ダサい
「……っ!」
──容赦が無い速度で、俺の足元へボールを蹴った先輩。
そのパスは、強めに丁度ボールの中央を的確に蹴っているためか、ほぼ回転がかかっていなく、非常にトラップが難しいものだった。
下手すれば低弾道シュート並の威力だ。
つまり、鼻からパスをしようとは思っていない、そして受け手の気持ちを考えていないパスだということ。
「──っ」
だが俺はそのようなパスはこれまで幾度も足元にピタリとトラップしてきた経験がある。
一番運動量が多い、ミッドフィルダーという中盤のポジションは、パスを上手く全体に供給し、試合を支配しなければならない役目を担っている。
そんなポジションには一番パスが回ってくるし、状況に応じて来たそのパスを戻し様子を見るか、サイドに散らし糸口を見つけるか、縦に通し攻勢に転じさせるかという、主にこの三つの判断を瞬時にしなければならないのだ。
そして当然、中盤という中途半端な位置で取られたりしたら一気に失点のピンチへと変わってしまうので、どんなパスも必ず取りこぼさず、ピタリと足元に止める技術が要求されるポジションでもある。
長年、そのポジションでチームの主軸としてプレーし、あらゆるボールを受けてきた俺にとって、先輩からの対応が難しいこの速いパスは朝飯前だと思えた。
高速で迫ってくるボールを待ち受ける時、俺の脳内には、どんなトラップが一番最適で、且つ自らが蹴りやすい所に転がせられるようにするには、足の向きや強さをどのようにすれば良いのか、そんな様々なシチュエーションが今、目まぐるしく流れ続けていた。
そんな時、不意にこんな考えが脳裏を過る。
(……いや、ここはトラップじゃ駄目だ)
何故かは知らないが、ただのパス練だと言うのに、しょっぱな取らせる気がない強めなパスを、先輩は寄越してきた。
それは一体どのような意味を持つのか。
そう考えたとき、不思議と嫌がらせでも何でもなく、ただ俺を試したいだけなのではないかと思った。
チラリと先輩の表情を窺えば、その目は真剣、しかし口許を少し吊り上げているように見える。
要は、にやついていたのだ。
だが、不思議とその笑みに嫌味ったらしいものは感じない。
しかも、俺は先輩のその表情がどんなものなのか、しっかりと知っている気がする。
そして、その表情は、何処か俺に通ずるものだと思ってしまう──
(……)
違うことを思いながら、そこで、これまでの経験や自分の技術を信じて、瞬時に迫ってくる無回転のボールをトラップではなく、瞬時にボールの中心で止めるはずのインサイドの足を、そのまま前へ押し出した。
その行動には、確かな自信に裏付けされた確信があった。
──無回転のボールをトラップせずに、そのままダイレクトで相手の足元へ返すという行動に。
これで、『不意を突いた無回転のボールを常人ではトラップだけで精一杯なパスをダイレクトで返した』ことに、先輩は驚き、感心するはずだと。
そして、確かな感触があった。
久々にボールに触ったが、やはりまだ俺はサッカー選手なんだと。
しかし、そんな思考は──
「──!」
──先輩の足元へ行くはずだったダイレクトパスが、明後日の方向へ転がったことにより
「……ぇ?」
確かにあった自信と共に、崩れ去った。
(……え?)
困惑した。
何故だ。と、何回も自問する。
「……」
(インサイドだったよな? ボールのど真ん中、芯にしっかりと当てたはずだよな? 軸足も先輩の方へバッチリと向いていたはずだよな?──ぁ)
そこまでの自問を考えたとき、ハッと脳裏に浮かび上がった答え。
恐らく、今咄嗟に思い浮かべた答えが、パスを見当違いな場所へ蹴ってしまった原因だろう。
「……」
その答えを認めたくない。しかし、認めざるを得ない。
呆然と、明後日の方向へ転がっていたボールの勢いが止まっても尚、見つめている。
「──」
「っと……綾崎。ごめん。ちょっとおふざけが過ぎたな」
そんな俺を気に掛けず、いや、気付いていないだろう先輩は、そう謝ってきた。
「……い、いえ。すみません。取ってきますね」
「ああ。ごめん」
「良いですよ」
謝ってくる先輩を尻目に、歩き出す。
普段なら走って取りに行くはずの、自分の失敗によって相手に届かなかったボール。
だが、今は。今は走ることが出来なかった。
予想以上に衝撃を受けたこと。そして、予想以上に、そんな失敗をすんなりと受け入れてしまっていることが原因だろう。
(……そう、か)
何故かは分からないが、直ぐに納得してしまったのだ。
(これまで逃げてきたからだ)
いや。今納得したのではなく、失敗するのを何処か予感していた、といった方が正しいかもしれない。
そう。これは、今まで逃げてきた分の対価。
これまで出来ていたものが出来なくなった。
情けなかった。
少しでもサッカーを簡単だと侮ってしまった。
よくよく考えてみれば、この結果は誰もが予想できたことだ。
数ヵ月もの間ボールを一秒も触ってない男が、現役の時に出来ていた事が出来る筈がない。
丁度、ペナルティエリアに入る、少し前のスペースに、ボールが転がっていた。
そこまで辿り着いた瞬間、広い空間に転がるボールを見て、様々な感情が湧いてくる。
果たしてそれは何の感情だろうか。
「ははっ……だっせえな」
嗤いが込み上げてくる。
自分の情けなさ。自分の愚かしさ。自分の惨めさ。
それらを今、久し振りに実感する今の自分でさえ、嗤えてくる。
(本当、だせぇよ)
虚無感を味わいながら、嘲笑には程遠い歪んだ笑みを浮かべた後、ゆっくりとボールを持ち上げ、先輩の元へ走った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「──ふう」
昇降口の自分の下駄箱の前に辿り着くと、不意に溜め息が出ていた。
先程、私のクラスを担当している化学の先生から理科準備室の物の個数確認の手伝いを頼まれ、終えてきたところである。
何故かは知らないが、授業で質問をしてくれる私をどうやら気に入ってくれたらしく、他の化学科の先生が丁度出っぱらっていたので、私を手伝いに選んだらしい。
あくまで『らしい』なので、これは私の予想でもあるけど。
それにしても、今日は金曜日という一週間の終わりの曜日のせいなのか疲れたような気がする。
学校での人間関係は良好、というか良好過ぎるまであるけど、上手くやっている。
でも、この頃憂鬱なんだよね。
その憂鬱の原因は分かりきっているけど、解決はどうしても出来ないから厄介。
高校デビューの為に短かった髪を伸ばしてきたが、未だ慣れてないせいか、少し鬱陶しく思えてくる前髪を一度、視界確保の為に掻き分けて、『1―3 14番 瀬川』と表記された下駄箱を開ける。
「あ」
(また……か)
自分の革靴の上に置かれた一枚の見知らぬメモ用紙。
それを手に取り、表にすれば、書かれているのは『瀬川 真美さん。話があるので、校舎裏に来てくれませんか。 川島 康介より』という文。
「……」
少なくとも、高校デビューから十数は見てきた似たような内容だ。
(行きたくない──)
正直に言えば行きたくない気持ちが割合的に七割はある。
しかし、残りの三割は相手の誠意に応えたいという気持ちがどうしても先行する。
「けど。やっぱり、行かなくちゃ」
このメモ用紙の差出人は恐らく隣の二組の男子だろう。
昼休みで大体話題になる恋バナで、ちらほらとその話題に出てくる。友達が言うには、格好良いだそうで、狙っている女子は少なくないとのこと。あの場では相槌を打っているものの、実際興味は湧かなかった。
逆にどう興味を持てと思う。
話したことも、ましてや会ったことも無いのに。
私以外の友達は興味を持っていた様子だったけど、これは私がおかしいのだろうか。
「……いや」
多分、私はおかしくなんてない筈。
──お前のそういう素直すぎるところ、結構良いと思うぜ。けど、ドリブルが取りやすいが難点だから、そこは注意しろよ?
昔、そんな風に言ってくれた人が居たから。
………………
…………
……
「──ごめんなさい。川島くんとは付き合えません」
校舎裏に来て、出会って早々告白された。
確かに、噂通り見た目は結構格好良いけど、それでも私は断る。
「…………そうですか」
「はい」
この時間が、今の高校生活で一番キライ。どちらも本心を告げただけなのに、空気が悪く、そして重苦しくなるから。
目の前の彼の表情を、私は見たくなかった。
だって、とても辛そうにしている筈だから。
だけど、それでも顔を逸らすわけにはいかない。
目の前の彼が誠意を示し、そして普段から隠したがっている筈の本心を伝えてくれたから。そんな彼に、私は本気で向き合わなければならない。だから、顔を逸らすわけにはいかない。
彼の目を一点に見つめる。
また彼も同じことだろう。
「理由を……聞かせてくれませんか?」
苦渋な表情を必死に隠そうと微笑を浮かべている川島くんから、罪悪感に苛まれながらも、私は告げた。
「……好きな人が居るんです」
ここで、「誰とも付き合う気はない」と答えても良かったのだが、彼は本心を告げてくれたのだ。なれば、自分も本心で応えるのが道義だ。
そう告げられた川島くんは、辛そうに、再び眉間に皺を寄せて数秒目を瞑った。
しかし、次に目を開けた時には、何処かスッキリとした表情を浮かべる。
「川島くん?」
「……いえ。今日は来てくれてありがとうございました。好きな人と付き合えると良いですね」
「……はい。ありがとうございます」
そう言って、川島くんは去っていった。
「……」
──憂鬱な気持ちになりながらも、今、校門に続く道を一人で歩いていた。
辺りは少し薄暗く、夕日が差し込んでいて、丁度良い時間帯になっている。
「はぁ」
果たして、今ので一日の何度目の溜め息なのだろう。
今日は特に疲れた。
普通に生活しているだけなのに、どうしてこんなに疲れてるのだろうか。
にしても、中学校でもこう言うことが時々あったのだが、高校に進学すると頻度が顕著になっていると思う。
ここ二週間で十三回も告白されるなんて前代未聞すぎて、告白に対する価値観がおかしくなりそうだ。
「いつか刺されそう……」
特に今回の川島くんみたく、女子に人気のある男子の時は要注意だ。
いや、刺されはしないだろうが、このままのペースで男子を振り続けたら、いじめの対象に成りかねない。
これからの高校生活が不安でしょうがない。
そんなことを思い一人不安に耽っていると、何故かは知らないが、ふと右側へ顔を向けた。
「……今日はサッカー部なんだ」
ここの高校の敷地は資金力があるためか私立校並み、それ以上の広さを誇っており、運動場はなんと二つもある。
私が今通っている校門に近い第一運動場は砂で出来ている一般的なグラウンドとなっている。
その為、白線を引けばトラックにもなるし、サッカーコートにもなるし、テニスコートにもなる。
もう一つの第二運動場も同じように出来ている。
どうやら日によって、各運動部が第一運動場と第二運動場上手くをローテーションして使っているみたいで、今日はサッカー部が使用しているようだ。
(確か、サッカー部は強豪なんだよね)
普段はこの時間には帰路に着いているので、サッカー部の練習をこうして見るのは、実は初めてだったりする。
(ユニフォームは赤が基調なのかな?)
岬陽高校はインターハイベスト8に進んだこともある強豪だという情報しか知らないが、赤を基調とした黒のストライプがかかったユニフォームは単純に格好良いと思える。
こうしてそのユニフォームを風で揺らしている部員の後ろ姿を見ていると
「……懐かしいな」
と、自然と口から溢してしまう。
──今も元気でやっているのだろうか。
突拍子もなく、昔、そして今も憧れている憧憬へと思いを馳せた。
遠くの国で今も周りから期待され、そしてその期待以上の結果を出し続けていつも驚かさせているだろうその人に、久し振りに会いたい気持ちになった。
あの笑顔を。
あの真っ直ぐな瞳を。
あの熱い思いを。
それらを全部、今沈みきっている私の心にぶつけてきてほしいと。
「──ツカサ」
でも、きっとあの人は戻ってこない。
彼のような留まることを知らない才能を存分に生かせる場所は、ここでも、ましてや日本でもなく、スペインやイタリア、イングランド、ドイツぐらいしか思い当たらない。
だから、いつか戻ってくることを願って。
そしてそのいつかの日に、笑顔で迎い入れる日を心待ちにして。
──帰ったら、サッカーしようね