水ヨーヨー九十六手
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
おお、懐かしいね、水ヨーヨーじゃないか。最近、お祭りにでも行ってきたかい?
我々のころの出店では、代表的なもののひとつだったなあ。水ヨーヨー釣り。水ヨーヨーそのものもゴムの強度次第じゃ、十分に遊びにたえる。うちの友達じゃヨーヨーの技を再現している子もいたぞ。一時期、ハイパーなヨーヨーもブームだったしな。
この手のドリブルものは、歴史をたどるとかなり昔からある。手でついたり、足で蹴ったり、断続的にタッチするという行為そのものが遊びに適していたのだろう。しょっちゅう抱えているのではなく、わずかながら中空へ放るという行いに、独り占めしない器のでかさみたいなものがにじんでいる気がする。
あるいは、自分ひとりだけでは達することのできないものを得るため、助力をお願いするパターン……とかね。
友達から聞いた水ヨーヨーにまつわる話なのだけど、耳へ入れてみないかい?
水ヨーヨー九十六手、という言葉を聞いたことがあるかい?
友達いわく、水ヨーヨーをばしんばしんと手でついて、九十六回目の接触でヨーヨーがはじけた場合、近々幸運が訪れる……という言い伝えだという。
試せるのは一日に一度まで。こいつは占いの一種だから、望む結果が欲しいからといって数を重ねることはよしとされない。それは八卦を超えた、欲望の域に入ってしまうからだ。
なぜ九十六手がいいのか。
人の手との触れあい、水を包むゴムの傷み具合、中の水の揺らされよう……それらが周囲の気とうまいこと調和していくのが、この九十六手目なのだそうだ。
これより多くても少なくとも、満足な効果は出ない。ほか、意図的な力や細工を加えた場合でも同様。自然に出くわした状態でもって、迎えなくてはならないのだそうだ。
この九十六手のみそは、一手一手の時間間隔について制限が設けられていないところ。つまり九十五手目で延々とストップし、九十六手目の久々のタッチで破裂するのもあり、ということだ。
ひと昔前は、その九十五手で止めたヨーヨーを溜めておく、寸止め専用の倉があったとか、なかっただかという噂もあったくらいだ。ただし、間隔をあければあけるほど、当事者に向いた幸運になるかどうかはあいまいになっていく……ともね。
まさか、そのような迷信めいたことが、いまも続いているとは友達も考えていなかったらしい。そのため年末の大掃除の際に、家の押し入れの奥深くから小さなつづらに入った水ヨーヨーが出てくるとは、思ってもみなかったんだ。
当時、あまり水ヨーヨーとは縁がなくなっていた友達は、物珍しげにヨーヨーを取り上げたのだそうだ。
青をベースにしたゴムの表面は、多少は色が薄れているものの、そこまで年季が入っているようには見えなかった。振ってみると中の水も入っているし、取り付けてあるゴムへなんとなく指を通し、ぱしんと一度叩いてみてしまったらしい。
その一度で、ヨーヨーはものの見事に割れた。
びしゃびしゃと、中身の水が押し入れに詰められている、他のもろもろへ飛び散る。普通ならば大惨事だが、友達はその目で、かかった水たちがあっという間に乾いていくのを見たというんだ。
木や布の表面に暗く浮かんだはずの水しみは、みるみる消えて元の色を示していく。残っているのは各々のゴムの破片だけ。
――もしや、これは例の九十六手だったんじゃ?
そう思い、家族の皆へ問いただしてみるも、あのヨーヨーを用意したと名乗り出る者は出てこなかった。結局、誰があの水ヨーヨーを用意したのが誰かは分からなかったのだとか。
けれど、その押し入れの中身を整理し、ゴミ出しするものを袋へまとめたあと。
指定のごみ捨て場へ出しにいった友達は、踵を返してからほどなく耳にする。
水の音。それを包むものが跳ねる音。水ヨーヨーのそれを何倍も上回る大きさの音が、すぐ後ろから響いてきたんだ。
振り返ったとき、「そいつ」はゴミ捨て場の脇の藪の中へ消えていってしまったらしいが、確かに見たのだそうだ。
半透明の袋の中、六分目ほどにまでたっぷりと水が溜まっていた、我が家のゴミたち。それらが自ら跳ねながら、動いていくのをね。
九十六手で生まれたものは、水たちにとっての幸運そのものだったのだろうか。




