惹かれていく
初夏の湿った風が、髪の毛の隙間をゆるやかに通った時、健吾が口を開いた。
「麻衣の一言で、俺、今のままじゃダメだってわかった」
そういえば二軒目のアイリッシュバーで、彼に「ずいぶん丸くなったよね」(外見のことではなく)と葉っぱをかけたばかりだった。一瞬だけ背筋を伸ばし、そしてガクンと肩を落とすと、健吾は「それはショックだな」と苦笑いをした。
今、私は三軒目のカフェで、口唇についているクリームをどうやって教えてあげれば良いのかが気になっている。彼の「今のままじゃダメ」という発言は本心だろう。こんなところで丸くなっている場合ではないと。
健吾の夢は大きかったし、それをサポートする麻美は十分なキャパシティを持っていた。
かたや健吾が目を輝かせて語る理想を、同じくらいキラキラした目で聞いている女。
そう。私はといえば、愛する夫の愛情をもう五年ものあいだ受け止められていない。その分、仕事、家事、育児を懸命にこなし、義理の両親からは「麻衣ちゃんのエネルギーはどこから出てくるのかしら」としばしばぎょっとするような褒め言葉をもらう。
辛い時こそ下りてくる健吾の「頑張ってる人が好き」の言葉にただひたすら突き動かされている、なんて誰に言えよう。私はそんな女だ。
「麻衣はいつも俺のやる気を鼓舞してくれる」
前にも口にした台詞を、改めて発する健吾。一直線に私を見て言うから、思わず目を逸らして答える。
「意識はしてないけど……」
帰り道のことだ。どうしていいかわからなくなった私は、不意に目の前に落ちていた小石を蹴った。少し変な方向に飛んだその小石を健吾が蹴る。小走りしてまたその小石を私が蹴る。交互に蹴っていたら、いつのまにか誰もいない藪の中に入っていた。
自分たちの呼吸すら聞こえてしまいそうな無音の空間で、間が持たないと焦った私は、必死に消えた小石を探していた。そんな中でも、「俺、余裕」と言わんばかりに健吾は優雅に鞄からペットボトルのお茶を取り出し飲んでいる。
時計は十二時を指していた。この先に何かを求める時間ではないし、そもそも時間があっても求めるべき未来と相手が間違っている。私はいったい何を考えているのだろう。まったく罪深い女。
沈黙は一分だったかもしれないし、十秒だったかもしれない。
「終電の時間きたー。帰るわ」ごく自然に言えたと思う。
「おう」
「来週も東京くるんだよね? またご飯行こうよ」
「おう、もちろん」
無言で坂道を上り、駅の構内に入った。別れ際に、正面に立つ健吾の笑顔が今までにない眩しさを放っていることに気づいたから、私はその場から動けなくなった。
この人は「私」の中身が透けて見えるのだ。わかっていて眩しそうに私を見つめるのだ。彼の意図が手に取るようにわかってしまった今、私は親友でも親戚でもない、「女」のオーラを、精一杯別れの笑顔に含めた。




