別れる意味は・・。
「似合う?」
試着室から、出てきたのは、白いドレスに身を包んだ美央だった。美央たっての、願いで、
嶺が、帰郷すると、すぐ、学生時代に旅行に来てた軽井沢に向かっていた。
「ここで、式を挙げるのが、夢だったの・・。」
美央は、嬉しそうだ。
「って、いうか・・。約束したわよね。」
遠い日に、ここに、来たその日に、美央と、約束したかもしれない。
「ここで、結婚する。」
到着すると、美央は、下見を兼ねて、ドレスの試着を、していた。何枚も、ドレスを、選んでは、着替えていた。
「これは?」
最後に、選んだのは、クリーム色がかった。小花のレースを、しきつめたドレスだった。裾が、ふわりと、膨らんでいる。
「うん。美央は、スタイルがいいから、何を着ても、似合うよ」
嶺は、微笑んだ。心のない笑みだった。
「少し、可愛らしすぎるかな?」
きっと、こういうドレスは、莉音が、似合うだろう。太陽のように、笑う人。彼女との、出会いは、嶺の生活に明かりをともしてくれた。
「あたしのドレス姿は、何の関心も、ないのかな?」
美央は、見抜いた。
「どこか、別の事、考えているでしょう?」
「そんな事ないよ。」
慌てる嶺の態度が、不自然だった。その、下見の帰り道、美央は、ずーっと、不機嫌だった。不機嫌になっても、仕方のない事だらけだったが、嶺も特別、美央の機嫌を伺う事は、しなかった。ただ、結婚式を挙げればいい。嶺の責任の取り方だった。きっと、莉音に、出逢わなければ、美央と普通に結婚していただろう・・・。自分の中の記憶から、莉音の全てを消してしまえば、楽になれる。あれから、莉音に関する全ての物は、処分した。莉音と一緒に買ったティーカップ。そして、彼女から、もらったあの、チョーカーまで、嶺は、捨ててしまった。自分の中から、莉音の全てを消す。それは、メールさえも。一件ずつ、読みながら、消していくと、胸が痛んだ。何度も、繰り返し、読み。そこには、あの日の莉音がいた。もう一度、逢えるような気がする。でも、それは、もう、繰り返しては、いけない。ワスレルンダ。
「ねえ。携帯。鳴ってるけど。」
助手席から、美央が、話しかけた。会社からだった。
「あぁ・・。」
車を、すぐ、道路の端に停め、嶺は、携帯を掛けなおした。
「はい。」
仕事の事かと、嶺は、思った。
「えっ!」
嶺は、何やら、向こうに言われた後、声をあげると、沈黙した。というより、言葉を失った。血の気をひいた嶺の顔色を心配した美央が、嶺の肩を叩いた。
「嶺!どうしたの?顔色悪いけど?」
「いや・・・。あぁ・・。どうして」
嶺は、ハンドルを掴んだまま、顔を伏せた。
「嘘。だ。」
嶺は、ハンドルを叩いた。
「そんな事、ありえない。」
握った拳が、白くなっていた。
「何があったの?」
動揺する嶺の様子に、美央は、心配した。こんな嶺は、見た事がなかった。
「どうしたの?嶺。教えてよ・・。」
「そんな・・。」
同じ言葉を繰り返すだけだった。嶺は、動けなくなっていた。車は、ハザードを出したまま、いつまでも、その場所に、停車していた。
その日。
莉音は、少し、元気を取り戻していた。天気のせいかもしれない。朝から、気持ちよく、晴れていた。会社に出てくると、つい、嶺が、出社しているか、チェックしてしまう。
・・・休みか・・・
嶺の姿は、なかった。今日は、どうしても、サンプルを業者に届けなければ、ならなかった。いつもは、嶺が、自ら、届けてくれてたのだが、この週末は、休みをとって、不在だった。
「顔を合わせなくて、済むし・・。気が楽かも。」
莉音は、嶺の顔を見なくて、済むことに、少しだけ、安心した。今、嶺の顔を見ることは、辛い。彼と顔をあわせると、どうしたら、いいか。判らなくなってしまう。
「とにかく、いい方に、考えないと・・。」
まずは、目前の問題は、仕事だ。嶺が、、休みとなると、誰かが、行かなければならなかった。運転は、あまり、得意では、ない。
「美沙行けない?」
「ダメです。こっちも、間に合わないんです。」
誰にも、頼めなかった。
「まいったな・・。」
先方からは、納期を急ぐなら、サンプルを急ぐようにとの、電話が、入っていた。
「今日は、みんな会議か・・。」
回収品の、臨時会議が、あって、課長以上が、いなかった。
「ちょっと、がんばりますか・・。」
仕事を、頑張れば、嶺の事を、考えなくて済む。莉音は、事務所に行くと、車のキィーを借りてきた。
「英!大丈夫なのか?」
現場の、人間が、声をかけてきた。
「平気!」
手を、振って、エンジンをかけた。そう、莉音は、自ら、運転し、納期に間に合せる為、サンプルを乗せ、山道へむかった。よく晴れた、気持ちのいい、午前中であった。この所、嶺との事が原因で、すっかり痩せてしまった。食欲もあまり、でない。何かを食べたいとは、思えなかった。夜もあまり眠れない。気がつくと、以前、嶺からきたメールを遡り、読んでいる。
・・・もう、消さなきゃ・・・
毎日、嶺のメルアドを消そうと思っていた。でも、出来なかった。いつか、嶺から、メールが、くるかもしれないと、思っていた。嶺が、別れると言ったのは、きっと、何か理由があったのに、違いない。そう、何か、理由があるはず、きっと、待っていれば、何か、連絡をくれるはず。
「待っているよ。」
そう、無理に忘れる事は、必要ない。思うのは、自由だ。運転していると、車から、音楽が、流れてきた。嶺と、一緒に、旅行に行った時に、聞いた曲だった。
「この歌・・。」
聞いていると、嶺を思い出す。優しい彼。自分を、見つめる目。指先。何一つ、彼の事を、忘れてなんかいない。大好きな彼。このまま、嶺への思いを持ったまま、死んでしまってもいいかもしれない。
「そうだよ・・。」
心が、嶺を、求めている。嶺に逢いたい。
「逢いたいよ。」
嶺は、週末、何処で、何をしているのだろう・・。いや、想像するのは、止めよう。きっと、彼は・・。
「逢わせて、ほしい。」
・・・と。携帯がなった。いや、なったような気がした。
「嶺?」
嶺かもしれない。ふと、バッグの中の携帯を、片手で探った。バッグの底に、携帯は、あるはず。
「何処だっけ?」
上り坂が、幾つも続いていく。器用に、ハンドルを、きりながら、携帯を探した。
「あぁ。」
手が、滑って携帯を落としてしまった。
「全く、こおいう所が、駄目なんだ。」
片手で、拾おうと、屈んだ瞬間だった。目の前に、カーブを、下ってくる車の前方が、迫っていた。
「!!」
瞬間、きっと、その名を、叫んでいたのだろう。心から。その声は、嶺に届かなかった。
「莉音が・・・。」
搾り出す声。嶺は、運転する気力を失っていた。
ようやく、口を開いた嶺は、会社の同僚が、事故に合った事を、美央に告げていた。
「会社の同僚なの?」
同僚と、いうわりに、嶺の、動揺は、激しいものだった。
「莉音が、事故に。」
「莉音さんというのね。」
嶺の、動揺が、激しい為、美央は、運転を、代わっていた。この嶺の、様子は、明らかに、莉音という女性が、嶺の、同僚以上の存在である事を、物語っていた。
「事故なの?」
「詳しい事は、判らないけど、事故だと、言っていた」
嶺は、拳を噛んだ。
「とにかく、戻らないと。会社へ・・。いや、病院へ行かないと」
嶺は、あせっていた。
「落ち着いて。嶺。」
こんな状態の嶺は、見たことがない。美央まで、少し、動揺していた。
・・・きっと・・
美央は、思った。
・・・この事故は、嶺の・・・
そう。自分より、嶺が選んだ人が、何か事故に合ってしまった。美央は、真っ直ぐ正面を見据えた。
「嶺。しっかりして。」
今、自分が、この人を、支えなければ。美央は、とにかく急ぐ事にした。一緒に、嶺の住む街へと、車を走らせていた。
そこは、冷たい空間だった。ただ、無限に白く、長い廊下。突き当たりに、紅く光る表示灯が見えた。長椅子に、線の細い優しげな男性が、うなだれ座っていた。そこまで、どうやって、たどり着いたか、判らない。美央が、途中まで、運転してくれた。そう、駅まで。彼女も、遠距離を運転するのは、自分の体調から、無理と考え、新幹線を乗り継いで、向かうことを、提案した。車を預け、美央と嶺は、取り急ぎ、莉音の運ばれた救急病院へとたどり着いていた。
・・・一目、見てみたい・・・
美央の気持ちだった。こんなに、嶺を失望させ、苦しませるのは、ただの同僚でない事を察しさせていた。自分から、嶺の心を奪い、今も、占領し続ける女の顔を見たいと思っていた。だが、その人は、今、生死の境をさまよっていた。
「嶺?」
血の気を失いたちすくむ、嶺の前に、力を落とし、長椅子に腰掛けていた男性が立ち上がった。先に、着いていた会社の上司と職場の何人かが、挨拶を繰り返し、一人が、嶺に近づいてきた。
「七藤。英さんのご主人だ。」
嶺の目が、見開いた。ようやく、目の前にいる莉音の夫の存在に気づいたようだった。
「あぁ。初めまして・・・。」
嶺は、ぎこちなかった。いろいろ次々と起こる事に対処出来ないでいた。目の前にいるのが、恋焦がれていた莉音の夫なのか・・・。こんな形で、巡り合う事になるなんて。でも、一番の、問題は、いまだ、手術の終わらない莉音の様子だった。
「トラックが、センターラインを超えてきたらしく・・・。レスキューくるまで、ずーと、ハンドルの間に挟まれてたみたいで。」
莉音の夫が、か細い声でいった。
「かなり、がんばっていたんですが。」
後は、涙になって、聞き取れなかった。その様子から、今、莉音のおかれている状態が、手にとるように、わかった。あまり、よくない。
「英は。」
その後を、莉音の上司が続けた。
「頭を、打ったらしく。今、頭の中の手術に入ってる。かなり、厳しいらしいな。胸も強打しているそうだ。」
「万が一、命が助かったとしても・・・。」
夫が続けた。
「心臓に、問題があるらしく。子供は、もう、望めないだろうと」
・・・あぁ。神様・・・
人は、こういう時、神と呼ぶのだろうか。嶺は、後悔していた。何故、自分は、一緒にいてやれなかったんだろう。別れを選んでしまったんだろう。繋いだ手は、二度と繋がらない。莉音の手を離した時に、彼女は、さらわれてしまった。もしかしたら、二度と、逢えないかもしれない。もう、二度と、莉音の、あの瞳をみる事は、ない。あの声を聞く事もない。そして、あの体温を感じる事もない。莉音の魂は、今、離れようとしている。
・・・莉音、逝かないで、ほしい・・・
嶺は、人目もはばからず、嗚咽を漏らした。耐え難く、涙がこぼれてくる。悟られては、まずい。あわてて、その場をさろうと、背を向けると、美央が、後ろから、声をかけた。
「嶺。その人なんでしょう?あなたの好きになった人」
嶺は、美央にふりかえった。口を手で、覆っていたが、その目が、真実を物語っていた。
「美央」
動揺した瞳が告げていた。美央のいう通り、莉音が、その人であると。
「嶺」
美央も悲しかった。絶望の悲しみが、嶺の瞳に満ちていた。嶺の、瞳は、涙をうかべ、美央に全てを告白していた。
・・・この人は、彼女を愛してる。そう、私よりも・・・
悲しかった。自分より、彼女を深く愛している事を、目のあたりにしたから。今、彼は、目の前に、いる自分より、中にいる彼女の命を案じ、苦しんでいる。彼の悲しみが、悲しかった。嶺は、今、一人で、苦しんでいる。
「そうなのね。」
思わず、美央は、駆け寄り、嶺を、抱きしめた。
「美央」
悲しみは、同じだった。嶺は、美央を抱きしめ、泣き出した。声を殺し、美央の横顔に、うなだれて・・・。
外は、雨が、降り出していた。まるで、莉音の涙のように。地に振りそそいた雨は、次の雨を呼んだ。次から、次へと、雨は、地面に、降り注ぎ、大きなクレッシェンドへ。次第に、季節外れの雷雨へと、変っていった。雷鳴は、鳴り響き、雨を、地面に叩きつけた。今、莉音は、この世を、去ろうとしていた。
「莉音」
この名を、後、何度よぶ事が、出来るのだろうか。切ない祈りだけが、続けられていた。
季節は、莉音だけを、残して巡っていった。嶺の周りは、少しずつ、日常の生活に、戻っていき、莉音だけが、まだ、時間の流れの外にいた。
莉音の魂は、まだ、この世に留まっていた。抜け殻のような体に、かろうじて、結びついている。彼女の時間は、嶺と別れてしまったあの時間の、中で、止まっていた。
雨が、あがり、屋上から見渡す眼下は、ピンクの海が広がっていた。桜が、満開だった。周りへと、広がる景色は、どこも、ピンクの小高い山々が、広がり、なんともいえない景色が、続いていた。ピンクの濃淡。遠く、所々に、黄色いじゅうたんが広がり、陽の暖かさに、甘い、香りが、立ち上っていた。
「判るか?莉音?」
莉音の瞳は、開かれたまま、遠い景色を映し出していた。色素の薄い両目には、通りすぎる新幹線が、反射してみえた。だが、莉音の瞳は、光をおう事は、なく、意識もなく、見開かれたまま、そこに、あった。点滴のチューブが、日の光を反射している。
「桜。咲いたんだよ・・・。一緒に見に行きたいって、言ってたよね」
とりあえず、命は、とりとめたものの、莉音の意識は、戻らなかった。目をあけ、時折、眠ったりは、するが、発言はなく、立ち上がり、歩く事もなかった。ただ、そこには、莉音の顔をした人形がいるのと変らなかった。
「一人で、無理するなよ。」
「・・・・」
「何で、何も、言わないんだよ。」
嶺は、莉音の手に触れてみた。体温は、温かいのに、何も、言おうとしてくれない。
「それでも・・。」
この世に命を、とどめて欲しいと、祈った。どんな莉音でも、受け止める。だから、魂だけでも、結び付けて欲しい。それが、叶ってなのか、莉音は、残った。そう、器だけの形で。
あの日、手術は、長時間に、及んだ。嶺は、莉音の夫と、美央と3人で、夜を明かそうとしたが、長時間の運転と、緊張状態とで、美央の体を、気遣い嶺は、一旦、マンションに帰っていった。夫への、気遣いもあったのだが、翌日、美央と、嶺が、病院で、目にしたのは、ICUで、いくつ物、チューブに繫がれた変わり果てた莉音の姿だった。
「会社の方ですか?」
何度も、心配して現れる嶺に、そう言った。美央と一緒にいるので、深く探られる事は、なかったが、後で、何も言わなくなる美央の、様子が気がかりだった。
「結婚は、しばらく、お預けね。」
寂しそうに、美央は、言った。そう、言われても、答える気力もなかった。
「そうだね。」
嶺は、答えた。今は、莉音の、事しか考えられない。
「とり合えず、帰るから。」
美央は、送らせる事もせず、すぐ、帰っていった。
「メール待ってるから。」
最後に、そう言った。風が冷たくなってきたので、嶺は、カーディガンを莉音にはおらせた。遠くから、桜の花びらが、風に乗ってくる。
「桜、咲いたよ。」
莉音は、何も答えない。
「桜か・・。」
遠くを、見下ろした。何かを、振りきるように嶺は、車椅子を押し、部屋に戻ろうした。・・・と、後ろから、そっと、近寄る影があった。莉音の夫であった。
「こんにちは」
逆光で、まぶしいのか、莉音の夫、陸斗は、目を細めた。
「七藤さんですね?」
「はい。」
嶺は、きた。と、思った。畏れていた瞬間。陸斗は、そばにあるベンチに座るよう、嶺をうながした。
「どうぞ・・。」
「すみません。」
「あなたは、あの時も、来てくれていたんですね。」
「はい。」
「莉音は。彼女は、あなたが、来るのは、判るみたいなんです」
「えぇ?」
嶺は、陸斗の顔をみた。それは、莉音と嶺の間を知っているというように、聞こえたからだ。
「すいません。あなたが・・。あの時のあなたを見た時に、僕は、気づいてしまって。」
優しい莉音の夫。持っていた、嶺に渡そうとしていたのか、缶コヒーを、手の甲が、白くなるまで、握り締めていた。
「莉音の思っていた人は、あなただったんですね?」
真っ直ぐな目で、嶺を見つめていた。
「莉音さんは、何かいいましたか?」
呼び捨てになりそうなのを、あわてて、さん付けに直した。
「いえ。何も、言わなかったんですけど。一緒にいるとわかるんです。心の中に、僕じゃない。誰かがいるって事が。」
嶺をじっと、陸斗は、見つめ続けていた。嶺が、なんて、答えるか、身構えているかのように。
「すいません。」
嶺は、まず、そういった。
「彼女を愛しています。」
「ふっ・・・。」
陸斗は、笑った。
「今の状況でなかったら、殴ったかもしれませんね。」
莉音の車椅子を、押す手が、嶺から、陸斗にかわった。
「でも、僕が、話しかけても、何もかわらないのに・・。七藤さんが、話かけると、表情が、和らぐんです。あなたは、気づいてましたか?」
愛おしそうに、陸斗の手は、莉音の頬を撫でていた。
「悔しいですよね。僕が、夫なのに。」
何て、哀しい顔をするんだろう・・。嶺は、胸が痛くなった。この2人を、自分が、苦しめているのは、自分なのだ。
「この人の、心の奥に届いているのは、七藤さん。あなたの、声だけなんですね。」
「そうですか・・。」
嶺の目から、涙がこぼれた。自分だって、莉音の声が聞きたい、そこにある、両目で、自分を見つめて欲しい。それなのに、こんなに、傍にいるのに、莉音には、自分の声が、届かない。
「あなたが、莉音を愛しているのは、わかります。でも、僕も・・・。」
陸斗は、寂しそうに、笑った。
「悔しいけど・・・。彼女を譲る事は、出来ないんです。」
「わかってます。でも、柴崎さん!」
嶺は、遮った。
「お願いです。せめてもの、お詫びに・・。彼女の意識が戻るまで・・・。面倒を見させてもらえないでしょうか?」
「それは、無理です」
当たり前だと思う。それでも、嶺は、陸斗に、食下がった。
「お願いです。」
頭を下げた。
「どうして・・・。彼女が、事故になったか。考えてみたんです。」
陸斗は、続けた。
「携帯に気をとられたようなんです。彼女の膝の上に、落ちてて・・・。救急隊員が駆けつけた時、何て言っていたか、聞きたいですか?」
その声は、裁判の判決を言い渡す調子にも、似てた。冷静で、感情を殺した声。
「何回も、呟いていたって・・。僕の事じゃないんです。嶺の電話に出なきゃって。」
それを、聞いて、嶺は、息がとまりそうになった。
「履歴にも、ないのに。ずーと、あなたから、電話がかかってくるのを、待っていたんですよ!」
あぁ・・・。莉音は、自分を待っていた。判っていたけど。別れるって決めたあの時から、連絡はしないって。決めていたのだ・・・。自分だって、莉音に逢いたかった。声が、聞きたかった。
「・・・だから。すいません」
陸斗は、怒っていた。嶺の手をはらいのけ、陸斗は、車椅子を押し始めた。
「好きだから、愛しているからって、幸せに出来なければ、何の意味があるんです?莉音を、あなたは、幸せに出来るんですか?」
そうだ。どんなに、切なく思い焦がれたとしても、相手を不幸にしては、いけない。幸せにできるのは、自分でないかもしれない。現に、自分は、今、他の女性と、結婚しようとしているではないか・・・。何も、言えない。黙って、陸斗に、押されていく車椅子の莉音を、後ろ姿を、見送るしかなかった。こんなに、莉音を愛している。莉音も、きっと。でも、もう、これで、本当に、逢えなくなるのか・・・。せめて、命が助かった事だけを、喜べばいいのか・・・。
「莉音。遅かったんだね。」
遠く、桜の花が、儚く、しらじんでみえた。
温か空気の中に、自分は、いた。胎内の様な安心感があった。周りは、優しいピンクに包まれ、それは、満開の桜のようでもあった。体をゆっくりと動かす・・。指先の感触を確かめるように、手の平を開き、また、こぶしを握ったりしてみた。誰かが、自分を呼んでいる・・・。懐かしい声。両脚を抱き、両膝に頬を摺り寄せた。
・・・誰だろう・・・
莉音は、声のする方を、見上げようとしたが、何も、見えなかった。と、いうより、体が、動かなかった。遠い声を、思い出せと、心が、叫んでいた。思い出さなければ、いけない。大切な人。誰かが、自分を待っている。
「誰?」
その声は、とても、懐かしい声をしていた。
切ない夢だった。美央は、明け方、目が覚めた。出社するには、まだ、早い。時計を見やりながら、ノンカフェインのコーヒーを入れ始めた。携帯の、メールのチェックした。嶺からは、特にない。あれ以来、嶺は、心が、壊れてしまったかのようだった。ささやかな、式を挙げる予定だったが、嶺のあんな様子で、すっかり、遅れてしまっている。少しずつ、大きくなってくるお腹を、気にしつつも、嶺の心に、自分の入りこむ隙もない事も、この子の事を、心配してくれる事もないのを感じ取っていた。自分は、本当に、嶺を愛しているのだろうか・・・。これは、愛では、なく。執着では、ないのか。このお腹の子さえ、いれば、三人幸せになれると思っていたのは、間違いなのか。今の嶺は、魂の抜け殻だ・・・。あの、莉音は、嶺の意識まで、一緒に、記憶の奥底に沈めてしまった。
「どうしてよ。嶺。」
美央は、泣き出した。このままでは、自分は、幸せになれない。嶺と、一緒にいたい。そう、思っていた。だが、今の嶺は、自分の知っている人ではなかった。
「もう、戻れないんだよ」
美央は、嶺に、メールを打ち始めた。
嶺も、切ない夢を見ていた。あれから、自分の時間が、すっかり止まっていた。手術室に、駆けつけた嶺が、思わず、泣いてしまっても、会社側は、何も、気づかなかったが、莉音の夫、陸斗には、すっかり悟られてしまった。あの、屋上であった日を最後に、莉音には、逢えてなかった。もう、別れると、決めたあの日に、莉音との思い出の物は、全て、処分してしまっていたから、何一つ、莉音の思い出の物は、なかった。莉音のあの、笑顔を思い出そうとしても、目に浮かぶのは、人形の瞳をした、表情のない莉音だった。
「莉音」
夢の中に、莉音は、いた。長い髪をまとめ上げ、浴衣を着たあの日の、莉音のままだった。顔がよく見えない。
「莉音!」
声をかけようとしたが、莉音は、すっと、消えていなくなってしまった。声をあげて、泣いてしまいたい。哀しくて、哀しくて。莉音を自分の傍に置こうと、出来なかった自分の非力さをのろった。
「莉音」
声が、漏れた。誰の声かと思ったが、自分の声だった。目をあけると、目尻から、温かいものが、零れ落ちるのが、わかった。涙だった。
・・・いつも、この夢をみる・・・
心が、莉音を求めていた。起きて、窓を開けてみた。冷気が、入り込んできた。春とは、いえ、まだ、朝は、寒かった。
・・と、携帯が、メールを告げた。美央から、だった。
・・・今日、時間があいてる?・・・
美央と、逢っていても、心は、虚ろだった。一度は、一緒に生きようと考えていたが、もう、心が、折れてしまった。今は、莉音に殉じたい。
・・・逢えない・・・
・・・これからの、事を考えて!・・・
・・・こんな気持ちのまま、先には、進めない。こんな俺で、気にならないの・・・
・・・それでも、この子には、生きる資格は、あるでしょ?・・・
・・・わかってるよ。どうしたいの・・・
そうだ。先に進まなくては、ならないのだろう。自分の気持ちも。莉音への気持ちも。置いたまま、時間は、流れていく。自分の、気持ちは、もう、莉音と一緒に、どこかへ、消えてしまった。こんな抜け殻のような男を、必要として、生まれてくる子が、いるのか。
・・・美央。君の意思にまかせるよ。全ては、君のままに・・・
「逢って!」
嶺は、美央と逢うため、仕事を今日も休む事にした。
莉音は、眠っていた。ずーと、あれから、ほとんど、眠っている。意識をとりだしたような、目を開けるのは、一日のうちの、ほんの僅かな時間だった。それは、嶺のくる時間。何故か、嶺の来る少し前になると、待っていたかのように、目を覚ますのだった。だが、最近。嶺の訪問を陸斗が、断ってから、その時間も、少なくなっていた。気のせいか、どんどん莉音は、痩せ衰えていった。
「莉音」
陸斗は、懸命に、莉音の看病をしていたが、結果は、余りいいものでは、なかった。
「俺じゃ、ダメなのか・・・。莉音」
莉音の、目は、閉じられたままであった。どんなに、陸斗が、尽くしても、状態は、代わらない。
その日、美央と、嶺は、逢う・・・はずであった。・・が、嶺の向かったのは、莉音のいる病院の、喫茶室であった。真向かいにいるのは、紛れもない莉音の夫。陸斗である。
「もう、逢いに来て欲しくないっと、いった筈ですよね」
陸斗は、静かに、迫力のある声で、言った。
「何を、言われても、覚悟する気持ちで来ました。」
嶺は、しっかりと、陸斗を見据えた。
「間違っていると、思っています。あなたに、これをお願いするのは。でも、それでも、僕は、気持ちを伝えたい。そう、思って、僕は、今日、来ました。」
嶺は、椅子をひいた。
「何を言い出すつもりだ?」
「莉音さんを、僕に下さい。!」
嶺は、額を、テーブルにこすりつけ。何度も、頭を下げる。
「はぁ?冗談だろう!何を言い出すつもりだ?」
嶺は、陸斗に、土下座しようと、していた。
「馬鹿を、言っているのは、わかります。でも、莉音の傍にいさせてください」
「ふざけるな!」
気がつくと、陸斗は、嶺の胸ぐらを掴みあげていた。
「何を言ってるんだ!あまり、怒らせないでくれ!」
「本気です。」
嶺も、負けていなかった。喫茶室は、さほど、人がいなかったが、2人のただならぬ、雰囲気にまわりが、ざわつき始めていた。
「莉音と一緒に居たいんです。」
嶺は、陸斗の手を振りほどいた。
「莉音と別れてほしいんです。」
「ふざけるな!」
「あきらめません。ようやく、わかったんです。遅すぎたのかも、しれない。だけど、今、決心しなければ、後悔する」
嶺と陸斗は、激しく睨み合った。
「僕は、莉音を選びたい。何よりも、そうしたい。あなたから、莉音を奪いたいんです。」
「許さない。俺は。こんな事、あっては、いけないんだ。」
「今日は、これで、失礼します。だけど、莉音は、僕を待ってると、思います。」
「・・・」
陸斗は、言葉を失った。嶺は、陸斗に軽く、一礼をすると、伝票を、掴み上げ、喫茶室を出て行った。
これで、いいんだ。何を迷う必要ある。美央の事は、解決しなければ、いけない。だが、今、一番、自分が、守らなくては、いけないのは・・・。後悔する訳にいかないのは、莉音の事だった。あの日、初めて、強く、思った。失いたくないと・・。どんな形であれ、莉音を手に入れたいと・・・。今、動かなければ、後悔する。莉音と、一緒に生きよう。その為に、誰かを傷つける事になるかもしれない。だけど、大切な人を傷つける訳には、いかない。・・・そう、決めた。嶺に、迷いは、なかった。自分が、周りを、傷つけまいとしたばかりに、莉音を傷つけてしまった。本当に、遠回りをしてしまったが、結論は、でた。莉音と生きる。美央に、そう告げよう。彼女の、心も体も傷つけるだろう。だが、もう、迷いは、許されない。
嶺は、新幹線に乗り、美央の待つ街へ、向かった。美央は、待っていた。嶺が、自分に逢いに来てくれるのを・・・。2人よく行った駅ビルの、最上階。街並みが、よくみえるラウンジで、嶺が来るのを、待っていた。
最初は、少し遅れるとメールがあった。1時間くらい?と思っていたが、時間は、段々遅れ、午後になっていた。雨が降り出し、少し、温度が下がってきた。妊娠している美央に、同じ姿勢で、待ち続けるのは、辛かった。
「今日、届けを出そう。」
そう。答えを出そう。莉音の件で、遅れてしまったが、ここまで、きた以上、嶺と一緒になるのが、一番いいのだろう。莉音には、あんなに素敵な夫が、いる。それは、嶺もわかっただろう。そして、莉音と別れる気はない。もう、嶺は、魂を抜かれた状態で、もしかしたら、もう、自分の事を、振り向いてくれないかもしれない。それでも、美央には、嶺に傍にいて欲しかった。
・・・何か、あったのかな?・・・
バッグには、婚姻届を入れてきた。自分のサインは、してある。嶺と、そのまま、届けに向かうのだ。携帯がなった。
「はい」
嶺から、だった。
「遅くなって、ごめん。今、エレベーターで、向かってる。見えるよ。」
嶺からは、携帯に、むかって話す美央の姿が、見えていた。
「良かった。待ってるから。いつもの所だか・・・」
言いかけた。エスカレーターを、振り返り、嶺が、上ってくるのを、確認しようと、振りかえろうとした。・・・その時。
「あっ!」
美央が、叫んだ。柱から、幼稚園児くらいの子供が、2人競い合いながら、飛び出し、美央の、お腹にあたり、いきなり、あたったのだ。子供は、跳ね返り、臀部から床に、落ちた。
「だ・・?大丈夫?」
美央は、駆け寄り、子供を抱き起こそうとした。
「っ・・・!」
激痛が、下腹部を襲った。
・・・え?・・・
恐る恐る美央が、自分の、下腹部を見下ろすと、何かが、流れていく感触が、あった。暖かいもの。美央は、手でまさぐりながら、見た。それは・・。
「大丈夫ですか!」
子供の、母親とおぼしき女が、叫びながら、美央に駆け寄った。美央の、脚の間から、赤いものが、流れ落ちていたのだ。
「す・・。すみません」
あわてて、子供を抱き起こしながら、美央を、みやった。
「大変!」
その母親は、美央を、見上げた。
・・・痛い!・・・
美央は、思わずしゃがみ込んだ。
「誰か!救急車!」
叫ぶ人達の中に、嶺の姿をようやく、みつける美央だった。
「眩しい・・・」
否応なしに、瞼に、オレンジの光が、入ってきた。目を開けられない。うっすらと、ほんの少し目を開けると、覗き込んでいる姿が見えた。嶺だった。
「嶺」
もう、逢えないかもしれない。と、不安が、よぎっていた。時間に遅れない嶺が、遅れてくる。それだけで、もう、自分への、思いは、減ってきていると感じていた。が、自分の意識が遠のくなか、しっかりと、自分を抱きかかえていたのは、他でもない、嶺だった。
「嶺。居てくれたの。」
傍にいてくれるだけで、嬉しい。
「ずーと。」
嶺は、美央の手に、そっと、触れた。
「ここに居たよ」
以前と、変わらない声。そして、その瞳。
「そう」
美央は、ゆっくり微笑んだ。
「昔みたいね」
そう。大学の時と変らない。嶺は、自分だけを見つめてくれている。昔と変らない。じっと、自分をみつめ、今、傍に居てくれる嶺は、大学時代と、何一つ変らなかった。
「そうだね」
嶺も、笑った。
・・・でも。・・・
美央は、思った。変ってしまった。ここに、嶺は、居てくれる。でも、嶺の心は、あの人の心と、闇に沈んだまま。遠い意識の海へ、今も、一緒に、沈んでいる。それは、いつ、戻るかも判らない。嶺の心を、捕らえ、離さず、共にある。自分の、傍にいる嶺は、抜け殻でしかない。それでも、一緒に居たいと、願う自分が、悲しかった。こんな男忘れたかった。自分を愛し、自分だけを、見つめていてくれた、この男は、もう、変ってしまった。もう、あの自分だけを、見つめてくれた嶺では、ない。心が、なくても、自分は、いてほしいと思うのか・・・。惨めでは、ないか。傍に、嶺が、居てくれればいい。取り上げられたおもちゃを取り戻すかごとく、計った妊娠で、あったが、嶺の心が、最早、自分のものにならないと、思い知るだけの結果になっていた。もう、止めようか・・・。もう、この人を、縛りたくない。心配し、抱き寄せてくれた、あの時に、感じた。この人は、こういう人だ。だから、自分は、愛した。もう、自由にしてあげよう。あの人の、海にこの人を、還してあげよう。それが、自分が、嶺という男を愛した証だ。
そう、思うと涙が、あふれて来た。とまらない。目尻を次から、次へと、塗らす涙で溢れていた。
「どうしたの?」
変わらない声で、嶺が、問いた。
「あのね・・・。嶺」
嶺をみつめた。涙が止まらない。初めて、素直になれた気がしていた。
「泣くの?美央。」
嶺が、美央の涙を、ぬぐった。
「ずーっと、寝顔見て、考えてたんだ。結婚しようか・・・。」
昼ごはんの、メニューを選ぶかのように、ごく自然に、簡単に。美央の長年待っていたその台詞は、突然、飛び出した。嶺は、言った。
「君が、受け入れてくれるなら・・・。一緒に、その子を育てようか。」
「嶺」
嬉しい。ずーっと、待っていたその言葉。でも、もうすこし、前なら、もっと、嬉しく感じられた。でも、今は、その言葉の影に、莉音が、ちらついていた。
「嶺。」
意外と、冷静な声が出た。嶺は、美央は、受け入れるだろうと、思っっていた。・・・が。
「もう。いいから。あの人の所に行って。」
美央は、首をふった。心に反した答えだった。
「この子は、あたしが、育てる。ここに、気持ちのない嶺に居てもらっても、嬉しくない」
その通りだ。美央は、思った。嶺の中に、莉音が、すんでいる。これから、嶺をとおして、彼女の姿を、感じていくのだ。それは、耐えられない。
「美央。」
美央の、態度は、意外でもあり、ほんの少し、ほっともした。
「あたしを、見てくれない嶺にいられても、辛いだけなの。」
そうなんだ。と、嶺は、目を伏せた。
「美央。ごめん。」
否定は、できない。本当の事だ。
「今の俺には、時間が、必要だと、思う。・・・けど。」
「子供の事?」
嶺は、辛そうだった。辛そうに、自分のお腹の子を心配する嶺に、美央は、腹が立った。
「あたしが、育てるの。愛してくれない人に、居てもらっても、嬉しくないって、言ってるでしょう!」
言い様のない怒りが、渦巻いていた。その訴えは、裏返すと、嶺に、愛して欲しいと、聞こえた。嶺には、美央の、気持ちが、痛いほど、わかっていた。
「美央。すまない」
「何を、謝ってばかり!」
「すまない。」
「あたしが、言って欲しいのは、そんな言葉じゃない。義理で結婚してもらっても、嬉しくない。あたしが、欲しいのは、嶺の心なの!」
一度に、感情が、爆発した。涙も止まらない。悔しいけど、鼻水まで、出てしまった。思わず、傍にある枕を投げつけてしまい。枕は、傍にあった花瓶にあたり、騒々しい音をたてて、花瓶は、床に落ちていった。
「嶺。それでも。心が、無いと、判っていても・・・。あたしは、嶺と居たいと思ったりするの。どうして、どうして。こんなに、嶺が、好きなのに・・・。判ってくれないの・・・。」
美央は、両手で、顔を、覆い嗚咽を漏らし激しく泣き出した。こんなに、美央を苦しめている。かつて、愛した人。この人を、自分は、愛おしく思った日もあったのに。今、自分は、苦しめている。
「美央。少しだけ・・・。待ってほしい。少しだけ。時間が、あれば、君を思うようになる。」
嶺は、美央の両手に、自分の右手を重ねた。
「少しだけなんだ。」
美央は、涙に、濡れた顔を出し、嶺に、そっと、キスを求めた。
莉音は、ずーとベッドに、座り続けていた。何を見る訳でも、なく、時折、瞬きをする瞳には、誰を写す事もなく。その瞳は、淡い茶褐色に、輝き、半眼で、自分の心の淵を見ているようにも、見えた。
陸斗は、仕事が終わると真っ直ぐ、莉音の、いる病院に、向かっていた。何度きても、様子は、変らず、どうにか、食事を、介助すれば、取れるまでには、なっていたが、自発的に、発言する事もなく、まるで、お人形さんのような様子へと、変っていた。
「俺じゃ、駄目なのか」
話しかけても、何の表情の変わりも無い。陸斗には、莉音が、誰を待っているのか、悔しいが、わかっていた。かといって、それを認めてしまうのは、自分の莉音への愛情を否定されてしまうようで、認められないでいた。ショックだった。友達の紹介で知り合い、ごく普通に結婚した。穏やかで、可愛い人だと、思っていた。料理好きで、一緒に、よく、料理をした。何度、思い返しても、自分の知っている莉音と、あの若い嶺という男の知っている莉音は、別の女性に思える。でも、本当の莉音は、あの若い男と一緒にいる莉音なのだろう。夫の直感だった。あんな、若い男に負けてしまう事も、プライドの高い陸斗には、耐えられない事だったが、そのプライドも、嶺と一緒にいる莉音を、見た時に、もろく崩れ果てた。
・・・この2人の間に、自分は、入れない・・・
陸斗が、感じた瞬間だった。莉音は、嶺という男を求めている。莉音の沈んだ意識が、覚醒する兆しを見せるのも、嶺といる瞬間だけだった。今日、陸斗は、外から、莉音のいる病室の光をみつめ、そっと、帰る事にした。
「莉音。帰るよ。」
外から、莉音のいる部屋を見上げ、そっと呟いた。その、窓辺に、その嶺の影が、浮かび上がる事に気付く事なく・・・。
「莉音。来たよ」
嶺は、美央と、別れた後、真っ直ぐ、莉音の元に戻っていた。莉音に伝えたい事がある。
「報告しなければならないんだ」
嶺は、何も言わない莉音の隣に座った。
「聞いて欲しい。」
嶺は、莉音の右肩に、そっと、腕を廻した。細くて、あの日よりも、細くなりすぎた肩。長く伸びすぎた髪は、うねり、いつも、クセ毛を、嫌がっていた莉音の口癖が、懐かしい。
「莉音。一緒にいたいと、思う気持ちに変りはない。ずーと、一緒にいたい。だけど・・・。莉音。」
莉音は、嶺が、自分に話しかけるのが、わかるのか、声のする方を模索するかの様に、瞳を動かしていた。だが、嶺の姿を、上手く、捉える事は、出来ない。
「莉音。キスしてもいい?」
嶺は、莉音の、頭を、軽く抑え、髪を撫でた。久しぶりの、莉音との、キス。乾いた莉音の唇だったが、嶺の、唇で、少しだけ、潤った。一度、唇を離した。が、また、唇を合せたいという衝動にかられた。最初は、軽いキスのつもりだったが、嶺は、貪る様に、今までの、時間を埋めるかのように、莉音の唇を貪った。先ほど、美央と、重ねたキスとは、違う。莉音を求めるキス。
「莉音・・・。」
嶺は、莉音の額に、自分の額を押し当てた。
「莉音。あと、少ししか、時間がない。俺達、いつかは、別れなきゃ。別れなきゃって言ってたよね。本当は、その時は、別れなくて、良かったんだよ。」
莉音が、愛おしい。
「少しでも、一緒にいたかった。莉音。」
莉音の傍にいたい。願わくば、この心だけでも、傍に置いて欲しい。
「俺の我がままなんだ。莉音。俺さ・・・。」
もう、一度、莉音にキスした。
「美央と結婚する事にした。」
鼻先を、莉音に押し付けた。ひんやりとする莉音の鼻先。本当に、お人形さんに、なってしまったんだろうか。
「守らなければ、いけない事が、出来たんだ。莉音。判ってくれるね?」
嶺は、莉音をみつめた。莉音の、瞳が、少しだけ、潤んだように、見えた。それは、睫をぬらし、やがて、あふれ出て、目尻をぬらし、頬へと零れ落ちていった。
「莉音?」
嶺は、両手で、莉音の、両目を凝視した。
「判るのか?わかるのか?莉音・・・。」
嶺は、莉音の両目を、覗き込み、莉音の、名前を何度も、叫んだ。次から、次へと、涙は、あふれるのだが、その瞳に、嶺の姿をはっきり捉えることは、なかった。その涙は、単なる偶然だろうか・・・。
「莉音・・。頼む。戻ってきてくれ!時間が、ないんだ・・・。」
頬を押さえ、瞳を、覗きこむ。この、どこかに、あの英 莉音がいる。嶺は、願いを込め、莉音の意思が、そこにあるかのように、話しかけようとしたその時
「また。おまえか!」
振り返ると、かえった筈の、陸斗が、恐ろしい形相で立っていた。
「莉音は、渡さないって、言った筈だよな・・・。」
見ると、陸斗が、持っていた紙袋から、小さな果物ナイフを取り出していた。
「ずーと。考えていた。莉音の事を。どうしても、心が・・・。お前の、所から戻らないなら、どうしたら、いいかを・・・。」
嶺は、じっと、陸斗のこれから、起そうとしてる行動を、模索した。
「莉音の、心が、私の所に、戻らない。それなら・・・。私は!」
陸斗が、刃先を、振り落とそうとしたのは、莉音にむけてだった。
恋は、人を狂気に駆り立てる。陸斗は、そんなつもりは、無かったと思う。あのまま、帰ろうと、思った道の途中で、オレンジをみかけ、オレンジの好きな莉音に届けてやろうと、オレンジと果物ナイフを買い、病院に向かった。病室まで、来て、莉音と嶺のキスシーンを見てしまったものだから、逆上してしまった。前回、嶺に、莉音が、欲しいと言われた日から、その思いは、首をもたげていたのかもしれない・・・。いっその事、自分の物にならないのなら、この手で、奪ってしまおうと・・・。紙袋から、抜き取られた、光る果物ナイフは、真っ直ぐ、莉音へ、突き立てられようとしていた。
「莉音!」
黙って、莉音が、刺されるのを、見ている訳では、なかった。果物ナイフが、しっかりと刺していたのは、嶺の左肩だった。
「つぅ・・・。」
嶺は、苦痛に顔をゆがめた。が、尚も、陸斗は、手を緩めなかった。莉音を庇い、抱き寄せる嶺の腕を、振りほどき、莉音の首を絞めようと、執拗に、陸斗が、襲う。
「ナースコール!」
嶺が、手を伸ばし、コールした時に、不覚にも、バランスを崩し、嶺は、莉音をかばう形で、床に、落ちてしまった。
「大丈夫ですか?」
騒ぎを、聞きつけた隣の病室の、見舞い客が、顔を覗かせた。
「うわっ!」
見るなり、あわてて、先生と叫びながら、廊下へ、駆け出した。嶺の左肩が、変な形で、着地し、果物ナイフが、突き刺さったままだった。莉音の頭を庇いながら、ベッドから、落ちたせいか、嶺の胸に、しっかりと、莉音の体は、無事にあった。・・・が、おびただしい血が、床を染め、噴出した血液が、莉音の、顔といわず、体を染めていた。ナイフが、刺さったまま、落ちたせいで、傷が、縦に裂けていた。
「どうしました?」
ようやく、看護士が、顔を覗かせたのは、呼びつけられた医師が、来る、ほんの、少し前だった。騒ぎを、恐れ、陸斗は、姿をくらませていた。
「ちょっと、手を滑らせてしまって・・・。」
「手を滑らせたようには、見えないな」
嶺は、少しだけ、起きようとした。ものすごい、血の臭いだ・・・。人々の騒ぎだとか、痛みだとか、その時の、彼は、感じなかった。莉音が、少し、表情を変えたのが、気になっていた。
「莉音?」
嶺は、莉音に、向き合った。莉音が、この騒ぎで、何かを感じ、意識を、取り戻そうとしているのか。
「莉音!」
ゆっくりと、唇が、何かを、言っている。たどたどしく、何か、記憶を一つ一つ、まさぐるように。
「れ・・・い・・・?」
目は、見開かれたままだったが、しっかりと、そう呟いた。
「莉音!」
じっと、見開く瞳は、遠い世界を見ていた。
「莉音。」
嶺は、真っ直ぐ、莉音の、顔をみた。痛みを忘れ、久しぶりに見る愛しい莉音の顔だった。
「待ってた。」
「俺も。」
「あたし・・。」
莉音は、言いかけたが、すぐ、駆けつけた医師達に、引き離されてしまった。嶺は、応急処置をする為、処置室へ。莉音は、診察をする為、ベッドの、周りをカーテンで、覆われてしまった。
「莉音が・・・。還ってきた・・。」
嶺から、長く、深いため息が、溢れ出ていった。永く、永遠とも思われた深い記憶の、海から、莉音は、戻ってきた。嶺の、魂を、握り締め、今、莉音は、ようやく、嶺と、向き合う事になるだろう。
「それで、お前、相手訴えなかったの?」
慶介が、憤慨して言った。嶺の部屋からは、真っ直ぐショッピングセンターの灯りが見え
る。遠く見える山のてっぺんに、何棟もの、テレビ塔が、見える。その端からは、いくつもの、ネオンが、見え、様々な、光を呈している。何度、この部屋で、莉音と、この景色をみた事か・・・。
「うん。人の事、言えないと思ってさ・・・。」
嶺は、コーヒーをカップに分け、慶介に差し出した。怪我したのは、左肩ですんだので、コーヒーを分けるのは、何なかった。が、少し、痛んだ。
「本気で、考えなきゃ。なんだ。」
「お姫様が、目を覚ましたしな。」
「そうなんだ。」
「お前としては、どうなの?」
嶺は、カップに、唇をあてたまま、遠い目をした。
「まず、莉音は、あの旦那の所へは、帰せないと思っている」
莉音は、まだ、しばらくは、入院が、必要らしい。その後の事を、考えると、嶺は、思い悩むのだった。
「それに、美央に、結婚を申し込んだ」
思い出して、慶介に、報告した。
「はあ!」
慶介は、呆れた。
「そこまで、責任とるのか?お前の、一緒に居たいのって、莉音じゃなかったか?」
「そうだよ。それは、変わりない」
「じゃあ、一緒にいろよ」
「居たいさ」
「お前の中途半端な、優しさが、周りを傷つけんだよ。中途半端なんだよ。美央に対しても。莉音に対しても。お前の本当の気持ちを伝えて、行動にうつす。誰も、傷つけないなんて、出来る訳がない。傷つけた分、幸せになるしかないんだよ。」
嶺は、答えなかった。ベランダに出ると、夜気が、気持ちよかった。もう、季節は、晩夏にうつりはじまっていた。
「結婚すれば、気持ちは、変れるのか?」
慶介は、静かにきいた。
「俺には、二人共、不幸になるしか、思えない。嶺?莉音は、知っているのか?お前の子供が、生まれるって、話。残酷な、話だと思わないのか?」
言いそびれた、一番大切な話。莉音との、時間は、あの日止まったまま・・・。嶺と美央の、時間から、遠く隔たったままなのである。今、居る二人の、位置を、莉音が、知ったら・・・。
「様子を見て、話そうかと思っている。それで、莉音の気持ちを確認したいと、思っている。」
携帯が、美央からの、メールの着信を知らせた。
・・・おやすみなさい。・・・
美央からの、お休みメールだった。
美央は、莉音の事を知っている。莉音は、まだ、美央の状況に、気付いていない。誰か、周りから、知らされる前に、嶺は、話す必要があった。
「なるべく、早いうちに話すよ。」
嶺は、携帯を、キッチンのカウンターに、放り出した。莉音には、自分から話す。何とは無く、嫌な予感がしていた。莉音の目覚めが、また、止まっていた歯車を動かし始めていた。
部屋、一杯に、イチゴの甘い匂いが、広がっていた。誰もが好きな赤いイチゴ。大粒のイチゴが、箱一杯に並んでいた。
「へぇー!奮発したねぇ?」
所々に、赤いリボンが、飾り付けられている。
「もう、退院なんだけどね。」
どうにか、お腹の赤ちゃんには、異常もなく、退院の運びとなっていた。
「なんか、いい匂い!」
美央は、イチゴを、一つ摘むよ、口に放り込んだ。
「よく、ここが、わかったわね!」
「うん。拓斗から、メールもらったんだ」
美羽は、ベッドの脇に腰掛けた。
「あいつ。今でも、美央の事、忘れられないのかなー。なんて、思っちゃうんだけど」
拓斗とは、嶺の大学からの友人で、もう、1児の父親でもある、年上の同級生である。美央の事が、好きだったが、あっさり、美央に振られて終わっていた。
「まさか。」
美央は、打ち消した。
「やっぱさー。あたしが、言ったじゃん。拓兄と、一緒のほうが、美央は、幸せになれるって。どうして、嶺が、好きだったりするの。」
真似て、美羽も、イチゴをつまんだ。ショートヘアの美羽の髪が、陽を受けて、キラキラ輝いている。
・・・そんな事、言って。自分だって、嶺の事が、好きだったクセに・・・
思ったが、美央は、口に出さなかった。
「明日。退院する」
「親は、どうするの?おばさん。どうしてた?」
「うん。嶺が、話してくれてたけど。」
「それは、結婚するって事?」
いぶかしげに、美羽は、聞いた。
「嶺は、近いうちって、言ってた。」
「良かったじゃん。」
「全然。」
美央の意外な反応に、美羽は、面食らった。
「嬉しくない。」
美央は、言った。
「前は、それが、良いと思っていた。嶺さえ、傍に居てくれれば、結婚できなくてもいい。でも、本当に、あの人。あたしの事なんて、これっぽちも、思ってないって事に気付いたの。」
不思議なくらい涙は、出ない。
「どうして、だろうね?この子が、大きくなれば、大きくなる程、がんばれって、声を掛けられてくるみたいで・・・」
美央は、お腹の子が、愛おしいようだった。
「傍に居てくれるなら、あたしを見て欲しいって、思ったの。気持ちが無いなら、居てくれなくてもいい。」
「そうなの?美央。あなた・・・。強く、なったわね」
よく、嶺につれなくされると、落ち込んでは、周りに慰められてた美央。母は、強いというが、いつの間にか、美央は、たくましくなっていた。
「そうじゃないんだ。かなわないって。思ったの。あの事故の日に」
莉音が、運ばれたあの日。嶺は、泣き崩れていた。あの、周りを気にせず、泣き崩れる嶺をみて、悟ってしまった・・・。自分は、莉音にかなわない。叶わない恋は、不幸だと。
「でもね。この子に、父親は、必要なの。だから、一時だけはね。夫婦で、いないと」
「そんなの!」
美羽は、言いかけて、辞めた。自分は、今、恐ろしいことを、口に出そうとしていた。
「・・・判ってる。でもね。できないよ。」
察して、美央は、応えた。子供をなくすなんて。
「だって、好きな人の子供だよ。嶺は、あたしの物にならなかったけど。この子は、あたしの子・・・。」
美央は、愛おしそうに、お腹を、撫でていた。バカげている。一人で、子供を育てると、いうのか・・・。出産の時だけ、籍を入れて置き、その後、抜こうとしているのだ。美羽は、言い出せずにいた。美央の、母親から、相談を受け、子供をおろすよう、説得するように、頼まれていたことを。
「美央。本当にいいの?」
「そう。最初から、そのつもりで、いたんだもの」
「バカだよ。美央は。」
美羽は、拓斗が、美央を、忘れずにいる。そんな理由が、判る気がしていた。どうして、嶺は、美央と別れてしまったのだろう。
「イチゴ食べすぎだよ・・。」
美羽は、優しく、微笑んだ。
ずーと、時は、とまっていた。嶺と別れた時から、季節は、止っていた。心は、死んでいたと思う。あの、瞬間から。メールの無い時間が、耐えられなかった。絶え間なく、続いたメールは、別れた瞬間から、止まったままだった。あんまり、辛いから、受信メールの、内容も、散々悩んで、消去した。それでも、メールが、届くサインが、出ると、嶺かと思ってしまうので、紛らわしいお店の、メールとかは、着信拒否を設定したり、していた。こんなに、嶺のメールに、縛られているとは、思ってなかった。だから、仕事に専念しようと、思っていた。夫は、優しい。限りなく。かといって、今更、夫を愛するなんて、都合のいい事は、莉音には、出来なかった。殉死という言葉があるなら、自分は、嶺への愛に殉死したい・・・。そう、思っていた。そこへ。あの事故だった。嶺からの、メールを待つ心が、事故をよんだ。
「ずーと、意識が、無かったんですよ。でも、あの、ほら。背の高い。素敵な彼が来た時だけ、表情が変るっていうか・・・。」
うっすらと、事情をしっている顔馴染みになっている掃除のおばさんが、莉音に笑いかけた。
「いい男だもんね。」
「そんな・・・。」
ほんの、少しだけ、照れてしまった。莉音は、多少の会話が、出来るまでには、回復してきていた。何とか、記憶をたどる。なんとも、鮮明なのは、嶺への刹那的な思い。そして、今だに、理解できないのは、夫の嶺への行動。認めたくない思いが強く、理解できない。夫が、嶺を刺した?いや・・・。誰も、そんな事は、言ってない。気が付くと、嶺の腕に、自分は、居て・・・。腕からは、おびただしい血。鼻をつく匂い・・。嶺は、何も言ってない。自分で、怪我しただけだと・・・。誰も何も、言ってない。でも、自分の、勘が、叫んでいた。あれは、夫の仕業だと・・・。莉音は、夫が、自分では、なく、嶺を、狙って、刺したと、思っていた。もし、そうだとしたら、自分のせい?夫を、あの、穏やかな、あの人を追い詰めたのは、自分。
「うっ・・・。」
莉音は、吐き気が、した。自分の、嶺への思いの陰で、、苦しんでいる人がいる・・・。やっぱり、幸せになんて、なれる訳がない。ゴールのある恋じゃない。何度も、嶺の別れを告げられたとき、そう、思い込ませようと、した。いや・・・。現実に目を向けようとしていた。・・・が、好きという感情に邪魔され、目を向けられないでいた。彼への、思いに溺れ、周りを、見失っていた。あのまま、自分が、死んでいたら、夫は、馬鹿な事をしないで、すんだのでは、ないか・・・。嶺への、思いを、胸に、死んでしまうのも、良かったのかもしれない・・・。でも、本当に、このまま、死んでしまって良かったのか?
莉音の、瞳の奥で、桜が、咲き誇っていた。あの、2人で、抜け出して、見にいった城下街の桜が・・・。満開の桜が、横に流れていく・・・。もう、一度、逢いたいと、誰かが、呼んでいた。声が聞きたいと言っていた。桜が、何度も、咲いては、散り、流れていく中で、懐かしい声が、叫んでいた。
「莉音・・。戻れ!」
「誰?」
目を凝らしてみても、誰も、居ない。それでも、心は、叫ぶ。
・・・逢いたい・・・
そう、嶺に逢いたい。
莉音に、逢いたい。
お互い、逢いたかったのでは、ないか・・・。もう、一度、逢いたいと、そう思って、戻ってきたのでは、ないか。この恋で、誰かが、血を流そうと、もう、止められないのでは、ないか・・・。もし、傷つく人が、いるのなら、尚更、成就させなければ、ならないのでは、ないか・・・。莉音。この、戻ってきた命。嶺に捧げるべきだ・・・。
「何があっても、嶺と一緒になろう。」
周りが、傷つく?そんなの関係ない。嶺と、幸せになろうよ。莉音の心の中で、黒い感情が、頭を、もたげ始めていた。今まで、抑えてきた欲求が、渦巻いていた。
「嶺と、幸せになりたい。」
「もう、落ち着いたかしら?」
突然、莉音の、前に現れたのは、幾分か、お腹のふっくらとした、美央。その人だった。
「初めまして・・・。なのかな?」
美央は、莉音に、微笑んで見せた。体調も整い、あの後、しばらくすると、すぐ、退院できた。嶺が、迎えに、来ると、いうのを、断り、美央は、真っ直ぐ、莉音の所に来ていた。今日しかない。嶺が、美央の、行動を、予想できないのは、今日だけだ。何としても、莉音に逢いたい。逢って、話がしたかった。嶺の心を、捕らえて離さない、この女性の事を、もう一度、見たかった。今まで、何度、夢の中であっただろう。どんな顔をし、どんな声で、話しをし・・・。その唇は、嶺を、受け入れたのだろうか。その細い体は、嶺に抱きしめられたのだろうか・・・。莉音に逢い、確認したかった。
「あなたは・・・?」
莉音は、最初、不思議そうな顔で、美央を、見ていたが、すぐ、美央が、誰かは、悟ったようだった。
「もしかして・・・。」
莉音の、視線が、ゆっくりと、美央のお腹へと、下りていった。
「お腹が・・。」
「そうなの。」
美央は、自慢げに、お腹を、撫でていた。
「大好きな人の子なんです」
「嶺の?」
莉音の顔が、こわばった。
「そうなんです。」
莉音は、もしかしたら、事故の影響で、子供が、できないかもしれない。という事は、面会に来た母親から、涙ながらに聞かせられていた。
「美央さん。なんですね。」
莉音の、心は、勿論、穏やかでは、なかった。
「お腹の子は、確かに、嶺に子です。でも・・・。」
美央は、こわばった顔の、莉音に続けた。
「莉音さん。でもね。」
美央の、目は、真っ直ぐに、莉音を、みつめていた。莉音の、落胆ぶりが、辛い程、わかる。かと言って、莉音に、勝ったとか、そんなつまらない感情は、なかった。子供を、持てた幸せは、たしかにある。嶺を、誰か、知らない女から、繋ぎとめる為の、計画だったが、事故の時の、嶺の、落胆ぶりを、みて、思いしった。自分へは、戻らない莉音への嶺の、気持ち。諦めていたが、もう一度、嶺と、やり直したいとも思った、倒れた時に、感じた嶺の、腕の温かさ・・・。傍に、いても、嶺の心が、戻らなければ、意味がない。このまま、嶺と一緒になれないとしても、莉音の気持ちを、確認しておきたかった。
「嶺と結婚する話がでてたの。」
「そう・・ですか。」
湧き上る感情を押さえ、莉音は、平静を装った。
「でもね・・。」
耐える莉音を、横目に、莉音は、続けた。
「あたし・・。結婚したいと、思わなくなったの。」
「えぇ?」
サラリと言いのける美央が、意外だった。
「お腹の子供の責任を、とる為だけの、結婚なんだもん。あたしの事なんて、ほんの少しも、思ってなかったの。」
両手を、オーバーに開いて見せた。
「あなたに、渡したくないから、結婚する為なら、どんな手でも、使いたかったんだけどね。」
美央は、意地悪く笑った。
「でも、心までは、縛れないのね。」
「あなたの妊娠を知って・・。嶺は?」
「そう。結婚しようかって。でも、言い出したのは、あたしなんだけど。」
あぁ・・・やっぱり。あの別れの、原因は、彼女だったのか。嶺は、子供が出来てしまい、自分と別れた。もともと、一緒になんて、なれる筈が、ないのだ。自分は、夫。そう、家庭のある人妻。自分のしている事は、世間でいう、浮気。もとい、不倫なのだ。どんなに、嶺に、愛していると囁かれようと、甘い思い出があろうと、嶺を責める事は、出来ない。気持ちの裏切りが、あったとしても、嶺は、元々、自分とは、違う世界の人間だったのだから。この美央って、人は、自分と違って、嶺を愛し、愛される資格がある。なんて、羨ましい事か・・・。
「どうして?子供に、父親は、必要でしょ?」
莉音の声は、かすれた。思わず、手が、震えていた。
「嶺の心は、あなたで、一杯だから」
美央は、自分で言ってて、哀しかった。お腹の子は、判るのか、お腹が、時折、ぐっと、苦しくなった。
「最初は、それでも、良いと思ったの。一緒に居てさえくれれば・・。でもね。」
嶺に、思われている莉音が、うらやましい。
「心が、あなたの所にいってるの。それを、傍で、感じてると・・・。哀しいの」
「それは・・・。」
莉音は、なんて、言っていいか判らなかった。どんな事をしても、嶺が、欲しいと思ったばかりなのに。
「あなたの気持ちが、知りたい。嶺の気持ちが、戻らないなら、この子と二人だけで、暮らしたいの。ただ生まれてくる子供に、父親が、居ないのは、可愛そうなので、その時だけ、嶺を貸して欲しい。」
「そこまで・・・。」
莉音は絶句した。普通は、どんな事をしても、別れてくれって、言う筈なのに、美央は、莉音に、嶺を、貸して欲しいと、言って来ている。
「美央さんでしたっけ?」
莉音は、視線を落とした。
「いいんです。私、夫が、家で、待っててくれてるんです。もう、終わらなきゃ、いけない。」
何故か、涙が出そうになる。でも、こらえなきゃ・・・。
「彼に、伝えてください。」
意識が、戻る前から、嶺は、莉音を求めていたのに。今、意識が、戻り、新めて、伝える。
「あたしは、大丈夫だと。家に帰るからと。」
搾り出す言葉は、詰まってしまう。ここで、終らせよう。現実に、戻ろうか。
「莉音さん。それで、いいの?あたしだって、無理して、決めてきたのに。」
「しっかり、お子さんを、育ててください。」
「そんな事言わせるために、来たんじゃないの。」
美央は、泣いていた。莉音の心が、わかったから。
「あたしは、あなたが・・。嶺の好きになった人が、どんな人か、知りたかっただけなのに。」
「もう、逢う事は、ないと思います。誰にも・・。」
泣いている美央を、見るのが辛かった。そして、お腹のふっくらとした美央を、見るのが、もっと、辛かった。それでも、莉音は、堪えた。
「あたしは、一人でも、大丈夫です。嶺とも・・。夫とも、もう、逢うつもりは、ありませんから。」
紅く泣きはらした目は、美央を、見据えていた。その瞳は、深い悲しみに、みち溢れていた。美央も、その目を、見るのが、辛くなっていた。
「じゃあ。」
もう、帰ろう。美央は、軽く、会釈をすると、莉音の、病室を、出て行った。
「はい。」
笑顔で、見送ろう。ベッドから。自分でも、いい笑顔だったと思う。感情を高ぶらせる事もなかったし・・・。美央に、優しく言えた。美央は、驚いた表情だったが、最後に、安心した表情を見せた。綺麗な、女性だと、思った。自分と、同じラインに、この人は、立っていた。もう、年下の女性と、比べられるなんて、たくさんだ・・・。莉音は、小さく笑った。もう、女として、比べられなくて済む。
「楽になれる・・。もう、苦しい恋は、終わり」
莉音は、ベッドに、ゆっくり、横になった。
嶺が、それを、知ったのは、間もなくだった。よく晴れた日の午後だった。嶺は、莉音の好きな白いミニ薔薇とかすみ草を、腕いっぱい抱え、莉音の部屋と向かった。
・・・もう、少しで、退院できる・・・。
そう、聞いていた。事故や怪我の騒ぎで、仕事が、片付かず、なかなか、逢いに来るタイミングが、なかった。メールも、病院にいるせいか、通じない。ようやく、仕事の合間をぬって、時間を作り、病室に向かっていた。
「あれっ・・・」
廊下で、すれちがった看護士が、怪訝な顔をした。。
「英さんなら、もう、退院しましたよ。」
「えっ!」
嶺は、立ち止まった。
「何度も、先生が、お引止めしたんですけど、どうしてもって。」
「いつ?ですか。」
「そうねぇ。一昨日だったかしら。」
あわてて、嶺は、莉音のいた病室へと、駆けていった。ミニ薔薇が、腕から、こぼれ落ちていく。廊下には、無残にも、いくつもの、カスミ草が、落ちていった。
「ない。」
莉音は、いなかった。誰もいない部屋は、以外と広く、ガランとしていた。糊のきいたシーツが、真新しく、白くまぶしかった。
「どうして・・・。」
聞いてない。何一つ。
「聞いてなかたんですか?」
先ほどの、看護士が、ついてきていた。
「意識が、戻ったのも、あなたの、お蔭だろうって、噂してたのに。」
「話せるように、なってたんですか?」
「かなり・・。よく、なってたって。」
「そうですか。」
嶺は、落胆した。居なくなるなんて、予想してなかった。いつも、自分を、待ってるとばかり、思っていた。自分と、少しだけでも、一緒に居たいって、言っていたのではないか。これからのはずだろう?黙って、居なくなるなんて、終らせるつもりなんだ。こんな簡単に、自分だけ、納得して、終止符を、打つなんて・・・。
嶺は、あわてて、病院から出ると、莉音の携帯にかけた。コール音は、するも、何度かけても、出なかった。もしかしたら・・・。と、思い、メールを送ってみたが、すぐ、宛先不明で、戻ってきてしまった。莉音は、自分から、去ろうとしている・・・。諦めが、悪いと思いつつ、嶺は、会社の、莉音の上司に、電話してみた。
「田舎に、戻るとかで・・・。速達で、退職願いが送られてきたよ。」
上司も、驚きを隠せないようだった。
「田舎?自宅では、ないんですか?」
「もう、旦那さんの所へは、戻らないようだ。」
莉音は、一人で生きていこうとしているのか。
「ところで・・・。」
「また。それは・・。」
話し、続けようとする上司の言葉を遮り、嶺は、電話を切った。せっかく、取り戻した莉音は、自分から、離れて行ってしまった・・・。事故の時とは、違う絶望が、嶺を、襲っていた。
「何処いったんだ。莉音」
脱力する嶺の、携帯がなった。
「はい。」
あわてて、出ると。美央だった。
「嶺?これから、そちらに、行こうと思っているんだけど。」
「あぁ・・。」
嶺の声が、沈んでいた。
「何か、あったの?」
嶺の、落胆ぶりに、美央は、気付いた。
「嶺?」
伺うような美央の声に、嶺は、思わず・・・。
「莉音が、いなくなった。」
震える声で、告げた。
「莉音さんが?」
美央も、驚いた。この間の事は、まだ、嶺に言ってない。どうしようか・・・。しばらくの沈黙の後、美央は、嶺に、告げる事にした。
「ごめんなさい」
美央は、最初、謝った。
「言ってない事があるの。」
美央は、嶺が、怒るのでは、ないかと心配しながら、この間、莉音に逢いに行った事。二人の間で、話した事。莉音が、別れると、告げた事を、嶺に告げた。自分の、感情をコントロールできただけでも、凄いと、心の中で、思いながら。
「別れるって、言ったのか?」
自分には、何一つ、言ってない。
「言えなかったんじゃ。ないかな」
美央は、言った。どうして、ここで、自分が、嶺への莉音の気持ちを伝えなきゃならないんだろうと、思いながら。
「莉音さんは、嶺。あなたの事を、本当に、あなたの事を、思っているのね。」
深いため息が、出て行った。莉音には、かなわない。しっかり、嶺の心を、捕らえてしまっている。
「嶺。行って、いいのよ。莉音さんに、あいに。」
美央は、嶺に言った。
「ご主人とも、別れるって、言ってた。あなたに、それを、告げたら、もう、私の元には、戻らないって、思って言えなかったけど。いいの。行ってあげて。」
涙声になっていた。
「莉音さんの、所に。」
「だめなんだ。」
嶺は言った。
「行けない。」
「どうして・・・。」
「莉音が、どこにいるか、わからない。」
哀しく、辛い嶺の声だった。
「携帯が、全て、繫がらないんだ・・。」
白いミニ薔薇も、カスミ草も、全て、散ってしまっていた。
「急に、帰ってきたと思ったら・・・。お姉ちゃん。少しは、元気でたの?」
莉音は、妹の、家に居た。
「事故の時も、行けなくて。ごめんね。子供を見てくれる人もいなくて」
莉音のあしもとで、まだ、1才にも、満たない幼子が、遊んでいた。
「うん。いいの。」
「こんな時、親が、居てくれたらって、思うんだけど。」
妹の、来夏は、幼子を、抱き上げた。
「お姉ちゃん。離婚するの?何回も、義兄さんから、電話があった。速達で、離婚届けが、送られてきたって。」
「うん」
「また。生返事・・・。ちゃんと、話しあった方が、いいんじゃないの?電話にも、出ないんじゃ進まないし、具合だって、よくないんでしょう?」
莉音が、突然、夜中に、尋ねて来た時は、驚いた。どうやって、ここまで、来たのだろうと、思うほど、具合も悪く、タクシーの女性ドライバーに支えられながら、立っていた。事故で、重症を負い、入院したと聞いて、病院に、何度か、行こうとしていたが、幼稚園の子供と幼子を抱え、単身赴任の夫を持つ来夏には、身動きとれないで、いた。早くに、両親をなくし、頼れるのは、互いの姉妹だけだったが、実際の所、なかなか、会えずに居た。だからこそ、何かあったら、力になりたいと、思っていたのだが、突然、現れた莉音は、あまり、語らず、夫からの、電話で、無理に退院した事。離婚しようと出てきたこと。そして、その原因が、莉音の夫が、何か、事件を起した引き金になった事に、結びついた事であると、気付かされていた。
「病院。無理に退院してきたんでしょう?」
「・・・」
莉音は、ずっと、上の空だった。早く、嶺の前から、姿を消したいと思い。行動にでた。もう、傷付きたくなかった。嶺の事を、愛せば愛する程、傷が、深くなる。よく切れる刃物を、素手で、掴んでいるような危ない恋。全て、忘れてしまおう。そうすれば、楽になれる。嶺の事も。夫の事も。今更、やり直しても、お互い、過去に縛られ、傷つくだけ。全て、ゼロにして、新しく、生きていこう。そう決めたのに、心の奥に、染みついてる記憶。
・・・もう少しだけ・・・
いつも、そう思っていた。もう、少しだけ。一緒に居る時間を、貪っていたあの日々。嶺を、忘れなきゃ。そう、思えば、思うほど、忘れられなくなる。いっその事、憎んでしまえば、楽になれるのに、思い出すのは、明らかに、自分を、愛してくれた嶺の、輝いた目だった。嶺と、一緒にいた美央。美央の事も、最初は、憎んだ。でも、ルールを、破ったのは、自分。自分が、嶺と、結ばれなければ、一緒にいるのは、美央に決まっていた。でも、人を好きになるのに、ルールなんて、あるのだろうか・・・。
いや・・・。だめだ。美央のお腹には、嶺の子供が、いる。その子供を、悲しませる事が、出来るのだろうか。どんな形であれ、子供を巻き込んでは、いけない。親のいない悲しみは、自分達姉妹が、一番よく知っている筈では、ないか。
「聞いてる?」
来夏だったあまり、莉音の顔色も、良くなく、食欲も落ち、痩せていく、姉を心配すると、どうしても、口やかましく、なってしまう。
「病院行ってね。ほんと、お姉ちゃん。無謀なんだから」
素人目に見ても、莉音の、体調が、よくないのは、明らかだった。いっそ、莉音の、夫に、お願いしようかと、思っていたが、辞めといた。姉が、離婚したいのには、最もな、理由があろのだろう。どうみても、姉には、思っている人が、いる。何度も、鳴る携帯には、出ようとせず、かといいて、着信拒否する訳でなく、時折、携帯の着信履歴を、見ている様子から、みて、誰かを、待っているようにも、見える。だが、連絡できない人なのだ。遠くから、来夏は、姉の、苦しんでる様子が、見えていた。
「ごめんね。少しは、貯金があるから。仕事が、見つかるまで、置いてほしいの。そしたら、出て行くから」
来夏の元にいる日が、何日も、過ぎていた。
「何、言ってるの。うちは、旦那が居ない分、お姉ちゃんが居てくれると、助かるから。お姉ちゃん。あと少しすると、幼稚園バスが、くるから、外の空気吸いがてら、お迎えに行ってくれる。階下だから、病み上がりでも、大丈夫でしょ?階段にでも、座って、日向ぼっこしてなよ」
来夏は、少しでも、気分転換できるよう、薦めた。
「ここにいては、ダメなの?」
あまり、動きたくないようだ。
「お迎えくらい手伝って、ほしいな。」
何としても、莉音を、外に出したかった。
「そうね。そうする」
莉音は、立ち上がった。
「行ってくる」
「お願いね」
来夏は、莉音を、外へと促した。嶺は、何もしなかった訳では、ない。携帯も、通じない中、とにかく、莉音を探した。莉音の、実家を、会社の書類で、調べ上げ、直接、尋ねてみたが、両親は、とうに、亡くなっているとかで、家は、荒れたままに、なっていた。思い切って、莉音の、夫を、尋ねようかと、思ったが、それは、案の定、難しく、人つてに、莉音が、離婚したと、聞いただけだった。莉音が、離婚したと聞いた時、心が、震えた。もしかしたら・・・。と、いう思いもあったが、美央の、お腹だけは、待ってくれなかった。月が、満ちてきてる。ようやく、自分達は、一緒になれるかもしれない。と、いう思いとは、裏腹に、嶺は、美央と、入籍する日が、近づいていた。
・・・こんな思いのまま、入籍するのか。・・・
莉音は、もう、自分の力では、探し出せなくなっている。この思いを、心の奥に沈めよう。いつか、古い傷のように、疼くかもしれない。あんなに、恋焦がれた人だもの、忘れられる訳が、ない。自分は、莉音を、生涯忘れる事は、ないだろう。いや、まだ、諦めた訳では、ない。逢えば、時間は、逆戻り、莉音を求め、一緒にいたいと思うだろう。逢えなくとも、心の、奥底に、莉音への、熱い思いが、染み付いていた。きっと、生まれてくる子供を、愛する事は、出来るだろう。でも、莉音より、深く、美央の事を、愛する事は、生涯できない。
「入籍しような。」
嶺は、美央に、笑いかけた。
時間だけが、流れていった。家を出、一人暮らししようと、する莉音を、妹の来夏は、自分の子供の子守を、理由に引き止めていた。日に日に、姉の、莉音は、痩せていき、憔悴しきっているのが、わかっていた。理由も、何かは、わかっていた。それを、余計な、お節介とばかり、手出していいのか、わからなかった。近くの、雑貨屋に、働きに、行くようになって、少しは、表情も、戻ってきたが、相変わらず、通院は、続いていた。
「今日も、仕事なの?」
元気のない姉を、誘って、近くの公園で、開催されているフリマに行こうとしていた来夏は、不満の声を上げた。
「ごめん。休みの予定だったんだけど。急に、出てくれって、言われて・・・。」
「なんだ。仕方がないなー」
来夏は、お弁当を、莉音に渡した。
「しかり、食べてね。お姉ちゃん。そんなに、痩せて、見た目、悪いよ」
「そお?じゃ。時間だから」
莉音は、お弁当を受け取ると、あわてて、外へ、飛び出していった。
「あっ!おねえちゃん」
携帯忘れてるよ!言おうとしたが、はっと、思い当たり、追いかけるのを、やめた。携帯を、手にとって見た。何度も、着信が入っていても、出なかった。莉音の携帯。着信拒否でもなく、番号を変えるわけでもなく、鳴るままに、させておく、携帯。来夏は、携帯を、開いた。オートロックされている訳でも、なく、すぐ、画面が、見えた、着信履歴を、見ると、同じ名前での、着信が、ずーっと、続いていた。
・・・嶺・・・
最近は、何日かに、1度の割合のようだが、何日も、前は、日に何度も、かかってきていた。
・・・あぁ・・・この人だ。・・・
来夏は、嶺の、番号を、自分の携帯に、控えると、発信した。後で、履歴は、消すつもりで。
美央は、幸せだった。ようやく、手に入れた嶺との、生活。引越しも、業者に頼んだから、楽だったし、片付けも、嶺が、まめに手伝ってくれたから、何とか、形になってきた。式も、終え、新婚旅行とやらは、子供が、生まれてから、落ち着いてからと、いう事になり、国内の2泊の旅行で、すませた。今まで、考えられなかった。嶺との、望んだ幸せであった。嶺の、朝食を、用意するのも、妊娠中の、辛い体では、あったが、大好きな人との、望んだ暮らしなので、がんばって、用意し、嶺を、送りだした。嶺も、美央の、作る朝食を、美味しいと言って、食べ、仕事へと、向かっていた。何事も無く、平和に続く日が、明日もあると、信じていた。そう、この日。来夏からの、電話が、嶺にくるまで、嶺と、美央は、普通の夫婦と、何一つかわらなかった。突然、嶺の携帯が、鳴ったのは、会社に着いて、間もない時間だった。着信名を、見て、嶺は、我が目を、疑った。
「莉音?」
心臓が、高鳴った。忘れもしない人の名前。どんなに、忘れようとしても、忘れた事のない人への、思いが、胸の奥から、湧き上がった。手が、震え、危うく、携帯を落としそうになった。
「莉音。」
・・・だが、携帯から、聞こえてきた声は、莉音に、似てこそ、いたが、全く、知らない女の声だった。
「嶺さん?」
「はい・・。」
「私、莉音の、妹、来夏です。」
「妹さん?」
莉音に、妹が、いるのは、初めて聞いた。
「莉音は、何処です?」
嶺は、思わず、大声になった。周りに、人々が、振り返り、嶺の顔を、みやった。嶺は、今まで、自分が、どんなに、莉音を、探し続けてたかを、電話口に、話した。今、かかってきた電話を切ってしまったら、二度と、莉音に逢えなくなる。そんな気がしていた。
「たぶん・・。」
来夏は、言っていいのか、言葉を呑んだ。
「助けが必要なんです。」
この電話の相手が、莉音を、助け出す人であろう。来夏は、直感していた。姉の恋するのは、この人であろうと。
「あなたにしか、頼めないと思います。」
来夏は、告げた。
「あなたに、逢いたいんだと思います。無理して、抑えてるんです。姉に逢って、ください」
「俺も。同じ思いです。」
振り絞る嶺の声だった。
「一目、逢いたいって、思っていました。」
何を、おいても、莉音に逢いたい。どうして、居なくなったのか。自分と連絡をとらなくなったのは、何故なのか、聞きたかった。想像はつく。だが、言葉で、しっかり、聞きたい。
「今の住所を、教えてください。」
嶺は、来夏の、住所を聞くと、ここに、電話した事を、口止めし、すぐ、莉音の、いる街に向かう事にした。今すぐ、有給をとり、彼女のいるに、向かいたい。
来夏の家に、戻るには、長い坂を、上りきって、細い路地裏に入らなければ、ならない。夕焼けが、綺麗だった。厚い入道雲に、オレンジの夕陽が、反射していた。たくさん、お店の、パンを、お土産に、買った。
「今日は、無理に出てもらったから、早めに、あがって」
思いがけず、早く、帰れる事になった。早く、帰れたから、焼肉でも、食べに行こうか?と、来夏に、電話しようとして、携帯を、忘れた事に、気づいた。帰ってから、出掛けても、いいと思い、来夏の子供達の為に、お店の、格安パンを、買いこんでしまった。子供達は、パン好きだ。ついでに、自分の好きなイチゴジャムや果物のシロップ漬けも、買った。
もう、すぐ、陽が暮れる。以前、余りにも、夕陽が、綺麗だったので、嶺に、写メを、送った事が、あった。
・・・嶺・・・
忘れようと、しても、心の、奥底に、住んでいる人。忘れようと、すれば、するほど、彼の色が、濃く残っていく。
・・・逢いたい・・・
正直に、言えば、嶺に逢いたい。当てしまえば、余計に辛くなるし、今までの、忘れようとした努力が、無駄になると、自分に、言い聞かせ、ここまできた。一緒に、住める世界の、人で、ないと、何度も、自分に言い聞かせた。・・・けど、心が、彼を、求めている。
・・・無理なのに・・・
莉音は、ため息をついた。
・・・と。
手が、滑り、別に、持っていたシロップ漬けが、転がり落ちた。
・・・あぁっ!・・・
拾おうとして、地面に、つまずき、思わず、転倒してしまった。
・・・まったく・・・
そそっかしい。よく、嶺に、笑われたっけ。莉音は、一人、失笑した。
「相変わらず、だよね?」
目の前に、手が差し出され、体が、浮いた。聞き覚えのある声。顔。そして、匂い。
「嶺」
反射的に、嶺から、逃げようとした。
「だめだよ!嶺」
いけない。この人には、あの人が、いる。若く、綺麗な、あの人が。
「ダメなのは、莉音だよ」
嶺は、逃げようとする莉音を、後ろから、抱きしめた。
「もう、居なくならないで」
力強い嶺の、腕の力だった。忘れようとしても、忘れる事は、出来なかった。何度、抱きしめて欲しいと、願った事が・・・。肩の、力が抜けていくのが、わかる。嶺の息が、肩ごしに伝わってきた。
「どうして、黙って、いなくなったの。」
「消えたかったから。」
「どうして。」
「あなたとの事は、なかった事にしたかったから。」
「忘れろって、言うの?」
莉音は、頷いた。
「もう、居なくなるなよ・・・」
嶺が、泣き出しそうだった。
「探したんだ。ずーっと。ずーと、探し続けるつもりだった。生きていてくれれば、それでいいと、思った。だけど、逢えないのは、辛い」
本当にやっと、逢えたんだ。そう、思うと、腕の力が、強くなる。
「もう、離れたくない。」
嶺の、気持ち。
「嶺。嬉しい。けど。」
莉音は、嶺の、腕を、そっと、離した。
「その為に、泣かせる人が、いちゃ、いけないよ」
美央の、事だ。莉音は、美央が、嶺の子供を、妊娠している事を、知っている。辛くても、生まれてくる子供から、父親を、奪うわけには、いかない。哀しい決断をし、嶺の、前から、姿を、けしたのだ。
「知ってるの。」
「美央から、聞いた」
嶺は、美央から、莉音が、姿を、消す前に、あったやり取りを聞いた事を、告げた。
「俺の、子供の事で、いなくなったんだよね?」
莉音は、嶺の、目を、見つめると、うるんだ瞳で、頷いた。
「子供から、あなたを、奪う事は、出来ないから・・・。」
嶺の、そばに、行きたい。夫と、別れた今なら、それが出来る。でも、生まれてくる子供に、いったいどんな罪が、あるというのだろう・・・。嶺なら、きっと、いい父親になれる。自分は、その傍らに、いる事は、出来ないけど、遠くからでも、嶺の、良き父親の、姿を、見る事は、出来るだろう。報われなくても、いい。そういう愛し方が、あっても、いいはずだ。
「・・・だから。嶺。ここで、お別れしましょう。逢えて、嬉しかった。あたし達、もう、昔とは、違うの」
莉音は、落としてしまった荷物を、拾い集めた。
「周りを、傷つけすぎるよ。あたしが、悪いんだけど」
精一杯、嶺に、笑顔を、作った。
「今なら、引き返せる。嶺。これ以上、周りを傷つけるのも、あたし達自身を、傷つけるのも、止めよう。もう、連絡とるのも、やめましょう」
「できない」
「嶺!」
せっかく、ついた決心を、揺るがされたくなかった。どうして、嶺が、ここに、いるのか?
「美央を、愛する事は、できない・・・。だめなんだ。莉音」
「聞えない。」
嶺は、去ろうとする、莉音の手ひき、引き止めた。
「一番、傷ついてるのは、莉音。君じゃないか。もう、これ以上、傷つけたくない。俺と一緒に、帰って、欲しい。」
「そんな簡単な事じゃ。ないでしょう?」
莉音は、泣いていた。本当は、嶺に、ついていきたい。でも、それは、もう、一人の、女を、
子供を不幸にする。
「あなたは、わからないの?」
「わからない。判りたくないんだ。俺のわがままなんだ。でも、この我儘を、通して、ほしい。莉音。」
「通せない!」
嘘だ。莉音は、自分で、いいながら、思った。自分は、嶺に、強く受け止めて欲しいと思っている。でも、本当の、事は、言えない。
「莉音。一緒に、帰ろう。」
嶺は、莉音の、腕を、強くつかむと、歩き出した。
「帰るんだよ。莉音。俺の所へ」
嶺の、力は、強かった。迷いもなく、莉音の、手をひいていた。離して!と、莉音は、言いたかったが、いつにない、嶺の力強さに、戸惑いながら、莉音は、ついていった。嶺が、タクシーを、拾うべく、足取りは、強かった。