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黄泉の国への使者

作者: S
掲載日:2026/06/27

これはある日見た夢のお話

「ここは……どこだろう」


男はゆっくりと辺りを見回した。


自分が誰なのかさえ思い出せない。名前も、過去も、何一つ記憶になかった。


周囲には人影ひとつない。


壁は奇妙なことに、生き物の肉のようにブヨブヨと脈打っている。


少し離れた場所には段差があり、その下には一本だけ線路が伸びていた。


「駅……なのか?」


男は不思議そうに呟く。


なぜか分からないが、自分はここで何かをしなければならない。そんな感覚だけが胸の奥に残っていた。


男は試しにブヨブヨした壁へ近づき、そっと手を触れる。


すると壁が眩い光を放ち始めた。


次の瞬間、ブヨブヨした壁は跡形もなく消え去り、代わりに重厚な石造りの壁へと変わる。


さらに、何もなかった場所から駅員姿の老人が現れた。


立派な白髭をたくわえた老人は、男を見るなり深々と頭を下げる。


「これからよろしくお願いしますじゃ」


そう言った瞬間、老人の後ろに石でできた机と椅子が現れた。


老人は慣れた様子で椅子に腰掛ける。


まるで最初からそこにいたかのように。


静まり返っていた駅は、少しずつ本来の姿を取り戻していった。


しばらくすると、一人の少女が駅へやって来た。


その姿を見た瞬間、男の頭の中にやるべきことが浮かび上がる。


男はそっと右手を開いた。


すると何もなかった手のひらに、焼きたてのクッキーが二枚現れた。


男は少女へクッキーを差し出す。


「一枚は食べていいよ。でも、もう一枚は駅員さんに渡してくれるかな」


少女は不思議そうな顔をしながらも頷き、言われた通り駅員へクッキーを渡した。


するとクッキーはすぐに姿が消えて、一枚の切符へと姿を変える。


まるで最初からそのことを知っていたかのように、男は静かに微笑んだ。


その直後――。


ポォォォーッ!


遠くから汽笛の音が響いた。


線路の向こうから蒸気を吐きながら汽車が現れる。


少女は切符を握りしめると、嬉しそうに汽車へ乗り込んでいった。


それからしばらくして、次々と人々が駅を訪れるようになる。


背の高いヒョロリとした若者。


立派な鎧を身にまとった英雄のような人物。


小さな体でちょこちょこと歩く小人。


やって来る者たちは皆バラバラだった。


男はその一人ひとりにクッキーを二枚ずつ渡していく。


「一枚は自分で食べていい。もう一枚は駅員さんに渡してね」


人々が駅員へクッキーを渡すと、それは必ず切符へと変わった。


切符を受け取った者たちは汽車へ乗り込み、それぞれ旅立っていく。


そんな中、一組の男女が激しく言い争いながら駅へやって来た。


「だからお前が悪いんだ!」


「何よ! そっちこそ!」


二人は互いに怒鳴り合い、まるで相手の言葉を聞こうともしない。


男は二人の前に立つと静かに首を横へ振った。


「だめだよ」


二人が男を見る。


「喧嘩をしている人には切符は渡せない」


その言葉に二人は口を閉ざした。


駅には静寂が戻る。


男は自分でも理由は分からなかった。


しかし、それだけは絶対の決まりであることを知っていた。


この不思議な駅では、切符を受け取れる者と受け取れない者がいる。


そして男には、その資格を見極める役目があるのだった


だいぶ人を案内したので、俺はふと思った。


「そろそろ黄泉の国へ行ってみるか」


これまで数え切れないほどの魂を導いてきたが、自分自身が黄泉の国をゆっくり見て回ったことはなかった。


俺は境界を越え、黄泉の国へ足を踏み入れた。


そこに広がっていた光景に思わず息を呑む。


天を突くような白亜の大理石の柱が幾重にも並び、巨大な神殿や宮殿が地平線の彼方まで続いている。


まるでかつて世界を支配した大帝国が、黄金の輝きを纏って蘇ったかのようだった。


純白の石畳は太陽のような光を反射し、街全体が神々しい輝きに包まれている。


通りには光り輝く鎧を纏った戦士たちや、煌びやかな絹の衣を身に着けた貴族たちが行き交っていた。


死後の世界とは思えないほど活気に満ちている。


俺はしばらく街を見て回った。


様々な国の魂たちが集まり、誰もが穏やかな表情を浮かべている。


その光景を眺めているうちに、ふと懐かしい気持ちが湧き上がった。


「そういえば、日本はどうなっているんだろうな」


そう思った瞬間、俺は日本へ向かっていた。


黄泉の国の日本区域。


そこは先ほどの大帝国とは全く違う景色だった。


瓦屋根の長屋がずらりと並び、細い路地には人々の笑い声が響いている。


「号外だよ!号外!」


瓦版売りの声が町中に響く。


ちょんまげを結った男たちが肩を組み、着物姿の女性たちが談笑しながら歩いている。


寿司や天ぷらの屋台からは香ばしい匂いが漂い、人々は酒を飲みながら楽しそうに笑っていた。


まるで江戸時代そのものだった。


「これはこれで面白いな」


そう呟きながら歩いていると、一人の女性とすれ違った。


長く美しい黒髪。


透き通るような白い肌。


優しく穏やかな瞳。


誰が見ても息を呑むほど美しい女性だった。


しかし彼女の魅力は外見だけではなかった。


困っている人を見れば自然と手を差し伸べ、どんな相手にも優しく接する。


俺は気が付けば、毎日のように彼女と会うようになっていた。


季節が巡り、二人で祭りを見たり、桜を眺めたり、屋台で食べ歩きをしたり。


共に過ごす時間はどんどん増えていった。


そしてある日。


「ずっと一緒にいてくれないか」


俺がそう言うと、彼女は嬉しそうに微笑んだ。


「はい」


その一言で十分だった。


やがて俺たちは結婚した。


小さな家を建て、穏やかな日々を過ごした。


そして数年後。


元気な子供が生まれた。


だが、その子は普通の子供ではなかった。


父親である俺の不思議な力を受け継いでいたのだ。


その子はスライムのように体を自在に変化させることができた。


腕を伸ばしたり。


丸い球になったり。


翼を生やしたり。


時には犬や猫の姿になって遊ぶこともあった。


「お父さーん!」


ある日、子供が笑顔で飛びついてきた。


すると体がぐにゃりと伸び、そのまま俺の腕に巻き付いた。


まるで腕輪のようになりながら大喜びしている。


「見て見て!」


今度は頭の上へ移動し、帽子のような形になる。


妻はそんな姿を見て楽しそうに笑っていた。


「本当に元気な子ですね」


「ああ、誰に似たんだろうな」


「あなたですよ」


そう言われて俺も笑った。


夕暮れ時。


縁側に座りながら三人で空を眺める。


子供は俺の肩に乗り、妻は隣で穏やかに微笑んでいる。


特別な冒険も。


壮大な戦いも。


そこにはなかった。


だが、それ以上に大切なものがあった。


家族だった。


俺は静かに思う。


「こういう幸せも悪くないな」


赤く染まる空の下。


三人は笑い合いながら、幸せな日々を過ごしていった。


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