を離れていた事もあるし、考えてみれば自分で田舎のクリーニング屋に足を運んだ事がなかった。
どうしよう、花梨ちゃんに聞いたらわかるかな。と、ふすま一枚で仕切られた少女の部屋に向けて声をかけようとし、閉口してしまう。
「花梨ちゃ――」
都合のいい時だけ自分が話しかけるのは、いかにも調子がよすぎる。
少女が自分の部屋で何かをしている事だけはその気配で感じられたけれども、大きな嘆息ひとつ零しながらドカリとベッドに腰を落ち着けた。
結局、実家に帰ってきてもまた腐りはじめている。
せっかくそこから救い出してくれるかも知れなかった少女を拒絶して。同じ事を繰り返してきた結果が今の自分だと思えば、情けない気持ちになった。姪っ子を相手に何をやっているんだと。
天井を仰ぎ、額に浮かんだ汗を腕で拭って、少しは今までと違う事をしはじめなければと思った。
「ちゃんと謝らないとな……」
頭の中で考えていた言葉だが、油断すると口から零れ出ていた。
それだけでなく、完全に油断していた状態でスイっとふすまが開かれてわたしは驚いたのだ。
天井を見上げた状態だったそこに、ズズイと花梨ちゃんの顔が飛び込んできたのである。
「おじさん、さっきからもうっ」
「!!!!」
「言いたいことがあるなら、ハッキリ言えばいいじゃない。謝るって何をだれに対して?」
「か、花梨ちゃん……」
あわて様に振り返ると、そこには得も言われぬ表情をした少女がわたしを凝視している。
怒っている様な拗ねている様な、それでいて笑うのを我慢している様な期待感に満ちた表情と言うべきだろうか。
動転したままのわたしだが、それでも少女がチャンスをくれているのだけは理解できた。
「く、クリーニング屋は、」
「クリーニング屋さんなら駅の向こうにある商店街の中! そんな事が聞きたくて、ウジウジしてたのっ?」
「いやごめん。そうじゃなくて……」
「……何に対してごめんなの?」
曖昧な態度を取っていれば、確かにその場を無難に切り抜ける事はできる。
元妻と喧嘩に発展した際も、すぐに頭を下げてさえいれば、その場は確かに収まったのだ。
けれど、何が原因で彼女が起こったのかその理由について考えた事はない。ちゃんと相手の目を見て向き合わなければ、何も変わりはしないのだ。
「何だろうな。何に対してのごめんなさいと言えばいいか」
「花梨も、ただごめんと言われても、どう返事していいのかわからないよっ」
「うん。そうだよな、ごめん」
ただ救いはある。少女の、花梨ちゃんの不機嫌になった原因だけは理解している。
あの時、彼女の言葉を聞く態度を見せていれば、少なくとも今の状況になりはしなかったのだから。こんな調子で居づらくなって出て行ったとしても、またどこかで同じ事を繰り返すだけだ。
「……ごめんなさい、花梨もごめんなさい。おじさんに甘えたくて、花梨も愚痴を聞いてもらいたくて期待してたの」
「そうだろうなって気がしてたけど、また花梨ちゃんの顔を見る事ができなかった。俺もごめん」
「いいよ。おじさんはそういうの聞きたくないだろうって、そんなのわかってたのにね……」
互いに曖昧な謝罪の言葉を口にして。
そうしてわたしは、少しだけ勇気を振り絞って鼻頭の先にある少女の瞳を見た。
花梨ちゃんの瞳はわたしが漠然と眺めていた時に感じていた以上に、大きく見開かれてわたしをしっかりと見据えていた。
たまらず恐怖が心のどこかに芽生えるが、ここで逃げていてはと思いとどまる。
そしてわたしがぐっと堪えた瞬間を認めたのだろう。少女は不意にその瞳を細めると、微笑みを浮かべながらこちらを覗き込んでくるのだ。
「おじさん、」
「うん……」
「改めて見た花梨の顔、かわいかった?」
「ぶっ――」
突然何を言い出すのかと思えば……
年頃の少女が何を考えているのか、わたしが理解するには難しい。緊張していたところにそんな言葉を投げかけられて、たまらず吹き出してしまいそうになったのだ。
「もう、そこ笑うところじゃないんだから!」
◆
地元で夏を彩る風物詩と言えば盆踊りだろう。
若年人口がめっきり減った今でも、子連れで帰省した人々がこの時ばかりは駅前商店街に集まるのだ。
だから故郷に残った人間たちも張り切って、縁日ややぐらの準備に余念がない。
「すごいね! うちの地元でこんなにひとが一杯いるのめったに見たことがないよっ」
しばらく離れているうちに田舎がセピア調に色あせてしまったと、わたしは思い込んでいた。
けれどもどうだろうか。
せわしない毎日から離れて人生の夏休みを謳歌していると、都会で元妻と夫婦生活を送っていた毎日の方がよほどセピア色に彩られた薄暗い日々だった様に思えてくるから不思議だ。
「ほら、早くおじさん」
急かされて、浴衣姿でおめかしをした花梨ちゃんに手を引っ張られる。
暗がりの路地を曲がった向こう側には、盆踊りのために組まれたやぐらが存在している事だろう。兄貴たち夫婦もおっつけ合流する予定だったから、駅前商店街には地元中の人間が一時的に集中するのだという事は間違いない。
ここからもその場所に向かう人々の連なりが確認できて、少女でなくとも不思議と高揚した気分に包まれる。
「なーに考え事してるの、おじさん」
「いやな。花梨ちゃんも俺なんかとじゃなく、友達と盆踊りに来た方が楽しいだろうって、ちょっと思った」
「なにそれ。別におじさんと来ても楽しいものは楽しいじゃない」
年頃の花梨ちゃんが、わざわざ叔父のわたし同伴でお祭りに出かける理由はない。
わたしの視界には同世代で連れ立った若い子たちが見えたし、いくら若年人口が減ったとは言っても花梨ちゃんにだって幾らかは同級生がいるはずだ。
その事をかいつまんで説明したところ、
「……おじさん、あいつの事を思い出してたんでしょ」
「あいつ?」
「言っとくけど! あいつは花梨の元カレとか、そういうのじゃないんだからね。何度もしつこく遊びに行こうって誘われたから、一度だけカラオケに付き合ったことがあっただけだから!」
先ほどまでわたしの腕に回していた手を振りほどいて、顔を少しだけ朱色にそめた花梨ちゃんが抗議の言葉を並べ立てた。
わたしはただ、大学生のカレシ自慢をしていたというお友達を想像してそう言ったのだけれど、少女は別の事を連想して頬を膨らませたらしいのだ。
「それなのにあいつ、花梨の事を俺のカノジョだって言いふらしたのよ。もう最悪! 別に手も繋いでないし、一回きりのデートで何様なの? カレシにするなら年上って花梨、決めてたのに!!!!」
言い訳するその様子があまりに必死なものだから、たまらずわたしは笑いを我慢しきれなくなった。
「何がおかしいのっ」
「ごめんごめん、つい笑っちゃったけどそうじゃないよ」
こうして花梨ちゃんの表情をしっかりと観察をした今だからこそ、わかる事がある。
喜怒哀楽を詰め込んだ様に、少女の瞳はクルクルと輝きを変化させる。
拗ねた時は色を失い、怒ったときは稲妻が走る様に。そうして期待に満ちた態度の時、少女は上目遣いに唇をすぼめ瞳を煌めかせるのだ。
「嗚呼。おじさんが、おじさんじゃなければよかったのになぁ?」
悪戯っぽいそんな口調だけれど、途端に言葉を失ってしまった。
相手としっかり向き合う事をしなければと、そう決意した矢先のわたしだけれども。
さすがに意味深な姪っ子の熱い視線を受け止めることはできない。
「おじさんなら、いつでも花梨のカレシに合格なんだけどっ!」




