王へと至る道
1
土を跳ね上げ疾走する馬。手綱を引かれのけぞる馬が前足を降ろすのも待たず、青年は少女の足元へ滑り降りる。
「殿下、お逃げください」
両の手に掲げ差し出した剣が震えているのは、息が上がっているためだけではない。
「恐れながら、変事により王位が覆されました」
青年が首謀者の名や王宮の状況を続けるも、少女はひどい耳鳴りで、何も頭に留めておくことができない。それでも発狂に至るには聡すぎた。混乱を脱しようとする頭が必死に言葉を絞り出す。
「宝冠は?」
「申し訳ございません」
問答の間も剣を下げない青年に、少女は再度問う。
「…兄様はいずこへ」
頭の奥では既に答えが出ている。
「兄様は、兄様は既に何処かへ御座を移しているのだな?いずこだ。そこへ宝剣をお運びするのだろう?」
「殿下!」
耐えきれず青年が叫ぶ。
「どうかお逃げください」
頭の奥では既に答えが出ていた。王の正統性を証明する宝の一対、宝剣が彼女に捧げられるとは、現時点で王位に座れるものが彼女の他にないということだ。
少女は宝剣を持たせようとする手を払い除け、幼子のように喚く。
「お前。自分が何を言っているのかわかっているのか!この宝剣を持つは私ではない。兄様だ。早く御元へ参じよ!今ならばまだ!」
「殿下…姫殿下を必ず逃せとの、皇太子殿下からの最期の命なのです。」
浅く鋭い呼吸が喉元で悲憤の叫びとぶつかり硬直する。青年はその隙を逃さず畳みかける。
「あなたさえ生きていれば!王室を、国を、再興できるのです。あなたの他に誰が兄君の意志を継げましょうか!」
青年は有無を言わせず、しかし主の装身具を扱うのと同じうやうやしさで、丁寧に冷たい拳をほどき剣に触れさせる。少女は辛うじて、両の手に載せられた剣を握る。青年が手を離すと、その重みに引き摺られて少女は地面へと崩れ落ちた。
「我が一族の宮中で知らないことがあろうとは」
引き攣った呼吸は、笑っているようにも必死に呼吸を続けようとしているようにも聞こえた。硬く瞑った眼からはボロボロと涙が溢れたが、なお涙を閉じ込めようと一層強く眼を閉じた。
王宮はあまりに広く、重い帷の影のどこにでも謀を隠すことができた。
運河に運ばれた銃声のこだまで目覚めた者が眠い目を擦って窓の隙間から路地を覗く。花売りすら目覚めぬ朝靄の大路に、黄色いビラを巻き上げて馬が駆けた。
薄暗い馬小屋の隅で、崩れそうな民家の軒下で、闇夜の木のうろの中で、二人は身を寄せ合って眠った。少女は目を開いてはいても何も見ず何も言わず、眠り続けていた。青年はもぬけの殻となった少女を抱きかかえ、物言わぬ虚ろな人形にスープを飲ませ、手足を拭き、服を着替えさせた。道中は静かだった。王位が転覆したとは思えぬのどかさだった。
持ち出せたのは宝剣のみ。あとは身一つばかりで、青年はロケットの無い首元をひと撫でする。左に母と妹、右に主君をおさめたそれも、逃亡の中で失われてしまった。主君の似姿を手放してからますます、彼は無き主君の面影を姫に見出すようになった。生涯共にあると誓った主の、柔和に垂れた眦を、意志の強いまっすぐな眉を、決して忘れぬように。
王宮を出てどれほど経っただろうか。
麦畑に風が走る。麦帆は通り雨に洗われて、赤い夕陽を反射して瞬く。姫はかつてこの景色を見たことがあった。初めて同行を許された行啓、隣に立つ兄が嬉しそうに一面の麦畑を見ていた。低く飛ぶ雲雀が鳴いて。
「にいさま」
兄様。もういないのだと、穂を縫う雲雀が黄金の波に消えるのを見送った。
視界の端の髪は灰っぽくくすみ、爪は泥で黒く、衣服は泥を吸って重い。狩りに出た時だって遠乗りで急な雨に降られた時だって、これほど泥にまみれたことは無かった。生きているのか、と声が漏れる。兄はもういないのに。自身で体を洗うことも服を着ることも初めてのことだった。
「お前、髪は編めるか」
側近は髪が絡まぬよう、丁寧に指を通し結い上げる。
「慣れているな」
「歳の離れた妹がおりますもので。時々せがまれるのです」
二人の間に沈黙が落ちる。
「必ず逃がせと、兄上はそう言ったのだな」
青年の手が止まる。
「はい。お前の命に代えても必ず逃がせ、と」
「そうか」
少女が自らの足で歩き、自身で食事を運ぶようになってから、側近がどこかへ消え、食事や水や服を持って戻ることに気付いた。時々その袖が赤黒い泥で汚れていることにも気付いていたが、側近が何も言わないので、彼女も何も聞くことはしなかった。
王への拝謁が叶ったのは国境を越えてしばらく経ってからだった。
紋章の無い馬車が闇に紛れて宮殿の裏門へ入る。日が落ちてからの迎えを前に察した予感は、壁の裏の使用人通路を進むうちに確信へと変わっていく。暗闇の中から通されたのは王の執務室だった。
王は卓上の地図の一点、祖国の西の端をコツコツと叩く。
「昔からここは喧しくて仕方ない、国に帰っても不便であろうよ」
「祝祭を開けば気もすむでしょう。狂乱が過ぎれば貴国にてどのように扱っていただいても構いません」
王の要求に口を開かされる。
「近々、銃を最新式に入れ替える。軍務省の見学を許そう」
王は眼前の少女に書付を渡すと手を払う。扉が閉まり、二人はまた暗闇に投げ出された。
宮殿から秘密裏に運び出される馬車の中、少女は、話していたとおりだな、と自嘲する。
「やはり、一国の主としての扱いは望めぬか。お前には苦労をかける」
側近は、いえ、と微笑んだ。果たして兄であったならば、国土の一部であっても売り渡しただろうか。側近の目の奥を探しても答えは見つからない。兄によく似た面立ちの少女が不安げに見返すだけだった。
2
「殿下」
鳥も鳴かぬ夜明け前、返事も待たずに駆け込んだ側近の声に眠っていた主は目を開ける。
「ついにか」
「蜂起いたしました」
「宣戦布告を叩きつけるぞ。謁見だ」
姫はシーツを跳ね除け、ベッドの傍らのブーツに足を通す。彼女が最後にドレスを纏った日から幾つの季節が廻っただろうか。王と密約を結んだ日から、軍服のシャツとズボンのまま眠る日々を過ごした。祖国の西に住むまつろわぬ民は、かつて彼女の父も祖父もそのさらに祖父も悩まされ、抑え込んできた火種だ。独立を餌に焚きつけるなど容易い。官僚のいやがらせの中、払下げの銃を手に入れ横流しする手はずを整えるほうがよっぽど骨を折らされた。戦線が西に張り付いているうちに強襲し二方面攻勢を強いる。相手の態勢が整う前に形ばかりの宣戦布告と条約調印を終わらせ、いち早く国境を踏み越える必要があった。黒と白のジャケットを掴み、慣れた手つきで軍装を整え、側近もそこへ剣帯やサッシュを加えていく。
「服はよい。髪を上げてくれるか」
少女はふと顔を上げ、髪を編み上げてゆく手を鏡越しに見やる。櫛もなかったあの日とは違う。様々な道具で器用に髪が固定されていく。
「以前にもお前に髪を編んでもらったことがあったな」
なんて遠いところまできたのだろうか。
「お前一人ならば……お前ほどの手腕があれば如何様にでも立ち振る舞えたであろう。手土産を携えこの国でも重用されたであろうな」
姫が国賓として扱われない以上、側近は大使でも文官でもなく、ただの私的な付き人に過ぎない。国庫からの手当ても出ず二人で翻訳の仕事をした日々を思い起こす。
「殿下、それはあまりな仰りようです。私は畏れ多くも宝剣を奉った日より、国と……殿下の御許にて没すると誓ったのです」
問いかけともうわ言とも付かぬ言に側近は喉へつかえる言葉をかろうじて吐き出す。
姫は側近がこれほどまでに苦しげに諫言を絞り出すのをこれまで見たことがなかった。
あの日、彼は決断を迫り、彼女は選んだのだ。あの場で家族と共に果てることも、怨敵の妃として生きさらばえることもできた。しかし彼女は選んだのだ、幾ばくの月日が経とうとも、祖国を取り戻すための奔走を、泥濘の未来を。あの時、彼の差し出す剣を投げ出すことはできなかった。
「…詮無きことであった」
寄る辺なく揺れる少女は消え、そこに佇むのは堂々たる主君であった。ただ一人の忠臣を無碍に扱ったことを詫びた。側近がその迷いなき眼差しを受け止めると、主君は相好を和らげ付け加えた。
「死ぬことは許さぬ。お前が全て見届けよ。お前以外の誰が正史を語り継げると言うのだ」
正史を編みなおす。その対価を彼女は支払うのだ。
王の右隣に座り、目の前で読み上げられる条約を再度脳内で一つずつなぞる。
かつて、執務室での忌憚の無い意見交換の結果を王都の片隅に与えられた部屋に戻って側近に告げた時、姫も側近も互いに二の句を継げず沈鬱な表情を確かめ合うばかりだった。
口では平和と法の回復と謳っているが、当面の間の駐留、内戦復興のための関税免除、借款返済のための財務顧問受け入れ、つまりは軍事と経済へと深く干渉を許す形になる。
亡命した時点で予想していたことの一つであり、その中でも最悪では無い選択肢の一つではある。それでも、まだどこかで最善を夢見る気持ちを捨てられていなかったことを思い知らされた。
部屋の奥から注がれる視線が、彼女の逡巡を刺し貫く。その際立つ双眸によって、王の宣言も目の前で起こっている軍旗と杖の受け渡しも、広間の何もかもが霞んで見える。
蜂起によって外交使節の到着もままならぬ今、この場にただ一人の自身の民の眼差しを受け止める。
──お前さえ見ていれば、私はどこにあろうとも王たらんとしよう。この頭を堂々とあげてみせよう。お前だけは目を逸らすな。
「偉大なる国王陛下。ならびに友邦の民よ。陛下が示された高貴なる決断と正義の剣に深く敬意を表します」
声が震えぬよう、深く息を吸い腹に力を込め体を支える。
「我が祖国を覆う暗雲を払い、我が王都に帰還した暁には、貴国の恩義に違えることなく、両国の繁栄にこの身を捧ぐことを、ここに誓います」
訛りひとつない滑らかな口上は平生の声のようでありつつも、大広間の奥まで染み渡る。
手の閃きひとつ、瞬きひとつ、全ての所作は洗練されており、王座に在る威厳が確かに宿っている。
天から糸が吊られたように美しく伸びた背筋を、ある者はマリオネット人形だと嘲笑したが、それがうらぶれた亡命者の姿を期待していたことを隠す当てこすりであったことは、誰の目にも明らかだった。
編み上げた髪がシャンデリアの光を反射し頭上に輝く。借り物の軍装を纏い宝冠を戴かなくとも、そこに立つのは紛れもなく王であった。
壇上のその人は口上を切ると、最後にもう一度、列席の後尾に並ぶ自身の臣下に目を向ける。二人は視線で重い諾を交わし、主は静かな瞬きを落としてそれを受け入れた。
美しく清廉なまま完全になってしまった兄。あの方にこのような決断ができただろうか。
小指から抜き取った指輪を、文書に垂らされた赤へ押し込む。それが悪魔との契約書であったとしても、国を取り戻すためならば、同じように刻印しただろう。
3
──我が愛しき臣民たちよ。じきに解放して差し上げよう。
騎乗の乙女は、数百メートルにも渡って展開した祖国の軍、もとい敵軍の戦列を睥睨する。彼女を守るべきであった軍隊は、今はこちらへ銃口を向けている。
「全隊前進」
彼女は祖国の軍を蹴散らすべく、異国の言葉で自軍への号令を下した。
こちらへ駆けてくる祖国の美しい軍馬たち。
一糸乱れぬ戦列歩兵へ騎兵が津波となって迫りくる。馬の荒い呼気に触れ、ラッパの合図で最前列が膝を折る。
「撃て!」
煙幕を割いて馬が飛び出し、戦列の手前で霞の底へ沈む。
亡霊のように現れては消える赤い軍服を眺め、姫は歯噛みする。
「見ろ……我が兵がいたずらに死んでゆく」
戦場の後方に控えるその人は馬首を返し、一個大隊と共に森へ消えた。
前線では後列の歩兵たちが煙幕の中へと突撃していく。後に残るは砲に掘り起こされた土塊と死体ばかりで、緑の平原にそよぐ白い花はもうどこにも見つけることができない。
「砲兵隊、門下部、3連射」
「確認」
「射て」
雷鳴に地が揺れる。遅れて鈍い着弾音が轟く。
八列縦隊に野戦砲を引き連れ、瓦礫を踏み越え門をくぐる。
首都は騒然とする。有史以来首都に侵攻されたことなど無かった。また以降の史実に首都侵攻の文字が登場することも無いのだが。
この国にただ一人の正当なる王位継承者の凱旋であるのに、歓喜の声はない。家々の門は閉ざされ、カーテンの隙間から眼だけが覗き、息を殺して行列を見る。逃げ惑う民の阿鼻叫喚を、戦列歩兵が鋲を鳴らし、道を端から端まで圧し均す。門から王城への通りをまっすぐに。
姫は城門の左右を支える塔を見上げる。堂々と正面からの砲撃にも関わらず、石の一つも飛んでこない。市井に紛れられると面倒だ。彼女とて自身の臣民を討つことは本望ではない。
「生きて捉えよ」
嘆息し、兵を街に放った。
案の定、城内には人影一つない。扉も窓も中途半端に開きっぱなしだ。姫は兵を引き連れ足早に廊下を進む。風に膨らむカーテンを手で払いのける。通り過ぎる部屋たちはかつて彼女が父王に手を引かれて過ごしたままであった。久方ぶりの帰郷を懐かしむ間は無い。沸き上がる感傷を無視し、奥へ奥へと走った。
奥庭に続く扉を前に、兵を廊下に残し、側近だけを伴う。他国の兵を王宮の深奥まで連れるなどあってはならない。しかしそうも言っていられる状況ではない。この戦いに失敗して待つものは、再度の亡命生活と他国の王宮の片隅での政治闘争などではない。汚名と死のみだ。後の歴史で自分自身がどのように言われるかなど、そんなことは彼女にとってどうでもよい。我慢ならないのは、兄が、父が、母が、敗者として辱めを受けることである。
外界から隔絶されたのどけき庭は、かつて兄妹が木漏れ日の中で眠った日々そのままだった。砲の乱暴な叩扉も四散した兵の血の一滴も、ここには一切の報が届いていない。あの日失った全てがここに取り残されて。草原に散りばめられた小さな星型の花は、泡のように瞬く。少女が幾度となく夢に見て、目覚めるたびに胸が軋む痛みを与えるその庭。風に払われた髪から覗く柔らかな頬から、ガラスの粒のような滴が零れ落ち、風に砕けて光に溶けていく。少女は夢よりもなお眩い風景の端の、見慣れぬしるしに目を留める。風に背を押され、よろめく足で歩み寄る。三つの白くて滑らかな石。表面に彫り込まれた文字を指でなぞり、その名が小さく漏れる。
「兄様…」
最後の墓標の名を響きを確かめるかのように繰り返し口で追い、その人が埋まっているであろう草の上に、頬を寄せてうずくまる。
彼女は家族の亡骸が門前に晒されて朽ちていったとばかり思っていた。廟に祀るどころか埋葬も叶わないと。
墓標の前で地面に身を預けたまま動かない少女を前に、青年は声をかけることができなかった。あの日決別して以来見ることのなかった、庇護されるべき姫君の横顔。
王に聖域があってはならない。この国の、山河も生まれてくる人間もこの地に育つ麦の一粒までもが全ては王の所有物であるが、唯一、王その人自身だけは決して所有することができない。王とは国家へ捧げられる供物である。髪の一本まで余すことなく国家のための機構なのだ。私人の領域など存在せず、国家以外に尽くすことは許されない。しかし、その聖域にもはや死者しかいないのならば、誰がそれを奪えるのか。
二人は光と草花の悠久の波間に揺られる。
これ以上望むものがあるのか。青年はふと思う。皇太子殿下の元に姫殿下がいて、傍らに忠臣が侍り、穏やかな時間が流れている。もう目の前の少女を起こし、奮い立たせ、王たることを強いずともよいのではないか、と。
側近の忠誠と憐憫の相克は、将兵の耳打ちで破られる。彼は我に返り、今しがた喉から出かかった言葉を飲み込む。
「殿下、見つかりました。参りましょう」
少女は地面に口づけを落とし、地面から体を引き剥がすように起き上がる。
振り返った顔には頬にも目元にも赤みは無く、陶器のように無機質だった。王に人間の赤い血潮など流れてはいないのだから。
4
戦列の足音はその全貌よりも速く地を伝わって、歩兵が教会の周囲へ展開するころには市民は教会の入り口を固め、双方の陣営は自然と相対する形となった。春先とはいえ朝夕は冷える。戦列と市民の間にはぽつぽつと火を囲んでいた形跡が残る。立ちはだかるは、女と子どもと老人と、わずかに残る若い男は厚みの無いズボンの裾やシャツの袖が風に揺れる者ばかりだが、みな手には棒きれやら火かきやらを握りしめている。揃いの軍服を着て整列する兵士たちは、城門から王城への進軍で、歓待された解放戦線でないことには既に気付いていたが、目の前の集団が身を寄せ合い最後を待つ信徒ではなかったことに、再び面食らった。
戦列を割って馬上の貴人が現れ宣言する。
「 我が民よ、恐れるな!汝らの王が今帰還した。民らよ、歓呼を以て迎え、簒奪者を我が前に引き立てよ。城門を開け!」
人々は武器を握りしめたまま顔を合わせる。
「誰だ…あれは」
「逃げた姫君じゃあないか」
「あんたが何をしてくれんだ!パンをくれるのか?あんたが今していることは何だ!街に兵を入れて今あたしたちに銃を向けてるのは誰だってんだ」
石をこすり合わせるような老女の声があがる。民は足を踏み鳴らし、武器を打ち鳴らし、姫を罵倒した。
民からの罵倒を身に受ける馬上のその人は、表情こそどんな感情も読み取らせぬように取り澄ましたままであるが、手綱を掴む手は真っ白だった。側近は彼女に囁く。
「ここに殿下の臣民はおりません」
姫が目を伏せ、ゆっくりと開くと、相変わらず無色透明の顔のまま、小さく口を開いた。
「静かにして差し上げろ」
側近は主の玉言に頷くと、意を違わず正確に訳し、兵に聞かせた。
「前方!前列構え、射て!」
人が崩れ落ちる。教会の壁が見えぬほど堅牢だった人の群れはまばらに間引かれる。
悲鳴、呻き声、すすり泣きを無視して、姫は馬上から降り立ち、教会の扉に足を進める。兵もこれに続いた。民は倒れた隣人を抱えて、踏みつぶされぬよう道を開けた。視界の端に覚えのある顔がいた気もしたが、折り重なる体や苦痛に歪む顔の中ではもはや判別がつかなかった。
姫が教会の扉の前に立つと、左右の兵が門を打ち壊し開く。教会の奥、茶や灰のくすんだ布の奥に、鮮やかな塊が見えた。城を放棄した彼は、後宮の妃まで残らず連れて逃げ込んだらしい。
奥の男を差し出すよう勧告しても、人々は動かない。姫は嘆息して、側近に耳打ちをする。掃射の号令を出そうと掲げた手を振り下ろさんとするその時、小さく声が上がった。
「……決闘だ」
その声は徐々に広がり、民たちは決闘だ、決闘だ、と合唱する。
姫はちらりと側近に視線をやり、銃を下げさせる。
「誰もが鎧を捨てたこの時代に決闘とは。なんとも古い響きだ」
平原の兵の損耗が頭をよぎる。姫は腰に佩いた剣を捧げ持ち、朗々と宣言する。
「よろしい。決闘を受けよう!我が命をこの宝剣に誓う!」
宝剣に嵌った宝石が反射した光をまき散らす。それは先代の王の戴冠の折に、遥か彼方からでも眩い光であった。宝剣を認めた民は、彼らの王を前へ押しやる。
「……王冠を、王位を賭け、決闘を受ける」
男は意外にも覚悟を決めた声をしていた。王冠を外し祭壇へと置く姿は神に祈るようであった。
姫は側近へ宝剣を預け、長剣を受け取る。
「もう一振り持て」
「その必要はない」
「貴殿とて剣はお持ちか」
剣を握る男に、姫はからかうように笑った。
互いに構え、交互に剣先を当て膝を折る。教会の奥では民が身を寄せ合い、入り口には姫の従えてきた兵が並び、中央の二人を見つめる。
先に静寂を破ったのは男だ。大きく踏み込み、長剣を片手で振る。後ろに避けた姫が男の空いた肘の内側を切りつけるが、刃同士がぶつかり合い、近距離での迫り合いにもつれ込んだ。男が空いた左手で姫の側頭部を殴りつけ、姫は男の腹を蹴りあげる。
どれほどの時間がたっただろうか。幾度となく切り結び、二人の足元はお互いの浅い傷から滴る血で濡れた。
姫は振り落とされる剣を半身で避けると、相手の間合いに踏み込み首元を殴りかかるようにして掴む。男が殴り返すのと、姫が男の足を内から払うのは同時だった。姫は馬乗りになって男の剣を持つ腕を膝で押さえつける。右手は剣を、左手は男の首を掴んでいるため、男の額めがけて頭突きを喰らわせる。もう一度打ち付けるべく頭をあげると、髪を掴まれ後ろへ引っ張られる。剣の柄で男の喉元を殴ると、髪を掴む手が緩んだ。
姫はその隙を逃さず、男の目や鼻を目掛け剣の柄で滅多打ちにする。重い剣を捨て拳で殴ると、姫の拳は男の骨で切れ、男の顔は姫の拳に嵌る指輪で切れた。
「陛下」
側近の声に姫が我に返ると、眼前の男は既に剣を手放し力なく横たわっていた。
もはや姫の横顔には、兄の柔らかな面影を探すことはできなかった。
勝者が立ち上がり王冠を見やると、小さく息を飲む音がした。祭壇の向こうから怯えた眼が見る。彼女の真っ赤な拳からはぽつりぽつりと血滴が落ち、軍服は濡れて黒さを増している。地に伏した統治者の横に立つ彼女を、市民たちは呆然と立ちすくみ遠巻きに眺めることしかできなかった。
姫が振り返ると、兵たちも硬い表情で身じろぎもしなかった。決闘には勝利したが本隊はどうだ。本隊が負ければ首都に突入した部隊だけで一国の軍と抗戦しなければならない。まだ勝利に酔いしれるには早かった。
姫は側近に囁く。
「後々の統治へ響くと困る。口外せぬよう丁寧にお願いしなさい」
「御意に」
兵たちが、民を教会の外へと引きずり出す。
姫はたった一人で祭壇へと歩みを進める。敬虔な使徒のように、重い足取りで一歩一歩を踏みしめ。
外では側近が号令をかけている。常は讃美歌を荘厳に響かせる教会の天井は、悲鳴と破裂音であっても等しく反響させる。物々しいファンファーレに包まれ、彼女は祭壇の前へ立った。
王冠を手に取る。指先は鉛を鋳込まれたように熱く、壊れた拳に血で滑る王冠は重い。思うように曲がらぬ指を無理やりひっかけて、王冠を、己が頭へ戴く。
姫は祭壇に深く沈み込むと、もう立ち上がる気力は残っていなかった。
静まり返った教会に、新たなる王へ額づく者はない。地に伏すは物言わぬ死体のみ。
ステンドグラスから入る光が王の影を落とした。
椅子の後ろから場違いに飾り立てた白塗りの小男が躍り出る。その装いは、血濡れの軍服を纏う王よりもよっぽど豪奢であった。
「新王様万歳!新王様万歳!」
戴冠を祝う宮廷道化師の声だけが教会に空虚に響いた。




