7ー成れの果てー
人見教諭は相変わらず、黒板に向かってしゃべり続けている。カンカンとチョークを叩くように板書するのだが、金釘文字でひどく読みづらい。クラスメイトは口を噤んでいるが、各々、宿題の内職をするなり、スマホをいじるなり。まっとうに彼の授業を受ける者は少ない。ゆるゆると昇る日差しと風に揺れるカーテンの影を感じながら、おもいおもいに流していた。
「斯くの如く世は麻のように乱れ、混沌は吼えたけり」
振り返り、教卓に手を置くも、人見の視線は教科書に向いけられたままである。鎌倉末から室町初期の授業の筈が、全く内容が入ってこない。一年の頃から、日本史の授業はこの人見が担当している。授業の内容よりも、自習によって点数を稼いでいる。
「高校までは歴史の流れを抑えるのが肝要。疑問符をつければきりがないが、それはそれとして大河の起点から終点の起伏とうねりをまず抑えるのが、高校での範囲」
昨年の人見教諭の最初の言葉である。印象深く覚えている。後席のユメミは細い瞳を大きく広げて聞き入っていたようだった。
平素は院生として日本史の研究を行っていると聞いた。専攻は文化史であるとも。ただ授業を受けるソウタからすれば、――だからなんやねん、で終わる。研究者としての椅子取りゲームに今でも脱落して、どこからに流れ落ちていくかもね、とはユメミの言葉である。
「天皇家は南朝と北朝に分かれ、互いに正当性を象徴する。どちらが正しいかなぞ、この場では必要がない。教科書に記載されていること。その基を先ず学びなさい。正義を行えば世界の半分を怒らせる。それが故に足利尊氏は稀代の大逆賊として評され、一方で楠木正成は偉大なる忠臣となった。駆ける馬上で刀を担いでいるザンバラ髪の肖像画は負け戦で逃げている最中を描写したものと考えられており、時の権力者が足利尊氏を貶めるために、そう認定したとの流れもある」
人見教諭は黒板に顔を剥けるか、教卓に広げた教科書に視線を落としているかである。こけた頬に針金のようなフレームの眼鏡。大雑把に刈ったような髪。何より皴とチョークの粉でクタクタなスーツ姿には、ソウタはもちろん、他のクラスメイトからも評判はよくない。
「而して、歴史は常にその時の態勢によって都合よく塗り替えられる。過去を変えられるという戯言は、その流れから生まれる。事実も史実も解釈も一緒くたの綯い交ぜになり、うすらぼんやりとした願望によって、都合次第で勝手に取捨選択されて、形成されてしまう。陰謀論の類をまともに取り合ってはならないのは、そういう点にある」
首を小刻みに捻ったり、視線を教卓の上で這わせたりと落ち着きなくなか、人見は抑揚なく言葉をつらつらと淀みなく紡いでいく。まったくもって聞きにくく、板書の文字は金釘か、ミミズがのったくったようであり、他者に読ませる域に達していない。
それでも彼は五年近くもこの高校の教壇に非常勤講師として立っているそうだ。結果として、彼の担当している日本史の模試や校外考査の点数が伸びているのが主因であるとがもっぱらの噂である。書類上だけならば、彼はそれなりに評価されてしまっているのかもしれない。
ちらとソウタは視線を遊ばせて、ミスズを見やると、ノートに向けてペンを動かしている。すべてを写そうとでもしているのだろうか。ソウタの手にはペンはない。
「でもまあ、点数を取るならまず教科書だし、教科書は集合知の結晶でもあるから、起点はここだからな。それは、それだけは間違えないように」
釘刺しのつもりだろうか。この言葉だけは顔を上げて、生徒に視線を向けながら言い放つ。しかしながら果たしてどれくらいの生徒が彼の言葉を聞いただろうか。少なくても、ソウタは頬杖でぼんやりとした眼差しを、極めて読みづらい白い文字が刻まれた黒板に向けていた。
チャイムが鳴った。ようやくの思いがあった。おざなりな礼が済むと、俯き姿勢のまま人見は速やかに教室から出ていった。背中に陰気を負っているような気怠さがソウタには見えていた。
――教師にでもなろうとして、教師にしか成れなかった成れの果て。それが人見非常勤教諭なのだろうと、ソウタは思った。
――何者にも成れない、成れの果て。
「まったく教科書以外こそが面白いというのに、教科書を読めって。なら買うた教科書各自で読んだらええやんって。でもまあそういうところが教師はつらいよね。先生によっては、マルクスにかぶれて農業と反乱革命の歴史しか取り扱わない、マルクスかぶれの虫刺されもいるそうだけど、人見先生はオールラウンドでええわ」
後席のユメミの掠れ声が聞こえてきた。さすがに授業中ともあって、声を潜めさせようと小さく、聞こえにくさがあった。
「そうは思わんか?」
ついでにソウタに同意を求めてきた。顔を彼女に向けてはいない。しかし、声を聴いているとの確信があったのだろうか。「知らんがな」とぶっきらぼうにソウタは応えておいた。
教科書類を片づけると、腰を上げて立ち上がった。昼休みである。がたがたと机や椅子を動かす音が響いている。カバンから弁当を出す者やら、教室外へと出ていく者と騒がしくなっている。
「今日も一緒、ええか?」
ユメミが顔を覗き込むように尋ねてきた。ソウタは頷いて応えた。だらしなく伸ばした髪を掻きながら、ユメミは机上の本を手繰るように手に取った。『破軍の星』とのタイトルの文庫本。彼女が敬愛する北方謙三の小説だった。
「また、ネギ抜きのかけそばか」
「昨日それで、ユキカに怒られてねえ。せめておいなりさんも加えろって」
ひらひらとユメミが腕を振りながら返してきた。袖口がするりと落ちて、白く柳枝のような細さの手首が見えた。
「それには同意やな」
そんな会話をしながら、長廊下を並んで歩いった。
食堂は相変わらずごった返している。ソウタは親子丼を注文し、ユメミはしばしメニューを睨んでから、豚汁定食を注文した。
「まあこれなら」
そう言いながら、七味唐辛子を豚汁の表面が真っ赤になるほどいっぱいにかけていた。
窓際の席に向かうように腰を下ろした。手を揃えて一礼をしてから箸を手に取る。
「私もここ、いいかな」
ユキカがサンドイッチと紅茶のパックを手にして声をかけてきた。二人の答えが返す前に、彼女はユメミの隣の席に座った。ソウタとしては、自身は特に口を開かずに済むので、彼女が居てくれることは歓迎していた。
ユメミとユキカの二人を見比べると、ユメミがあまりにも細く、貧弱に見えた。ユキカは薄桃のような肌を昼の日差しを受けて整っている。
「今日はちゃんと頼んだみたいね」
「まあ、ね。あ、昨日のおいなりさんの代金」と慌てるようにして、ユメミはごそごそと財布をまさぐり出した。
「それはおごりっていうたやん……。私はユメミのタニマチなんっすから。むしろ、今日もおいなりさんつけよっか?」
にっこりとユメミに向けて微笑んで言葉を返すユキカに対して、ユメミはぶんぶんと首を大仰なほど横にふって答えていた。
「そういうのは、そのアレや。自分、苦手やから」
ぼそとか細い声が聞こえてきた。ユメミの珍しい姿をみている気がして、ソウタは箸を止めてしまっていた。ユキカはそんなユメミに抱き着き、かわいいかわいいと身体を撫でまわしていた。ユメミはさらに身体を好調くさせて、小さく肩を窄めるのである。幾度となく見慣れた光景ではあるが、ソウタにはアンバランスさと仲睦まじさに、いつも驚きを抱いていた。
「お友だちは? ほらいつも一緒している、昨日いっしょした二人」
閑話休題と話を逸らすためだろう。ユメミは話題を切り出してきた。確かにソウタもユキカが、拳ほどの大きさのチャームをじゃらじゃらとつけたカバンを持つ、派手な二人とユキカが談笑しながら校内を歩く姿を、しばしば見かけている。
「二人はさっそくフケて遊びにいったよ。パパとカラオケだってさ。平日の真昼間からそんなことできる奴なんて、ぜったいヤバいって言ったんだけどね。でさ、そんなことよりさ、これ」
淡々と何事もないようにユキカは応えながら、スマホを取り出して、画面をユメミに見せつけた。
「おや、百万遍陀羅尼経――の泥塔やないか」「ね、ヤバない。たぶんモノホン。ネットオークションで流れててさ」「出所は?」「岸和田の業者っぽい。他にも刀の鍔とか仏さんとか」「で、幾らで?」「百万。お経はあるけど、塔に疵、一部欠けあり」「仕入れでそれで、利益つけて売り抜けられるんか?」「いやそこを聞きたくて――」
途端に二人とも渋い表情を浮かべて、ユキカのスマホの画面を睨みあった。
「そうは言われても、やっぱ写真のナリだけではねえ。重さも肌触りも判らんからなあ」「やっぱり難しいか」「欲しいんか」「いや、でも、やっぱり一つは持っておかんとって言われて」
小さな画面を二人が顔寄せ合った話している。しかし内容はかなり込み入っているようだ。ただソウタには異国の言葉のように聞こえてくる。合間合間に挟まれる高額の価格のやりとりが、さらに対岸の感を増す。
毛先に金を斑に入れた髪。そこに一本だけすっと黒い漆の前挿しが施されている。スマホの背面には櫛や簪を散らしたようなステッカーが貼られている。
――これヤバない。めっちゃカワイイんだけど。
初めてユキカと会った時、彼女はそう言って、ユメミに櫛を見せていたのを思い出した。ベッコウの櫛だそうで、緋色に金の文様を刻み込んだものであり、さすがのユメミも目を広げて見入っていた。金色の罅が入った白い皿や、青い絵の描かれた猪口を持ってくることもあった。ユキカには独特の世界があるのだろうとつくづく感じている。
「自分は骨董を知らないからアレだけど、そのなにね。アレよ、アレ。ユキカがカワイイって思っていないのなら、辞めたほうがいいんやないの」
直角に折れるほどに首を捻らせていたユメミが、掠れ声をさらに絞り出すかのようにして言った。
「やっぱり真贋のほどがわからんて、実物があっても無理や。写真だけならなおさら。すまんなあ」
ユメミは眉根を寄せて、手を合わせながらユキカに頭を下げた。ユキカも手を振りながら、その謝を辞しているようだった。
ソウタには二人が遠くの対岸のようであった。食べ終わった親子丼の器を既定の場所に返すために、ごちそうさまと手を合わせてからトレイを持って立ち上がった。二人はまだスマホの画面を見合わせたままであった。やはり二人には完全に違う、外の世界がある。そう確信させた。
――二人は進路に悩みなんてないんやろうなあ。
ユメミとは一昨日の朝にやりあった。ただ東大とまでなくても、どこぞの大学に入りそうなのはなんとはなしに、ソウタには想像できた。ユキカもきっとそうだろう。派手な格好をして遊んでいるように見えるが、文系は優良な点数を採っており、補習追試の類とは縁がないそうだ。
――なんなんやろうな。
ふうとため息を吐きながら、トレイを返却口に置いた。振り返り、二人の方を確認すると、まだおしゃべりを続けているようだった。昼休みの終わりには二十分近く余りがある。
――結局、何がしたいやろうな。
ソウタはつま先を出口に向けて、食堂から離れることを決めた。
「ねえ。新見」
芯の硬い声が聞こえてきた。自分の名前が含まれていることに、ソウタはわずかに驚いた。
「今日は、道場で稽古?」
振り返れば、コトノが居た。眼鏡の奥に控える瞳は鋭さがあった。
「まあ、そのつもりだけど」
「そう――わかった」
一度、眼を瞑ってから、コトノは何か心の中で確認するかのような返事をしてきた。そしてすっと、ソウタの脇を過ぎて食堂から出ていった。
「――なんやねん、アイツ」
ソウタは呆気にとられながら、そう呟いていた。
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