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8ー夕色慕情ー

「よお、進路希望はだしたんか」


 放課後になるとリョウジがソウタに声をかけてきた。ツーブロックに決めた頭を掻きながら、照れ隠しをしている。彼とは久々の会話であった。


 南川が金曜日までに必ず提出するように釘を刺してきたからだろう。一年時からの同じクラスメイトであったのが、廊下側のソウタと窓際のリョウジでは、物理的な距離があり、二年になってからあまり話をしていなかった。


「いや、まだ、なにも」


 ソウタは苦笑いでそう答えた。用紙はまだカバンの底にくしゃくしゃになったまま、取り出していない。


「リョウジはどうだ。やっぱり東京か」


 一年の頃から、事あるごとに彼は東京に行きたいと言っていたのを思い出した。京都には寺と神社と大学しかない。大阪は古墳と粉もんしかない。奈良は鹿しかいない。東京に行ったら何でもある。彼は頑なにそう言っていた。


「青山、中央とまで言わないでも、せめて日東駒専かなって」

「――なら今の時期はなおさら青山、中央って書くんやないの?」


 ぼそりと背中から呟きが聞こえてきた。机にべったりと突っ伏しているユメミからであった。長い髪が乱れに乱れて、海岸の岸壁に張りついたワカメのようだった。ぐにゃんと首を横に向けて、糸のような眼をリョウジに向ける。


「それにアレや、アレ。東京の大学がいいのか、東京に出られればいいのかで、だいぶん範囲が変わるやん。その辺もどうなんや、じったい。アレやぞ。そのなんだ。アレよ、アレ。下宿先を奥多摩、東村山にするぐらいなら、いっそほらあの千葉、柏の方が出やすいとかあるやん」


 ユメミの唇がにやにやと悪い笑みを刻んでいるのが見る。


「それなら、いっそ筑波大とか、千葉大とか国公立も視野に入ってくる。そうすれば、ほれアレや。進路が広がるやん」

「言ってくれるな。でもまあ、日東駒専やろ。現実的に」

「爪先立ちをしなければ、高く遠くは見えづらいもんや。なんだかんだ。まだまだ時間はある。今からしっかりと上を見とかんとならんやろ。それにアレや、水平基準やと、そのまま墜落や。飛行機と一緒。機首を空に向けとかんと落ちていく。日東駒専もせいぜいになってくるもんやぞ」

「――あかんな。口先ではユメミには勝てんな」「よっしゃ、これよ」リョウジが退くと、ユメミはわざとらしく手を叩いた。

「アレよな、アレ。これがあるからたまんないんやな。いつ負けられるのかなって」「ほれ、そうやって調子に乗らない。というか、そういう話やないやろう」


 嘆息を吐きながら、ソウタが締めた。


「で、対してのユメミはどうするんや」

「――まあアレよ。市内で探すよ。カネがないもの」

「京大か」「京大やな」ソウタに合わせるようにリョウジも頷きながら言葉を吐く。ユメミの眉がくしゃりと寄っていくのが見えた。


「韮山さんは京大を目指しているの?」


 机に寝そべりながら、くしゃくしゃと渋い顔を浮かべていたユメミの表情が、さらに歪んでいった。声の主はミスズであった。いつの間にか、ソウタとリョウジのすぐ傍に近寄ってきていた。


「さすがやね。一年の三学期末の考査でも、学年一位だったし。校外の模試でもトップの成績だったって」


 猫をモチーフにしたであろうゆるキャラのチャームをアクセントとしたカバンを両手で持って、ミスズは三人の輪に入ってきた。


「まあ、ね。そうやね」


 眼だけをごろりとミスズに向けて、ユメミは応えた。


「ただまあアレやね。どうせ、二者面談なり三者面談で、こんこんと詰められて矯正させられるんや。進路希望の記入欄を指でとんとんさせて無言で睨んでくるんよ。で、先生が首を振るまで、席を立たせないっていうの。ほれアレや。郵便局員が年賀はがきの目標を立てても、部長なり局長なりに呼び出されて上乗せした数字を言わされるやつ。アレと一緒や。しかもその目標を達成しないとどやされるって」

「いやな具体やな。相変わらず」


 呆れながらリョウジが言った。ソウタは頬杖をついていた。凪になるのを待って、ここを離れようと思っていた。


「新見君はどうするの?」


 流れ弾を受けた心地がした。ミスズからの言葉であった。ソウタは表情が固まったまま、ミスズへと視線を向けた。彼女は大きな瞳は無垢のようであり、悪気もいたずらの匂いもなかった。


「自分も京都の大学を適当に」


 大きなため息とともに、そう答えた。とっさに出てきた、出まかせであった。


「なら京大か。ソウタも一緒やな」


 にいとユメミの唇の端が耳にまで伸びていくようだ。嫌らしさと揶揄いの意しかふくまれていない表情に、「言ってろ」と、ソウタは払うように返した。

「でも、とりあえずは市内の大学志望って感じかな」

「いやまあ、結局そう落ち着くんやろうなって。知らんけど」


 ミスズの問いに対して、首裏をかきながらソウタは答えた。深い考えも将来も考えずに出てきた言葉だけに、自身のことながら責任は絶対に持ちたくなかった。


「知らんけどって」と手を口に当てながらミスズは苦笑で応えた。


「それで、大学こそは弓道部って感じなのかな」

「――」ミスズからすれば何気ない一言だったのだろう。しかしソウタは眼をキュッと尖らせてしまっていた。彼女に自身が弓道をしていることを話した覚えはなかった。


 そんなソウタの視線に気づいてか、ミスズは、「一年の時に、松谷さんと並んで弓を引いていなかった。見かけたことがあるんだけど――」と言葉を続けた。


 たった一度だけ。それも入学したばかり、段位持ちということで、どこまで弓を引けるのか部が試しとして、引かせた。その際のたった一度だけしかない。


「まあ、ね」とその声とも音ともつかないような息が出てきた。それしか出てこなかった。弓道の稽古に通っていることは別に秘密にしているわけではない。ただ、あまり話を交わしていないミスズから言われることで、頬がじりじりと痒くなってくる感を覚えた。


「ほら、三十三間堂の通し矢とか。やっぱり、それが目標なのかな」

「――そうやね」ソウタは逡巡もせずに、ミスズの言葉に応えた。参加資格は達している。二十歳を迎える年に申し込めば、通し矢の場には立てる。ただ、ソウタはおざなりな答えで返していた。

「アレやろ、アレ。ソウタが弓をやっているのは――」


 むくりとユメミが身体を起こした。机より白紙を一枚。そして彼女の手首より太い筆箱から、筆ペンを取り出した。


 キャップを外すなり、ユメミは机に敷いた白紙にさっと円を描いてみせた。


「こういうことやろ」


 自慢げにユメミは毛筆で描いた円を見せつけてくるが、ミスズとリョウジは眼を丸くさせるだけであった。


――円相、ねぇ。


「ほれ、アレよアレ。これ喰うて、茶飲めってやつよ」


 勢いのある鼻息でも放ちそうな自慢げの表情をユメミは浮かべていた。「お月さん幾つ、十三七つ」と勢い任せにユメミは歌うように、そんな言葉を謡うようにつなげていた。


「悟りなんて、大仰なもんやないよ」


 落ち着いてソウタは言葉を返す。ただ、――では何のために。と、疑問符が脳裏を過った。口奥に苦みが滲んできた。


――なんで弓を引いているんやろうな。


 頬杖を組みなおして、息を吐く。ちょうど、ユメミが円を書いた紙をリョウジに強引に押しつけるようにして渡していた。


 しばらくその場で他愛のないおしゃべりを続けていたが、後ろの用事として、ユメミ、リョウジと去っていった。


「じゃあね。また明日」


 ミスズもそう言って、ソウタに向けて小さく手を振りながら、教室から離れていった。ソウタも彼女に向けて、礼儀として、手を振り返した。


 これで教室にはソウタだけになった。そろそろ弓道の稽古の始まる時間でもあった。


 ゆっくりと椅子から立ち上がり、明かりを消してから、ソウタは教室のカーテンをすべて閉じた。窓の外は東の空。群青の帳がおりる頃。青と黒のグラデーションの中でちらちらと光る星が見えた。


 窓際に立ち、じっくりと闇に染まりゆく空を眺めてから、ソウタは教室のカギを持って教室を出た。最後に教室を出る者の務めである。進路希望調査書と道着を押し込んでいるカバンを担いで、教室を後にした。


 西側に窓を持つ廊下は、春の夕陽を受けて黄色に染まっていた。リノリウムが照り返し、ふわふわと浮く塵芥が硝子片のように煌めいている。


 静かであった。カギをおろす音がしっかりと耳に届くほどであった。カツンカツンと自身の足音が反響して――遥か彼方からのように思えた。


――樹々青々と 風に揺れるや 春の夕暮れ


 カネにも何にもならんのにと、ソウタは自嘲とともに独り言ちて、廊下を歩く。鍵を職員室に返す必要がある。


 階段にたどり着く。闇の中に、夕光が一筋射しこんでいる。踊り場が受けて輝きを拡散している。


 足音に――重なるような響きがあった。ソウタは足を止めて、見上げてみる。男が一人、降りてくるところであった。


――人見非常勤教諭であった。ソウタの眼差しが細く尖りを帯びていく。だらしのない髪に皴だらけのスーツ。


「新見君、これから帰りか」「ええ、まあ」


 話しかけられるとは思っていなかった。人見のくしゃと音を潰したような声に対して、睨むような返事をした。なぜ授業を終えた非常勤講師がこんな時間にまで校舎に残っているのかと、訝しく思った。


「――いいよな、この時間は。昼と夜との狭間の永遠の刻」


 ソウタはさらに眉間の皴を深めさせて、人見の言葉を受けた。


「時間の進みが非均一なのを感じさせる」


 喜んでいるのか笑んでいるのか。それにしては翳りばかりで色のない表情を人見は浮かべていた。


「ゼノンの矢は、意外と本当に止まるものかもしれないな」


 そう言って、人見教諭はソウタを置いて、階段を下りていった。


「勘弁してくれよ」


 ソウタはしばらく人見教諭の背中を睨み続けていた。

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