出逢いから・・。別れ。
「あぁ・・。意外とドジなんだからぁ・・。」
莉音は、バスルームに行って、タオルを持ち出してきた。テーブルやジュータンを拭いていく。
「かからなかった?」
嶺は、呆然と、莉音のする事を、見ていた。自分が、コーヒーを溢してしまった事より、莉音との事を、考えているかのようだった。
「ねぇ・・。」
嶺は、テーブルを、拭く莉音の、肩に、手を置いた。
「俺達・・。どうなるの?」
「えぇ?」
莉音は、驚いて、顔をあげた。真剣な眼差しの嶺の顔が、そこにあった。
「あなたの痕跡が、強くて・・。」
莉音は、ドキっとした。真剣な顔の嶺が、怖いと、思った。
「嶺・・。」
「諦めようと思った・・。何回も。あなたは、一人では、ないから・・。」
「そうだよ・・。」
タオルを置いて、嶺を見上げた。
「知らない間に、どうしても、姿を探してしまう・・。どうしたら、いいと思う?」
「ねぇ・・。」
莉音は、落ち着いて言った。
「きっと、今だけの感情だと思う。嶺。あなたが生まれた時、きっと、あなたのご両親は、夢みたと思うの。あなたの結婚の事とか・・。」
莉音は、続けた。
「こんな年上とかでなくて、普通の恋愛をして、結婚する。それが、いいと思う・・。」
「普通じゃないの?」
嶺は、怒った。
「あなたとの事は、普通じゃないの?」
「一人じゃないでしょ!」
莉音は、大きな声をたててしまった。哀しい感情が、どっと、込み上げてきた。
「あたしは、一人じゃないの。嶺。自由じゃないの」
今まで、抑えてきた感情が、爆発した。
「どんなに、ひかれたって、あなたには、行けない。行っちゃダメなの」
「莉音!」
嶺は、思わず、莉音を抱きしめていた。
「どうしようもないんだ・・。俺って、最低だよ」
嶺の、両手が、莉音の、細い肩を包んでいた。力を入れてしまえば、簡単に、折れてしまいそうな細い肩。このまま、自分の、胸の中で、莉音を、押しつぶしてしまいたかった。
「たぶん。こうなりたかったんだと思う。」
莉音は、嶺の背中に触れていた。意外と細い腰から、真っ直ぐに、背中の、くぼみを、なぞっていた。あごの先に、小さなホクロがある。肩幅に、比べ、腕先は、細く指は、長かった。
「俺も・・。」
莉音の髪に顔をうずめ、小さく笑った。
「ずーと、こうしていたい。」
「あたしも。」
・・・でも・・・
嶺との恋は、自分を、跡形残らず、焦がす恋になるかもしれない。自分は、恐ろしい道に、一歩踏み出したしまった。莉音は、感じていた。嶺との恋を、成就する事は、これから、苦しみを味わう事になるという事を・・・。これは、世間でいう不倫。倫理に非ず。それとも、ひと時の恋でおわるのか・・・。
・・・これは、ひと時では、ない・・・
嶺も莉音も、わかっていた。2人共、引き返せない道を歩き始めてしまった事を・・・。
・・・もう、引き返せない・・・
嶺も、ボンヤリ考えていた。こう、なれたらいいと思った事は、あった。莉音と、そうなりたい。
・・・莉音と一緒にいたい・・・
それだけで、満足だ。最初は、誰でも、ささやかな、願いから始まる、それは、1つの目標を達成すると、次へと向かっていく。
最初は、莉音の側にいたかった。その次は、唇をもとめ、そして、今は。
「莉音」
嶺は、莉音の唇を再び求めていた。もう、逢えないのかもしれないと、何かに、畏れながら、後、少しだけと、思いながら、幾度と無く・・。
時間は、そのまま、過ぎていき、秘密を抱えたままの2日は、過ぎていった。くる時と、同じ、互いに、特別に、接近するわけでなく、ごく、普通に、同僚として、接していた。駅で、皆と別れる時も、挨拶をし、軽く手をふってみせた。そして、いま、家の前にいた。
・・・只今、到着しました。・・・
帰宅したよ。メールを嶺にいれた。あれから、懇親会は、嶺だけが、出席した。莉音は、ぼーっとしながら、ベットの上で横たわっていた。
・・・自分達は、これから、何処へ向かって行くのだろう・・・
その時には、感じていなかった。不倫の重圧感が、今のしかかっている。嶺と一緒の時は、夢中で嶺を求め、嶺の事しか考えてなかった。自分は、二重人格者じゃないかと思える程、全てを忘れ、嶺だけのものになっていた。・・・が。今、帰宅し、家の前にたっている。小さなマンションの玄関口。このドアの向こうには、何も、知らない夫が、待っている。莉音は、嶺へのメールを終えると、携帯のメール着信音を消去して、バッグに放り込んだ。
「帰ったよ」
ドアを開けると、いつもの通り、中で待っている夫に声をかけた。
「お帰り」
何も、知らない夫が、優しい笑顔で、莉音を迎えた。
「ご飯、作っていたけど。シチューでよかった?」
莉音の、カバンを、夫は、いつものとおり運ぼうとしたが、莉音は、拒んでしまった。瞬間、嶺からのメールが入った携帯を見られるかも・・・。と、思ったのだ。別に携帯を見ただけで、疑われるわけが、ないのだが・・。
「あっ・・・。大丈夫だから」
あわてる莉音に、夫は、何も、疑いしなかった。
・・・でもね。・・・
莉音には、不安があった。
・・・嶺に抱かれてしまって。・・・
自分は、夫を欺く事が、出来るのだろうか?このまま、夫に抱かれれば、嶺を裏切る気持ちになっていた。そう思う事自体が、もう、嶺と関係を持ってしまった莉音は、夫より、嶺を思っている事になってしまうのだが・・・。 やはり、夫を受け付けられない。莉音は、夫を拒んでしまった。気持ちも体も嶺を受け入れたがっていた。
嶺には、大学からの友人と、定期的に飲みに行く事が、しばしばあった。何人か、こちらから、大学に行ってて、向こうで知り合った友人だ。結構、集まって、気のあった同士、悪ふざけをしたり、今の若者らしく、真剣に恋の話等するのだ。結局、集まって、散々、飲んだ後には、互いの恋人の話になり、最後には、嶺の話になった。大学時代から、美央との事は、皆、知っている。
「結局、どうなってるの?」
一番親友の慶介が、聞いてきた。
「誰の事?」
思わず嶺の口からでた。
「誰?って?美央の他に、誰かいるの?」
その場にいた4人が、顔を見合わせたが、すぐ、にやけた表情になった。
「だから、俺がよく言っていただろう?」
慶介は、それ見たことかと言わんばかりに、嶺の背中を叩いた。
「お前には、いろいろ経験してほしいんだよ」
「いや。それが・・・。」
嶺は、ためらった。
「何、つかえてるんだよ。」
「うん・・。」
「話せない事でもあるのか?」
「ん」
莉音との事を話すか否か。迷っていた。
「言えない事かよ。まさか、不倫とか?」
慶介がひやかした。兎に角、学生時代から、人目をひく嶺は、女難が多く、よく、冷やかして、飲むのが、慶介の恒例となっていたのだ。不倫と言われ、嶺の顔色が、変ってしまった。
「・・・」
何も言えない嶺。
「あー。まさか」
慶介は、察し、他の2人は、身を乗り出した。
「話にくいんだけど」
嶺は、ポツリと言った。職場にいる莉音という女性の事。この何日か、莉音の事で悩んだ事。そもそも、2人の間に、起こった事、自分を抑えられなかった事。そして、莉音への気持ちを、このざわめいた居酒屋で語りだした。
慶介は、嶺の理解者である。2人で、よく遠くまで、旅行しては、おふざけ写真を撮っていた。たぶん、嶺が、不倫に手を染めたとしても、彼は、理解しようとしてくれた。・・・が、1人、妻帯者がいた。彼の意見こそが、世間の一般意見だろう。
「嶺。お前さ、」
拓斗が、真剣な顔で、嶺に向かった。
「相手の家をグチャグチャにしてまで、一緒に居たい相手な訳?」
そう、拓斗は、美央の事が、昔、好きだった。いまは、家庭を持ち、子供にも、恵まれている。
「親を泣かし、兄弟を泣かし、周りを不幸にしてまで、一緒にいたい相手なのか?」
興奮していた。嶺は、そこまで、考えた事は、無かった。莉音への思いで一杯で、ようやく、手に入れた喜びと、莉音の夫への申し訳ない思いでは、いた。
「仕事だって、お前・・・。どうなるか・・・。ようやく、馴れてきた所だって、言ってたろう?」
真剣に拓斗は、嶺の事を心配していたが、もしかすると、妻を寝取られた夫の気持ちになっているのかもしれない。
「・・・・」
嶺は、何も応えられなかった。拓斗のいうとおりだと思った。
「別れろ!って、いうか、もう、逢うな!連絡も。そうメールも辞めろ!」
熱弁だった。
嶺は、黙って、うなだれていた。
「まあまあ、な!」
慶介が、嶺の肩を叩いた。
「いいから、お前ら、行き着く所まで、いっちゃえよ!」
嶺の迷いを打ち消すかの様に、慶介は、言った。嶺が、莉音への思いが深い事を誰よりも、理解したつもりでいたのだ。
「考えて行き着いた答えなんだろう?きっと、今のお前に、にいろいろ言っても、届かないよな・・。きっと、判るときが、くる。」
慶介が、静かに言った。
「本当に、好きなんだろう。」
嶺は、頷いた。
「うまく、いくといいな。みんなに、祝福されるように。」
周りは、黙って、飲んでいた。しばらくすると、気をつかってか、全く、別の話題にと、なっていった。
もうすぐ、バレンタインがせまってた。2月13日は、嶺の誕生日。できれば、誕生日を一緒に祝いたい莉音だったが、嶺の都合で、2月14日を、一緒に過ごす事になった。
・・・本当は、誕生日は、あの人と一緒なんでしょう?・・・
莉音は、言いたかったが、責める権利は、ないので、我慢した。本当は、独占したい。自分の物だと言いたい。それが、言えないのが、不倫なのか・・・。お互い信じあう。それだけしか、結びつきを確認する方法はない。
・・・自分だって、言えないでは、ないか・・・
莉音は、自分の立場を考えたくなかった。冷静に考えれば、自分の罪がわかる。心の淵を見ないように、嶺には、無邪気に聞いた。心の闇を見透かされない様に。
「バレンタインは、ケーキでも焼く?」
「え・・?できるの?」
美央は、できない。
「失礼しちゃうわね!」
莉音は、お菓子作りに自身があった。
「材料買って、行くから。キッチン借りるね!」
プレゼントは、何にしよう。莉音の頭は、嶺と過ごす1日で一杯になっていた。
「わかった!楽しみにしてる。」
嶺は、笑った。会社のコピー機の側で、会話をすると、2人は、すぐ、離れた。自販機の前で、コピー機の側で、よく言葉を交わしたが、嶺が女性と一緒の会話をしている姿は、珍しい事では、なかったので、特別、噂には、ならなかった。莉音は、嬉しそうだった。嶺は、じっと、莉音の後ろ姿を見送った。
「別れろ」
あの日、拓斗が、言った言葉が、頭をよぎった。
・・・判ってる・・・
「相手の家庭や周りを壊す気か?」
そんなつもりはない。純粋に、莉音の傍にいたいだけだ。
「行くとこまで、行けよ。」
それが、出来たら、どんなに、楽か。
「一緒にいたいだけなんだ。」
嶺は、呟いた。莉音の側に居たいと心から願っている。でも、それは、何も知らない人を不幸に陥れる事。
「別れろ」
か・・・。不倫は、先のみえている恋愛。それなら、この日。普通に過ごしてから、別れを言おうか。自分から、不倫に手を染めていて、何て、勝手な言い草だろう。嶺は、失笑した。莉音が、望んできた訳でない。自分から、莉音に手を伸ばしたのだ。
・・・高値の花だったんだ・・・
嶺は、再び笑った。
「どうしてなの?」
後日、美央は、激怒して、携帯の向こうで、怒鳴った。
「あえない?って、どういう事?」
美央が、イラついていた。
「無理だったんだと思う」
嶺は、莉音と、別れるつもりでいた。・・が、その前に美央とも、別れようと思っていた。
「毎年、嶺の誕生日は、一緒に過ごす予定だったでしょ?」
「ごめん。一緒に居られなくなった。」
美央に嘘は、つけない。
「好きな人が、できた」
ぽっそっと、言った。その後、小さく
「ごめん」
と、言った。
「そんな!」
美央が、絶句した。
「その人と、出来るだけ、一緒にいたいんだ。だから・・」
「ちょっと」
興奮した美央にさえぎられた。
「この間、逢ったよね?逢ったばかりなのに・・・。どうして?」
強気の美央が、泣き始めていた。
「無理だよ。別れられない。」
そう言うと思っていた。何年も、結婚を前提に付き合ってきた。自分も、美央と、結婚するつもりでいた。でも、今は、気持ちが変ってしまった。
「ごめん」
また、謝った。
「別れられない。」
美央は、くいさがった。
「だめだよ」
嶺は、首を振った。
「今から、嶺の所に、行く」
携帯で話しながら、走り出した様子だ。
「だめだ。逢わない。」
毅然と嶺は、言った。
「どうしてなの。逢いたい!」
「ごめん」
何度も、言った。もう、逢うわけにはいかない。逢って、美央に期待を持たせる事はできない。莉音とも、別れるのだから。
「ずるいよ・・・」
泣きながら、引き止めようとする美央の携帯を嶺は、きった。誰かへの思いを貫こうとする時、人は、何て、残酷になれるんだろう。美央にだって、気持ちがあって、付き合っていた。それが、今、別れようとしている。莉音とも、別れなければならない。美央との事も上手く、やれば、別れなくても、済むかもしれない。だが、嶺には、上手くできなかった。別れてしまうかもしれない莉音に、少しの間だけでも、気持ちを全て捧げたい。嶺の今の気持ちだった。
2月13日は、1人で過ごそう。それは、美央とでもなく、莉音とでもなく、自分一人の誕生日。新しくやりなおす為に。
あの後、美央から、何回も電話があった。嶺は、出なかった。
・・・終わったんだ・・・
嶺は、思っている。自分は、これから、残りの時間を莉音と一緒にいたい。それなのに、美央と一緒にいたら、2人に申し訳ないと思っていた。中途半端に期待を持たせては、いけない。美央に冷たくしなくてはいけない。電話にも、でない。メールも、受けなかった。何度も、何度も、メールは、届いた。着信拒否する事は、出来る。それでも、万が一のため、それは、しないでいた。
・・・あいたい・・・
美央は、嶺を愛している。それは、ずーっと変らないものだと思っていた。この間だって、嶺は、自分を抱いたでは、ないか。いつもと変らなかった。それなのに、急に、好きな人が出来たというのか?好きな人がいるのに、自分を嶺は、抱いたのか?いつものように?
・・・許せないよ・・・
美央の心の中で、悪意が育っていった。いままで、一緒にいた。突然、自分の納得もしないまま、別れるという嶺が許せない。自分を裏切った嶺が許せない。あの時、自分を好きだと言ってくれたでは、ないか。これは、未練では、ない。まだ、自分達は、終わってない。美央は、そう思っている。
2月13日。莉音がくる嶺の誕生日の前日。
この日、嶺は、1人で過ごしたかった。正確にいうと実家で、家族とゆっくり過ごすつもりだった。昼過ぎまで、寝て、午後から実家に行く予定でいた。・・・が。インターホンが、朝早くから、来客を知らせた。モニターは、見慣れた姿を映し出した。
「美央!」
嶺は、目をこらした。
「嶺!あけて」
インターホン越しに、美央が叫んでいた。
「早く、あけて」
「どうして?」
嶺は、あっせた。こんな朝早くに、周りに迷惑を掛け兼ねない。
「まって」
下に降りていって、階下で話そうか?思ったが、言い争いになりかねない。嶺はセキュリティを解除した。
「どうしたの?こんな、早くに」
嶺は、ドアを開けると冷静さを装った。美央は、中に誰か居るのかと疑っているらしく、乱暴に部屋に入った来た。
「どういう事?」
ヒステリックに怒鳴った。
「どうしたの?」
嶺は、お茶を用意しながら、背中から声を掛けた。
「別れるって、話」
「うん。座って」
嶺は、美央にお茶を渡した。
「気持ちに嘘はつけない。悪いと思ってる。」
「嶺。どうしてなの?この間まで、一緒に居るって、言ってたじゃない」
「美央」
嶺は、美央を抱き寄せた。
「傷つけたくないんだ。これ以上」
「嫌だよ」
美央はすがりついた。
「こままだと、みんな傷つくんだ。俺が悪い。美央。今まで、本当にありがとう。」
「ちがう!」
美央は、嶺を突き飛ばした。
「傷つくのは、嶺。あなた自身でしょう!新しい女の所へ行きたいんでしょう」
激しい怒りの顔。
「そうだよ」
嶺は、哀しそうに言った。
「傍に行きたいんだ。気持ちが、変ってしまった。美央、心のない俺がそばにいても辛くないの?」
「辛くない!」
美央は、両手で、嶺の手を握り締めた。
「側にいて。お願い。いままで、一緒にいたじゃない?急には、無理なの。時間がほしい。もう少しだけで、いいの。そばに、いて」
「美央。無理だよ」
「離れない。そうでないと、あたし、何するか、わからない」
美央は、激しく、嶺を睨んだ。
「美央・・・」
「嶺!キスして!」
美央は、嶺の首に手をまわしていった。
結局、嶺は、美央に負けてしまい、きちんと、した別れ話は、出来なかった。
「別れない!」
の、一点ばりで、何度話しをしても、無駄だった。終いには、
「逢えなくてもいい。別れるなんて、言わないでほしい」
っと、言って、泣いた。そのまま、いつものように、嶺と過ごし、帰っていった。結局、どちらにも、別れの話をする事は、出来ないでいた。
嶺には、シルバーのチョカーが似合うと思う。駅で、シルバーのチョカーを買った。堂々とお揃いにするのは、恥ずかしいから、こっそり自分にも、同じデザインのチョカーを買った。2人で出掛ける時くらい一緒に、かけたい。プレゼント用に、1つは、リボンをかけてもらって、自分のは、そのまま、かけた。材料を買い、嶺の部屋で使えるようカップを2つ買った。たぶん、男の1人暮らしなのだから、ケーキ用の皿もないかもしれない。
・・・雰囲気も大切よね・・・
莉音は、花屋で、花と食器も買い揃え、嶺のマンションへ向かった。嶺のマンションは、街の傍にある。ショッピングセンターのすぐ傍。莉音は、そこに車を停めると、嶺のセキュリティーマンションにむかった。部屋番号は、502号室。
「もしもーし!」
ふざけながら、呼び出しを押す。
「どちらさまですか?」
無愛想な嶺の声。
「お届けものです。」
「いりません。」
嶺は、莉音と、知ってて、ふざけた。
「返品できませんが。」
「しょうがないな。」
と、ロックは、解除された。エレベーターを降りると、前で、嶺が待っていた。
「や!」
嶺は、おどけて見せた。
「おはよう」
莉音も照れくさそうに笑った。
「いろいろ買ったきたの。きゅうり嫌いだった?」
「そう!小学校の時、吐いたから」
「えー!」
莉音は、無意識にサラダっていうと、きゅうりを買ってしまっていた。
「ごめん。つい買っちゃった・・・」
「いいよ。よけて食べるから」
嶺は、莉音の荷物を持つと、自分の部屋に向かっていった。
2人が、過ごした日から、職場であう嶺と莉音は、なるべく、自然を装っていたが、なんとなく不自然な感じが周りは、感じとっていた。鈍い人達は、気付かなかったが、特に女性は、なんとはなく、莉音が、嶺を意識しているのを感じとっていた。
「もう、英さん!人妻なんですからね。」
意地悪なお局達は、からかい、ランチのネタにしていた。
「まずいよな・・・。」
嶺は、気にしていた。
「俺は、ともかく、莉音は、気をつけないと」
「そう?」
「だって、莉音は、わかりやすいから・・。変な噂たてられたら、逢えなくなるだろう?」
嶺は、続けた。
「それに・・。、旅行、。行きたいだろう?」
嶺からの、メールだった。もう、少し、暖かくなったら、温泉に行こう。嶺からの、提案だった。温泉は、北関東に行く。莉音の好きな美術館巡りをし、ショッピングモールで、買い物をして、嶺のお勧めのお店で、ラーメンを食べる。旅行好きの嶺が、ネットでいろいろ調べて、計画をたてていた。
「いい所、あったんだ」
嶺が、はしゃいでいた。
「白い温泉なんだ。とろっとしてるんだって」
いろいろ温泉の特徴を調べてるようだ。
「温泉に泊まるんだよね?」
莉音は、確認した。
「そうだよ。」
なんとなく、莉音は、照れ笑いした。
「部屋は、2つ?」
「2つとっても、最終的には、1つになっちゃうから、1つにしておく。」
「布団は、放してね?」
「1つにする?」
嶺は、うれしそうだった。2日間、この街を離れ、ずーっと、一緒にいる事が出来る。時間を気にして、あわてて、莉音が帰って行く後ろ姿を見送る時、嶺は、切なかった。夫の待つ家に帰る現実の莉音がそこにいた。
「莉音の夫が羨ましいよ・・・。」
遅くなった莉音を、車でおくる時、嶺の口から、思わずでた言葉。莉音は、何て、言ったらいいか、解らなかった。何の弁明も出来ない。このまま、何も考えず、嶺と一緒に、生きて行きたい。
・・・嶺が、一言言ってくれたら・・・
莉音は、考え始めていた。
・・・もし。嶺が、言ってくれたら・・・
覚悟は、出来てる。思い切って、嶺の元へ、行く。何もかも、棄ててしまおう。
「なんか、嬉しそうね?」
嶺と同じ気持ちを隠すように、嶺に言った。本当に、嶺は、自分と一緒にいるのが、嬉しいんだ。
「そりゃあね。」
いろんな所へ行こう!嶺は、提案していた。温泉に行く。そして、花見。嶺のフットサルの試合を応援して、コンサートも行く。東京にショッピングに行って、海にも行く。年間の計画が、限りなく広がっていった。そして、花火大会。嶺は、花火大会が好きだった。
「花火?」
莉音が言った。
「花火って、夏だけじゃないのよ?知ってる?」
最近、仕事で、知った情報を披露した。
「そうなんだ。本当に?」
「9月にも、花火があるの。寒いけどね。秋花火って、言うんだって」
「秋花火?」
「そう、あまり、聞かないでしょう?」
取引先の営業から、聞いた。嶺の花火好きを知って、これは、教えなきゃと思っていた。
「見に行きたいな。」
莉音は、聞いた時から、嶺と行くつもりだった。
「でしょう?見に行きましょう」
「だね。」
返事しながら、嶺は、ふっと、寂しい目をした。秋には、2人は、どうしているんだろう。できれば、その頃も、2人で、居たい。
「花火行って。そして、コンサート行って。また、温泉行って」
「京都もね」
「京都?京都じゃあ、1泊は、きびしいな。」
「じゃ、軽井沢。」
次から、次へと、行きたい所が、浮かんでくる。
「軽井沢は、5月に行こう」
ずーと、2人でいれる。莉音は、そう思っていた。そして、北関東への旅行の計画に思いをめぐらせた。2日間一緒にいれる。それだけで、幸せだった。
「早く、旅行に行きたい」
「体調、整えてな。」
「うん」
莉音は、幸せいっぱいだった。いつも、心の中が温かく、寂しさに、飢える事は、なかった。当日、嶺と莉音は、駅のターミナルで待ち合わせをした。案の定、朝に弱い嶺は、少し、遅れて現れた。車の助手席を開け、莉音は、滑り込むと、頭から、コートを被り、顔を隠した。
「いつまで、そうしてるの?」
サングラスの嶺が、笑いかけた。
「高速乗るまで・・・。」
「どうして?」
「見られたら、困るから・・・。」
「へぇ・・。見られたら、困るんだ!」
嶺は、意地悪を言った。
「いじわる。覚えといて」
「俺、頭悪いから、覚えてられないかも」
コートの隙間から、莉音は、キッとにらんだ。
「まあ、まあ、怒らない。怒らない」
嶺は、莉音に何かを放り投げた。
「なあに?」
莉音の好きなチョコだった。それもビター。
「わかってるじゃん。」
「だろう」
「それじゃあ。はい」
莉音が、差し出したのは、小さいお弁当箱。
「食べて、ないでしょう?」
「やった!俺、今朝は、ヨーグルトだけなんだ」
莉音は、小さなお弁当に、おかずとおにぎりを用意していた。いつも、莉音は、晩御飯のお裾分けを嶺に用意し、こっそり会社のロッカーにいれといた。室温の高い日等は、保冷剤を入れて、ロッカーに用意していた。
2人は、北関東を目指した。初日は、莉音の好きな美術館をめぐる。
「美術館にいくような人だった?」
「知らなかった?」
「意外」
「ふん。」
着いたら、生憎の雨だった。早咲きの桜が、雨に濡れている。
「だーれかさんの行いが悪いから。」
嶺は、おどけた。
「俺は、晴れ男なの。」
「はいはい。」
静かな美術館を巡り、最後に、小さなお土産屋さんに入った。
「たくさんあるね。」
一つ一つ、手にとって、莉音は、眺めていった。可愛らしいご半茶碗まである。
「これ!」
「ご飯茶碗だな。」
「お揃いで買う?」
嶺のマンションに、置きたい。そう思っているうちに、突然、お腹がなった。
「ごめん」
莉音のお腹の虫だった。
「茶碗見ているからって。」
嶺は、笑った。いつも、すましている莉音には、意外な行動だったから、恥ずかしがる莉音の様子が、むしょうにおかしかった。
「らーめんでも食べるか?」
「うん」
すぐ、2人は、車に戻ると、らーめんを食べにむかった。事前に嶺が調べて、おいたらーめん屋へ。
「よく、調べておくのね。」
「楽しみにしてたから。」
心の底から、2人の時間を楽しんだ。 その後、名物のじゃが揚げを食べ、ショッピングセンターで、莉音の買い物に付き合った。森の中にあるアウトレットモールだ。
「嶺は、何も買わないの?」
嶺は、疲れたとか、文句も言わず、莉音の買い物に付き合った。あちこち、動き回る莉音に、一言も、疲れたとも、言わず、常に笑顔だった。
莉音と一緒にいるのが、楽しい。その顔だった。
「疲れない?」
休憩に嶺の好きなアイスを食べながら、莉音は、聞いた。
「疲れないよ。」
「本当?」
「本当」
時間が、すぎるのが、早かった。その後、温泉宿に向かった。濁り湯の、こじんまりとした上品な旅館だった。
「ここに泊まるの?」
「そうだよ」
嶺が、フロントで受付をすませた。小さな旅館。2階の奥の部屋に着くと、嶺は、ガイドを莉音に放り投げて来た。
「俺、温泉に行ってくるから。明日、どこまわるか、調べておいて」
持ってきた荷物を広げると、嶺は、タオルを片手に温泉に向かっていった。
「はいはい。そうしますよ。」
莉音が、嶺の出て行った後、ガイドを広げようとすると、携帯がなっていた。
「?」
みると、嶺の携帯である。開こうか・・・。莉音は、迷った。どうしようか・・・。迷いながら、莉音は、嶺の携帯を手にとっていた。・・・が、開かなかった。ロックされていたのだ。
「なんだろう」
ロックしておかなければ、ならないなんて・・・。すっきりしないまま、時間だけが過ぎていき、しばらくすると、嶺が戻ってきた。
「あー。気持ちよかった。莉音も行ってくれば?」
「うん。」
莉音は、嶺の携帯をとった。
「携帯鳴っていたみたいだけど」
「そう?」
嶺は、莉音から、携帯を受け取ると、画面をみた。
「大丈夫なの?」
嶺の表情が、硬かったのを見逃さず、莉音は、言ったが。
「うん」
と、言ったまま、嶺は、携帯を閉じた。
「じゃあ、あたし。行ってくるね。」
自分が、温泉につかっている間に電話するのかも。そう思いながら、莉音は、部屋を出た。女の勘だった。
・・・なんか、嫌な予感がする。・・・
莉音は、何かを感じていた。
部屋に戻ってくると、いつもの嶺になっていた。
「どうだった?」
「露天風呂もあったね?」
「恋愛成就の露天風呂だって」
「お帰り」
嶺は、莉音を抱き寄せた。
「いい匂い。」
「シャンプーかな。」
莉音が、顔を上げようとすると、また、携帯がなった。
「いいよ。出てよ」
「ううん。こっちが大事」
「気になるから、出て!」
促されて、嶺は、しぶしぶ携帯にでた。
「はい。どうしたの。」
嶺は、ちらっと、莉音の様子をみると
「ごめん」
と、いって、部屋から、出て行ってしまった。
・・・気になる・・・
この、古い温泉宿は、音が、よく響きわたる。莉音は、テレビの音をひくくして、思わず、聞き耳をたててしまった。嶺の声が聞こえてくる。
「今・・・。ちょっと。そう。ごめん。」
要所は、うまく聞こえない。そのうち、嶺は、部屋に戻ってきた。
「うん。大学の友達」
聞いていないのに、嶺は、言い訳をした。
「聞いてないけど」
莉音は、不機嫌に応えた。
しばらく、沈黙が続き、食事の時間になった。なんとなく、気まずい雰囲気のまま、移動して、2人は、食事をし、再び、部屋に戻る頃には、莉音は、気を取り戻していた。
「親父からのなんだ」
嶺が、とりだしたのは、高級そうなワイン。今日は、時間を気にしないで、飲もうとばかり、嶺は、莉音のグラスにワインをついだ。
「だめだよ。飲みすぎちゃうよ」
「まあ。」
嶺は、莉音にグラスを渡した。
「帰る心配もないからね」
「送る心配もね」
そして、時間は、すぎ、嶺は、莉音を腕に抱き眠りについていた。一度、眠ると、なかなか、起きない。気持ちよさそうに、深い寝息をたて、横に眠る嶺をみていた。思い出したように、頭を掻き、口をならす。面白いクセがあるものだ。トイレに立とうとして、ふと、嶺の携帯が、目にはいった。
「誰からだったんだろう・・。」
なんとなく、莉音は、わかっていた。判っていた。別れの日が近い事を・・・。大学時代からの、彼女がいるのである。
「この旅行が最後になるかもしれない。」
無邪気な嶺の寝顔。彼の寝顔をみれるのも、もう、ないかもしれない・・。
「嶺。大好き」
莉音は、嶺の寝顔を、みつめていた。
「別れたとしても、大好きだよ」
きっと、大学からの彼女に戻っていくのだろう。
そして、その美央も、嶺との別れは、身にしみて、わかっていた。慌てて、嶺のマンションに押しかけてきたのも、それを、訂正させるつもりだった。大学時代から、長いのである。嶺が、今、何を感じ行動しようかとしているかは、美央にだって、十分過ぎるほど、わかっていた。 嶺との出会いは、大学の説明会だった。たまたま鳴った携帯を取り出そうとした時、美央は、誤って、水没させてしまった。親とも、連絡もとれず、困っていたのを、声をかけ、助けてくれたのが、七藤嶺だった。美央の好みの男性だった。入学し、同じゼミになったが、なかなか、声もかけれずいたのを、周りの友人達の、後押しで付き合うようになったのだ。子供みたいに、無邪気な嶺は、一緒にいて、飽きる事は、なかった。いつも、情熱的に、美央に語りかける。
・・・間違いなく、自分は、愛されている。・・・
美央は、そう感じていた。だから、大学を卒業し、別の地方に行くと聞いた時も、何の不安もなかった。自分達は、繋がっている。そう信じていたのだが、最近の嶺は、メールの返信すら、遅く、なかなか、逢おうとは、してくれなかった。
・・・私達、だめかもしれない・・・
職場の、飲み会で、先輩達に、泣き崩れたことも、あった。でも、このまま、嶺と、別れたくない。美央は、もう、自分には、嶺しかいないと思っていた。自分は、嶺に愛されている。きっと、誰かに、誘惑されたに、違いない。美央は、思い嶺を取り戻すべく、嶺のマンションをたずねたのが、2月13日だった。
・・・嶺に、愛されたい・・・
こうなった時、女は、強いもので、優柔不断で、友人達から、莉音との関係を否定されていた嶺は、美央との、関係を再び、持ってしまった。
・・・離れないで・・・
美央は、そういい残して、帰っていった。自分から、こんな事を言いにきた訳では、ない。嶺に否定してもらいたかったのに、嶺は、自分とずーっと一緒にいたいとは、言ってくれなかった。帰りの終電で、美央は、涙が、とまらなかった。こんな事は、自分からしたくなかった。だけど、嶺を失うのは、もっと、嫌だ。嶺と過ごした時間が、切なかった。自分と、一緒にいると、何度も、メールしてくれた夜が、なつかしかった。もう、嶺は、自分だけを、愛しては、いない。自分に思いがないのに、傍にいるのは、辛いと心が叫んでいた。それでも、嶺に、心が、なくなったのなら、それでもいい。傍にいたい。美央は、終電の中で、周りの目もはばからず、声をあげて、泣き出していた。
それから、1ヶ月半は、過ぎただろうか。美央は、その間、嶺に連絡をしていなかった。
全く、何事もなく、静かに時間が流れて言った。ある時期を待つかのように、美央は、静かだった。嶺もすっかり、美央は、落ち着いたものだと、思い、莉音と、思い出作りとして、旅行に出ていた。少しでも、たくさんの思い出が、欲しい。それが、自分を苦しめるとしても・・。そう思い、莉音と温泉に行っていた。その時、、嶺に電話がはいった。美央からだった。
「嶺?」
最初は、嶺は、出なかった。何回か、かけても、でない。でなければ、出ないほど、苛ついて来る。諦めかけた時、ようやく、嶺がでた。
「どうしたの?」
落ち着いたいつもの、嶺の優しい声だった。
「久しぶり。」
もう、美央との事は、終っていると、思っていた。
「話があるの」
美央は、静かだった。そして、何かを秘めているかのようだった。
「まって。」
嶺は、周りを気にしているようだった。傍に誰かが、居るのか。ドアのしまる音がして、嶺が、はなしかけてきた。
「何か、あったの?」
「あったわ。大事な話なの」
今、話そうかと、タイミングを見ているようだった。
「今?話したいこと?」
嶺は、誰かに、気をつかっているようだった。
「ゆっくり、話したいの。時間をつくって。」
「わかった。今は、俺も、無理だから」
「誰か、いるの?」
「うん。温泉に来ている。」
嶺は、それだけをいった。美央が、察して、自分を諦めてくれるかと、思ったが、予想以下に美央は、冷静だった。
「じゃ。戻ったら、連絡して」
「わかった」
意外と、冷静な、美央の態度に、驚いたが、部屋の中の、莉音が、気にかかったので、すぐ、携帯を切り、部屋に戻っていった。
「ごめん」
「別に」
やはり、莉音は、不機嫌になっていた。美央との事を、感じたのだろう。かといって、変に弁明しても、可笑しいので、嶺は、普通に待つ事にした。そのうち、莉音は、機嫌が治り、いつもの、笑顔を取り戻していた。せっかくの2人の時間を、こんな気まずいまま、過ごすのは、もったいない。
「よかった。姫の機嫌が直って」
「誰が機嫌を悪くしたの?」
「俺って事?」
「少しは、判ってるのかな?」
「反省しまーす」
1泊だけでは、もの足りない。本当に別れなければならない日が、来るまで、少しでも、一緒の時間を作りたかった。2日間は、あっと、いう間に、過ぎていった。
「どうしたの?電話じゃだめだって?」
莉音と旅行から、帰った嶺は、すぐ、美央にメールした。なるべくメールの方が、都合が良かった。第一、感情を抑える事が出来る。美央の話は、だいたい検討がついたので、電話で揉めるのは、どうしても避けたかった。・・・が、美央は、どうしても、嶺と直接、逢いたがった。わざわざこちらまで、出てきるのは、大変だからと、嶺が言っても、美央は、きかなかった。嶺のマンションまで、美央は、やってきた。
「嶺。私の話聞いてくれる?」
美央は、バッグを開けると、中から、1枚の写真を取り出した。
「見てほしいんだけど」
粗い映像写真だった。何かをエコーで撮ったような・・・。
「これは?」
嶺は、美央の顔を見た。美央が、ひきつった顔で嶺の顔を見ていたのだ。
「胎児の写真よ」
「・・・」
嶺は、驚いて、美央の顔を見た。
「私の。」
無表情の恐ろしい顔だった。
「正確には、あなたと私の」
「ちょっと、まって」
嶺は、パニックになった。
「冗談だよな?だって、美央。あの時は・・・」
震えながら、美央の肩を掴んだ。
「そう。大丈夫だって、言ったわ。でも、そんなの、嘘。どうしても、あなたの子が、欲しかったの」
「な・・・。待ってくれよ」
嶺は、首を振った。
「やっぱり、嬉しくは、ないのね。喜んでくれると思ったんだけど」
美央は、表情ひとつ変えない。
「いいわ。私、一人でも育てるから」
嶺の手から、写真を奪い取ると、バッグに、投げ込んだ。
「美央。俺は、君をもう、思っていない。」
嶺は、哀しそうに呟いた。
「俺の気持ちが、ないのに、一緒にいて、幸せになれるの?」
「なれるわ!」
美央は、嶺を押し倒した。
「私は、あなたを愛している。傍にいたいの。嶺が、傍に居てくれてるだけで、幸せなの。どうしても、どんな手を使っても、嶺の傍にいたいの。」
嶺の胸に、すがりついた。美央は、結婚している訳でもないのに、病院に通い、子供の出来やすい環境を整えていた。なんとしても、嶺の子供を授かりたい。計画的に、嶺を誘った。
「俺が・・・。悪い」
確かに、誘いに乗った。嶺が悪い。でも、それは、恋人同士だった時には、ごく、普通にあった事。
「嶺。私、産むから・・・。」
「でも。そんな事、君の両親だって、許さないだろう?」
「おろせなくなるまで、黙ってる。あとは、親も諦めるわ」
「美央」
嶺の唇を、美央は、ふさいだ。
「だめだよ。美央」
「いいの。返事は、しなくても。私は、あなたの子供ができた。それだけを、言いたかっただけだから」
美央は、立ち上がると、ドアに向かい。最後に、振り向いた。
「嶺。あたし。待ってるから」
哀しい眼をすると、美央は、ドアから、出て行った。動けない嶺を残して・・・。
「嘘だろう・・。」
嶺は、膝をついていた。まだ、莉音と、旅行から、帰ってきたばかりである。目を閉じると、助手席の莉音の顔が、浮かんできた。
「もうすぐ、お花見の時期よね。」
帰り道、莉音は、助手席で呟いた。
「だよなー。花粉アレルギーの時期だから、俺には、辛くもあるけどね。」
運転しながら、話した。
「春になるんだね。買い物行きたいな?」
「また、買い物ですか?今日、行ったじゃん」
「だって。」
莉音は、甘えた。
「欲しい春用のリップがあるの。気に入ったお店でないと売ってないんだー」
「今回で、有給。使ったしなー!」
「お願い。一緒に行きたいんだ。」
「どうすっかな?」
「えー」
「はいはい。時間は、作るもんだからね。何とか、しましょう」
「一緒にいたいんだもん」
「俺も・・・。」
ほんの、2、3日前に、嶺と莉音の交わした会話だった。帰宅してからも、いつもの、お帰りコールで、嶺から、メールが届いた。
・・・一緒にいるだけで、満足・・・
・・・あたしも・・・
莉音が、送ったのも、同じ内容だった。もう、離れなければならないのか。嶺の胸に熱いものが、込み上げてきた。
「莉音・・。お別れだね。」
莉音かたのメールを知らせる音楽が、鳴っていた。いつもなら、すぐ、携帯を見にいくであろう嶺だったが、今は、動けずにいた。そう、莉音に、メールの返信を送る日が、ここから、減って、いってしまう。少しずつ、別れの空気が、莉音に伝わっていってしまう。
「嶺。最近、どうしたの?」
一日に、何度も、携帯のチェックをする。メールを送ると、すぐ、返信していてくれた嶺からは、何度も、メールしても、返信のない日が、続いていた。
「お願いだから、返事して!」
メールに入れても、返信がない。まだ、旅行から、帰ってきて、一週間も、経ってないのだ。滅多に、莉音から、かけない携帯を、何度かかけて、ようやく、嶺から、メールが届いた。
「何が。あったの?」
「何も無いよ。」
「逢いたいんだけど。明日、逢える?」
「明日は、仕事だから、逢えない。」
「じゃあ、その次は?」
「仕事だよ。」
「一緒に行きたいから、待ってる」
莉音は、嶺と一緒に行けると思っていた。
「ごめん」
メールの、文字数が、減っていた。
「どうして、謝るの?」
すぐ、携帯が、鳴った。嶺だった。
「待ってるから。買い物を、嶺に、見てほしいの。」
「莉音・・・。」
辛そうな、搾り出すような嶺の声。
「一緒に行けくなった。」
「待ってるよ。あたし」
莉音は、単純に都合が合わなくて、行けないだけだと思っていた。
「莉音。もう、一緒にいれないんだ。」
「どうして?」
「それは・・・。」
嶺が、困っている。莉音の携帯を持つ手が、震えた。
「好きな人が出来た。その人と一緒にいたいから・・・。莉音。ごめん。終わりにしよう。」
か細く消え入るような声。
「嶺。」
莉音は、言葉をなくした。判って、いたけど、お互い、少しでも、一緒にいようと、約束したばかりでは、ないか。
「あたしは、一緒にいたい。出来るだけ、一緒にいたいの。」
思っている事を伝えた。切実に、嶺を愛している。でも、、これから先、何も約束できる事は、出来ない。形がない分お互いの強い心がなければ、結びついているのは、不可能な恋なのに。
「莉音。だって。俺達・・・。永遠じゃないよね?」
そう言いながら、自分は、判っていて、莉音を愛したのだと、思っていた。でも、今、ここで、莉音の気持ちを確認したい。
「嶺。あたしは、嶺と生きたいの。」
嶺を離したくない。約束できない将来であろうと、今、嶺を失ったら、生きては、いけないと思うほど、嶺の存在は、誰よりも、大きかった。
「莉音。」
感じていたけど、言葉で聞くと嬉しかった。別れなければ、ならないと、思っていたが、心の中は、莉音への、思いで、一杯だった。自分も同じだ。今、失いたくない程、大切な存在になっている。
「俺もだよ。莉音。大切だよ。」
優しい落ち着いた声。この声が好きだ。嶺は、続けた。
「でも・・。莉音。無理になったんだ・・。終るんだよ。俺達は。」
嶺が、携帯をきろうとしていた。
「待って!」
莉音の、声は、嶺に届かなかった。すぐ、携帯は、莉音を待たずに、切れてしまった。もう、一度携帯をかける。発信音が、5回鳴るが、意図的に切られてしまった。
「嶺!」
もう、立って、いられなかった。夕方、食事の準備をしていた莉音だったが、その場に座り込んでしまった。
「どうして?」
ほんの、一週間前は、一緒にいたいと言っていたでは、ないか・・・。
「どうして?」
莉音の、思考回路は、同じ所を回っていた。聞きなれた携帯が鳴り、嶺からの、メールを知らせた。
・・・莉音。いままで、ありがとう。おれは、莉音の事。ずーっと、忘れない・・・
いつかは、別れなければ、いけないと思っていた。が、逢うたびに、愛し合う度に、もうすこし、もうすこしと、別れを延ばし続けていた。もしかしたら、自分が、勇気をだしたら、嶺と一緒に生きていけるかもしれない。と、莉音は、考え始めていた。その一番、幸せな時に、嶺から、別れを突きつけられた。
・・・好きな人が出来た・・・
本当だろうか?大学時代の彼女の所に、戻るのではないのか。
・・・その人と一緒にいたい・・・
本当だろうか?自分と一緒に居たいと言ったばかりではないか。人の気持ちは、そんな急に変れるものなのだろうか?
莉音は、混乱していた。長い夜が、始まろうとしていた・・・。
「これでいいんだ。」
嶺は、莉音からの携帯の着信を拒否した。自分達の恋愛は、祝福されない。判っている。が、こんな莉音を傷つける方法でしか、別れられない自分が、許せなかった。でも、ここまで、しなければ、また、莉音の所に、自分は、行ってしまう。かといって、本当の事は、更に、莉音を傷つけ、追い込むであろう。本当の事。いつかは、知れてしまうだろう。でも、今は、言えない。莉音が、早く、自分を忘れ、優しい夫の元へ戻る事を望んでやまなかった。
「早く、忘れるんだ。」
時間だけが、解決してくれる。
悲しみは、突然、現れる。嶺からの別れは、莉音の生きる力をたったも同然だった。何も、出来なくなっていた。遅く帰宅した夫には、風邪をひいたと答えそのまま、ベッドに入った。体の力が、抜けていた。とにかく、哀しい。つい、最近まで、一緒にいられるだけで、幸せと、運転席で答えていたではないか。情熱的に、莉音に口づけていたでは、ないか。考えが、まとまらない。ほんの、何日か、離れていただけなのに、そんなに、簡単に気持ちは、変るものなのか・・・。そんなものなのか・・・。嶺の気持ちは、自分に対する気持ちは、そんなものだったのか。答えは、でない。何かが、違うと叫んでいた。確かに、莉音を嶺は、愛していた。それは、間違いなかったと、思う。嶺に、何かが、起きた?のではないか。が、莉音と離れようとする気持ちに変わりは、ないのでは、ないか。眼を閉じても、全く、眠れない。夜の時間だけが、流れていく。どうして、嶺は、自分といれなくなったのか。その切ない思いだけが、時間と共に、流れていく。
・・・嶺・・・
莉音の目尻を、涙が流れていた。将来のある嶺には、いつか、未来を築く相手が現れる。女に相手にされない男でない限り。いつかは、別れる日が、くるかもしれない。それが、こんなに、急に、来るなんて。
・・・眠れない・・・
眠れる筈が、ない。立ち上がる気力さえ失った、莉音の周りだけ、時間は、流れていった。
・・莉音が、恋しい・・・
できれば、一緒にいたい気持ちに変わりは、なかった。いつかは、別れるかも?しれない?いいや、もしかしたら、自分に勇気があったら、莉音と一緒に生きる事は、出来た。もうすこし、時間が、欲しかった。
・・・莉音に逢いたい・・・
切ない。美央と逢わなけらば・・・。たった一度あっただけで、自分は、結論を出さなければ、ならない。莉音と過ごした時間は、余りにも、短すぎた。莉音と過ごした思い出だけが、恋しかった。
これから、自分は、疎ましいと思ってしまった美央に、今までの、責任を取らなければならないのだろうか?
「美央?」
嶺は、美央に携帯をかけた。
「嶺。待ってた」
美央は、すぐでた。
「考えた。」
低く、抑揚のない声。嶺の押し出す声。
「子供は、産んでいい。認知は、する。・・・でも」
「でも?」
「結婚は、出来ない。」
嶺の声は、はっきりしていた。その声は、美央に君は、もう愛してないと、いうように、聞こえた。
「子供は、両親が、揃わない環境で、育つのね。」
「美央。できれば。俺としては・・。」
言いかけたが。
「出来ない。おろせというんでしょう?」
興奮して、美央の声は、震えていた。
「できないわ。無理よ。あなたの子なのよ」
「判っている。」
「あなたの子だから、産みたいの。嶺。わかって。あなたと一緒にいたいの。」
「美央。できない」
莉音とは、別れた。裏切ってしまった事をしたから。だからといって、美央と、結婚する気には、なれなかった。莉音に、美央の方が、大切だと、思われたくなかった。
「お願い。嶺。私には、あなたが、必要なの。一緒に、この子を育てて生きたいの。嶺」
嶺は、沈黙した。何て、答えたらいいのか、わからない。自分の莉音だけへの、愛情を貫けばいいのか。それとも、これから、生まれてくる子供の事を考える事が、大切なのか・・・。一番、判っているのは、莉音とは、もう一緒にいられない事。美央と、深くかかわって、行かなければいけない事。
「美央。すまない。少し、考える時間が、ほしい」
莉音とは、もう、終わった。もう、逢う事は、ないだろう。だが、すぐ、美央と、何かしら、進歩があったら、莉音は、どんなに、傷つくだろう。まして、子供が、出来たなんて、彼女が知ったら。
「これ以上、傷つけたくないんだ。」
自分の、利音への思いに嘘はない。・・・この、気持ち。もう、彼女に届ける事は、出来ない。
「もう少しだけ、待つから、嶺。一緒に暮ら日を、待ってる。」
携帯は、切れた。嶺は、携帯を持ったまま、遠く、莉音への思いをはせていた。
今まで、愛していた人と突然別れた後、人は、普通に生活できるのに、何日かかるのだろう。莉音の気持ちは、虚ろだった。何をしていても、意識がなかった。もはや、生きている状態では、ない。魂が抜けていた。嶺と過ごした時間が、本当に一緒にいた時間だったのか、わからなくなっていた。心が、嶺を忘れろと言っているのか、記憶が、磨り減っていった。ただ、ひたすら、嶺が恋しい。あの、体から、たちのぼる香りも、髪の匂いも、唇の感触も忘れてなかった。莉音の心も、すべて、嶺をもとめ、さまよっていた。そして、嶺も、同じ気持ちだった。莉音に逢いたい。いますぐ、この階段を駆け下り、莉音に駆け寄り、後ろから、抱き寄せたい。でも、それは、違う。冷静になり、自分は、どうしたらいいのか。このまま、莉音と、一緒になる事は、難しいと思い始めていた。もう少し、早ければ、それは、可能だったかもしれない。でも、今となっては、このまま、莉音のもとへ、行くのは、無理だった。
・・・やっぱり、無理だったんだ・・・
これは、言い訳か・・・。嶺は、決めた。必ず、一緒にいれなくても、幸せを願う方法は、いくらでもあるじゃないか。自分だけが、莉音を幸せに出来るなんて、思いあがりなんだ。彼女の、幸せを、願うのが、一番なのではないか。
少し、時間が、ほしい。その言葉の通り、嶺は、普通に会社に行き、業務をこなした。莉音の姿を、いつもなら、探してしまうのだが、我慢した。
彼女の姿を追いかけては、いけない。忘れるんだ。何度も言い聞かせた。莉音を、追いかけては、いけない。彼女を、幸せに、する人は、別にいる。出張で、他県に行った帰り道、嶺は、美央に電話した。
「美央?」
嶺は、昔の、付き合い始めた時のように、電話で話していた。
「決めたよ。」
「決めた?」
「君の事」
遠くで、親子だろうか、会話が、聞えてきた。夜更かししている子供をたしなめる父親の声。いつか、自分達も、そうなるのだろうか。
「あたしの事?」
「子供の事だよ。」
生まれてくる子供に、罪はなく。両親は、必要だ。
「結婚を考えてみた。」
嶺は結婚と言った。
「考える事ができるの?」
美央は、笑った。
「結婚はできないって、断言していた癖に。」
「少しずつね。それでいい?」
力なく嶺は、笑った。
「週末にも、そちらへ、行く。その時で、いいかな」
携帯をきると、すぐ、メールの着信をしらせるサインをしめしていた。たぶん、莉音からだ。嶺は、軽く内容を見ると、削除した。
・・・もう、逢えない・・・
莉音と連絡をとるのは、やめようと思ったが、最後に一度だけと、心に決め、嶺は、携帯を開いた。
・・・俺、結婚するんだ。もう、連絡をとるのは、やめよう・・・
短い内容だった。莉音の、どうしても、逢いたいという、メールに対しての、返事だった。
本当は、逢いに行きたいのに。莉音に冷たくする、切なく、辛い日が、始まっていく。
嶺に、メールを送ったのは、就寝前の切ない時間だった。どうしても、嶺に逢いたい。思い切って、嶺にメールしてみた。もしかしたら、嶺の気持ちが変っているかもしれない。そう、期待して・・・。だが、嶺から、返ってきたメールの内容は、莉音を打ちのめし、悲しみに、震わせるものだった。何度も、携帯をみる莉音の、顔が青ざめていた。携帯を持つ手は、震え、立っていられなくなっていた。
「嘘」
思わず、座り込んだ。信じられない。つい、この間まで、一緒にいるって、言っていたじゃないか。
「結婚するなんて」
莉音の両目から、涙があふれた。一番、辛い事。それは、何だろう・・・。心の中が、からっぽで、考えられない。人によって、それは、違うと思うけど、皆、同じなのは、愛する人と一緒に生きられない事じゃないだろうか・・・。お互い、好きでも一緒に生きられない。そんな人は、この世の中にたくさんいると思う。そして、この悲劇は、永遠にある。
嶺にとっても、同じである。でも、もう、忘れよう。心の奥底にある莉音への思い。押し込めて。忘れてしまえ・・・・。自分の記憶の彼方へ、押しやれば、楽になれる。きっと、そうに、違いない。自分は、これから、この人を愛する。ずーっと、昔から、知っている人。学食で、いつまでも、ふざけあい、夜は、ゼミのみんなで、朝まで語り明かしたでは、ないか。そう、今、隣にいるこの人。