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君との出逢いは・・・。

僕が、莉音を、初めて見たのは、大学を卒業して、入社してすぐの、転勤で新しい職場に案内された時だった。

「はじめまして、英莉音です。」

パソコンに向かっていた莉音は、僕の挨拶に、手をとめ、こちらに向かって頭を下げた。数週間後に結婚を、控えてる莉音は、他の女性達とは、違って、僕には、目もくれず、データの入力に、忙しそうだった。横目で、僕の顔をみる事すら、なかった。

「七藤嶺です。」

僕も、上司に、突かれる形で、頭を下げた。

 ・・・結婚するのか・・・。

彼女は、気にする様子なく、打ち込みを続けている。ほっそりとした横顔が

印象的だった。 その時、僕は、何も気にとめなかった。彼女が、僕より、8歳年上、とか、結婚するとか。その時の僕には、地元に残してきた彼女がいたし、誰よりも、彼女は、僕に関心がなさそうだった。でも、その頃、僕は、気付けば良かったんだね。こんなに、君に、魅かれてしまうなんて・・・。君が、まだ、誰の物にも、ならないうちに・・・。もっと、君に、近づけるよう努力すれば、良かったんだよね。この時、ひきとめれば、良かったのかもしれない。だって、君は、僕にも、誰の手も届かない所にいってしまうんだから。

・・・今の生活を、捨てる事は、できない。・・・・

莉音は、僕に言った。

「そうだよ」

 僕は、冷静を装った。何度も、頭の中で、繰り返したんだ。この別れの会話は・・・。もっと、僕に勇気があれば、莉音を、奪う事ができたのに。この時に、戻る事は、できない。余りにも、僕達の恋は、周りを傷つけた。


「へぇ・・・。夫婦別姓なんだ」

 同じ職場の、加奈子が、ハシャギながら、新婚旅行土産を配りにきた莉音を、ひやかした。あれから、数週間が、過ぎていて、僕が、莉音を目にしたのは、結婚式を終え、新妻になったばかりの初々しい姿だった。

僕自身はというと、学生時代から、付き合っていた彼女、美央とは、遠距離恋愛だったせいもあり、長いつきあいと、互いの時間のすれ違いが原因で、別れる別れないで、もめていた嫌な時期であった。

・・・別れようか・・・

呆然と、考えていた。若いという事もあり、そんなに、美央を失いたくないと思うまで、好きでは、なくなっていた。10代からの恋なんて、こんなものだろうか・・・。美央と一緒にいるだけで、いろいろ楽しかった。今も、そうだと思い込んでいた。最近は、新しく変わった環境になれるのに、必死で、寂しいという、メールを送る、美央をわずらわしくさえ、思えていた。別れて、新しく、やり直すのに、いい機会かもしれない。そう思っていた。

「七藤君、どうぞ」

莉音は、嶺にお土産の、チョコを差し出した。

「あっ、すいません。俺、甘いの大好きなんです。」

恐縮しながら、手を出した。

「初めて、ですよね?」

莉音は、笑った。初めて、僕を正面から、見つめていた。穏やかそうなその顔。笑う口元には、笑窪が、浮かんでいた。

「何が始めてですか?」

包み紙を、開きながら、声をかけた。

「こうやって、話すの。七藤君って、結構、後輩達に、人気あるんだから」

莉音は、後ろから、覗き込もうとする外野の、視線を気にしたのか、後ろを、振り返った。

「初めて話したのが、今日じゃないですよ!。俺、赴任してきたばかりの時、挨拶したじゃないですか?」

もう、忘れてるのか・・?そおいえば、そんなに、関心なかったよな・・。嶺は、少し、がっかりした。

「そうだった?あっ!ごめーん」

莉音は、両手を合わせ、謝るポーズをとった。

「ごめん。ごめん。あの時は、締めに遅れてて、あせってたの。」

彼女は、続けた。

「七藤君の職場の完成検査とあたしの購入課は、ライバル同士だから、今後共、よろしくね。」

莉音は、嶺をみつめ、にっこりと微笑んだ。

そう、その表情だよね。その忘れられない笑顔を、曇らせるのは、いつも、僕になってしまう。思い出しても、辛くなるよ。

莉音の笑顔が好き。

僕は、よく莉音にそう、メールで告げていた。大好きな人の笑顔。何度、そう、告げていたか・・・。


新婚旅行から、帰った莉音に、後輩の美沙が泣きついてた。美沙とは、同じ職場の、まだ、20代の女性で、他の女子社員同様、嶺に関心を持つ子であった。年頃の女性が、人目をひく男性に魅かれる事は、そう珍しい事では、ない。いろいろ接触を試したものの、うまくいかず、比較的、仕事で、やりとりのある莉音に、相談する事にしたらしい。結婚したばかりなのだから、横取りされる事も、心配ないだろう。

「七藤君が好きなの。お願い先輩、仕事でよく話しますよね?協力してくださーい!」

午後の、湯沸し室で、コーヒー片手に、莉音に、ねだった。人なつっこい子で、莉音も、彼女の事が、好きだった。しかし、橋渡し役となると、話は、別だった。

・・・今、みたいに、話しかければいけるかもしれないのに・・・・。

莉音は、面倒臭かった。あまり、人の面倒を見るのは、得意ではない。取りあえず、職場の女子で、結婚してることで、信用できる女性という事で相談されたらしい。まあ、嶺は、なかなか、もてるようなので、1番安心できる所で選ばれたという処か。

「ふぇー。面倒なんですけど・・」

莉音は、本音を出した。今は、落ち着いた穏やかな、生活を夫と、したいのだ。人の恋愛に巻き込まれたくないし、もう、散々である。莉音は、派手な顔立ちのせいで、よく遊んでいると、勘違いされやすかった。ちょっと、男性と話しているものなら、おばさん達の格好な話のネタにされていた。ようやく、知り合えた穏やかな人。この人となら、一緒にくらしていける。31歳になって、ようやく掴んだ穏やかな生活。

莉音は、嶺と関わる事で、穏やかな生活が、崩れてしまうような嫌な予感がした。

「自分の力だけで、いけるよ・・。十分、魅力的だと思うし・・。」

なんとか、話をはぐらかしたかった。

「そんな事言わないで下さいよー。先輩は、自分ばかり、幸せでいいんですか?」

「はー?」

美沙は、根拠のない言いがかりをつけた。

「先輩は、いいですよね。みんなに、お祝いしてもらって。」

・・やれやれだ・・・

美沙は、続けた。

「飲み会を設けるとかー。なんなら、仕事。ほら、報告書とか言って、メアド聞くとか?」

自分が、聞けば、いいではないか?

「はー?ますます、まずくない?あたし、人妻なんですけど?」

莉音は、断りたかった。

「まあ、まあ!先輩なら、大丈夫。」

てな、訳で、莉音は、嶺のメアドを聞くはめになった。

「ちぇ!」

莉音は、小さく舌打ちした。確かに、嶺とは、2人きりで、、検査報告書を出すために、、実験室にこもる時がある。だからと、いって、突然、メアドを聞いたら、嶺になんて、思われるか・・。莉音は、納得いかない様子で、データー入力作業に、戻った。

 莉音の職場は、広く、そこには、最新のコピー機が置いてある。そこを、嶺は、よく利用していた。コピー機から、真っ直ぐ、突き当たりに、莉音の席があった。嶺は、コピーをしながら、いつの間にか、莉音の姿を追いかけるのがクセになっていた。

・・・・いるの?・・・・

目で、追いかける。後ろに、下がって、莉音を探す。10時と3時は、休憩に行っているので、コピーの時間は、ずらす。

・・・・まるで、ストーカーだな。・・・・

嶺は、笑った。特別、莉音に感情がある訳では、なかった。仕事を一緒にしている内に面白い奴くらいにしか、思ってない。しっかり、しているようで、意外と、ボーッとし、嶺に、注意される事が、よくあった。字もあまり上手では、ない。

「いいの。手書きのない時代なんだから」

嶺にからかわれると、真っ赤になって、怒った。面白い。最近、すっかり冷めてしまった美央といるより、莉音をかまっているほうが楽しい。しぐさも、見ているのも、面白い。だから、ついつい、莉音の、階に、用事があるときは、つい、目で追ってしまう。

あまりにも、莉音の背中を見ているものだから、何かを、感じたのか、急にふりかえった。

「ちょっと!そこの人」

莉音が、つかつかと歩いてきた。周りの、視線なんか、全然、気にしていない。

「メアド教えなさいよ!ぜんぜん、報告書なってない。今日中に、提出できないでしょ!」

「は?」

報告書は、社のパソコンで、十分のはずである。

「だーかーらー。メアドってんの」

莉音は、制服の、ポケットから、自分の、携帯を、出していた。紅いフレームを、開くと、赤外通信の、画面を出していた。

「早く」

「はい?」

嶺は、驚いた。周りに、コピー待ちの人が、並んでいるのだ。やましい事は、ないのか?本当に仕事の用件だけなのか?余計な詮索が、頭を巡る。

「何、赤くなってるのよ。メアド何に、使うか、わかるでしょ?」

莉音に、言われて、また、顔が、紅くなるのを、感じた。

「早くしろよ!七藤。お前、何考えているんだよー」

コピー待ちの、同僚が冷やかした。

あわてて、携帯を探したが、すぐには、みつからなかった。あせるあまりに、いつもとは、違う胸ポケットに、入れているのを、忘れていた。

「ありました!」

莉音の、剣幕に、圧倒されて、嶺は、携帯を出し、赤外線をしてしまった。

「ゲット!」

莉音は、にっこり微笑んだ。嶺の好きな顔だった。

美沙が、どうしても、嶺と飲みたいと無理やり飲み会をセッティングした。共通の、友人を介して、顔ぶれも、接点が、不明なメンバーばかりが、集まった。その中に、やはり、巻き込まれてしまった莉音の姿があった。

「どうして、あたしまで・・・」

ぼやいた。今日は、旦那が出張でいない。それをいい事に、実家でのんびり親に甘えるつもりでいたのに、美沙の策略の餌食になり、今、こうして、美沙の隣、嶺の隣の隣に、ちょこんと座らされている。2人の間におかれて、橋渡しでもしろと、いうのか?すごーく、莉音は、不機嫌になっていた。確かに、美沙は、可愛いと思う。周りのアホな男共は、美沙に夢中という子が多い。いつも、ミニをはいているし、リボングッズは、当たり前、ゆるくまいた巻き髪は、背中まであり、足は細く、胸は、大きかった。何よりも、若い。

「別に、あたしなんか、いなくたって」

莉音は、いつも、美沙が羨ましいと思っていた。黙っていたって、美沙は、誰かが、気にかけてくれる。それに比べて、自分は、声をかけないとお店のオーダーさえきやしない。だいたい・・・。男なんて・・・。

「ちょっと、先輩。ピッチ早すぎますよ!」

美沙が、あわてて声をかけてきた。残業が続いたあとのビールである。そおいえば、冷酒も飲んだような・・・。気付かないうちに、咽の渇いていた事もあり、何杯もお代わりをしていたのだ。

「大丈夫!大丈夫!ちょっと、トイレ」

莉音は、立とうとしたが、上手く立てなかった。そんなに、飲んだつもりは、ないのだが、どうも、冷酒とカクテルを、混ぜたのが、いけなかった。腰が、ぬけたように、なり、慌てて、美沙に抱えられた。

「もう、先輩!しっかりしてくださいよ。」

「だから・・。美沙ちゃんが、つきあわせるからだって!」

「もう・・。」

美沙は、ふてくされたままで、洗面所の前で、待っていた。

「大丈夫ですか?」

「だめみたい。」

莉音は、洗面所に、突っ伏しそうになった。

「ごめん。あたし、無理みたい。」

大きなため息がでた。

「タクシー呼んでくれる?」

莉音は、自分の体が自分の物でない感じがした。

「帰れます?」

「多分」

莉音は、愛想笑した。

美沙は、莉音と、店内に戻ると、すぐ、タクシーをよんだ。

「もう、帰るの?」

周りの、同僚達が、目をまるくした。

「今日は、仕事も、終ったから、飲むって、張り切ってたって聞いたのに・・。」

「誰が、言ったの?」

「美沙が・・。」

周りが、指さすと、美沙が、うつむいた。

「ごめん」

「言ってないし・・。」

そのうち、タクシーが、来ると、美沙は、お詫びとばかり、乗り込みを、手伝った。

「先輩。今日は、ありがとうございます。」

「何とか、なりそうだった?」

意地悪っぽく、莉音は、聞いた。

「七藤君って、あまり、あたしに、関心なさそうです。」

「そうかな?」

嶺も、同僚達と、一緒に、莉音の、見送りに出ていた。

「七藤!見送れよ!」

誰かに、押されて、嶺は、前に来ていた。

「英さん。お疲れ」

嶺は、軽く見送るつもりだった。美沙と、くっつけようとしていた莉音の、たくらみは、なんとなく、気付いていた。突然、メアドを、聞いたり、飲み会を設定したと思えば、美沙の、隣に座らせたり、みえみえだった。それでも、嶺は、莉音と、少しでも、時間を、共有したいという思いから、飲み会には、出ていた。

「じゃ!また」

美沙の間に、滑り込んで、莉音を、覗き込んだ。

「おやすみなさい」

莉音は、微笑みかけた。

「大丈夫ですか?」

「ちょっと、飲みすぎたみたいよね」

「そうですよ。」

一瞬、嶺と莉音が、みつめあった気が、美沙には、した。

「じゃ!」

莉音が、ドアを閉めようとしたその時、嶺は、ドアを、押えた。

「おやすみなさい。」

周りの、同僚達が、呆気に、とられるのを、後に、嶺は、挨拶すると、車は、走り出していた。


「自宅って、何処?」

「今日は、実家に帰る予定なの」

莉音は、乗り込んで来た嶺に、ちょっと、冷たい態度をとった。どうして、タクシーに、乗り込んできたか、判らなかった。せっかく、美沙に、頼まれて、お膳立て、したのに、これでは、台無しでは、ないか。莉音は、実家までの、道順を、説明すると、黙り込んでしまった。

「あのさ・・。」

なんとなく、莉音の、怒っている気配を、嶺は、察して、口を、開いた。

「もしかして・・。怒ってる?」

「どうして、そう、思うの?」

横目で、睨んだ。

「なんかさ・・。たくらんでた?」

「たくらむなんて、人聞きの悪い・・。」

「もしかしたら、そうかな・・?って、思って」

しばらく、莉音は、黙っていた。

「まずいと、思うと、黙っちゃう人?」

嶺は、笑った。

「あなたは、判りやすいんだから・・。」

「そうかな」

「そうだよ」

「何に気付いていたの?」

「美沙さんの事。」

「やっぱり・・。」

莉音は、口を、尖らせた。

「本当。判りやすい・・。くっつけようとしてたでしょう?」

「ちょっとだけ」

莉音は、指で、少しだけと、合図した。

「ダメ?」

可愛く言ったつもりである。

「あのさ・・。俺の気持ちは、関係ないんですか?」

「いや・・・。一応、頼まれたからには、一肌、脱がなきゃかな?って」

「まったく、姉御肌というか・・・。」

嶺は、呆れた。

「あれから・・。メールが、凄くてさ・・。すぐ、わかったよ。どうして、メアド聞いたのかって事。」

「ごめんね」

「簡単に、教えて欲しくなかったな。あなただから、教えたのに・・。」

車は、街を離れ、一路、莉音の実家を目指していた。

「もう、少し、飲みなおそうか?」

下心が、あった訳でなく、嶺は、莉音と少し飲んでみたいと思っただけだと思う。

「十分、飲んだけど・・・。」

あまり気乗りしない態度を、あからさまに、莉音は、だした。

「確かに、飲みすぎたから、帰るんだよね?」

「そうだけど・・。」

腰が、ぬける程、飲みすぎたのだ。よりによって、嶺と、飲みに行くなんて、ありえないと、思う。

「帰ります!」

「帰るの。」

「そう・・。」

「メアド勝手に、教えたお詫びに、付き合うとか?」

嶺は、にやっと、笑った。

「無理矢理?」

「そう!。」

車の行く先は、もう一度、街中へと、向かっていった。もうすぐ、日付が、変ろうとしていた。何と、長い一日だったろう・・。仕事を、ようやく、終え、美沙の我儘に、付き合う。いつもなら、お風呂に入って、寛ぎながら、テレビを、見ている時間である。幾度と、なく、欠伸が、出ていた。

「眠いの?」

嶺が、聞いた。

「はい。」

「意外と、子供なんだ・・。」

「はい。」

むっと、しながら、返事を返した。車は、嶺の知っているという、店の前で、とまった。地下に、降りていく階段には、いくつもの、青いイルミネーションが、飾られており、所々には、アジアンチックな、花が、咲いていた。どうしても、欠伸のたえない莉音は、嶺の後ろについて、しぶしぶ階段を、降りていった。

「ここです。」

嶺は自慢げに、振向き、ドアをあけた。

「へぇ・・。」

一瞬、居空間が、広がったのかと、思うような、闇が、目の前に広がった。だが、それは、一瞬の事で、次第に、目が、馴れてくると、ほの暗いホールの、中央に、ピアノの置かれたバーになっていた。所、所に、LEDだろうか・・。ランプの、蒼い光あが、灯っていた。

「きれい・・。」

莉音が、呟くと、嶺は、満足そうに、頷いた。

「こっち・・。」

促されて、莉音は、中へと、入っていった。

「こんないい所、知ってるんだ・・。」

「来てよかった?」

「一瞬、そう思ったかな。」

立ってるのは、まだ少し、辛いので、近くにあった席に、そのまま、腰かけた。

「大丈夫?」

嶺は、覗き込んだ。

「大分、落ち着いたかな?誘っといて、聞くの?早く、帰りたかったのに・・。」

莉音は、ふくれた。

「すぐ、帰るから・・。」

テーブルに、そっと、顎をのせた。

「疲れた・・。」

「新婚だから?」

「また、そんな・・・・。」

少し、顔を赤らめた。その顔を、見て、嶺は、少しだけ、見た事も無い莉音への、夫への、嫉妬心が、首をもたげた。

「ねぇ・・。聞かせて欲しいんだけど。」

「何を?」

莉音は、面倒臭そうにいった。

「旦那さんとの、出逢い。聞かせて。」

突然、自分の口から、そんな言葉が出て、嶺自身が、驚いた。

「恋愛?」

ついで出る言葉に、莉音も、驚いた。

「聞いて、どうするの?」

「どうするんだろうね・・。でも、気になるんだ。」

嶺は、傍にいたウェイターを呼び、飲み物を頼んだ。

「英さんは、ウーロン茶で、いいよね?」

「お酒、飲もうかな・・。変な話でたし。」

「飲まないと、話せない事?」

嶺は、かまった。

「どうして・・。聞くのかなって、思って。」

「話したくないの?」

一番、最初、出逢った頃は、普通に、これから、結婚する事、そして、旦那もち、である事も、普通に話せた。だが、最近、嶺の前では、あまり、家庭の事は、はなしたくなかった。嶺も、同じく、あまり、莉音の家庭の話は、聞きたくないと思っていたが、お酒の席という事もあり、いろいろ聞きたくなっていた。一番は、恋愛なのかって、事。

「たいした話でも、ないの・・。」

莉音は、目を伏せた。

「友達の紹介なの・・。静かで、優しい人。一緒に居て楽かな・・。って、思えた頃、プロポーズされて・・。」

「・・・。」

嶺は、聞いていた。

「すっごく、盛り上がって、盛り上がって、結婚するのかって、おもてったんだけど・・。意外と違かった・・。」

遠くを、見る目だ。

「結婚って、意外なとこで、決まっちゃうのね。」

莉音は、くすっと、笑った。

「俺がさ・・。」

何を言おうとしているんだ?と、嶺は、自分で思った。

「もっと、早く、傍に居たら、付き合ってた?」

「はぁ?」

莉音は、目を丸くした。

「どうしたの?酔ったの?」

「うん・・・。」

カタンと、椅子が、前に傾く音がした。暗い店内が、更に暗くなったと、思った。嶺が立ち上がったのだ。莉音に、立ちはだかるように、その顔があった。

「七藤君?」

あれっと、思った瞬間、嶺の唇が、触れていた。優しくほんの一瞬、莉音に、触れていた。

「みた時から・・。」

莉音は、拒否しなかった。嶺の、右手を鳥、自分の胸にあてていた。

「すごい・・・。ドキドキしているよ。」

「お酒のせいじゃない?」

顔をくっつけたまま、嶺は、言った。

「美沙に、怒られるね。」

莉音は、忘れていた。今、一人の女性として、嶺の前にいた。英 莉音として・・。そのまま、テーブルに手をつき、つま先たちになった。嶺に、届くように・・。そして、あらためて、嶺の顔に、自分の顔を近づけていった。ほんのりと、ランプの、明りに照らされて、優しい眼差しの、嶺の顔があった。

「お酒のせいかな」

莉音は、そう言って、嶺に、唇を重ねていた。ほんの、軽いキスだった。

「ごめん。」

あわてて、嶺は、言った。

「どうして?謝るの?」

「出よう。」

問いには、答えず、嶺は、莉音の背を押して、出口に行くように、促した。自分は、会計へと、進み、やや、遅れて、階段を上がってきた。

「どうして、謝るの?」

階段に、腰かけた、莉音は、少し、怒っていた。

「ああいう事の後、怒るのは、傷つく・・。」

「ごめん・・。つい。」

「間違ったって事?」

嶺は、考え込んでいた。座っている莉音の、手を引き、無理やり立たせると、階段を、ひきずるように、上がっていく。

「間違ってなんか・・。ないよ。」

ちいさく、呟いた。

「押えるのが、大変なんだ・・。」

声が、ちいさくて、莉音の耳には、届かない。

「聞えないよ!」

「いいよ。聞えなくて。」

感情的になっていた。

「ごめん。とにかく、今日の事は、忘れて。」

「大人でしょ。このくらい・・。」

莉音が、言いかけた時、嶺は、振り返っていた。怒ったような、泣きそうな顔をしていた。

「このくらい?」

「う・・。ううん」

あまりにも、すごい剣幕に、莉音は、ひるんだ。

「じゃあ・・。どのくらいなら?」

嶺は、強引に、莉音を引き寄せた。両手で、莉音の、顔を抑え、今度は、先ほどの、優しさとは別に、莉音の、唇を、貪った。階段の、上り口は、誰も通る者は、おらず、2人きりだった。

「このくらい。」

嶺は、言った。先ほどの、泣き顔とは、全く、別の顔になっていた。

「このくらいだったら、謝ればいい?」

「そう・・。」

恥ずかしさで、嶺の顔を直視できなかった。

「帰ろう」

嶺が、莉音の手をひいた。

「うん・・。」

何も、言えなかった。自分は、嶺に、魅かれ始めている。それを、感じていた。

どうして。そう、思わずに、いられない。今頃になって、好きな人が、現れるなんて。この感情を、認める訳には、いかない。このまま、夫と静かに、暮らしていく予定なのだ。嶺の、自分に向けられた感情が、熱く深い事を知ってしまった。いや・・。本当は、気付いていたはず。美沙との仲立ちを頼まれた時に、心の中に、小波が、たったではないか・・。嶺が、好き。手を引かれながら、莉音は、隠さずにいられなかた。

「タクシーないか・・・」

通りに出た所で、嶺がつぶやいた。もう、時計は、2時を指していた。

「歩こうか?」

莉音は、言った。

「歩けるの?」

驚いた顔で嶺は、言った。もう、あんな事もあったりで、莉音の酔いは、すっかり醒めていた。

「それなら」

駅から、莉音の実家までは、決して、歩けない距離では、ないが、かなりある。それでも、2人は、ふざけあいながら、歩き出す事にした。会社では、決して、出来ない2人だけの時間。

「あのさ・・。」

嶺が、先になって歩きながら、声をかけた。

「本当に、美沙ちゃんと、くっつけたかったわけ?」

「あぁ・・。」

莉音は、愛想笑いした。

「頼まれたから・・。」

「頼まれたから?俺の気持ちは?」

真面目な顔で、聞いた。

「橋渡しを頼まれただけなの。」

「傷つくな・・。」

ぽそっと、言った。

「英さんは・・・。莉音は、平気なの?」

苗字で、呼んだのを、訂正した。

「う・・・ん。答えないとダメ?」

「答えたくない?」

「今は・・。」

大好き。そう言いたかった。答えは、決まっている。それでも、莉音は、嶺に言えなかった。美沙と嶺の、仲立ちをしている間に、自分が、嶺に魅かれていたことを。冷静に考えなければ・・。ここで、やめれば、誰も、傷つかない。でも、ここで、引き返すな。と心の奥で、もう一人の自分が、叫んだ。嶺の莉音への思いがあったのか、再び、嶺は、莉音の、体を抱きしめていた。もう、夜明けが、近づいていた。

どんな事が、あっても、時間は、流れていく。仕事をしていても、莉音は、身が入らなかった。自分は、何をしたのか?判っていた。唇が、覚えてる。

・・・これは、いけない事だ・・・

莉音は、判っているつもりだ。嶺が好き。自分が、美沙との橋渡しをしている時、嶺と話す事が、どんなに、楽しかったか。でも、自分には、待っている人がいるし、嶺にだって、可愛い彼女がいる事は、知っている。

・・・自分達は、大人だ・・キスぐらいで、こんなに、揺らぐなんて・・・。

莉音は、かぶりを振った。出張から、帰って来た時の夫の顔を思い出そうとしていた。優しい笑顔で、莉音を、みつめていたでは、ないか?自分だって、疲れているのに、夕食を作って待って、いてくれたり、洗濯だって、一緒に干して。これ以上の幸せは、ない筈なのに、どうして、自分は、嶺に魅かれてしまうのだろう。莉音は、苦しくなっていた。

・・・お酒の席の事。はずみよ。はずみ・・・

莉音は、無理に思い込む事にした。

「莉音さん?」

誰かが、パソコンに夢中になっている莉音に、話しかけてきた。

「?」

莉音が、顔をあげると、そこには、嶺の顔があった。莉音は、目を合せられなかった。

「まったく。」

嶺は、かがんだ。

「罪作りですよね。」

莉音の耳元で囁いた。

「届いてます?」

「何が?」

莉音は、赤面していた。

「だから」

嶺は、笑った。

「報告書ですよ。英さんが、できないから、残業になって、帰れないって、女の子達泣いてますよ」

「!」

嶺は、笑いながら立ち去った。そうだ、嶺との事に気をとられ、すっかり、仕事に遅れがでていた。ちょっと、時間があると、すぐ、嶺との事を考えてしまう。そう・・。あの夜から。でも。こともあろうか、それを、原因である嶺に指摘されるなんて。

「もう!誰のせいよ」

・・・ばからしい・・・

莉音は、悩むのをやめた。あれは、お酒のせいだ。そう、思う事にした。誰にも、言えない。このまま、忘れよう。このまま、そっと、しておこう。胸にしまい、忘れてしまう。あの後、美沙が、2人で、何処行ったの?とか、いろいろ五月蝿かった。そりゃそうだ。気になる男性が、2人で、どこかに行ってしまったのだから。でも、あえて、言い訳もせず、

「秘密」

と言って、わざと、謎めいて、ごまかしておいた。美沙は、面白くなかった。


「メールが、こないの」

美沙は、言った。

「誰から?」

莉音は、判っていて、聞いてみた。

「嶺君」

「ふーん。仕方ないんじゃない?だって、彼女いるって、知ってて、狙っていたんでしょ?」

関心のないフリをした。ちょっと、きついかなと思ったが、わざと、言ってみた。

メールを送らない原因は、わかっていたが、その原因を、嶺の彼女に転換する。

「それは、知ってますけど。」

美沙は、少し、ショゲた。

「好きになるのは、自由でしょ。」

「確かにそうね・・。」

そういいながら、自分にも、あてはまると思った。

「先輩は、一緒の、車なんかに、乗っちゃって、何か下心あったんじゃないんですか?」

「そうね。あったかもね?」

「やっぱり?」

美沙は、キッと、きつい表情をした。

「冗談よ・・。まったくぅ・・。」

「だって、七藤君ってば、先輩に気がありそうなんだもん。」

ドキっとした。

「まさか・・。彼女いるって、聞いたわよ」

いかにも、関心ありませんって、感じで話しをそらした。莉音には、メールが届いていた。内容は、特別なものでは、なく。今日の夕日が、綺麗だから、観てください。とか、煮物の作り方とか、些細な事で、メールは、続いていた。このあいだは、カレーの美味しい作り方を聞いてきたが、後から、きたメールには、

・・・結局、友達がきて、ラーメンを食べに行きました・・・

と、あった。

「友達?彼女でしょ」

メールをみた、莉音は、携帯を、ベットに放り出した。メアドを聞いてから、メールのやり取りは、ずーっと、続いていた。あの、飲み会のあった日も、莉音が、行くのかどうかも、聞きにきていた。

「私服見るの、楽しみにしています」

気を持たせるメールが、多かった。そんな内容のメールだったりするから、実際、嶺への気持ちが、育っていったのかもしれない。少しの時間の合間を、縫うようにして、嶺とのメールのやり取りが、続いていたのだ。あの後、帰って、すぐからも、メールが着ていた。

「一緒にいれるだけで、楽しい。」

そのメールを見ると、莉音の、思いは、乱れるだけだった。


不倫は、周りを不幸にする。

誰かが、言っていた。嶺は、そのとおりだと思っていた。でも、そんなのは、自分は、関係ない、自分には、美央という恋人がいるし。美央から、頻繁に来るメールを煩わしいと思う事は、あるが、取りあえず、上手くいっている。そう、思っていた、最近までは。メールを知らせる音が鳴る。つい、あわてて、送信元を見ると、美央だったりして、がっかりする。そんな事が続いている。

・・・何故、がっかりする?・・・

嶺も、わかっていた。誰に魅かれ始めているか。でも、それは、気づいては、いけない。彼女には、家庭がある。ここから先には、踏み込んでは、いけない。まだ、新婚では、ないか、メールが、少しでも、遅れると落ち着かなくなる。付き合っている美央とは、長い付き合いで、親同士も、互いが、結婚すると思っていたし、自分もそのつもりでいた。もう少し、仕事が、落ち着いたら、クリスマスには、プロポーズするつもりで、お金も貯めていた。

・・・それなのに、どうして・・・

自分でも、わからない。たぶん、自分は、年上の莉音に魅かれ始めている・・。抑えようとすれば、抑えるほど、莉音への、思いは、大きくなっていく。

美沙との飲み会にでた時、莉音に逢えると思うと嬉しかった。ほんの少しのチャンスがあれば、話したいといつも思っていただけに、車に、乗れた時は、もっと、もっと、話したいと思っていた。莉音に、思わず触れる事が、出来た時は、嬉しかった。莉音が、背後に抱えてる事や、自分の立場など、ほんの少しも考えて無かった。でも、これは、不倫だ。嶺は、苦悩した。

「どうしたの?最近、あまり、返事くれないけど」

あまりにも、嶺のメールの様子が、おかしいと感じたのか、ついに、美央が、携帯をかけてきた。

「何か、あったの?」

「仕事で・・。疲れてるだけだよ」

まさか・・。好きな人が、出来たかもしれない。なんて、言えなかった。

「疲れてるの?」

「たぶん・・。」

「ちゃんと、食べてるの?」

美央は、時々、母親のような口ぶりになる。それが、心地良い時もあったが、小うるさくもあった。年上なのに、子供っぽい莉音とは、全く、性格が、ちがかった。

「食べてるよ・・。まぁ、どうしても、コンビニになっちゃうけど。」

「心配。最近、顔みてないから、逢いたいな。」

「ここまで、来るの。たいへんだろ?」

何故か、美央が、逢いに来るのを、拒否してしまった。

「平気よ。行っちゃまずい?」

「そんな事ないけど。」

「週末にでも、行くわ。ママも、心配してるの。上手く、いってるのかって」

公認の仲なのだ。美央とは、いづれ、結婚する事になるだろう。

「判ったよ。待ってる」

「うん」

嬉しそうに、美央は、電話を切った。前は、美央が、来るのが嬉しかった。久しぶりに、あちこちスーパーに買出しに出掛けたり、一緒に料理をする。少しでも、一緒に居れる時間が、愛おしかった。でも、今、あの日を境に、嶺の心が、変っていった。来るのが、大変な距離でも、いつでも、待ってると言っていた。今回は、無理するなと、言ってしまった。それを、長年、付き合っていた美央が、感じない訳が、なかった。

「ママ。週末。嶺の所に行って来る。少し、帰るのが、遅くなるかも。」

美央は、家族に、そう告げていた。

嶺に、何かあったのかもしれない。女の勘が、告げていた。


後日、嶺のマンションにたずねて来たのは、長身の人目をひく、美人だった。

嶺の彼女を、誰もが想像したと思う。おそらく、それを裏切らない細くて、背の高いモデルのような娘だった。2人居ると、人の目をひいた。ファッションセンスも、いい2人と、言われるのが、美央の自慢だった。自分の、身長とも、つりあいがとれ、センスのいい嶺が、大好きだった。

「結婚する。」

周りの友達には、宣言していた。と、言うより、誰もが、結婚すると、思っていた。だから、大学を、卒業して、地方に、勤める事になった時、誰もが心配した。

「美央。田舎に行くの?」

「行かないよ。」

美央は、答えた。

「だって、結婚するんでしょ?」

「また、こっちに、戻ってくるって。その時かな。」

美央は、微笑みかけた。

「だよね・。美央ちゃん、田舎には、住めないもんね。」

「そんな事ないよ!」

嶺と、一緒なら田舎にだって住める。

「ママが、心配するから」

美央は、一人っ子だ。

「じゃあ、あと少ししたら、結婚ね」

「うん」

周りから、結婚と言われ、嬉しそうな顔をする美央だった。

「何か、作ろうか?」

週末、マンションにやってきた美央に、嶺が、声をかけた。あまり、美央は、料が上手では、ない。一応、何か作ろうかと、言う美央では、あるが大抵は、1人暮らしの長い嶺が、料理をする事が、しばしばだ。

「うん。嶺のカレーが、食べたいな。久しぶりに」

美央は、甘えた。

「カレー?随分、見くびられたな。」

嶺は、笑った。

「それしか、出来ないみたいだろ。」

「でも、美味しいの。嶺のカレーは。」

「はいはい。材料あったっけ?」

2人で、買出しに行くのも、気がひけたので、嶺は、在る物で、カレーを作ろうかと、キッチンに立った。

「疲れなかった?」

美央に、話しかけるが、心は、ここになかった。今頃、莉音も食事を作っているのだろうか。旦那さんのために・・・。

「そうだよな。」

自然と、ため息が、もれた。

「嶺、最近、変だよ。」

後で、ため息を聞いていた、美央が、嶺を抱きしめた。

「何か、あったの?美央、寂しいんですけど」

「何もないよ」

肩に触れる美央の手に重ねた。

「何もない顔じゃないよ。」

「気のせいだよ」

どうしても、美央には、分かってしまう。嶺の心が、少しずつ、変ってきているのを・・。

「心が、ないみたい・。」

「そうかな・・。」

莉音は、手が届かない人。一緒には、なれない。考えるのは、よそう。自分は、美央と生きるのだから。


月も、末になり、忙しい日が、何日か過ぎた。莉音も、あの夜の事を、忘れようとしていた。当の本人も、いたって変らぬ様子だし、気にしている自分が、多少、馬鹿らしく感じてきた。

・・・ここは、大人の女として、びしっとしなくては・・。

などど、考えて、異常な程の、テンションの高さで、月末処理をこなしていた。仕事をしていた方が、何も、余計な事を考えないで済む。嶺の事や、家の事を考えると、ミスが増えた。

・・・あれは、事故。事故なの・・・

残業も自ら、名乗りでた。・・・と、ここまで、何事もなく、過ぎていった。

「研修にいってほしい」

「はいい?」

「以前から、申し込んでたのが、ようやく、順番がまわってきたようだよ。」

課長が、喜べとばかり、莉音に話した。

「前から、行きたいって、言ってたよな。」

「確かに・・。」

莉音は、隣の県で行われる、研修に、1泊で行く事になった。今度、新しく導入するソフトの勉強会になる。

「何名か、他の部署から、出席するかもしれんが」

課長が、人選したパンフレットを、渡した。莉音が、出席者名簿に、目を通すと、今は、あまり見たくない名前が・・・。

・・・七藤嶺・・・

「業務命令だからな」

隣で、部長が、笑った。別に、嶺との、関係を知って、笑ったのではなく、あくまでも、莉音が、新婚なのに、1泊を渋っているように、見えたのであろう。

・・・困った・・・

たしかに、他に、何名かは、いる。でも、本当に知らない人ばかりだ。

・・・しかっりすれば、大丈夫・・・

莉音は、命令書を、強く握りしめた。何かが、崩れていく。そんな気がする。同じ頃、職場で、莉音の名を見つけた僕は、その時、何を考えていたのだろう・・・。

英 莉音。

その3文字に、心が、震えた。美央と逢い、改めて、美央と、生きていこうと思ったばかりなのに、莉音の姿を追いかけていた。

諦めよう。

そう思い、努めて普通に接する事にしていたのに・・。2日日間も、莉音と、一緒に居たら、また、心が、揺れてしまうではないか・・。僕の幸せは、親を泣かせ、兄弟を泣かせ、友達を裏切り、職を失い、そして、莉音に全てのものを、捨てさせてまで、手に入れたいものなのか。冷静に考え、それは、違うとでたのが、答えでは、ないか・・。でも、僕の心は、感情の赴くまま、莉音の側にいたい。そう、叫んでいた。純粋に、最初は、ただ、それだけだったと思う。もうすこし、もうすこし・・・。と、思いながら、それを願う。莉音は、手が届きそうになると、また、遠くへ、いってしまう。僕は、届きそうで、届かない莉音を追いかけ始まっていた。美央の事も忘れ、この日から、僕は、莉音に触れたいと思いはじめていた。恐ろしい事に・・・。


そんな2人の、思いを別に、日にちは、流れて行き、研修の、日が、やってきた。社の中の何人かと、新幹線での、移動の時も、互いに、目を合わせる事も、話しかける事もなく、互いの存在を無視していた。話しかけると、心に決めた事が、全て、崩れてしまいそうな気がした。研修会場に入り、互いの指定席が、離れていると知って、莉音は、ほっとするのだった。

「良かった・・。」

思わず、呟いた莉音に、前の席の子が、振り返った。

「どうかしました?」

「いえ・・。終了時間が、3時なら、少し、街見れるかなと、思って」

「でも、良く、見ました?レポートできないと、終了出来ないみたいですよ!」

「えぇ!」

莉音は、苦笑いした。

「そうみたいね・・。」

ショッピングは、おあずけか・・。莉音は、ため息をついた。


「どうした?レポート出来た?」

嶺が、端の方から、話しかけてきた。研修も、後、レポートさえできれば、今日は、終わりなのだが、数ある資料の中から、回答を探すのに、手間取っていた。

「うーん。いまいち、答えが、まとまらなくて・・・。」

莉音は、頭痛がしていた。ここんところ、公私共々、忙しかったせいか、気の休まる時がなかった。

・・・あんたのせいよ・・・

嶺を恨めしく思った。嶺は、とうに、終らせる事が、出来たらしく、時間を気にしていた。

「何処か、行くの?」

莉音は、プリントを見ながら、声をかけた。

「あたしの事は、気にしなくていいから・・。出掛けたら?」

「言われなくても、そうするけどね。」

憎ったらしい程、明るい顔だ。

「地域毎の、懇親会をするそうだけど。英さん。どうする?ってか、無理か・・。」

「ちょっと!人、馬鹿に、しない」

上目づかいに、睨んだ。

「もう!いいわ。部屋で、まとめてくる!」

机の上の資料を片付け始めた。

「そんなに、行きたきゃ、行けばいいでしょ!」

莉音は、嶺にあったた。どうして、嶺が、先に、懇親会に出るという事に、こんなに、反応するのか、自分でも、嫌だった。自分は、嶺と、一緒にいたくて、あせってるのか?

「何、怒ってるの?」

莉音の、イライラする様子に、嶺は、呆気にとられた。

「もしかして?更年期?」

「うるさい!」

莉音は、落ちたペンケースを、嶺に投げつけて、その場から、去っていった。


「まったく!判ってないんだから!」

こんなに、自分が、切ない思いでいる事に、嶺が、鈍感でいる事が、悲しかった。誰も、いないエレベーターの中で、鏡に、映る自分は、今にも、泣き出しそうな顔をしていた。

「何て、顔しているの?」

思えば、嶺の彼女は、自分より、幾つも、年下である。きっと、肌もツヤツヤだろうし、中から、輝くばかりの、若さで、満ち溢れているだろう。それに、比べて、自分は、どうだ・・。鏡に、映っているのは、疲れ果てた30代の、女性だ。

「はぁ・・。惨めだ。」

更に、落ちこんだ気分になった。丁度、莉音の、泊まるフロアーについたので、エレベーターから、降りた。代わりに、おしゃべりしながら、20代の、女性が、

乗り込んでいった。気分が、もの凄く、落ち込んでいた。部屋に、入ると、ベッドの上に、今日、配られた資料を、放り投げた。

「はぁ・・・!疲れた」

横になり、メールのチェックをし始めた。

「お疲れ様。お仕事、がんばってね!」

夫からの、メールが、入っていた。

「はい。」

夫は、優しいと思う。限りなく、きっと、夫の腕の中で、静かに暮らしていく事が、一番幸せであろうと、思われる。

愛する事と愛される事・・。どちらが、幸せ?莉音、前者だった。そう、思うと、今の夫は、莉音の理想からは、程遠い。

「だめだ・・。」

枕に顔を沈めた。今なら、引き返せる?どちらに?嶺と生きる事を選ぶ?それとも、全てをあきらめて、夫と生きる?

「七藤嶺さん・・。どうしたら、あたしは、いいんですかね?」

思わず、呟かずには、いられなかった。と、その時、ドアをノックする音が、聞えた。

「誰?」

ドアに、向かう間もなく、携帯がなった。嶺だった。

「外にいるよ。」

「どうしたの?」

「誰かさんが、ヒステリー起しているから。まぁ、ドア開けてみなよ」

言われて、莉音が、ドアを開けると、嶺が、立っていた。

「ほら!」

顔の、前に、何か、白い箱を突き出した。

「ケーキ!」

「どうしたの?」

嶺は、真っ直ぐに、莉音の部屋に、入っていった。

「イライラしてる時は、甘いものでも、食べないとね。」

中から、いくつもの、ケーキを、テーブルの上に並べていった。

「懇親会行かなかったの?」

「いいんだよ。」

嶺は、コーヒーを、入れ始めた。

「お砂糖は?」

「入れない。ブラックなの。インスタントなら、ミルク入れるけど。」

テーブルの前に、腰かけた。

「何処から、買ってきたの?」

「下。」

嶺は、指で、下を差した。

「どれから、食べる?」

「チーズケーキから。」

莉音は、指さした。

「あたしが、好きなの。知ってた?」

「知らない。」

「知ってて、買ってきたのかと思ってた。」

莉音は、コーヒーを、口に、含んだ。

「でも、チーズケーキなら、紅茶が、いいんだけど。」

「まだ、我儘、言わないの。」

「はい。」

2人ケーキを挟んで、急に、無言になった。改めて、部屋に、2人きりである事を、意識し始めていた。

「あのさ・・。レポートなんだけど。」

ふと、ベッドの上に、レポートが、散らかっているのが、気になった。

「どう?まとめたの?」

あわてて、かき集め、片付け始めた。何となく、気まずい。

「あぁ・・。えっと。」

嶺も、そうらしく、莉音の手から、資料を、めくり始めた。

「どのへん、苦労してるの?」

莉音の手に、思わず触ってしまった嶺は、あわてて、手を、ひいてしまった。あいにく、手に、資料を持っていたので、テーブルの上のコーヒーに、当たってしまった。

「うぁ?」

テーブルは、勿論、ベージュのカーペットや、ベッドの、端にまで、コーヒーを、ぶちまけて、しまった。


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