白喰い
雪の降る夜に、一生忘れない美しいものを見た。
黒い夜の中を、雪が月明かりを反射しながらおりてくる様は、空から小さな光が降っているようだった。
帰りの道に落ちては、まだ黒く残っていた路面を点々と白く塗りつぶして、ほた、と静かに黒い髪と背広も白くしていった。雪で白くなった細い路地の先には、同じく白い自動販売機が見えたが、確か去年から壊れていた。
男は寒さを思い出し、ポケットに入れていた手で頬を暖めた。
「……しまった」
血の気が下がった。苦い思いで手の平を見ると、葉の上を虫が這った跡のような、白い斑点ができている。
喰われたのだ。
手から熱が消えて、肌が白に侵食されていく。白喰い。それが雪の異名だった。中まで喰われ尽くされれば、体が崩れ落ちる。
「まいったな。早く湯に浸さないと」
男は溜め息して、しかし微笑んだ。懐かしい思い出が掘り起こされて、雪でいっそう冷たくなった夜気に、ふふと声を零した。
手を喰われる経験は、誰もが小さい頃にするものだ。触れるもの全ても巻き込んで、家電製品は冷やして壊してしまうし、喰われた部分が寒くて暖めても温かみがうすく、母親に助けを求めても逃げられる。そんなぁ、と幼い彼も初めて通った苦い思い出だ。
微笑みながら見上げた闇の中を、雪が光を浴びながら降っていた。
「おっ! と、とと」
あたたかな晴天の下で数ヶ月前の夜を思い出していた男は、人ごみに押されてよろけた。持っていたカメラのシャッターも押してしまって、撮ってすぐ表示されるデジタル画像を見ると、青々と茂る緑の芝生が映っていた。自分の足も映っている。男は苦笑し、人が少ない場所を探したがテレビスタッフの周りしか空いておらず、尻込みしてから腹を据えた。背後にそれらを配する形で陣取り、仁王立ちでカメラを構える。周りから妙な視線を受けつつも気にはせず、展示されている巨大な写真にピントを合わせる。晴れ渡った空に軽快なシャッター音が響き、手元のデジタル画像が黒い夜に変わった。
あの雪が降る夜も、手が喰われたというのに、のんきに雪を眺めながら帰っていたが、あの日は今日と違って人に声をかけられた。透き通った声だった。歌えば天使の歌声とさえ言われるだろう、ビブラートが無くて少し堅い少年の声。しかし見回して見つけたのは少年でなく少女で、しかも少女は薄めに薄めた墨汁で描いた絵のように白かった。雪のような肌というより雪そのものだ。体全部を雪に喰われていて、大丈夫かと聞けば「いいの」と嬉しそうに笑った。
「いいって。お嬢ちゃん、雪と間違えそうに白いぞ。大丈夫かい」
危機感を刺激するつもりで言ったのに、陰影だけが人らしい白い少女は、また嬉しそうに笑って静寂に澄んだ声を響かせた。
「本当? あたし雪になってる?」
少年のような声の少女は楽しげで、男は顔を渋くした。本人に寒いという自覚が無いならまだ平気だが、人が雪になるのは死ぬ事だ。
「お嬢ちゃん、お家はどこだい」
「連れて行くの? 駄目だよ。もうあたし雪だもの。雪は外だよ」
「そんな縁起でもない。雪になる事は死んでしまう事なのだよ」
「うん。知ってるよ。雪のことなら何でも知ってるもん」
背筋に、凍るような感覚がうすらと広がった。
白い。これが人だったのかと疑いたくなるほど色が無い。顔はもちろん手や服まで隙もなく、普通の人なら死に怯え始める白さだ。
「あたし、雪が好き。空からの贈り物みたいでしょ?」
怯える事無く笑う少女は、雪に対して余りに無防備だ。
「そんな恐い贈り物は送り返しなさい。病院に行こう、いいね」
男は白く小さな手を握った。冷たい。そう感じた。雪に喰われて冷たくなった男の手なら、何に触れても暖かいと感じるはずなのに。
少女は、まさか表面だけでなく中まで、雪に喰われているのか。
「まずいな……走れるかい?」
「いやよ。あたし、雪が好きなんだもん」
「お嬢ちゃん」
無邪気に笑う少女は、無邪気にしてはいけない事をしようとしている。無理に手を引くと、少女は空いている方の手で白い木を握り。
「行かない」
子供とは思えない迫力があった。無下に出来ない何かが。しかし。
「……お嬢ちゃんは雪に詳しいのだろう。恐くないのかい」
「うん。雪は生き物を殺しちゃうけど、それは仕方ない事でしょ?それよりね、死んで雪になれるなんて、ステキだと思わない?」
男は言葉に困った。雪は確かに綺麗だと思うが、禁忌し避けるべきものだ。人も獣も家に篭り、外には雪の落ちる音だけが残る。
「綺麗でも、雪になることを選ぶなんて……」
言いながら、男の胸が詰まった。対する少女の目がつり上がる。
「なら、ベッドの上でおもちゃみたいになって死ねっていうの?」
怒る少女を守る服が、風になびく端からはらはらと闇の中へ散っていった。もう雪に変わり始めている。最早、躊躇している場合ではない。男は少女の手を剥ぎ取り、病院へ向かって足を出した。
「いや! 放して! あたしは雪になって死ぬの。先月死ぬはずだったのに頑張ったんだから、もうやりたいようにやらせてよ!」
ぴたりと止まった男から、少女は手を取り返して。
「痛いお注射して、ベッドから出られないまま死ぬなんていや! どうせ死ぬなら、あたしは雪になりたいの」
おじさんなら分かるでしょ? と少女は首を傾げる。
そうか、と男の心は理解した。この子は雪に魅せられているのだ。そして、もう……。男の苦い顔を白い目で見上げる少女は、理解されたと思ったらしい。敵対心を消し、雪の顔で嬉しそうに笑った。
「ねぇ知ってる? 雪は灰の様なものだ。って言われてるの」
白く色変わりした道の上で、白い少女は澄んだ声で歌いだした。教科書にも載る、雪の恐怖をうたった有名な詩だ。
「雪は灰の様なものだ。世から色を奪い、命を奪う」
続く「炎の後に残る灰と同じ、虚しいだけでつまらないもの。天が与えた災厄だ」という一説を、少女は忌々しそうに歌いあげて。
「あたし、この詩がきらい」
だからね。と、白の少女はとたん笑顔になり、肩にかけていたバッグから、まだ雪に喰われていない黒い塊を取り出した。
「良かった、壊れてない。ねぇおじさん、これであたしを撮って」
カメラだった。大事そうに持つ白い手指が、雪として降っている。
「……俺が?」
「うん。お願い。雪が好きな人を、今日ずっと探していたの」
雪を……雪を好きだと言って、皆に希有な目で見られたのはいつだったか。親に雪が綺麗だよと言い、怯えた瞳で口止めされたのはこの少女くらいの頃か。それでも彼にとって雪はやはり美しく綺麗なもので、口にはせずとも好きだった。今日のように、人も獣も外に出てこない雪の道を、のんきに歩いているのは幸福で、このまま雪になりたいと思う少女の気持ちは。
「……わかった。貸してくれ」
黒いカメラを受け取ると、少女がバッグから雪を遮断する手袋を取り出した。それも受け取って、はめると少しきつかった。
周りから怪訝に見られるのも気にせず立ちながら、男は青い空の下で、さっき撮ったばかりの写真を見た。頬が緩むのを抑えられない。あの日に少女から受け取った黒いカメラのデジタル画面には、今も雪が映っている。
『感性を真逆にする斬新な観点を産み落とした才能は、儚くも十二の年しか生きられませんでした。死後、彼女の両親が……』
背後から、テレビレポーターらしき女性の声が聞こえていた。
『……しかし、雪に侵されながらも憂いのない、幸せそうな笑顔を見ると、胸に温かなものが広がっていくのを感じます』
撮ったばかりの景色の中で、人々がそろって顔を上げている。その視線の先に、大きく引き伸ばされたあの少女がいた。
雪の降る中、まるで最高の贈り物を受け取るよう手を天へ向けて、指先も髪も笑う頬も、雪になって崩れ散っているのに嬉しそうな、黒い夜の中の白い人の写真。あの日に男が撮った、少女の最後の姿。
「綺麗で優しい写真ね……。雪って、恐いだけではなかったのね」
今日になってから何十回と聞こえた言葉に、男は薄く笑った。
「みんなが綺麗だと言っているよ。春子ちゃん」
天使のような透き通った笑い声が、人ごみの中から聞こえていた。あの日と同じように周囲を見回してみるが、いるのは見知らぬ少年だけだ。溜め息して再びカメラを構えると、指先が白くなっている。
背広を脱がすあたたかな日差しの空から雪が数枚おりてきて、虫が這った跡のように、手の平を白く、喰われてしまった。