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それでも私は溺れない  作者: 桐谷 歩
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雄の香り

 黒いコートの違和感や、満員電車で感じた「チクッ」の理由もすっかり忘れ、気づけば四年が過ぎた。

 

 今年もまた夏休みを利用して、彼と家族ぐるみでBBQをした。健吾が借りた八人乗りのレンタカーでは、運転する彼のうしろを陣取り、ただひたすら前乗めって、内容のない話が止められないでいる自分に気づいた。まだ記憶には残らないだろうお互いの小さな子供達を連れてのBBQ。 

 移動中、後部座席に座る麻美はほとんどの時間を授乳に費やしていた。授乳をしながら無造作に放り出される彼女の長い足に、私はふと目を奪われた。だらんと内側に崩れた両足の、少し乾燥した膝から下が特に長い。麻美もまた、「頑張ってる人が好き」という健吾の言葉に突き動かされている女の一人なのだろう。


 東京に戻ってからしばらくして、仕事帰りの健吾に会うことになった。いつもの「親戚づきあい」だ。しかし、今年はなぜかその誘いを、グループではなく個別メールで送った理由は、自分でも説明がつかない。忙しい麻美の時間を煩わせたくなかった、あるとしたらそんな程度の理由だったと思う。

 とはいえ誘いのメールが個別で成立した瞬間から、不確かながら、物事が意思を持って動き始めていることをお互い感じていたはずだ。


 七月のたまたま雨が降らなかった水曜十八時。一ヶ月ぶりに会う健吾は、ノーネクタイのスーツ姿で、手には私へのお土産を持っていた。


「お土産要らないっていったの自分じゃん」 

 クスッと口元を緩ませ呟くと、少し遅れた私は遠くで手を振る健吾の元へと走った。

 わからない。でも胸が高鳴っていることを認めざるを得なかったし、隣を歩くことがこれほど緊張するものなのだと、なぜ十年も気づかなかったのだろうと自分を密やかに責めた。


 予想外に空いていたお店には並ばずに入り、想像以上に静かなカウンターで、今度は言葉を失いかける。あれ、今まで私たちは何を話していたのだろう?

 中身のないことを話すのが苦にならない相手だから楽なのに。今日はなぜだかどうして、私の発言に対する健吾の反応が気になって仕方ない。つまらない人間に思われたくない、なんて私と健吾らしくない。


 ご飯を食べて、お茶をして、二人は少し散歩をすることにした。隣に並ぶと、想像以上に背が高い。180cmちょうど。

 ふと、肩と肩が触れた。よそ見をしていた二人の肩が無造作にぶつかっただけの小さな事故が起きた時、私は確信した。

 あの日、健吾が黒いコートを着ていた違和感が、「いつも再会は薄着の夏だったのに突然コートを着ていたから」などという外的要因ではなく、凛々しい声、近い距離、外さない目線、醸し出す空気のすべてが「男」を放出していたからだということ。あの日の彼は、親戚でもなく親友でもなく、紛れもなく一人の「男」であることをひたすら主張していたのだということに、四年も経って気がづいたのだ。そして今まさに、その健吾から再び「男」が溢れている。これは取り扱い厳重注意である。


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