死神にも情けがありまして。
あなたの余命は残り3ヶ月です、と告げられたとき、私はあまり驚いていなかったと思う。
昔から病弱で病院での生活に慣れていた、というのもあるだろうし、ただ私の感情が死んでいるということでもあるのだろう。
友達なんていらないし、恋人だっていらない。親にも感謝はしているけれどたくさん会話するかと言われればそうでもないし、突然死んだと言われてもそこまで驚かないだろう。
要するに薄情なのだ、私は。
そして暇つぶしに本でも読もうと本棚に手をかけた瞬間、コンコンと病室のドアをノックする音が聞こえた。
「いいですか、入りますよー」
柔らかい、優しげな女性の声。私の生活の中で一番よく聞く声。私が返事をよこすまで決して入ってこないあたり、とても律儀な人なのだろう。
「どうぞ」
そう言うと昼食を持って入ってくる、私の担当の看護師さん。名前は杉野さん......と言っただろうか。3ヶ月前からお世話になっているが、いまだに名前を覚えてられていない。
酷いと思うだろうが、これも私が薄情という証拠である。
「はい、今日の昼食です。しっかり食べてくださいね」
「......ありがとうございます」
どうせ死ぬのに、どうしてご飯を食べなければいけないのだろうか。別に食事が苦痛というわけではないが、資源の無駄ではないかと思ってしまう。
「あと、伝えなくてはいけないことがあるんです」
「何ですか?」
歳下の私にも敬語で話してくれるあたり、この人はとてもいい人なのだとつくづく思う。
きっと私と違って、沢山の人に好かれているんだろうな。
「担当医の方から外出許可が下りたんですけど......何処か行きたいところとか、ありますか?」
外出許可。その単語に少し驚いたが、期待や歓喜という感情は一切生まれなかった。
行きたい場所もないし、したい事もないし、会いたい人もいない。食べたいものもないし、欲しいものもないし、将来の夢も無い。
どうせ未来がないと言うのなら、最初から変な希望は持たない方が身のためだ。
「無いです、大丈夫です」
「でも......」
杉野さんは言いかけて口を噤む。彼女はきっとこう言いたかったのだろう。
『あなたの寿命はもうあと3日しかないのに』と。
「別にどこに行きたいとか無いので。ゆっくり過ごせればそれでいいので。わざわざありがとうございました」
......そんなこと、自分で一番わかってるよ。
「......そ、そうですか。じゃあ、昼食食べ終わったら読んでくださいね、食器を回収しに来ますので」
「わかりました」
そう言うと杉野さんは何かを言いたそうにしながらも病室を出た。
本当にあの人にはたくさん迷惑をかけてしまっているな、と思う。仕事とはいえ、こんな我儘で冷めた子供の相手をするのはとても気分がいいと言えるものでは無いだろう。少なくとも、私だったらお断りだ。
こんな私もあと3日。あと3日したらちゃんと消えるから。どうか最後くらいは好きにさせて。
——今日の昼ごはんも、あまり味がしなかった。
「あ、お姉さん。目、覚めました?」
聞き慣れない声が鼓膜を震わせる。不明瞭な視界に映るのは、ただただ白い空間だった。
病院とは違った気味の悪い静けさに、私は思わず不安感を抱く。
私、こんな場所、知らない。
「あれれ、不安そうな顔してますね、お姉さん」
対して私の目に映る人間らしきものは、にこにこと笑顔を絶やさずにこちらに話しかけてきた。
「あなたは、誰」
私はそれを無視して問う。白い髪、黒いマントと一見人間のような容姿をしているが、それが安全なものという保証は無い。だとしたらまずは相手の正体を知ることが先決だろう。
「嫌だなぁ、そんな怖い顔しないでくださいよ。僕は死神。ノエルと言います」
『ノエル』。確かフランス語でクリスマスという意味だっただろうか。確かに雪のように白い髪を持つ彼にはぴったりの名前だが、それよりも気になる単語が1つ。
「——死神、って?」
何度も本で読んだことはあるが、とてもそれが実在しているとは思えない。天使や悪魔——神様でもそうだが、私は概念的な存在は一切信じない主義なのだ。
仮にそんなものがいたとするのなら、私は一体どんな前世を持って生まれて来たというのだろう。
いくらなんでも待遇が酷すぎるでは無いか。
「そう、死神です」
しかしそれは当たり前のように言う。『それ』というよりは、『彼』と呼んだ方がいいのだろうか。一人称も『僕』だったし。
「あはは、信じられないって顔してますね」
「......そりゃあ、ね」
死神なんて、そう簡単に信じられるものでもないだろう。童話や小説の中で慣れ親しんで来たものだからこそ、現実に現れると目を疑ってしまうのだ。
誰だって、嘘だと思ってインプットしてきた情報を急に本物だなんて言われても、そんなに軽々と受け入れられないだろう。
ましてや、こんな人生を送って来た私だ。
「信じられないよ。死神だって神様だって」
信じられないし、今更信じたくもない。
私の言葉に彼はふーん、と相槌を打つと「信じられないって言うなら、無理に信じてもらわなくても大丈夫なんですけどね」と淡々と言った。
「どっちにしろ僕は同じように仕事するだけなんで」
「......仕事、ね」
妙に機械的な言い方だ。死神と言うから人を殺めたりするのが好きなのかと思っていたが、案外彼はそうでもないらしい。
いや、好きじゃないことをさせられるのは、人間でもそれ以外でも同じ、というだけか。
「じゃあさ、ノエルが私を殺してくれるの?」
次に私は頭に浮かんだ質問をそのまま彼に投げつけた。
実は私にとって彼が本物の死神かどうかなんてことは二の次で、本当に知りたいのは『本当に死ねるのか』ということだけなのだ。
ずっと待ち望んでいた死。待ち続けた死。
それが本当に叶えられるのかどうか、最後にもう一度確かめておきたかったのだ。
「殺す、っていうのはちょっと違いますね」
しかしノエルから返ってきたのは期待はずれの答え。なんだ、あなた私を殺してくれないのか、と少しがっかりしてしまった。
「あなたの魂をあの世に送って、いい感じに書類をまとめて提出する、それだけです。だから別に僕がお姉さんを殺すってわけじゃないんですよ。死ぬのはお姉さん自身なんですから」
「......へぇ、つまんないの」
それを聞いて私はあからさまに失望した。勝手に期待しておいて勝手に失望するなよという意見はわかるが、私にとってはずっと待ち望んでいた死。少しくらいの失望は許して欲しい。
「でもお姉さん、どうして『殺してくれるの?』なんてそんな死にたそうな言い方したんです?」
「それはもちろん」
早く死にたいからだよ。私がそう告げるのを遮って、彼は飄々としかしとても嬉しそうにこう言った。
「死にたくないって、心の底から叫んでるのに」
少しの沈黙。彼は変わらずにこにこと微笑んだまま、その真っ赤な目で私を見つめていた。
「......わた、しは」
「死にたい、とでも言うつもりですか?死ぬのが怖くないとでも言うつもりですか?」
私は、やっとの思いで喉の奥から言葉を絞り出す。
「......そうだよ、私はずっと待ってたの。ずっと死にたかったの。昔からこの体のせいで好きなこともできなくて、仲良くなった友達とも遊べなくて......それならすぐに消えてしまいたいって思ってたの。私の未来は途中で途切れてるの。好きになった物も人も、ずっと好きでいられないの。夢だって持てないの。何も希望がないの。生きてても意味ないの」
最初は少しだけ反論するつもりだった。しかし堰を切って流れ出した本音はそう簡単には止まらない。昔の自分を責め立てるように次々と溢れ出す本音には、私自身が一番驚いた。
「だから私が死にたくないなんて思うわけがない。早く殺してよ、ねぇ早く」
「お姉さん」
ノエルは笑うのをやめて、真剣な表情で言った。初めて見る彼の真剣な顔。吸い込まれそうなその瞳に、思わず息を飲んでしまう。
「......何」
「ここ......この空間はね、来た人によって色が変わるんですよ。黒かったり、灰色だったり——白だったり」
彼は言いながらその色を表現するように、自身の真っ黒なマントを指差し、次に灰色のネクタイを指差し、最後にその雪のような白い髪を指差した。
「お姉さん、この部屋は何色に見える?」
「......白だけど」
何色に見える、なんて彼も彼でおかしな聞き方をするものだ。この部屋が白いことなんて誰にでもわかるだろうに、何故わざわざ私に聞いたのだろうか。
「この色ね、来た人の感情によって変わるんですよ。感情というか——死に対する思い、ですかね。死にたい人なら黒、迷ってる人なら灰色、死にたくない人なら白色になる」
「そ、んなわけ」
「お姉さん、もう一回聞きますよ。この部屋は何色に見えますか」
私は、答えられなかった。
彼はにこにこと微笑んだまま、さぁ答えろと言わんばかりに両手を広げている。
認めたくないよ、『死にたくない』なんて。
「ぶっぶー、時間切れです。正解はさっきお姉さんが言った『白』でした」
彼はそう言って広げていた両手を下げ自身の背中に回すと、今度は私のほうへ一歩近づいた。
「じゃあ、続いて第2問。
お姉さんは、死にたいですか?それとも、生きたいですか?」
ノエルの言葉が私の胸に刺さる。そんなこと今まで誰にも聞かれなかったのに、誰にも気付かれなかったのに、どうして彼はこうも簡単に私の胸を抉るのだろう。
医者や家族は「最後まで生きなさい」と私に事実を押し付けるだけで、私の気持ちなんか考えてくれなかった。彼らは人間はみんな生きたいと思っているものだと、そして私もそう思っているものだと誤解していた。
違う、私の苦悩はそんなに単純なものじゃない。
私は沢山苦しんだ。辛い思いをした。たくさんのことを諦めて、追いかけられなくて、病弱だからというだけの理由で色んなものを取り逃がしていくことがとても嫌だった。
こんなことならいっそ死んで仕舞えば楽なのにと心の底から思っていた、はずだった。
でも、ある時気付いたんだ。
「私は、死にたくなんか、なかった——」
鼻の奥がツンとしみて、数年ぶりの涙が溢れる。
本当は友達ともっと笑いあってみたかった。喧嘩だってしてみたかった。
恋に落ちて、青春もしてみたかった。
夢も追いかけてみたかった。
欲しいものは欲しいと言いたかった。
好きなものは好きだと言いたかった。
人並みな人生を送ってみたかった。
本当は全部、諦めたくなかった。
それなのに私は物分かりのいいようなフリをした。諦めたようなフリをした。
周りの人達を、自分を騙した。
私は死にたいんだ、死んでしまいたいんだと自分で自分に言い聞かせていた。
——そうすれば少しでも死ぬのが楽になるかと、そう思ったから。
「ほらやっぱり、僕の言った通りだったでしょ。お姉さんは死にたいなんて1ミリも思ってないんです。ずっと生きたいと思ってたんですよ。やっと気付きましたか」
やれやれと言わんばかりに肩をすくめるノエル。でも、不思議だ。何故私が死ぬ間際にわざわざこんなことを思い出させたのだろうか。余計に死にたくなるだけではないか。
「私が気付いても、私が死ぬことは変わらないんでしょ?」
必死に振り絞った声は、みっともない涙声だった。この声が裏返る感覚すらも妙に懐かしくて、少し笑ってしまう。
「いやぁ、それがちょっと変わるんですよね。ほら、自殺とか病死とかで寿命より早く死んじゃった人っているじゃないですか。その人達の余った寿命の処理がめちゃくちゃ面倒で......僕、そのまま持ってるんですよね」
「......それで?」
「実はこれ、元の寿命の持ち主以外になら分け与えることができるんですよ」
一瞬、言っている意味がわからなかった。
「......わけわかんないみたいな顔しないでくださいよ。えーっとつまりはですね?僕はあなたの寿命を少しだけ伸ばすことができるんですよ」
「え、それって」
「そう」
ノエルはにやりと悪戯っぽく笑って言った。
「あなた、まだ生きられるんです」
『まだ生きられる』。到底信じられないはずのその言葉に、おさまってきていた涙がまた溢れ出した。
私はまた、あの本の続きを読めるのだろうか。また、あの子と話せるのだろうか。
生きられると決まったわけでもないのに、未来への希望だけがどんどん膨らんでしまう。これで『嘘ですよ』なんて言われたらきっと私は迷わずノエルを恨むだろう。
「一応聞いておくけど......本当に言ってるの?」
「ははっ、疑り深いなぁお姉さんは。本当ですよ、間違いなく。......違法ですけど」
最後の方に物騒な言葉が聞こえた気がするが、どうやらノエルの言ったことは本当らしい。
「じゃあ私はどうしたらいいの?」
「うーん、ちょっと目瞑っててもらえます?」
「こう?」
「そうです、絶対に途中で目を開いちゃ、ダメですからね」
彼に言われて目を瞑った途端、背中に何かがとんっと触れた。そして少し前に傾く体、感じる向かい風。まるでジェットコースターで急降下するようなその感覚に、思わず目を開きそうになる。
しかしノエルに言われた言葉を思い出し、ぎゅっと目を瞑った。
そしてふわふわと鈍っていく聴覚と触覚。
「じゃあね、お姉さん」
——意識を失う直前に、死神とは思えないほどに優しげな彼の声が聞こえた気がした。
ピ、ピッと規則正しい電子音だけが響いている。ここはどこだ、なんて考える必要もない。病院だ。
ゆっくりと開いた瞼。数秒ほど経ってから鮮明になりゆく視界には、いくつもの顔らしきものが映っていた。
「——すぎ、の、さん?」
朦朧とする意識の中最初に頭に浮かんだのは、毎日私の世話をしてくれていた彼女の名前だった。
そして一瞬の沈黙の後、
「お母さん!娘さんが目を覚ましましたよ!」
「よかった......本当によかった......!」
「大丈夫か!?お父さんのこと、わかるか!?」
急に騒がしくなる病室。いや私、本当は死んでたんだけどな。なんて考えると、少し笑みが溢れてしまう。
「お母さん、お父さん、杉野さん。心配かけてごめんね」
心配かけてごめんね、なんて昨日までの私なら絶対に言えなかっただろう。きっと、心配しても私の未来は変わらないから、とかそんな屁理屈を並べていたに違いない。
そうだ、少しずつでいい、変わっていこう。
『死』じゃなくて『明日』を待ち遠しく思えるようになった私ならきっと、変われると思うから。
あ、そういえば明日、読んでた小説の続きが出るんだっけ。