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勘違いなさらないでっ! 【6】

 こんにちは、8000文字投下します。

 負けてばかりのシャーリーの逆襲です。

 あの日から毎日わたくしは鍛錬場に通った。1番大きい第1鍛錬場にも通った。

 第1鍛錬場は騎士団のそれとは違い、とにかく人が多く、集団での訓練が行われていた。

 結局騎士団の鍛錬場に戻り、こうして見学席の高みから見下ろしている。

 時々こちらを見る騎士や従騎士がいるが、それらをギロッと見下せばさっと訓練に戻る。

 あいかわらずあの少年は騎士にしごかれていたが、あの時のようなイジメのようなものではなく、ちゃんとした指導を受けている。兄に認められたのが少年にとって良いことか悪いことかわからないが、とにかくちゃんと訓練すれば彼は伸びる。

 ちなみにあの彼、あれから全然見てない。むしろ顔忘れた。

 「細マッチョって方が好きだったんですが、こうして見ますと盛り上がった上腕二頭筋とそれとつながる肩と肩甲骨の三角筋、首の僧帽筋(そうぼうきん)上部の盛り上がりも逞しくて素敵ですわぁ」

 うっとりながめるティナリア。

 初日は上腕二頭筋すら知らなかったが、文字通り勉強したらしい。

 筋肉の鎧に目覚めたか。

 しかし、今ティナリアが持っている画集にはその類はない。

 ……リリー、まさか彼女が持っているのかしら。

 「あの少年はエドという男爵家の傍系だそうよ」

 「まぁ、成長途中の体は気をつけないと、偏った筋肉がつくそうですわ」

 何の心配だ、それ。

 と、いうかたった数日で筋肉評論家にでもなったのか、妹よ。

 「そういえば、お兄様が新たな模擬剣を試作なさったそうよ。なにやら仕掛けがあるって聞いたわ」

 「そう」

 仕掛け、か。わたくしなら手元のスイッチで矢が飛ぶようにしてやる。それだと1度しか使えなさそうだから、まぁトゲくらいなら何発か発射できそうだ。そして同じような考えを兄は持っているのも知っている。

 ……トゲか二段構えの刃が飛び出すかだわ。

 剣を受け止めたからといって気を抜くなってことね。

 そんなことを考えていると、ふとわたくしに近づく影があった。

 来たか、と予想して顔を上げるも、そこには執事服の青年が立っていた。細い目は笑っているように穏やかで、黒い髪と目をした男だ。どこかで見たと思ったら、図書館でサイラスを呼びに来た人物だ。

 「お初にお目にかかります。シャナリーゼ様でいらしゃいますね」

 「そうよ。あなたはサイラスの部下ね。前に図書館で見たわ」

 彼はより深く頭を下げた。

 「エージュと申します。覚えていただいており光栄です」

 エージュが頭を上げるのを待って、わたくしは口を開いた。

 「で、お話があるんでしょう?何かしら」

 「はい、実はサイラス様は現在帰国されており、来週までこちらに来ることができません。そこでお届けものをするよう承りましたが、お邸に出向く前にシャナリーゼ様の許可をと言われておりましたので、こうして参上いたしました」

 まめだな、と思った。

 宝石やドレスの類はいらないが、もらって換金し、孤児院へ寄付するのもいい。

 後でごちゃごちゃいうような男ではないだろう。

 「わざわざどうも。でも邸に行くのは勘弁くださいな。ここで受け取れるものかしら?」

 「お荷物になりますが、お持ちするのは可能です」

 「ではここへ持ってきて」

 エージュは「かしこまりました」と、見学席を出て行った。

 横から心配げに見ていたティナは、わたくしが受け取ると聞いてほっとしていた。

 「贈り物って何かしら」

 「さぁ。どちらにしろ今までの物と末路は同じよ。換金して寄付」

 「お姉様、いくらなんでもサイラス様からの贈り物を同じにするなんて」

 ティナリアがぷぅっと頬を膨らませて抗議する。

 「わたくしにはこれで十分なの」

 そっと胸元に手を当てる。首周りのレースで少し隠れているが、黄色いガラスのペンダントがささやかに揺れている。

 そこへ意外に早くエージュが戻って来た。

 「こちらです。こちらはティナリア様へ」

 「まぁ、わたくしにも?」

 嬉しそうに目を輝かせたティナリア。そうやって純粋に贈り物を楽しめるのが羨ましい。

 わたくしときたら、どんな魂胆が隠されているのかと箱を見ただけで疑ってしまう。

 やや憂鬱になりながら、差し出された箱を手に取った。

 赤いリボンのついた長方形の白い箱。高さはない。

 ティナリアには黄色いリボンがついている。

 じっと箱を見るわたくしをよそに、ティナリアは早速箱を開けた。

 底には数枚のレースのハンカチと、その下からはとんでもない画集が数冊出てきた!

 「きゃーっ!」

 歓喜の声を上げる、ティナリア。

 突然の声に辺りの視線が注がれる。

 「ティナ!」 

 わたくしはあわてて立ち上がったティナリアを座らせ、けしからん贈り物の箱に蓋をした。

 そしてエージュをキッと睨む。

 「これはどういうことかしら?」

 怒りが滲んだ声で問うが、エージュは穏やかな顔を崩さない。

 「申し訳御座いません。贈り物に関しては一切知らされておりません。サイラス様が直接手配されたようなのです」

 ぎりっと奥歯をかみ締める。

 どこまでおちょくれば気が済むのかしら、あの男!

 ティナリアはほとんどサイラスの味方だ。すっかり懐柔されている。

 自分の贈り物が恐ろしくて開けられないなどというのは、あの変態侯爵以来だわ。とにかくエージュを帰らせ、すでに見学どころではないティナリアを引きずってわたくしは帰宅した。


 サイラスからの贈り物を、じっと観察すること1時間。やがて意を決してリボンを解いた。

 中からは絹とレースのピンクや黄色のハンカチ、その下からはイズーリの特産品についての本と、農業の本が入っていた。しかも取寄せ方法などまで記載されている。その本に挟まれる形で、イズーリでイチオシと記された紙袋があった。中をあけると、小説の文庫本が2冊出てきた。ジャンルで言えばヤンデレの男にヒロインが翻弄されるというものだ。


 ……ヤンデレはお前じゃないかっ!


 べしっと文庫本を床に叩きつけたものの、どうにも気になって、考えた挙句にわたくしは拾い上げた。

 本に罪はない、と言い聞かせ、わたくしは読んだことはないが興味があったジャンルの本だけに、農業の本より先に読んでしまった。

 感想は、ティナリアには見せてはいけない、だった。

 きっとヤンデレボーイズラブに発展しそうだからだ。お友達のリンディ様もそのジャンルは描いているが、意図的にティナリアには見せていないようだ。あの子がどう暴走するか見当もつかない。

 わたくしは2冊の文庫本を机の引き出しに隠した。

 また読みたくなるかも、と思って処分できない自分へ苛立ちながら鍵をかけた。



 4日後、鍛錬場の見学席にサイラスが現れた。

 「こんにちは、シャーリー。ティナリア嬢」

 「お久しぶりです、サイラスオウジサマ」

 敬称が棒読みになってしまったのはわざとだ。

 苦笑したサイラスだったが、ぱっと顔を上げ贈り物のお礼を丁寧に言ったティナリアを見た瞬間、彼女の手元を凝視したあと軽く目を見開いて驚いていた。

 なぜなら、ティナリアは更にレベルアップしていたからだ。

 2日前から彼女は持つには重過ぎる、分厚い医学書を手に見学席に座っていた。筋肉とその名称がかかれたページやらには付箋と、線引きが多数してある。医師でも目指すのかと首を傾げた父に、とにかく実験体になってと上半身の服を脱がせ、その背にペンで医学書を見ながら線を描いていた。

 「やっぱり本物でなくっちゃね」

 愛らしい末っ子のおもちゃとなった父は、とりあえず気が済むまでやらせようと決めていたようだが、彼女は10時間居座り、生理的欲求に耐え切れなくなった父が限界で廊下を走るという姿を晒した。その背中を見た使用人が「ひっ」と、短い悲鳴を上げていたのは仕方ないことだろう。

 「……ティナリア嬢は勉強熱心ですね」

 驚きを一瞬で隠し、サイラスは王子様スマイルを展開した。

 「はい。お褒め頂いて光栄ですわ」

 にっこりと邪心のない笑顔のティナリアを見て、サイラスはなぜか王子様スマイルを延長して耐えていた。

 それを見て、わたくしはふっと心の中で勝ち誇った笑みを浮かべた。


 ほーっほっほっほっほっ!純真無垢な微笑みにあんたの、その胡散臭い王子様スマイルなんて敵じゃないわよっ!あ、キラキラまで展開してる。あんたどんだけ笑顔スキル高いの?同時展開なんてすごいわね。


 「あ、素敵な大胸筋発見」

 ティナリアの何かが理想筋肉を察知し、笑顔をやめて剣技場へと目線を移した。とても真剣な表情で、その瞬間サイラスからも王子様キラキラスマイルが消失した。

 「あなたのせいですよ。責任とって下さいね」

 ふふんっと鼻で笑うと、サイラスは勧めてもいないのに隣に座った。

 「もちろん。責任とって立派な義兄になるさ」

 くだらないことを言うサイラスをじと目で睨み、そのまま無視した。

 「無視かよ」

 「王子様の遊びには付き合えませんもの。お忙しいと伺いましたが、今回はいつまでいらっしゃいますの?」

 「あぁ、夜には帰る」

 「は?」

 おもわず素で振り向いた。

 サイラスはどうしたといわんばかりで、少しだけ首を傾げた。

 「夜って、そんなに忙しいのに来たのですか?」

 「そうさ。俺の求婚相手が毎日鍛錬場に通って品定めしてるって聞いたからな」

 意地悪く片方の口角を上げて笑う。

 わたくしはキッと睨みつけると、日傘をぶつける勢いでふんっと顔をそらした。

 「それで、いいのはいたか?」

 日傘に手応えはなかった。

 次する時は回転だけではなくて、突いてやろう。絶対当たるはずだわ。

 「まだよ。少なくとも兄と戦えるくらいの方でないと興味ありませんわ」

 本当はあんたに勝てそうなのがベストだ。兄は最有力候補だが、腹黒対腹黒の対決なんて、試合中に何が飛び出すかわかりゃしない。

 「兄、か」

 どこか遠くを見るようにつぶやく。

 その視線の先を追いたかったが、ティナリア以外の見学者の視線がわたくし達に集中しており、先にこっちを黙らせるかと閉じた目に力を入れたときだった。

 「例えばこうしたらどうなる?」

 ぎゅっと横から肩を両手で抱きしめられた。

 ぱちっと目を開くと、サイラスの頬がわたくしの頬に押し当てられていた。


 ……ひっ……ひぃいいいいいいいい!?


 「おっと」

 心の絶叫をしていたわたくしを、サイラスは更に覆いかぶさるように押した。

 と、その瞬間、何かが今までサイラスの頭部があったあたりをかすめなていき、ガッと鈍い音を立てた。 そぉっと目線だけ動かすと、見学席の壁に極太の矢が刺さっていた。すでに小型の槍だ。

 わたくしに覆いかぶさったまま、サイラスはくつくつと忍び笑いをしていた。

 「あ、あなた何笑ってますの!?」

 「あぁ、いや、いいクッションだと思って」

 その瞬間、わたくしは自由になる頭部を凶器に選んだ。

 淑女らしからぬ頭突きをサイラスへ落とすと、「ぐっ」と唸り声をあげた。ザマーミロですわ。

 しかし、この石頭め。わたくしも一瞬火花が散った。

 「お、お姉様大丈夫?」

 1つ席を空けて荷物置きにしていたのが良かったせいか、日傘もティナリアに当たらずすんだようだ。

 心配そうな顔をするティナリアに微笑み、のしかかったサイラスが体を起こしたのでキッと睨んでおいた。

 「この石頭め」

 頭頂部近くをさするサイラスに、わたくしはふふんと鼻で笑ってやった。

 「おでこ赤いぞ」

 「お黙りっ」

 わかってるから言われたくない。睨みつけていると、剣技場の方向からどでかい声が響いた。


 「すまんなぁ!手元が狂った」


 間違いなく兄の声だった。

 硬い皮をなめして丸めたメガホンを手に、弓を片手に足で馬を操ってゆっくりこちらへ進んでくる。

 手元狂っても矢の練習場は全然違いますわ、お兄様。あきらかに狙っていた。

 「若獅子の貴公子、か。目つきで人が尋問できそうだ」

 「あなたも人のこと言えませんわよ」

 ただ、今この場だけで言えば闘志がある兄のほうが危険な目をしている。

 「あら、お兄様ったら背筋鍛え始めたのね。前より厚いかも」

 こんな時でも普通に観察できるティナリアがすごい。

 しかし、兄のそんな変化に気づくなんて、そのうち個人の筋肉のサイズまで測りだすんじゃなかろうか。それだけは全力で止めよう。ティナリアに触られた男が狼となれば、狩人と化した兄と父がどんな手を使ってでも撃退するだろう。無駄な血は流したくない。

 一方のサイラスは兄に睨まれつつも、その顔にはわくわくといった好奇心が溢れていた。

 「嬉しそうね」

 ため息混じりに呟くと、サイラスは兄から目線を外さず答えた。

 「強い男とやりあうのは好きだ」

 薄く笑みさえ浮かべるサイラスを見て、わたくしはやっぱり兄が相手かと納得した。

 そして、その横で別な意味で解釈したティナリアが「きゃっ」と小さな歓声をあげたが、そこはしっかり無視しておいた。

 妄想は好きに任せる。なんならリンディ様に頼むがいいわ。ただ、兄は泣くかもしれない。かわいい妹に汚されたと知ったらどうなるだろう、と考えて、即秘密厳守を貫こうと思った。

 「嬉しそうね」

 「友好国として合同演習はしたことがあるが、俺自身がやりあったことはない」

 薄い笑みを浮かべた顔はますます好戦的になっている。

 「手合わせを願いたい!」

 ざわっと見学席と剣技場が騒いだ。

 「いいぞ!」

 待ってましたとばかりに、ひょいひょいと軽い足取りで降りていくサイラスに、わたくしは面食らっていた。

 一方兄も、剣技場の責任者と思わしき、あのファナシス氏が「待て待て!」とあわてて止めに入っていた。

 「団長に許可貰ってますし、殿下にも機会があればとお許しを頂いてます」

 しれっと返答され、ファナシス氏は唸りながら身を引いた。

 「お姉様!?」

 背後でティナリアの驚いた声がした。

 気がついたら、わたくしは見学席の下に立っていた。まるでサイラスの後を追うかのように、金網で仕切られた剣技場を見る。

 すでに剣技場に入ったサイラスは、馬から下りた兄となにやら言葉を交わし、握手をしていた。挨拶が終ったようだ。

 2人に模擬剣が渡されると、彼らの周りに空間ができ、しんと静まり返った。

 金網に指を絡め、食い入るように見つめる先で試合が始まった。

 ガッと打ち合いが始まれば、後は流れるように止まらずに打ち合いが続く。

 お互い防具はつけておらず、訓練というよりいきなり始まった実戦のような気迫だった。

 これで防具をしっかりつけておけば、実戦と思われてもいいのではないだろうか。とにかく周囲は食い入るように見つめているし、誰も声をあげない。

 サイラスが先に体勢を崩したが、その隙をつけないまま兄も距離をとらされる。

 腹、肩、足、胸とお互い次々に打ち込むが、なかなか決まらない。

 お互いの顔に汗が飛び散る頃、サイラスが切れ切れで言った。

 「もう1本、いけるかっ」

 「いい、だろう」

 答えた兄とサイラスは少し距離を置いて止まった。

 そして兄が叫ぶ。

 「もう1本ずつよこせ!」

 一瞬の間を置いて、あわてて近くの者が自分達の持っていた模擬剣を放り投げた。

 それを2人が受け取り、目線が会った瞬間に再び打ち合いが始まった。

 2本に増えた模擬剣を防御と攻撃に使い分け、2人はより激しく打ち合い始めた。

 考えるより本能か反射か、とにかく相手の動きにあわせて左右の模擬剣が自我を持つ生き物のように動いている。それを可能とする2人の身体能力に唖然とする。

 「お兄様もサイラス様もすごい……」

 いつの間にか横にいたティナリアも、食い入るように見つめている。

 わたくしは「お兄様頑張って!」と声に出すことも、心の中で叫ぶこともできず、ただただハラハラしながら見つめていた。

 怪我しないで。

 それがわたくしが唯一思っていたことだった。


 ガッ!


 兄の左腹にサイラスの模擬剣が当たり、兄の放った一撃は右肩をかすめサイラスの頬をかすめた。


 「サイラス!」

 「お兄様!」

 あとはきゃあっという見学者席からの悲鳴。

 動きが止まった2人に、わたくし達の声が届いたかはわからない。あきらかに見学席からの悲鳴がおおきかったから。

 ふっと短く息を吐き、兄は模擬剣を下ろした。

 サイラスも下ろすと、ファナシス氏が「それまで!」と高らかに告げた。

 どこにあったのか、タオルを持って近寄っていく従騎士や騎士達に囲まれる2人。

 ただ、サイラスだけは少し驚いた顔をしてわたくしを見ていた。


 ……聞こえた?まさか聞こえた!?


 ドクドクと妙に心臓が高鳴る。

 「お姉様?」

 やがてサイラスがゆっくりその輪を抜けて、こちらに近づいてきた。兄と数人がその後を目線で追う。

 サイラスの右頬には擦り傷があった。かすった熱のせいか赤くなっていて痛々しい。

 その傷をじっと見ていると、サイラスがぽつりと言った。

 「……呼ばれるとは思わなかった」

 少し信じられない顔をしている。

 わたくしはぐっと日傘を持つ手に力を入れると、震える声を絞り出した。

 「勘違いなさらないでっ!一国の王子の顔に怪我でもさせたらと心配しただけですの。仮にも求婚者を心配させるなんて、とんだ王子様ですわ!」

 その時サイラスの顔色が変わった。

 大きく目を見開いて、驚愕してわたくしを見ていた。

 「し、シャーリー、泣いてる……」

 いつにない優しい声と、余裕なくうろたえているサイラス。

 つぅっと頬をあたたかいものが流れたのは知ってる。

 つんと鼻の奥が痛くなったのも知ってる。

 とっても久々の感覚にわたくしは、はっとしてその場を駆け出した。

 後ろでわたくしを呼ぶサイラスやティナリアの声が聞こえたが、鍛えた脚力で全力で走り、鍛錬場を抜けて辻馬車をつかまえて帰宅した。


 「一人にして」

 と、部屋に篭ったわたくしは肩を震わせた。

 大した怪我ではなさそう。兄もあのくらいなら打ち身として数日で治るだろう。


 ……。


 しかし、サイラスのあの衝撃的な顔は永久保存だった。

 「ぷっ、くくくっ」

 わたくしはついに堪えきれず、とうとう決壊した。

 「ほーっほっほっほっ!やりましたわよ、とうとうあのしたり余裕顔を驚愕させてやりましたわよ!!あの迷った子犬のような顔!あんな男でもうろたえると案外可愛らしい顔するんですわね。ほーっほっほっほっほっ!!」

 今度は笑いすぎて泣けてきた。


 でも、なんであんなに涙が出たのかしら?

 あの場では涙を浮かべ、瞳をうるませるくらいの予定だったのに、なぜか止められなかった。

 まさか本当に涙したのかしら?

 最後の本当の涙なんて数年前だ。すっかり忘れた。

 「……変ねぇ」

 サイラスの傷を見たときからおかしかった。

 「……嫌だわ、きっと疲れてるんだわ」

 そうに違いないと結論付け、わたくしはアンを呼んだ。

 「今日はお祝いよ!最近さぼっていた全身エステスペシャルコースで頼むわ!もちろん髪のパック付きでお願い!!」

 「まぁ、フルコースですね!さっそくみんなを呼びます。張り切ってまいりましょう」

 微笑むわたくしに、アンはにこにこしたまま聞いた。

 「シャーリー様、何か良いことがあったんですね?」

 「えぇ、聞いてくれる?あのサイラスをうろたえさせたの。胸がすかっとしたわ!」

 アンは笑顔を凍りつかせた。

 「女の涙は最強ね。久々過ぎてちょっと流しすぎたけど、結構効いたわよ」

 またあの顔を思い出して笑うわたくしに、アンは顔を曇らせて言った。

 「シャーリー様、あなた様の涙は本当に毒です。サイラス様がどのような手段をおとりになるか」

 「あら、泣いた女なんて見慣れてるはずよ。あの人は泣かない女をおもしろがっていただけ。わたくしも泣く女だとわかったなら、さっさと興味を失うわよ」

 そして今度こそおしまいだわ。

 なんだかすっきりしない胸のつっかえもあるけど、それは鍛錬場にティナリアを置いてきたせいだわと思って、わたくしは全身エステスペシャルコースを堪能した。


 それから1週間、サイラスからの接触はなかった。





 ツンデレが少しデレ、ヤンデレも少しデレました。

 ……収拾がつかねー!!なんてね。

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