死神にも未練がありまして。
屋上は案外風が心地よくて、存外景色が良くて、思いの外温かかった。
柵から身を乗り出して真下を見下ろすも恐怖といった感情は全く浮かんで来ず、俺は高所恐怖症とやらでは無いんだな、と最近覚えた単語をぎこちなく使ってみた。覚えたと言っても先日母が口にしていたのが気になってネットで調べただけなのだが。最初に聞いた時には「コウショキョウフショウ?」と首を傾げたものだが、今では海洋恐怖症、巨大物恐怖症などと無駄な知識ばかり蓄えてしまっている。中でもピーナッツバター恐怖症、といったものもあるらしく、世の中何があるのかわからないもんだな、と月並みな感想を抱いたことを何故か覚えている。
こわい。おそろしい。みたくない。
そういった感情の大本はどうやら死に対する恐怖や、病原体への無意識な恐怖から構成されていると聞く。昔負った精神的なストレスなども関係しているらしい。
だとしたら、死に対する恐怖を一切抱かない俺は——抱けない俺は、ストレスを全く受けずに生きてきたということになるのだろうか。とんだ笑い話である。
平凡な人間というのはただでさえ没個性な上、何の役にも立たずに迷惑だけは人並みにかけるので、とても困ったやつなのだと思う。しかも勉強、運動、美術分野、どれかにおいて少しでも他人より秀でているのなら特技としてそれを語ることができるが、俺のように全方位に中の下、もしくは下の中の能力しか発揮できない人間は本当に消えてしまえばいいとおもう。いや違う、俺は没個性な人間が嫌いなんじゃない。ただただ自分が嫌いなだけなんだ。そして自己嫌悪の理由を自分の平凡さに押し付けているだけなんだ。
気を抜くとこんな風に自己弁論自己否定をつらつらと眺めてしまう俺だが、残念ながら今更多くを語るつもりはない。
自分が嫌い、だから何?
平凡、だから何?
どうせ今から大空に向かって飛ぶんだから、最後の最後でこんなことを語る必要なんて無いだろう。聞きたい人がいるわけでもあるまいし。旅立つ前に色々言いたい人も言いたいこともそれなりにあったが、それらも昨日全て遺書にまとめたので問題ない(書いていると意外と楽しくなってしまって、いつもより少し雄弁になってしまったのは内緒だ)。半紙に墨をつけた筆で書いて三つ折りにする、なんれ古風なことは流石にできなかったので、授業で使うノートの最後のページをちぎり、机の上にあったシャープペンシルで書いた。四つ折りにして最後に外面に「遺書」と書くと、これも少しだけ面白く感じられた。なんだろう、一度飛ぶと決めたからか、物の価値観が少しぶっ飛んできた気がするというか、変なものを面白く感じるようになってしまった。大丈夫か? と自分で自分は心配になりつつも、この状況もまた面白い。末期だ。
ふふ、と微笑みそうになって、とすっ、と不意に後ろから聞こえてきた物音に気付く。何か軽い物が落ちてきたようなその音、両耳の鼓膜が一気に後ろを向くような感覚。
俺はあえて後ろを振り向かずに、全神経をその物音に集中させた。
そして『それ』はこう言った。
「お兄さん、そんなところで何してるんですか」——と。
俺は珍しく肝が座った状態でこう返した。
「今から飛ぶの」
振り返ると、眩しいほどの白が俺の視界に映えていた。
「飛ぶって、まさか本当に飛ぶつもりですか?」
学校の屋上という日常的な風景に不釣り合いなほど眩しく美しいその白色——もとい少年は、飄々と淡々とそう俺に聞いた。学ランを着ているからかろうじて男子とわかったものの、彼の構成要素はとても女性的というか、人形のようだ。華奢な体躯にさらりと艶やかな白髪、あまり日に当たっていないように思われる白い肌に、長い睫毛。学生服を着ていてもその装いはやはりこの場には少し不釣り合いで、彼の放つ白と黒は異様なまでの無機質さを醸し出していた。
病的、と言ってもいいだろう。きっと彼のその細い指に触れても体温は感じられないのだろうな、とまで思ってしまう。
「本当にって、見りゃわかるだろ。そこに遺書も置いてあるんだし」
「破り捨てていいですか?」
俺の言葉は、貼り付けたような笑顔に跳ね返された。何気にデンジャラスだな、コイツ......と少し冷や汗をかいてしまう。だって人の遺言を容赦なく破り捨てようとするなんて、並の人間にできることではないだろう。
いや、何間に受けてるんだ俺、そんなの冗談に決まって——
「遺書にしてはいささかお粗末な材料ですねぇ」
彼はすでに俺の遺書(お粗末らしい)を手にとって開こうとしていた。
まさかコイツ、本気で破り捨てる気じゃ......
「ちょっ、待っ、えっ」
「えーと......『何故俺はこんなにも平凡なのだろう、面白みのない人生を送っているのだろう。他の奴らはもっと楽しそうに毎日過ごしているのに———」
「ストップストップ!?」
読み上げやがった。人が最後と思って書き上げた遺書を、あろうことか(結構大声で)読み上げやがった。綺麗な顔してとんでもねぇ奴だコイツ。なんだコイツ。何コイツ?
「なので俺、永倉......ナガ......エイクラ? あれ、エイクラ? ナガクラ?どっちですかこれ」
「ナガクラだよ!」
「あ、ナガクラでしたか。『永倉ハル』......下の名前はカタカナで読みやすいですね。読者のことを考えていて好感が持てます。47点」
「人の遺書勝手に批評してんじゃねぇ......」
しかも47点って、好感持ってねぇじゃねーか。というか下の名前も普通に漢字あるんだけど。画数多くてカタカナで書いただけなんだけど。やはり最後だからきちんと書いておいたほうがよかっただろうか。と今更後悔しても無意味なことは目の前のコイツが証明してくれているのでもう考える必要はないだろう。
「あ、申し遅れました。僕、死神のノエルって言います」
ぺこり、と白髪を揺らし、彼はにこりと微笑んだ——死神?死神って、あの人の命を奪うという仮面をかぶって鎌を持ったあの?
一度落ち着いて『死神』という単語を脳内で転がしてみるが、どうも現実味がわかない。
多分今この瞬間、俺の頭上には3つほどクエスチョンマークが浮かんでいるのだろう(そういえば『!』を『エクスクラメーションマーク』と知った時、とても衝撃を受けた覚えがある。びっくりマークでいいだろう、と本気でキレそうになった)。
「死神、って......」
口に出してもやはり実感がわかない。ただ空気の塊を口の外へ押し出しているようにしか感じられなくて、俺が今発した言葉は本当に『死神』なのだろうか、と疑ってしまう。確かにその単語を口にしたはずなのに、『し』と『に』と『が』と『み』をただくっつけただけの平仮名にすぎないのではないか、『死神』という単語にすらなっていないのではないか、と自分の行動に自信が持てなくなってしまう。いや、自信なんて生まれてこのかた持ったことはないのだが、それでも自分の声が自分の声でないような気がして、
正直に言うと、気持ち悪かった。
「ええそうです、死神。信じられない話かもしれませんが、僕は現世とあの世を行き来できるタイプの死神でして。こうやってたまに遊びに来てるんですよ......やはり白髪は目立ちますけど」
そう言って自身の白髪を指で持ち上げ、ちらりと一瞥する彼の目は紅かった。赤色でも茜色でも朱色でもなく、紅色。鮮血のようでまた赤い薔薇の花弁ようでもあるその色は、俺がずっと望んできた色で、俺がずっと憎んできた色だった。
白と紅のコントラストがどうにも小学生の運動会のように見える、という感想は喉元で飲みこんで。
「死神ってさ、人を殺せるんだろ?」
俺は淡々と聞いた。最初はこんなことを言うつもりはなかった。もしかすると、喉元で言葉を無理やり胃に押し返したのがいけなかったのかもしれない。ある種の自嘲的な感情を込めたその言葉は、先ほどと違って空虚な空間に静かに響いた。そして一拍遅れてぶろろろろ、と空気を切り裂くヘリコプターの羽。
あそこから飛べば確実なんだろうな、と白い機体が少しだけ羨ましくなった。
いや、まだコイツが俺を殺してくれるかもしれないという希望は消え去っていない。中途半端に生き延びるのは御免なんだ、死神にでも何にでも望んでやるさ。
「いえ?殺せませんけど?」
しかし返ってきたのは予想外の答えだった。何をふざけたことを言っているんですかとでも言いたげなその表情。もっと言うならお前は馬鹿かと言いたそうなその表情には、少しのあどけなさも感じられた。
死神というより、ただの少年のようだ。
髪が白くても、目が紅くても、女みたいな顔でも、多少口が悪くても、きっとコイツは俺より楽に過ごしてきたんだろうなと、ひねくれたことを考えてしまう。直感的にわかるんだ、コイツは頭がいいんだと。うまくやれる奴なんだと。
一体その綺麗な顔で、どれだけの苦労を避けてきたのだろうか。ましてや彼は(自称)死神だ。この世に生きる人間でもない。人から軽蔑される辛さも、積み重なる劣等感も、全くもって知らないんだろう。そしてこれから先知ることもないのだろう。
「死神って言ったって、好き勝手に人を殺したり、生き返らせたりできるわけじゃないんです。ただ作法に則って仕事をするだけ、人間の労働と大して変わらないんですよ」
にこりと微笑む彼に抱いたのは、純粋な怒り。人間のことも大して知らないくせに俺を気遣ったような口調で話されると、とても苛立つ。思わず「何も知らないくせに」と言いそうになってしまった。
しかし飲み込む。
「そうですねぇ、あとは......お兄さんみたいに勝手に寿命を無駄遣いしようとしている人を止めるのが仕事、ですかね。ちょっと手続きが大変になるんで、一応止めるようにしてるんです。まぁ自分の命をどうするかは当人の自由意志らしいんですけど......なんか勿体無いじゃないですか。
生きてるときに死にたいと思ったら死ぬことはできるけど、死んだ後にいくら生きたいと願っても絶対に生き返ることはできないんですよ。どっちの方がいいかなんて明白でしょう?」
正しいことを言っているつもりなのだろうか。道徳的なことを言っているつもりなのだろうか。今までその言葉で何人の人を騙して、苦しめてきたのだろうか。生きてない奴が生を語るな。人じゃないものが人を語るな。
「死神のくせに、人間らしいこと言ってんじゃねぇ」
今度は腹に収まりきらなかった。勿論今回も我慢しようとした。どうせすぐに消えるんだからと、適当に話を流して終わらせようと思っていた。
しかしどうしても耐えられなかった。苦労も苦痛も苦悩も苦難も知らない奴に知ったような口を聞かれたことが、手放しに『生』を肯定するその言葉が、どうにも我慢ならなかったのだ。
「生きてるだけで花丸満点がもらえるなら俺だって苦労しねぇよ。でも違う。少なくとも俺は違った。生きてたって辛いだけだ。邪魔なだけだ。無駄なだけだ。辛いだけだ。苦しいだけだ。何かを成し遂げられるわけでもないくせにただ二酸化炭素を吐き散らして、平凡なくせに明日に希望を抱いたって、結局何も得られないんだ」
言いながら俺は屋上の鉄柵に手をかけ、右足を外に投げ出した。鉄製だからか、手に触れた柵は少しだけ冷たく感じられる。
「生きてるのが褒められるのは、そいつが生きた結果何かを成し遂げたからなんだよ。誰かを救ったからなんだよ。人ってもんは結局結果しか見てくれない生き物で、足掻いたってもがいたって周りの目は何も変わらないんだ」
次は左足。自殺防止用の柵のつもりなのかもしれないが、高校生の平均身長くらいあれば普通に超えられる高さだ。もしや教師どもはここで生徒が飛び降りても「自殺対策はしてあった」なんて抜かすつもりなのだろうか。
結局大人たちは自分のことしか考えていないんだ。あんな奴ら、大嫌いだ。
「お前にわかるか? 積み重ねた努力が水の泡になる気持ちが。お前にわかるか? 溜め込んだ苦悩を『くだらない』なんて一言で済まされる気持ちが。お前にわかるか? どうしようもない劣等感に苛まれる日々の苦しみが。
真っ暗なんだよ。前も後ろも、全部」
堰を切ったように流れ出した言葉は、破茶滅茶な罵詈雑言で、どうしようもない暴言で、救いようもない自己嫌悪で、酷くくだらない自分語りだった。順番なんて関係ない、脈略なんて気にしない。ただ腹の底から込み上げてくる、十数年溜め込んできた感情を口が動くままに発しただけ。自分でもくだらねーこと言ってんな、と思う。
でも、そのくだらなさと同じくらい、俺の本心であることも確かなんだ。
風で飛ばされたのだろうか、あのお粗末な遺書はいつの間にやら消えていた。しかしもうどうでもいい。言いたいことなんてどうせまとまらないし、日本語にすらなれないだろう。
だから最後に俺は叫んだ。沢山の人々への怒りと憎しみと、その何千倍もの自分への憎悪をたっぷり込めて、目の前のコイツに八つ当たりした。
「死神のお前に、人の気持ちなんてわからないだろ!」
その瞬間、彼の表情が少しだけ歪んで、真紅の瞳が見開かれた気がした。揺れる眼光とにたりと上がる広角に、俺は初めて彼に対してほんの少しの恐怖を抱く。何が気に障ったのだろうか。死神でも人の気持ちはわかる、とでも言いたかったのだろうか。理由はわからないが、彼の中の何かを刺激してしまったのは事実だろう。
しかし俺はその一瞬の恐怖を振り払い、ありったけの力で鉄柵を押した。途端、周りの景色がスローモーションのようにゆっくり傾きだす。視界に広がるのは今朝踏みしめた通学路と、ミニチュアサイズの自動車たち。ああ、やっぱり世界はちっぽけなんだなと、最後の最後で痛感した。きっとこの空気の流れを感じなくなった時に、やっと俺は消えられるのだろう。走馬灯なんて走らない。後悔なんてないのだから。
それでもどうせなら空を見ながら朽ちてしまいたいな、と体を回転させようとした時に。
「——そうですね、全くわからないや」
一面に広がるはずの青空にふと、にたりと笑う少年が見えた。それは今までのどの笑顔よりも嬉しそうで、それと同時に冷たくて、どうしようもなく嘘っぽかった。貼り付けたようでやけにすっきりとした表情だな、と思った。最後の最後までわけのわからないやつだった。アイツは俺を殺してくれるわけわけじゃないと言っていたけれど、俺の魂をあの世に運ぶくらいのことはしてくれるのだろうか。あの世は本当に天国と地獄に分かれているのだろうか。分かれているのだとしたら、俺は果たしてどちらに行くのだろうか。死神に暴言を吐いたから、もしかしたら地獄へ連れて行かれるのかもしれない。噂では、親より先に命を絶った子供は地獄で石を積まなければいけないと聞く。面倒くさいな、いつまでそれをやっていればいいのだろうか。でもそれが終わったら今度は俺は何をするのだろう。ずっとぼーっとしていればいいのだろうか。それはそれでつまらなさそうだ。
まぁいい。どちらにせよ、生きるよりは楽なはずだ。
ははっ、と渇いた声が漏れて、
青空が遠ざかった。
最後に目に映ったのが綺麗なもので、
俺は少しだけ嬉しかった。