いじわるな神様
平日の朝は誰もが時間に急かされているように見える。
駅前のドラックストアは慌ただしい客であふれていた。レジの前には長い列ができている。大量のお客をさばくにしては明らかに少ない店員たちは、みな必死で働いている。
惣菜パンやお菓子、飲み物類が並べてあるコーナーに大半のお客は集まっている。そこから少し離れたところに前島洋祐は立っていた。
髪の毛は校則どおりに短くし、学生服も着崩さずきちんと着用している。どこから見ても真面目な学生であった。
洋祐はさっと周囲を見渡して、誰も自分に注目していないことを確認する。ためらわずに棚に手を伸ばし、コンドームの箱を四つほど手に取った。その上に大き目の惣菜パンを乗せてコンドームの箱を見えないようにする。
そのまま店内の隅まで移動する。ここは監視カメラや万引き防止用の鏡からも死角になっている場所だった。
もう一度、誰も自分を見ていないことを確認し、手提げかばんの中にコンドームを滑り込ませた。手馴れた動作だった。
そして何食わぬ顔でレジ前の集団に加わり、手に持っていた惣菜パンの会計を済ませた。そして、そのまま店を後にした。もちろん惣菜パン以外の代金は払っていない。
洋祐はにやにやと緩んでしまう頬を引き締めた。まだ気は抜かない。
駅の改札をくぐり、トイレへと向かう。
個室の鍵を閉め、今日の戦利品を鞄から取り出す。自然と笑いがこみ上げてくる。
この瞬間はなんどやっても楽しいものだ、と洋祐は思った。
これをいつものように売る。盗む難易度にもよるが、だいたい半額くらいの値段でさばける。
前島洋祐はそんな風にして小遣いを稼いでいた。
*
盗ってきた商品を買うやつらは大体同じだった。同級生の、いわゆる不良と呼ばれるやつらだ。たまにその先輩達に売ることもあった。
昼休みになるといつもの校舎裏へと向かう。うまい具合に校内からは死角になっている場所だ。不良のたまり場にはうってつけの場所ともいえる。
近づくにつれて数人の話し声が聞こえてきた。すでに集まっているらしい。風に乗ってタバコの匂いも漂ってくる。
あいつらは隠す気があるのだろうか、と洋祐は思った。
いつか匂いでバレることは目に見えている。あの馬鹿たちはそんなことも想像できないのだ。嫌になってくる。
校舎の角を曲がると、三人の生徒がいた。明らかに不真面目なやつらだった。
「おっ、来たか」
三人の真ん中で座っている、がたいのいい生徒が洋祐の方に顔を向けた。両端の生徒もつられてこちらを向く。
声をかけた生徒は大分といって、不良達のリーダー的な立場であった。
タバコをもみ消すと洋祐のほうに近づいてくる。
「どうだ、うまくいったか?」
ヤニ臭い息を撒き散らしながら大分はきいてきた。
ああ、とうなずいて洋祐は鞄からコンドームを取り出した。
「うおっ、さすが! やっぱお前ドロボウの才能あるよ」
適当なことをいって洋祐の背中をバシバシと叩く。大分はやたらと力が強い。
痛い。こいつは自分の体の制御もできないのだ。やはり馬鹿だ。
「ひひっ、こいつ馬鹿の癖に手先だけは器用だからな」
右端に座っていた生徒が言った。出っ歯が特徴的な顔だ。洋祐はこの生徒の名前を覚えていなかったが、大分にいつもくっついて、人の癪に障ることをいうやつ、ということは記憶している。
嫌味の一つでも言ってやろうかと洋祐は思った。が、やめた。出っ歯は挑発したらすぐに乗ってきそうなタイプだったし、もし喧嘩にでもなったら面倒だと思ったからだ。
「一つ五百円な」
大分にいう。無視された出っ歯が、ちっ、と舌打ちをした。
「ほいほい。じゃ、俺は二つな」
ポケットからくしゃくしゃになった千円札を取り出して洋祐に渡す。残った二つを出っ歯ともう一人が買った。
「君がそんなん買ってどうするんだい?」
もう一人が出っ歯をおちょくるようにいった。この男を洋祐は初めて見た。ワックスで固めた長髪と細い眉毛が印象的て、ホストでもやっていそうな風貌である。
「うっせーよ、これから必要になんだよ」
「その顔でこれからがあるの? ないんじゃないかなぁ?」
「あ?」
急に声色を変えた出っ歯が似非ホストを睨み付ける。
「ジョーダンだよ、ジョーダン。ったく君は空気よめないね。だから彼女ができないんだよ、もっと大人になればいいのに」
ふっと鼻で笑う。
「調子に――」
出っ歯が掴みかかろうとした瞬間、大分が二人の間を割るように前に出た。
「洋祐、今度はタバコをたのみたいんだが?」
似非ホストを睨み付けながら地面に唾を吐くと、出っ歯は少し下がってタバコを取り出した。
「タバコは難しいな」
「いいじゃねえか、最近は高えし、買うとき確認してきやがるし、メンドくせえんだよ」
一本つまみ出して火をつける。もどかしい動作だった。
「本当に難しいんだ。どこもレジの真ん前にしかないだろ」
「あ? そんなんテメエでどうにかしろよ」
「だから、本当に難しいと言ってるだろ? ちょっとは想像してみろよ」
出っ歯の眉間がピクリと動いた。
「おい、お前、最近調子に乗ってきてねーか? あ?」
こいつとの会話は極力避けようと思った。
「やめたら? タバコ。臭いし」
似非ホストがへらへらした口調で言った。
「うっせーよ、お前にはカンケぇねえだろ」
「君には言ってないよ。大分君、推薦で大学行くんでしょ? タバコなんて見つかったらヤバくない?」
「大丈夫だって。いまさら一本二本見つかったとこで駄目になったりはしねーよ。ま、なくなっても俺は全然かまわねーけどな」
がはは、と笑いながら新しいのを一本くわえた。
あっ、と似非ホストが何か思い出したような表情になって、大分の咥えたタバコを指差した。
「この前、タバコ吸ってるめっちゃキレーな女の子を見つけたんよ」
「なんだ? またナンパの話か?」
「そうなんのかな? 俺もさ、最初はそのつもりだったんだよ。街からはちょっと離れてたけど、その子もヒマそうにしてたし、で、声かけたんだよ。なにしてんのー? みたいな感じで。そしたら、ヒマだから散歩してんの、って。嫌そうな感じもなかったからさ、あ、これいけるかなーって思ったわけよ」
「ヤったか?」
大分がコンドームの箱をくいっと持ち上げる。
「それがさ、俺もそのつもりだったんだよ。まあ最初は、お茶でもどう? って誘ったのよ。で、そんときさ、ちょっと後ろ向いたんだよね。ちょうど反対側にいい雰囲気の店があったからさ」
こんな感じ、といって似非ホストは後ろを向いた。そのままで続ける。
「それでさ、ほんと後ろ向いてた時間なんて一秒もないくらいの一瞬だったんだけど、そしたらさ……」
似非ホストが振り返った。
「いなかったんだ、その子」
「はあ?」
大分も出っ歯もすっとんきょうな声を出した。
「そりゃあ、テメエの妄想なんじゃねえか?」
「いやいや、そんなことないって。俺、絶対その子としゃべったし」
馬鹿馬鹿しい、と洋祐は思った。
「じゃあ、俺はもう行くから」
そう言って洋祐はその場を離れた。
後ろから、タバコ忘れんなよ、と出っ歯の声が聞こえた。
*
二年ほど前のことだ。
前島洋祐は高校受験に失敗した。
第一志望だった高校の偏差値は確かに高かった。洋祐の成績では難しいだろうと担任からいわれていた。洋祐自身も受かるとは思っていなかった。しかし第二志望は大丈夫だろうと思っていた。過去の情報と比較しても、洋祐の成績は合格ラインを超えていた。
結果、どちらも落ちた。
何とか滑り止めには合格したが、そこは想定していたよりも遥かに下のランクの高校だった。
やる気のない日々が続いた。気が付いたら入学して一年が経っていた。
ある日、下校途中に文房具屋に立ち寄った。商店街の中にある、個人でやっているような小さい店だ。
どうしてそんな所へ行ったのか、もう理由は覚えていない。おそらくたいした意味などなかっただろう。もしかしたら、ただの気まぐれだっただけかもしれない。
特に必要なものは無かった。日常で使う文房具はまだどれも十分に使えた。
ざっと店内を見渡して、洋祐は消しゴムを手に取った。消しゴムの代えくらいはあってもいいかと思ったからだ。
小さいな、と手に持った消しゴムを見て洋祐は思った。その消しゴムはどこにでもありそうなデザインだった。大きさもこれくらいが普通だろう。
その時、ふと一つの考えが浮かんだ。こんなに小さかったら、俺が握っただけで見えなくなるんじゃないか。
ためしに消しゴムを握りこんでみた。すべてが手の中に納まった。指の隙間から見えることもない。
突然、体の内側から殴られたみたいな衝撃があった。
握りこんだ手に力が入った。ごくり、とつばを飲み込む。
賑やかな商店街の声が聞こえてきて、自分が店の外に立っていることに気が付いた。消しゴムは洋祐の手の中にあった。
急いで商店街のアーケードを出て、いつもの帰り道に沿って家に着いた。誰にも呼び止められなかった。
手のひらが痛い。いつの間にか思い切り握りこんでいたようだ。力を解くと指が開いた。そこに消しゴムがあった。
これといった特徴もなく、どこにでもありそうで、何の面白みもない消しゴムだった。けれど、その時の洋祐にはとてつもなく大きな可能性を秘めたものに見えた。
それから、万引きは洋祐の日常の一部になった。
最初のうちは小さいものばかりだった。片手に収まるもので、文房具やお菓子しか盗らなかった。
盗んだ商品はつまらない物ばかりだったが、それでも、無意味だと思っていた毎日に感性が戻っていく感覚が確かにあった。
しかし何回もやっているうちに、だんだん慣れを感じ始めていた。もっと高価だったり盗るのが難しいものに挑戦したくなってきた。
個人経営の商店や安っぽいスーパーなどでは満たせそうにない。もっとちゃんとした店舗を狙わないとだめだと思った。そして、そういう所はきちんとした防犯対策をしているだろう。
洋祐は計画書を作成するようになった。
*
六時間目の授業が終わり、少し経ってから担任がやってきた。ホームルームを始めるが、教室は騒がしいままだった。ちゃんと連絡事項を聞いている生徒は数人しかい。
洋祐もまったく聞いていなかった。教師の声を聞き流しながら、カバンに放り込んだままになっていた今日の売上を取り出す。普段使っている財布から千円札を取り出して、五百円玉二枚と交換する。
洋祐には財布が二つあった。一つは普段用、もう一つは万引きで稼いだお金の保管用である。
二枚の千円札を万引き用の財布に入れる。そこそこの厚みになっていた。膨らんでいる財布を見るとなんともいい難い満足感を洋祐は感じた。
担任が教室から出て行った。どうやらホームルームは終わったようだ。
今日は隣町へ行く予定である。次に盗んでやろうと狙っている店舗の下見だ。防犯カメラや鏡の位置、店員の雰囲気や商品の配置など確認しなければいけない項目はいくつもある。
これからのことを考えると、とても楽しい気分になった。
抑えきれない好奇心に引っ張られるようにして、洋祐は教室を後にした。
*
想像していた以上に難しそうだ、と思った。先ほど下見してきた店舗のことだ。
どうやって盗むか、考えるをまとめるためにも、洋祐は歩いて帰ることにした。
頭上には高速道が伸びている。沿って歩けばオフィス街、繁華街の順で自分の街にたどり着く。だいたい三十分くらいの距離だろう。
初めて通る道だった。この距離だったらいつもは電車を使っている。
人気がなく、同じような風景がずっと続いている。高速道路を走る車の音がよく響いた。
もしかしたら道を間違えたかもしれない、と不安になってきた頃、歩道の横に色あせた鳥居を見つけた。小さな神社のようだ。
少し休憩していくか、と洋祐は思った。こんなに歩いたのは久しぶりかもしれない。
神社は白っぽい壁で囲まれていた。高さは洋祐の身長よりも少し高いくらいだ。
鳥居をくぐって十歩ほどの距離に賽銭箱が置かれていて、後ろにある本堂との間に一段高くなっている所があった。腰を下ろすにはちょうど良い高さだ。
「ん?」
微かにタバコの香りがした。ここに誰かいたのだろうか。地面を見渡してみるが、吸殻は落ちていない。
ポイ捨てをするような人物ではなさそうだ。昼間の大分達のような、どうしようもないやつ等ではない。けれど、そんなどうしようもないやつらのおかげで小遣いが稼げている点は、あいつらの存在がありがたいように思う。
万引き用の財布を取り出して、厚みを確認する。にやけてしまいそうになる頬を、洋祐は手のひらで押さえた。
しっかり覚えているうちに見取り図でも描いておこう。そう思った洋祐は鞄からノートを取り出した。万引きの計画のためのノートであった。盗みに入ろうとしている店舗の情報をまとめている。
店内を思い出そうとすると、視界の端にひらひらしたものが映った。
千円札だった。賽銭箱の端に引っかかっている。はみ出した部分が風に揺れていた。
ラッキー、と儲けた気分で、洋祐は千円札を手に取った。普段の財布にしまおうとしたが、考え直して万引き用のを取り出した。店の商品と神社の賽銭、どちらも同じようなものだと洋祐は思った。
生ぬるい風が吹いてきた。壁際の雑草がものぐさそうに揺れる。
盗んだ千円札をしまおうとした手が止まった。神社の入り口に人の気配を感じたからだ。視線だけを気配のする方へ向ける。
誰もいなかった。神社を出て左右の道路を確認するが、人影はない。
気のせいか、そう思って洋祐は座りなおした。
見られたとしても、まあどうでもいい。この場所にいることをから自分を特定することはできないだろう。
洋祐はノートに意識を戻した。
棚の配置やそれぞれの商品の位置、レジや監視カメラの場所を思い起こしながら俯瞰図を描き込んでいく。
ざっくりと全体図を描き終えて洋祐はノートを閉じる。
後は帰ってからやるか。そう思って後片付けをし始めると不意に大きなあくびが出た。
今日はいい天気であった。少し傾いてはいるが、まだ太陽は高いところにある。洋祐が座っている場所は本堂の陰になっていて、眠気を誘うにはちょうどよい位置だった。
まぶたが重くなってきて、洋祐は目を閉じた。眠る気はなかった。少ししたら目を開けるつもりだった。
音がした。神社の石畳を歩く音だ。誰かが近づいてくる。
いや、ただの気のせいかもしれない。意識があやふやになっていて、それが想像なのか現実なのかよくわからなかった。
足音はまだ聞こえている。
もやもやした煙が洋祐の意識を包み込み、底の見えない暗闇へと沈んでいった。
*
まぶしい、そう思って洋祐は目の前を腕で覆った。
どうやら眠っていたようだ。ここはどこだったか、ぼんやりした頭で思い出してみる。自宅だっただろうか? いや違う。帰り道に見つけた神社だ。
洋祐は慌てて上半身を起こした。日がずいぶんと傾いている。夕日が洋祐の体に直接あたっていた。
「あー、くそっ」
出しっぱなしになっていたノートをカバンに放り込む。不用意に寝てしまったことや時間を無駄にした気分が混ざり合って、不快感が胸の中でもやもやと漂っていた。
汗ばんだ体が気持ち悪かったが、歩いていれば乾くだろうと洋祐は思った。少し早足で鳥居をくぐった。
この辺りはやはり人気がなかった。もう夕方だというのに学生もサラリーマンも主婦の姿も見えない。まだ誰ともすれ違っていない。
不法投棄が目立つ高架下の空間に洋祐の靴音が反響している。どこかに違和感を感じた。何がその違和感を作っているのかはわからない。
すっきりしない気持ちのまま歩いていくと、先のほうにオフィス街が見えてきた。道は間違っていなかったようだ。ほっとして歩調を少し緩めることにした。
つま先で何かを蹴飛ばした感覚があった。空き缶だった。残っていた液体を撒き散らしながら道路を転がっていく。鳴り響いた甲高い音は、高架下の空間に反響して予想外に大きな音になった。
転がっている空き缶が止まるまで、その音はしっかりと聞こえていた。
おかしい、と洋祐は立ち止まった。
いくらなんでも、静か過ぎる。
さっきの神社を出てから車の音を一度も聞いていない。すぐ上に高速道路があるのにも関わらずだ。それどころか、どこからも車の音が聞こえてこない。もう夕方だ。普通はもっといろんな音が聞こえているのではないだろうか。
オフィス街へと向かう足取りが速くなる。
敷き詰められたビルが広い車道を挟んで向かい合っている。路上駐車の車は何台も見かけるが、どの車にも人の姿はない。見上げると明かりのついた窓がぽつぽつとあった。しばらくの間眺めてみても動く影は一つも見えない。歩いている人も見かけない。
早足が駆け足に変わった。聞こえてくるのは自分の足音だけだった。
周りから背の高いビルが見えなくなった。それと入れ替わるようにさまざまな商店が現れる。いつもならばこの辺りは人でごった返しているはずだった。しかし、今は誰もいない。
「……なんだよ、これ」
洋祐の足が地面を蹴った。
目に付く店すべてを見て回った。普段の洋祐なら絶対に入らない高級そうな外観のレストランや、かわいらしい飲食店、参考書がメインの本屋、さらには学習塾まで、人を探して走り回った。
繁華街のあらかたを探し終えたとき、太陽はずいぶんと傾いたところにあった。頭上の空は深い紺色へと変わっている。等間隔に並んでいる街灯には、いつの間にか明かりが灯っていた。
結局、誰一人見つけることはできなかった。
すべての人間が消えた?
そんなありえない妄想が浮かんだ。
夢じゃないのか、とも思った。しかし、噴出してくる汗や大きく波打っている鼓動、じんじんとしびれている脚が夢だとは、とても思えなかった。
洋祐は今朝のドラックストアの前で立ち止まった。煌々とした店内の明かりが薄暗くなってきた繁華街の一角を照らしている。朝とはまったく違う印象だった。
大きな口をあけて獲物を待っている怪物のようだ。
慌てるな、落ち着くんだ。そう自分自身にいい聞かせた。
万引きする瞬間を想像する。興奮を抑えて平常心を装うあの感じだ。
「よしっ」
落ち着きが戻ってきた気がする。
目の前にあるのはただのドラッグストアだ。しかも誰もいない。盗み放題ではないか。ちょうどいい、走り回ったせいで喉が渇いていた。
洋祐は店内へ足を踏み入れた。飲み物のコーナーでペットボトルの水を掴み、奥の隅っこへ向かう。誰もいないとはいえ、監視カメラの目の前で盗むのは気が引けた。
盗んだ水を飲みながら、ぶらぶらと誰もいない繁華街を散策する。日は完全に沈んでしまって、辺りは街灯と商店の光で照らされている。
微かに変な匂いが漂ってきた。よくかぐ匂いだ。記憶を探るとすぐに答えは出てきた。タバコだ。どこかでタバコを吸っている人がいるのだ。
自分以外の誰かがいる。浮き立つ気持ちを抑えながら、匂いの人物を探し始めた。
ぞんざいなコンクリートの壁に挟まれた通路を抜けた先に、その人物はいた。いくつもの車道が入り混じった大きな交差点を背に、ガードレールに座ってタバコをふかしている。
野球帽をかぶっていた。長い黒髪に信号の色が反射している。どうやら女性のようだ。
「あのう……」
声をかけると、その女性は洋祐のほうを向いた。野球帽を深くかぶっていて瞳は見えなかったが、高い鼻梁とタバコを咥えた形の良い唇で、きれいな人なんだろうと洋祐は思った。
洋祐に顔を向けたまま、その女性は何もいわずに煙を吹いた。
「あの……」
もう一度声をかける。
「泥棒はダメよ、泥棒は」
「はい?」
そういうとタバコを唇へともっていく。
「あの、どういうことですか?」
洋祐は尋ねるが、野球帽の女は黙ったままだ。
泥棒? 何をいっているんだ、こいつは。
もしかしたらアブナイやつなのかもしれない。自然な感じを装って半歩ほど後ろに下がる。その間も女はこちらを向いたままだ。
「あ、もしかしてこれのことですか?」
ペットボトルを持っている腕を少し上げる。確かにこれは盗ってきたものだ。しかしその現場を目撃された覚えはない。
「これはさっき買ったやつですけど、ちゃんとお金は払いましたよ? 誰もいませんでしたが」
嘘をついた。本当のことをいう必要もない。
それでも女は黙ったままだ。
よく見るとこの女の服装も変わっている。くたびれたシャツにボロいジーパン、野球帽も安っぽい。靴だけはデザインがよさそうなものだったが、かなり時代がかった感じだ。そのくせに長い黒髪だけはよく手入れがされているように見えた。
その女のタバコを持つ手が動き、後ろの大きな交差点を指差した。
洋祐は指先を見た。誰もいないことを除けば、どこにでもありそうな広い交差点だ。特徴を挙げるならば歩道橋が三叉路になっているくらいだろうか。広い車道に被さるようにして建っている。オレンジの街灯に照らされた歩道橋は、無人の交差点も相まって、かなり不気味だった。
「なにかあるんですか?」
交差点を見ながら洋祐はたずねた。反応は期待していなかった。そして期待通り、何も反応は返ってこなかった。
「えっ?」
洋祐が視線を戻すと、女の姿はなかった。紫煙だけが宙に漂っていた。
消えた? そんな馬鹿な。確かにそこにいたはずだ。
しかし周囲にあの女の姿はない。隠れられそうな物影もない。音もしなかった。
街中の人間が、こんな風に音もなく消えてしまったのだろうか?
その場から動けなくなった。自分も消えてしまうかもしれないという想像が、指の先からじわじわと染み込んでくる。
洋祐の両脚が小刻みに震えていた。
そりゃそうだ、こんな状況、ビビらないほうがおかしい。
向こう側にある信号が青に変わった。発進する車なんてない。こんな状況でも律儀に仕事をこなしている事が、洋祐には可笑しく思えた。
律儀な信号の少し横に歩道橋の支柱が建っている。その陰で何かが動いた。
人かもしれない。そう思うと両脚の震えが止まった。
その動く影に引き寄せられてガードレールを乗り越える。人かどうか、早く確かめたかった。
勢いよく車道へと踏み出した脚が、ぴたりと止まった。洋祐の目を見開く。視線の先は歩道橋の支柱だ。
街灯に照らされて黄土色になった支柱の陰から、黒く細長いものがのっそりと現れた。何かをぶら下げていて、それを引きずりながら直進している。車道へ出て行くにつれて全身があらわになっていった。
一見すると、それはマネキンが動いているように見えた。髪の毛の無い小さい頭に長い首、形の良い胴体にスラっと伸びた両脚がついている。異様なのは片腕が地面につくほど長いということだ。
ずる、ずる、とその長い腕を重そうに引きずって歩いている。
つかの間、息をすることを忘れていた。
「……はっ」
呼吸を思い出した瞬間、洋祐の頭は、逃げろ、隠れろ、と命令を繰り返し始めた。しかし、体を動かすことができなかった。
そいつはまだ洋祐には気づいていないようだった。真っ黒いからだを左右に揺らしながら車道を横切ろうとしている。
石のように固まった脚を無理やり引き剥がして後ろへと運ぶ。正面から視線は外さない。後退しようとした脚が何かに引っかかった。
ガードレールだった。バランスを崩して倒れそうになる体を、両腕でなんとか支える。ガードレールが支えた両腕に食い込んだ。
「あっ」
気づいたときにはもう手遅れだった。ペットボトルが宙をまっている。衝撃で手を離れたのだ。ゆっくりと回転しながらアスファルトの地面へと距離を縮めていく。
広々とした交差点を包んだ静寂の中、ペットボトルは容赦なく地面とぶつかった。
黒いマネキンがぴたりと停止した。
倒れかけた上体のままで洋祐は固まっていた。その時、マネキンの頭に一つ、赤い眼が付いていることに気がついた。
マネキンの頭は動かなかった。眼だけがものすごい勢いで頭部を動き回り、洋祐をとらえた瞬間、停止した。
薄い粘膜で覆われた赤い眼に、倒れこんだ洋祐の姿が映りこんでいた。
*
気づいたときには駆け出していた。あいつに捕まってはいけない。何か恐ろしいことになると、本能が訴えていた。
振り返ると、追いかけてくる黒いマネキンの姿が見える。
脚だけが異様に速く動いていた。それに引っ張られるように上半身がのけ反って、ぐねぐねと不規則に振動している。どんな状態であっても赤い眼は洋祐の姿を捉えて放そうとはしない。
直線だけでは追いつかれる。そう感じた洋祐はできるだけ細く折れ曲がった路地を選んで走った。繁華街の裏路地をつまずきながら疾走する。
やつには障害物など関係ないようだ。ポリバケツや室外機を蹴散らしながら突進してくる。
洋祐が急に方向転換すると、動きについてこれなかったマネキンの上半身が振り回されて、壁にぶつかった。ぐちゃりと音がして、ヘドロを投げつけたような粘っこい液体がコンクリートの壁にへばりついている。スピードが衰えた様子はない。
洋祐が路地から飛び出した。バランスを崩しつつも地面に手をついて、何とか転ばないように姿勢を保つ。
短い時間差で黒い化け物が路地から現れた。突撃してくるそいつの勢いで、路地に並んでいたゴミ袋やポリバケツが繁華街のアーケードへ吹き飛ばされた。
洋祐の体力はもう限界に近かった。脚がどんどん重くなっていく。いつもなら気にしたこともない手提げカバンすら、今は鉛のように重く感じた。
数メートル先に地下ショッピングモールの入り口が見えた。
ガラス張りの押し戸に体当たりするように突っ込んだ。地下へと続く階段を転がるように駆け下りる。
次の瞬間、大砲でも撃ち込まれたような爆音と衝撃が、洋祐の背中に伸しかかった。首をすくめながら反射的に後ろを確認する。
空中に広がる砕け散ったガラスの中で、ひしゃげた扉ともつれ合った黒いマネキンが浮いていた。塊となったそれが階段に激突し、金属が擦れる音とぶよぶよした塊がつぶれる音がモール内に轟いた。数回弾んだ後、その物体は冷たい床の上で停止した。
離れた所から洋祐は観察していた。しばらく経っても、そいつが動く気配はなかった。
死んだ?
洋祐は思った。そもそも生き物なのか、という疑問もわいてくる。
こいつはいったい何だ?
額の汗をぬぐいながら、洋祐は慎重に近づいていった。飛び散ったガラスを踏む音がやけに大きく聞こえる。
「うっ」
ある程度近づくと、どぶ川みたいな臭いが漂ってきた。思わず鼻を腕で覆う。
倒れた黒いマネキンの周囲に、黒い絵の具を溶かしたような水が広がっている。臭いの原因はこれのようだ。
マネキンの体はお腹の部分から半分に折れ曲がっていた。異様なほど長い腕はぐしゃぐしゃになった扉に絡まっている。足の裏とくっついた黒い頭部に、赤い眼はついていなかった。
落ちていたガラスをマネキンに投げてみる。当たったガラスは何事もなく跳ね返り、床に落ちた。
本当に死んだのか?
もう一度、恐る恐る投げてみる。同じように跳ね返って床に落ちた。マネキンはぴくりとも動かない。
「……はー」
わずかながら安心感が胸に広がった。同時にふつふつと憤りも沸いてきた。
どうして俺がこんな目にあわないといけないのだろう? 俺が何かしたか?
矛先のわからない怒りが頭の中をぐるぐると回り始めた。いきなり追いかけてきたマネキンにも腹が立ってきた。
「くそっ」
目の前に倒れている黒いマネキンの腹をめがけ、思い切り蹴りを入れる。
突然、黒い頭部の裏側から赤い眼がぎょろりと回りこんだ。薄い粘膜のようなもので覆われた眼球に黒目みたいな部分があった。それが、まばたいた。
ひしゃげた扉が猛烈に振動した。
「ひっ」
扉それ自身が動いているのではない。からまっている長い腕が激しく動いているのだ。そして腕の矛先は間違いなく洋祐であった。
腕が扉にからまってなかったら、つかまっていた。
一瞬、呼吸が止まった。全身の血液が凍りついたような気分だった。
黒い化け物の上半身がしだいに起き上がっていく。
洋祐は全速力で逃げ出した。
*
どれくらい走っただろうか。時間の感覚はとっくになくなっていた。体力も限界で、ほとんど脚を引きずるようにして走っていた。
化け物との距離はだいぶ離れたようだ。振り返ってみても姿は見えない。しかしヤツが追いかけてきていることは間違いないようで、静かな街から絶え間なく足音が響いてきている。
洋祐は繁華街とオフィス街の中間あたりにいた。この周辺で印象的なのは、オフィスと娯楽施設を兼ね備えた高層ビルであった。夜空へと突き出たビルは、無人であっても明々と輝いている。
その光に引き寄せられるように、洋祐は高層ビルへと入っていった。
入り口の自動ドアに肩をぶつけて崩れたバランスを、なんとか持ち直す。それだけのことに全身で踏ん張らなければならなかった。
ふらふらになりながらエントランスを直進し、突き当たりのエレベーター乗り場まで行くと、倒れこむように壁へともたれかかった。手の届く範囲にある昇りボタンを押す。
肺が張り裂けそうなほど痛かった。こんなに走ったのは生まれて初めてかもしれない。
無音のエントランスに洋祐の呼吸音が一定のリズムで反響していた。
もう走りたくない。これ以上走らされるんだったら、俺も消してくれ。
誰に祈るわけでもなかったが、強くそう思った。しかし洋祐の体が消える気配はない。
繰り返される呼吸のリズムに、小さな音が混じり始めていた。だんだんと大きくなってくる。
あの化け物だ。
「くそったれ!」
すぐ横のエレベーターが到着するまで二十階以上ある。他の階数を見ても、どれも同じだ。
「なんで一階にねえんだよ!」
昇りのボタンを力任せに叩くが、それでスピードが変わるわけもない。
あの黒い塊とアスファルトがぶつかる音に加え、腕を引きずる音まで聞こえ始めた。もうすぐそこまで来ているのだ。
ガラス張りの出入り口の向こうに黒いマネキンの姿が立ち現れた。人が歩くような速さで移動しながら、頭部では赤い眼が動き回っている。
俺を探してるんだ。
自分の息づかいがうるさかった。あいつに感づかれるのではないかと思った。
赤い眼が洋祐を捉えた。黒いマネキンの動きが止まった。薄いガラスを隔て、洋祐と化け物は向かいあった。
ゆっくりとヤツが近づいてくる。地下のショッピングモールのように勢いよく突っ込んだりはしない。
コツ、と小さな音がした。マネキンの頭部とガラスがぶつかる音だ。そして横に移動してまた、コツ、と頭部をガラスに引っ付ける。
何をやっているんだ、と洋祐は思った。すぐにわかった。入り口を探しているのだ。
このビルは自動ドアだ。センサーがマネキンの体を感知した。
エレベーターはあとどれくらいだ? 早く来い、早く!
化け物を招き入れるように自動ドアが開いた。薄いガラスで仕切られた境界線を、異様に長い腕を引きずりながら、黒いマネキンは通り過ぎる。
洋祐のすぐ隣でエレベーターの扉が開いた。這うようにして乗り込み、最上階を選んでから閉じるボタンを連打した。
エントランスへと侵入したマネキンは、先ほどまでのゆっくりとした動きをがらりと変えて、猛烈な勢いで洋祐に向かって突撃し始めた。
上半身を振り乱しながら近づいてくる化け物に比べ、エレベーターの扉は驚くほど遅い。どんどん大きくなるマネキンの体が扉の隙間から見えている。
「うわああああ!」
突貫するような勢いでマネキンが衝突し、エレベーターの室内が大きく揺さぶられる。閉じていく扉の間から、赤い眼が洋祐を見つめていた。そして、見えなくなった。
間に合った。
ほっとすると力が抜けて、壁にもたれるようにして座り込んだ。増えていく階数をただ眺める。
だいぶ息が整ってきたとき、エレベーターは最上階に到着した。扉が開くと同時に通路へと倒れこむ。ひんやりとした床が気持ちよかった。
このまま眠ってしまいたい。そう思う。
しかしそうは行かない。まだ下にはあの化け物がいるのだ。
天井を眺めながら今後の行動について考えをめぐらせていると、何かが点滅していることに気がついた。エレベーターの階数表示板だった。隣の数字が、だんだんと増えてきている。
他の人が乗ってるのか?
のんきな考えだ。そんなはずはない。自分で否定する。
じゃあ誰が?
「……あの化け物かよ」
エレベーターに黒いマネキンが詰まっている。首を折り曲げ、垂れ下がった長い片腕が床でとぐろを巻いている。そんなイメージが洋祐の頭に浮かんできた。
そもそもあいつ、エレベーターなんて乗れるのか?
化け物が乗っているのか、人間が乗っているのか。考えただけでは答えの出ない質問が交錯した。何かが乗っているエレベーターがこの階に到着するまで、あと十階もない。
つんとした臭気がした。思わず鼻を覆ってしまいたくなる臭いだ。地下のショッピングモールで嗅いだ、あの化け物の臭いだった。
臭いはますます強くなってくる。あのマネキンが乗っているんだ、と洋祐は確信した。
どうして追ってくるんだ? どこまで追っかけてくる?
階段へ向かって駆け出した。視界の隅に移った階数表示は、この階を指し示していた。
駆け下りながら振り返る。その先に、エレベーターからはみ出た黒い腕が見えた。
*
洋祐の体はぼろぼろだった。カッターシャツは泥まみれで所々は破けていて、擦りむいて血のにじんだ膝が破けたズボンからのぞいていた。
力のない足音が高速道路の高架下に響いている。うたた寝してしまった神社の近くを洋祐は走っていた。
洋祐自身はもうどこを走っているのかもわからなかった。見覚えのある鳥居が見えたので、ほとんど無意識にそこへ足を運ぶ。
後ろからあの化け物が追いかけてきていることはわかった。足音だけはずっと聞こえていたからだ。しかしもう振り返る気力も無かった。
鳥居をくぐって賽銭箱の前まで行くと、脚を止めた。折れるようにして座り込む。
「……お願いします、助けてください」
神社の境内に明かりはなかった。車道の街灯で照らされた本堂が洋祐の前に建っている。
「お願いします、お願いします」
後ろから聞こえていたマネキンの足音が止まった。
「……ああ」
神社の入り口にあいつが立っていた。街灯の光を反射して細長い輪郭が浮き上がっている。顔面の中央に配置された赤い眼が、洋祐を見据えていた。
「だから泥棒はダメだっていったでしょ? 泥棒は」
あの消えたはずの女が立っていた。本堂を背にしてタバコをふかしている。
「……は?」
洋祐の表情は呆けたものだった。それを見た女は野球帽を押さえて、やれやれと首を振った。
「盗ったものがあるでしょ? 返しなさい」
「盗ったもの? はあ? なんだよそれ!」
「盗ったものは盗ったものよ。あんたが盗んだもの」
「だからそれが何だって訊いてんだよ!」
俺が盗んだもの? なんだよそれは。この誰もいない所で盗ったやつってことか?
はっと洋祐はペットボトルを思い出した。
「あの水のことか? あれっぽっちのことで、どうして俺がこんな目にあわなきゃいけねえんだ! もう飲んじまったし、持ってねえよ!」
くそっと洋祐は手提げカバンを野球帽の女に投げつけた。女は避ける素振りを見せなかった。あたるかと思えたカバンは女をすり抜けて、本堂へとぶつかった。中身が散らばって、万引き用の財布が洋祐の足元まで転がってくる。
「えっ?……うわっ!」
片足に急激な力が加わって、地面に叩きつけられるように洋祐は倒れた。脚には化け物の長い腕が巻きついている。
「うわああああああ!」
慌てて振りほどこうとするも、ものすごい力で締め上げられていて、解ける気配がない。
「それじゃない、それじゃない。こっちこっち」
落ち着き払った調子の声で女がいって、賽銭箱をとんとんと指で軽く叩いた。
賽銭箱?
その瞬間、賽銭箱に引っかかっていた千円札の映像が頭に広がった。
盗った。確かに俺はそれを盗んだ。そしてそれを財布に……
目の前にその千円札を入れた財布が落ちている。
ひったくるようにそれを掴む。脚を引っ張られる圧力がよりいっそう強くなった。脚の感覚がなくなっていく。
「わかった! 返す、返すよ!」
そういったものの、引きずられないように耐えるのが精一杯で、財布からお金を取り出している余裕はない。
手にした財布は厚かった。当たり前だった。洋祐が無意味だと思っていた日々から逃がしてくれたものなのだ。
「ああくそ!!」
洋祐は財布を思い切り投げた。
放物線を描いた財布はそのまま野球帽の女の手へと収まった。
くいっと野球帽を指であげる。今まで見えなかった瞳が見えた。
子供みたいにきらきらした瞳だった。
薄れゆく意識の中で洋祐は、無邪気そうな笑みを浮かべている女の表情を見た気がした。
*
洋祐は跳ね起きた。そこは自分のベッドだった。神社ではない。
服装は制服のままだった。大量の汗を吸って重たくなっている。しかし泥もついていないし破れてもいない。
異様に腕の長かった黒いマネキンの足音はまだ耳の奥に残っている。境内でそいつに捕まれた脚はまだ痺れているような気がした。ズボンをめくってみると、赤く腫れている。
夢じゃない?
そんなわけがない、と首を振る。あんな化け物に追いかけられたのが現実とは到底考えられない。
遠くから車のクラクションが聞こえてきた。
ベットから立ち上がる。窓の外は夜だった。時計は日付が変わる少し前を指している。
確かにここは現実だと思った。けれどまだ少しふわふわした感覚だった。
机の上に白いものが置いてある。万引き用のノートだった。あの神社で洋祐自信がまとめたページが開かれている。
しばらくの間それを見つめていた。そしておもむろにノートをつかむと、ゴミ箱に投げ捨てた。
カバンの中を確認してみようと思った。ある予感があった。
「……やっぱりか」
今まで貯めてきた万引き用の財布がなくなっていた。
もう一度、遠くのほうで車のクラクションが鳴った。
*
「ああ? ナメたこと抜かしてんじゃねえぞコラァ」
出っ歯が気持ち悪いくらい顔を近づけてきた。
コンドームを売ったときと同じ、昼休みの校舎裏だった。
「俺はこれからしばらく万引きはしない」
先ほどいった言葉をもう一度繰り返す。
「お前はよお、いつからそんなにエラくなったんだ? あ?」
「俺はお前の為に盗んでいたわけじゃない。勘違いするな」
「ふざけんなよ! おい!」
洋祐の胸倉に向かって出っ歯の腕が伸びる。
「まあ落ち着け」
そういって大分が出っ歯の肩をつかんだ。つかもうとした手がぴたりと止まる。
「けどよお……、あいたたたた」
大分につかまれた肩を抑えながら出っ歯は後ろに下がった。それでも不服そうに洋祐をにらみつけている。
「どうしたの? 受験勉強でもする気になった?」
そういったのは似非ホストだ。
「べつに、そんなんじゃない」
「ふーん、でも残念だなあ。これからゴム、いっぱい使いそうだったのに」
そういってへらへらと笑う。
「まあ、お前がやめるってんなら俺は何もいわねえけどよ」
大分はポケットからタバコを取り出した。一本つまみ出してライターで火をつけようとする。
「そういうわけだから」
そういって洋祐は校舎裏を離れた。タバコの匂いはもう嗅ぎたくなかった。
後ろから何かいわれるかと思ったが、結局、何もいわれなかった。
これからどうしようか。
万引きがなくなってしまえば、またつまらない毎日がやってくる。いっそ、本当に受験勉強でも始めてみるのもいいかもしれない。
校舎の間を風が吹き抜けた。
気持ちいい風だ、と洋祐は思った。
もし受験するなら、合格祈願だけは絶対にしない。
そう洋祐は心に決めた。