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5ー不可逆ー

「へえ、それで?」


 ユメミのかすれ声には、明らかに怒気が含まれていた。糸より細い彼女の瞳の色はわからない。ソウタはユメミの顔を見ずに、淡々と昨夕の南川教諭からの受けた相談の事実を、そのまま告げることにした。


「東大に興味はないかってさ」

「なんやそれ。それはアレか。私がバカでブスだってことか」


 両の拳を突き上げながら、ユメミは怒りを表した。ただソウタには彼女のそういった所作がどうにも芝居じみているように見えていた。


「やっぱかぶれだったのか。虫刺されなのか。そういうところが、アレ。まさにアレやね。わんわん教師なのかにゃんにゃん教師か知らんけど。そういうのが、まったくもってのアレなるところやな。阿部寛の直撃世代でもなかろうに。ツラも天海祐希ってくちではなかろうによ」


 相変わらず、ユメミの口の回転は速い。脊髄まで届いて発されているのかと穿ってみたくなるほどの勢いがあった。ソウタは聞き流す態で聞いていた。


「どうせアレやろ、アレ。生徒の将来なんてどうでもよくって、自分の評価点が欲しいだけやろ。所詮は教員。そうところがアレなんやな。でもまあ教員なんてそんなもんやて。それもアレやろ。大学からのストレートで就職や。社会にちゃんと出たためしがない。バイトでちやほやされて、お小遣いもらってぐらいがせいぜいなんやろ。そんなヤツや。生徒のことなんざ、テストの点数と一緒としかみとらんのや」


 春らしいうらうらとした朝日が窓より射しこむ時刻。まだ一時間目も始まっていないというのにユメミは絶好調である。ぱらぱらとクラスメイトが登校して、自身の席にカバンを置くなりしているが、何一つ構うことなくしゃべり続ける。ちらちらと白い視線が向けられているのを、ソウタは気づいている。しかしそれはユメミと係る上では常であるとして、諦めを飲み込んでいた。


「で、どうなんや。東大は」

「――」


 呟くようにソウタが改め尋ねると、彼女は拳を振り上げたまま、しばらく口を噤んだ。そして、視線を動かしているように、ソウタには見えた。そして、彼女の机に置かれている一冊の本に目が留まった。


「――自由になろうぜ」「なんやそれ」


 咄嗟にユメミの顔へと体を直して、ツッコミの言葉が出てきた。


『自由からの逃走』と御大層な本がユメミの机にはおかれていた。昨日の『シーシュポスの神話』の薄さに懲りたのか、今日の本はいやに厚く、強そうな印象があった。


「畢竟、大衆は自由には耐えられない。耐えられなかったこそナチズムが台頭した。ヒトラーは意志の勝利を謳い、そのうねりを加速させた。自由なる個々は大衆というがんじがらめな塊となってうねる大波に流されるしかできなくなっていったんや。自由は山巓の空気に似ている。いずれも弱者には耐えられない」

「それは知っている。芥川龍之介の『侏儒の言葉』やな。芥川龍之介なら東大やな」

「……その発想は自由やない」


 ぐぬぬとどこか息をかみ殺すようにユメミは答えた。


「前はフォッサマグナが熱いとか言っとらんかったか。姫川の翡翠が朝鮮王朝の王冠に嵌められているそうだから、その信憑性と交易路についてシルクロードの流れが云々、言っていたやないか。風はエーゲ海から吹いてくる。女は海からやってくるって」

「いや、それよりもアレや。あの、アレや、アレ。デブは場合が場合ならブラックホールになるかという――」「それは人間が地球よりも重くならないとならなし、それでも密度も足らないから、デブはブラックホールになることは不可能って結論づけていたやろ」


 ユメミは徐に両手を机に預けた。背筋は猫のように丸まっていて、首をひょこッと前に出す、いつもの彼女の姿勢をしている。目は糸のように細いまま。果たしてソウタを観ているのか、何に焦点をあてているのか、よくわからない。


「気にいらないんや」

「素直でよろしい」


 ようやくとの思いを込めて、ソウタはふうとため息を吐いた。


「そもそも、自分に大学に行くカネがあるんかなって」

「そうなら就職か」


 何も考えずにユメミから出てきた言葉をそのまま受けて、ソウタは尋ねた。彼女は腕を組んで首をぐにゃりと捻らせた。


「パンドラの箱の底には、希望があったと言われていんやけど。あらゆる厄災が詰められた箱の中に、どうして唯一、そんな肯定的なものがあるんやって。ホントは先見でないかって言われているんや。古代ギリシャ語では、同じ単語に当たるんやそうな」


 ユメミのかすれ声にすっと重みが入った。まくしたてるような速さはなく、一つ一つを確かめるようにして言葉を放っている。ソウタは身を構えて、彼女を見つめた。


「明日のことなんてわからない。未来を突き詰めれば結論は一つしかない。先見は厄災でしかないのだから、見えない方がいい。考えたくもない」


 ユメミの黒い瞳がまっすぐに刺してくるようだった。


「今、この瞬間。こうして、ソウタとゴミみたいなたわごとを喋っている。それが続くのがいい」


 ユメミはまっすぐにソウタを見ながらそう言ってきた。


「――それは、ありがとう?」


 言葉は詰まっていた。お定まりな言葉しか出てこなかったが、それでもどこかソウタは返事ができただけで、ほっとしていた。


「ゼノンの矢は動いているし、アキレスは亀を追い抜いていく。君と僕の間は永遠ではないのだよ」

「それ前は、君と僕との間には今日も冷たい雨が降るって、言っていなかったか」

「それは空だよ。空と君との間だよ。だから雨が降るんやないか。それに君と僕の間があって、初めて「私」が在りえるんや」

「混ぜっ返さんといて」


 いつの間にか自身の眉間にしわが寄っていた。戯れにしては深入りし過ぎているようにソウタは思えた。


「なんでや、これからが面白いのに?」


 少しばかり唇を尖らせてユメミは反論するが、まだ彼女なりの戯れであるのはわかっている。それでも沼のようなぬるりとと絡み着いてくるように思えた。その気を払うためにも、はいはいと手を払う返事をしておいた。


「しかしまあ、ゼノンの矢が動いていて、アキレスは亀を追い抜くというのならば、ずっとこうしていられるはずもない。先を見据えておかないとならないんちゃうのか」


 特に考えてはいなかった。常識的な発言と安牌を切るつもりで、ソウタは口を開いていた。


「それはそのままお返し候。ソウタはどうするんや」


 ユメミの瞳は、糸というよりも針のようであった。


「進学か。それとも就職か」

「いや、とくに、なにも――」


 目をぱちくりとまばたきさせてから、ソウタはゆっくりと答えた。


「それだとアレだよ、アレ。梅沢富美男みたいな学年主任のおばちゃんにとっちめられてしまうやん」

「それは、嫌やなぁ」


 横を通り過ぎるだけでべったりとした香水の臭が鼻を突く学年主任の顔を思い出した。


「前向きに善処。誠意を持って慎重に対応。できうる限りの最大限の努力。それで落としどころを探るしかな」


 すっかりユメミにあてられてしまい、こんな言葉しか出てこなかった。カバンの底に押しやった進路希望調査書。昨日の放課後から一度も外に出していなければ、その気にすらも成らなかった。稽古から帰れば、道着を洗濯機にかけて、帰路に寄ったイオンのディスカウントシールの貼られた弁当を電子レンジで温めて、暖色の灯りの下で、独り黙して食す。父は当分海外から帰ってこない。母は夜勤にでて、ソウタと入れ違えで帰ってくる。その生活がもう一年以上も続いていた。きっとこれからも続いていくのだろうと思いつつ箸を進めた。――それぐらいしかしていない。


「おはよう!」


 鈴のような軽やかな声音が響いた。ミスズが小さく手を振りながら教室に入ってくるところだった。彼女の視線の先は、窓際の席であり、彼女がいつも仲良くしている男女である。ソウタには朝日を受けて、彼女らがキラついているように見えていた。同じ教室内というのに、ひどく遠くのように思えた。


「新見君、韮山さん、おはよう」


 しかし、ミスズは二人の席に寄ってきた。大きな瞳に、ここまで近寄られると泣きボクロがあるのがわかる。ユメミも驚いたのか、小さな声で、「おはよう」と返事をしていた。


「昨日はだいじょうぶだった? 力になれなくて、ごめんなさいね」

「昨日の――」「ほれ、いつもの調子で答えなや。そんな昔のこと忘れたよって。で、君の瞳に乾杯や」「だから、まったく、そうやってまぜっかえさないでよ」


 ユメミの茶々入れに対して埃を払うような返事で済ませて、ソウタはカバンを持ったままのミスズに改めて相対する。


「南川の呼び出しは、だいじょうぶ。それに自分でなければならなかったのは、確かだったし」

「ブスとバカは東大に行けってさ。それをまどろっこしく、ソウタを通して自分に伝えてきたんや。直接言いに来いっての。そういう政治なやりとり、嫌いよ。大学も出て、そんなこむさいやり方、全くもって、ホンマ、まだるっこしい」


 腕を組みながらユメミが言った。しかし、顔はミスズの方に向けずに、かといってソウタも視界の隅となるように首を捻らせていた。


「そこまでは言っておらんやろ。ただまあ、そういう相談。そういうことだから、自分が呼び出されたんや」

「そうなんだ。それなら確かに、私には難しいかもね」


 ちらとユメミに視線を向けてから、ミスズは応えた。少しばかり頬が引きつれている。苦笑いと照れ笑いを混ぜたような色をしていた。


「でも、何でも相談してね」

「それは、委員長だから? それともソウタだから」


 斬りこむような言葉がユメミから出てきた。ミスズは大きな瞳をさらに広げさせてから「委員長だから」と答えて、二人から離れて、自席へと向かっていった。ソウタには、彼女の頬が僅かばかり赤らんでいるように見えた。

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