或ル作家ノ亊
自作品の中では比較的重度の流血表現があります。ご注意ください。
恋愛、三角関係、昼ドラ的展開、バットエンドになっております。
――人は他人の中に「理想」を見出す。
――赤い。
血とは、これほどまでに赤いものだったのかと、わたしは思った。
▽▲▽▲
ある夏のことだ。作家として有名になりつつあったわたしは、年若い愛人と共に避暑地にやって来た。
「あれが正臣さんの別荘ですか? 素敵ですね!」
わたしたちは別荘に続く並木道の中を歩く。日差しは木に遮られ、木の香りが鼻をくすぐる。空気すら違うように思われる。
「ああ。気に入ったのなら良かった」
愛くるしく無邪気にはしゃぐ齢十六を数える少女は、名を鈴と言った。わたしは鈴の白い肌に早く痕をつけたい、とばかり考えている。
そんな折に、並木道の向こうから年若い女がやってくる。若く美しいが、どこか陰鬱である。
「こんにちは」
女は律儀に頭を下げる。
「こんにちは」
鈴と共に挨拶を交わし、横を通りすぎた時、なんとも言えぬ甘い香りがした。これは何の香りであったか。わたしは思い出せぬまま、別荘の入り口に立っていたのだ。
「正臣さん……? 考え事ですか?」
わたしは我にかえり、鈴に笑いかけた。
「すまんな。大したことではないのだ」
わたしはそれきり、女のことなど忘れてしまった。
▽▲▽▲
鈴が入浴をすませる合間に寝具に腰掛け、わたしは過ぎ去りし日々を思い返しておった。
旧家の跡取りであったわたしは、幼少の頃より周囲から多大な期待を寄せられていた。その重圧に喘ぎながらもその期待に応えられるよう、勉学に勤しんだのである。その気晴らしとして始めたものが、文筆であった。
自室で椅子に腰かけたまま、その戯れを見せた友人は、
「これは素晴らしい! ぜひ僕の会社で出版させてくれ」
と机に身を乗り出してまで言ってきたことが、印象に残っておる。
「そんなにか。……ではお前に頼んでもいいだろうか。名前は伏せて、な」
「もちろんだとも!」
わたしは気まぐれにそれに応じ、本を出版することと相成った。
「この本は素晴らしい!」
「この本の作者は一体誰なんだ?」
これはなぜか世間の人々に持て囃され、それを書いたわたしを探そうとする人物まで現れる始末。わたしは周囲にそれを悟られまいとして必死にその旨を隠し通した。この頃はそのことが知られれば、跡取りではいられなくなる可能性も否定出来なかったからだ。
「わたしの文は、それほどまでに素晴らしいものであったのか……。ならば思うがままに書こうではないか」
▽▲▽▲
結わえた髪を伝って、水滴が一つ床に落ちて音をたてました。
私は念入りに体を洗っていきます。いつも気を使う作業です。「汚れ」だけはあってはならぬのです。
「ふふふふ」
誰にも聞こえぬよう、小さな声で笑いました。抑えきれないほどの感情が、私の心に溢れます。
「正臣さん、いつもありがとうございます」
男の欲に塗れて汚れきった体を丁寧にお湯で洗い流し、ゆったりと湯船につかることにしました。
「あなたのおかげで、私は幸せなのですもの」
▽▲▽▲
わたしは来る日も来る日も時間を見つけて、文を書き綴った。
ほとぼりの冷めた頃、再び本を出版したものの、一作目ほどは売れることはなかった。わたしは落胆を覚えずにはおられなかった。
多種多様な人々が、わたしの書いた本を絶賛し笑みを浮かべる様は、空虚な心を満たしてくれた。
あの感覚をまた覚えたい、とわたしは筆を執り続けた。しかし大して売れず、幾度となくわたしは絶望の淵に叩きつけられたのだ。
「もう筆など、執らん!!」
愛用していた万年筆を怒りにまかせて床に叩きつけた。
既に筆を執ることすら、わたしにとっては苦痛であったのである。
鬱屈とした心持ちのまま、季節は廻った。
そうしてある時、少々吊り目がちではあったものの、美しく凛とした容姿の女――慶子と顔合わせとなった。両家が貸し切った店の一室で、両家が顔を突き合わせる。その場は朗らかに進んでいった。
「お初にお目にかかります、正臣様。慶子でございます」
「初めまして、慶子嬢。わたしは正臣と申します」
家格の釣り合いが取れる慶子と、婚約を交わすことと相成ったのである。高貴な血を絶やさぬよう、家の都合で宛がわれた女である。
慶子と顔を合わせる度に、わたしを見る慶子の眼差しには変化が見受けられるようになった。
「正臣様、わたくしはあなたをお慕い申しております。今となっては結婚する相手があなたで良かった、と思っておりますのよ」
「そうか……」
わたしは慶子とは裏腹に、度々その気位の高さに辟易とすることがあった。しかしそれ以外は振る舞いも、気品も妻として申し分のない女である。
数年後、父は死に、わたしは当主となって慶子を妻とした。恋、というものを知るまでは、慶子ともそれなりに上手くいっていたように思われる。
しかし当主となり、より重圧を感じるようになっていった。けれどわたしには、感情を吐き出せる場所がなかったのだ。
慶子が見ているのは、自身の理想の中の私であって、私そのものではなかったのであるから。
「女中として雇われることとなった鈴にございます。旦那様、これからどうぞよろしくお願い致します」
そんな時、鈴と出会ったのは、わたしにとっては幸運な事であったに違いない。
花が綻ぶような笑みを浮かべた鈴は、出会った頃から愛くるしく感じたものだ。
「誰にも祝福はされないであろうが、鈴と共に在りたい。鈴、この思いに応えてはもらえないだろうか?」
「ええっ!? 正臣さん、それは本当ですか?」
「ああ、本当だとも」
鈴はわたしとは違い、自由であった。見目麗しく動物や自然を愛する、純粋で美しい感性を持っておった。
わたしが鈴に恋焦がれるようになるのに、さほど時間などいらなかったのである。
「私も正臣さんのことが、好きです。許していただけるものならば、これからも正臣さんを癒していきたいのです」
「鈴っ!」
「正臣さ……んんっ」
強引に鈴の唇を奪い、そうしてことに及んだ。
そう、初めて知った初恋という物は、甘美さと背徳さを兼ね備えておったのだ。
再び満ち足りたわたしは、酒に溺れるように恋に溺れた。
それからというものわたしの文は精彩を取り戻し、作家としての名声を博すこととなった。
▽▲▽▲
「奥様はお怒りになるのでしょうね……」
私は入浴を済ませ、ほぅ、と息をつきました。
正臣さんの奥方様――慶子様は誇り高く嫉妬深いお方です。来る日も来る日も、慶子様は正臣さんのいない所で暴言を投げつけてくるのです。
「鈴……」
待ち疲れて寝てしまった正臣さんは、寝言で私の名を呼びます。私はほの暗い笑みを浮かべました。
――私は正臣さんに選ばれたのです。女としての魅力は慶子様より上なのですよ。
私は嬉しくて嬉しくて仕方がありませんでした。
薄汚れた町娘が生粋のお嬢様から、年若い金持ち男の心を奪えたのですから。
「慶子様、慶子様。悔しいですか?」
私はおそらく正臣さんなどよりずっと、慶子様に執着をしているのでしょう。慶子様のように在りたかったから。
「早く痕が消えないかしら? 気持ち悪いですもの」
私は顔を歪ませて、体を掻きむしりました。お金のためですから、我慢もできるというものです。
▽▲▽▲
「お母様、お父様は?」
わたくしの大事な宝物たちは、寂しそうに見上げてきましたの。
「お父様はね、お仕事でお忙しいのよ」
わたくしはそう言って、子どもたちを抱き締めるしかありませんでした。
正臣とは政略結婚ではございましたが、わたくしたちは愛し合っておりましたわ。愛の証となる子どもたちが生まれた時は、それはそれは幸福でした。
けれどあの女狐がこの家に女中として、やって来てしまったのです。そこから歯車が少しずつ狂っていったのですわ。
あの女は実に様々な手練手管を用いて、正臣に取り入りました。その上正臣を金づるとしか考えておりませんわ。
正臣も正臣です! 幼い我が子たちを放っておいて、あんな女狐と別荘に行くだなんて。
今もわたくしをわたくしたらしめているのは、旧家の令嬢であった、という誇りと、愛する子どもたち、そしてこの家を守るという誓いでした。
「……許しませんわよ」
それらがわたくしの澱んだ感情を抑え込んでおりましたわ。けれど何やら妙な夢を見ることが増し、頭痛がひどくなってきております……。
「……あっ」
わたくしは眩暈がして、体勢を崩してしまいました。
「お母様!? お母様!!」
子どもたちが必死に、わたくしの体を揺らしているのを尻目に、わたくしの意識は、そこで途切れたのでございます。
▽▲▽▲
軋む寝具の上で鈴の肌を味わっていると、どこか懐かしい気分になる。若く張りのある肌は、極上の絹のよう。
「正臣さん、何を考えていらっしゃるのですか?」
鈴は汚れのない瞳で、わたしを見上げる。わたしも鈴のように、瞳を輝かせていた時代があったものだった。
「鈴は若いな」
「あらあら、御冗談を。正臣さんもまだまだ若くていらっしゃいますのに」
ころころと、鈴を転がすような声で笑う鈴を掻き抱く。今日も今日とて愛おしいものだ。
妻である慶子では、こうはいかぬ。あれには愛嬌というものがないゆえ。
「鈴、鈴」
「正臣さん……」
その時であった。
目の前の壁を通り抜け、足音なく滑るようにして項垂れた女が現れたのは。
「……怨めしや」
何やらその顔は、先ほど挨拶を交わした女のように見えた。わたしは咄嗟に、鈴を庇うようにして身を起こす。
「きゃあ!」
鈴は血の気の失せた顔で、わたしに取りすがった。わたしは女を鋭く睨みつける。けれど女は鈴と私の肉体を通り抜けたかのように思われた。
「ぐっ……ぐはぁ」
わたしはおびただしい量の血を吐いた。鼻からも血液が音を立てて垂れ、体全体が軋むような音をたてている。
息が出来ぬ。何故だ!
――赤い。
血とは、これほどまでに赤いものだったのかと、わたしは思った。
喉を掻いた手は、血に塗れて赤々と輝く。血は全く止まる気配がなく、それどころかますます量が増してゆく。白かった寝具も今ではわたしの血で染め上げられていた。
「いやぁ……正臣さん、正臣さん!!」
地に崩れ落ちたわたしの手を握る、唯一無二の愛しき女。その眼を彩る涙もまた、愛らしい。
「鈴……」
わたしは血の海に堕ちてゆく。それと同時に思い出したのだ。
今、私に取り憑いているのであろう陰鬱な女が、出会ったばかりの頃の慶子の形をしていたことに。
慶子の生霊、だったのだろうか。
意識はすでに遠のき、もはや手の施しようもないことはわたしにも分かっていた。
▽▲▽▲
「い、いや、来ないで!! まだ死にたくない」
私は恐怖のあまり歯を鳴らしてしまいました。こんな所で死ぬ訳にはいかないのにっ……!!
けれど金縛りにでもあっているのか、指一本として体を動かすことができません。
どうして!? どうしてなの!? 誰か、誰か助けて……。
『ユル……ユル……ユルサナイ!!』
低くおぞましい声が耳元で聞こえ、私は恐怖に顔を歪ませました。
気が付いた時には時既に遅く、目の前に顔の見えない黒い髪の化け物が立っていました。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
荒い呼吸音がすぐ近くで聞こえます。
目が爛々と輝いた黒い髪の化け物は大きく口を開け、そして――。
▽▲▽▲
「あああああああああああああっ」
わたくしは悲鳴とともに飛び起きましたの。
時刻を見ると、夜になっておりましたわ。
「あれは……夢、でしょうか?」
実に生々しい夢でございました。
正臣の悲鳴も、おびただしい量の血液も、脳裏にこびり付いて離れることはありませんでした。女狐に至っては咀嚼音をたてながら、綺麗に骨まで食べた事まで子細に覚えているのです。
「ううっ……」
吐き気を催しながら、わたくしは寝具から身を起こしました。
▽▲▽▲
「正臣、正臣!!」
あの夢から数日後、わたくしは遺体となって発見された正臣に縋り付きましたわ。
どうして、どうしてこんなことに……。
現場の様子を聞いたわたくしは、あの夢は本当のことだったのではないか、という考えに至ってしまったのです。なぜなら現場は血まみれだったそうですし、一緒にいたはずの女狐は未だに見つかっていないのですから。
「わたくしが……わたくしが殺してしまったんだわ」
「……お母様?」
その日以来、わたくしは狂ってしまいました。
「正臣、正臣……!!」
愛おしそうな表情で正臣の名前を呼びながら、正臣を殺していきます。あちらにも、こちらにも正臣がいます。たくさんの正臣に囲まれて、わたくしは幸せですわ!
「愛しているわ……正臣」
首だけになった正臣も、腕だけになった正臣も、全て、全て愛しております。血はわたくしたちの愛の色なのですわ。
わたくしは包丁を滴る赤い血液を、舐めとりました。
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――こうして殺人鬼、という名前の鬼女が生まれたのである。
多くの人間を殺害し人間として殺された鬼女は、肉体を失った後も鬼女として、人々を恐怖の底へと落としていった、という伝説が今も名をこの地に残っている。