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それでも私は溺れない  作者: 桐谷 歩
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やめちゃおっか

 あれから一週間。くる日もくる日も健吾のことを考えている。新しい靴を買えば健吾に見せたいと思い、突き抜ける青空を思わず写真に収めてしまうのは、健吾に送るためなのだと気づく。家の水やり中に見えた小さな虹でさえ、健吾と共有したいなんて。

 かつてない健吾への気持ちが、胸に収まりきらない。閉め忘れた蛇口から水が溢れ出し、思わず足をばたつかせ、庭先で一人はしゃぐ自分に吐き気すら覚える夏。


 夫が昇進した。


 健吾とはまるで違う職種で、月の半分は出張をしている年上の夫。お祝いに、家族三人でケーキを買って食べた。満月だけが私たちを見ている深夜一時に求められたけれど、頭が痛いといってリビングに戻った。考えるのは健吾のことばかり。 


 翌週、仕事の打ち合わせが長引いたため待ち合わせの時間に少し遅れた健吾は、地下鉄の階段を駆け上がると、一番のりで改札を通った。人は彼の人柄をよく「あまのじゃく」と表現する。自由で、空気を読まない、気分屋のおぼっちゃん。そんなイメージとはほど遠い笑顔で、私のもとへ走り寄ってくるスーツ姿の健吾は、今日も輝いていた。私だけに向けるこの笑顔がたまらない。健吾は、あまのじゃくなんかじゃない。

「麻衣わりい! おじさんたち話長くて」

「走ってこなくてもいいのに。汗出てるよ」

額に流れる汗を指摘すると、そんなことどうでもいいとばかりに触れもせず、

「まずご飯!」

 私の背中をポンッと押した。


 今日もまた行列のできないレストランで、しーんとしたまま食事を摂り、自分らしさの欠片もないと恥ずかしくなりながら店を出た。何でも話せるはずの健吾に、最近は何ひとつ面白いことが話せない。半分以上残してしまったご飯を見て、「麻衣らしくない」と言われるけれど、「胸がいっぱいで食事が喉を通らない」なんて、言えるわけもなく。


 せっかく会えたんだし、と長居用に二軒目はソファが大きなカフェにする。カウンターディナーより、カジュアルが落ち着くのか、その和風なカフェに入ると途端に会話が弾んだ。角のブース席にボスッと腰を降ろした途端、二人してクスクスと笑い始める。「麻衣、意味わかんない」「健吾こそ何で笑ってるの?」なんて、次第に顔を林檎のように赤く光らせ、箸が落ちても可笑しい少女のように、しばらくお腹を抱ていた二人。

 どうしてこんなに楽しいの? 結局のところ、健吾が打ち明けてくれた壮大な夢のつづき以外は、大したことを話していないのだが、彼のくっきりした二重を間近で見た時、私はこの十年、まともにこの人の顔を見たことがなかったのだと気づいた。壮大な野望とくっきり二重、が今日の収穫。


「帰りたくない」


 私がそう言ったのは、雰囲気を変えるつもりも、彼を誘惑しているつもりもなかった。ただただ、本当に帰りたくなかった。もう少し喋っていたかった。自然に口から出ていた。

「俺も」

 同じく自然に口から言葉がこぼれ落ちた健吾。

 

 二人は、十二時を知らせる駅前の時計が、大きくもなく小さくもなく、それは存在感の無い音を奏でていることを、道行く人たちと同じように気にせずやり過ごしたいと考えていた。

 駅直結ビルを右に見ながら、南口まであと三分。最終に間に合う山手線までは、

「あと十五分」

 改札まで歩く速度が少しずつ緩やかになっていく。

「次は、きっと来年かな」

 頻繁に会うには難しい距離に住んでいる二人。今日も子供は近所に住む母親に預けている。

「そうだね」

 時間が止まればいいのにと願っている自分が自分じゃないみたいだと、まるで第三者の言動を気恥ずかしく聞いているような感覚に襲われる。

 このまま健吾と別れれば、また来年何ごともなかったかのように会えるはず。私たちはいつだって、双子なんじゃないかと思うくらい心が通い合っているのだから。

 ということは、今私の考えていることだって、健吾はすべてお見通し!?


 と、彼がと何かを振りきるように声を出した。

 「あーー!」

 そして、それはもう爽やかに言い放った。

 「やめちゃおっか!」

 顔は笑っている。


 突然の「やめちゃおっか」がいったい「何をやめちゃおっか」なのか意味が理解できない私は、きょとんとしてその二重の目を凝視した。健吾はもう一度言った。  


「帰るの、やめちゃおっか」


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