4ー光一条も掴めずー
――渾身の射とは何なのか。ソウタは常に的に集中して、型通りの射を行している――つもりであった。
暮れなずむ廊下を愉しみ歩き、教室でカバンを手に取ると、ソウタは学校から離れた。さすがに教室にユメミやミスズの姿はなく。がらんと誰もいなかった。赤と黒の静寂な彩をソウタはじっくりと眺めまわ
した。南川の言葉も、進路希望調査書もカバンの奥に押し込み、幾度か見返しながら、ようやく離れた。黄色混じりの春の夕焼けは思いの外に早く沈んでしまう。
市営地下鉄で四条まで向かい、スマホの時計を確認する。稽古は午後7時から。まだまだ時間があるとして、すっかり暗くなった西の空を眺めて、ソウタはぶらぶらと歩きながら新宮八幡神社へ向かっていった。
一揖をして鳥居をくぐり、ソウタは弓正会の道場に入った。墨田と大岩師範、ほかに2、3名の勤め終わりらしいの男女が先に道場で弓矢の支度をしていた。呼吸を整えるように神前礼拝を済まし、坐礼による挨拶を行う。学校のことは忘れて、稽古に打ち込もう。そのためのルーティンであるとソウタは信じている。
稽古を始めてから、5度は一手を持って射位に立っている。白いLEDライトに照らされた矢道の先に安土と霞的。そこに狙いを定めて射を行しているつもりだった。全部で十射。的中は0。的の隅を叩くのが二三射あったが、的の中に納まらなければ一切が外れ。的中がすべてではないとは師範からも散々に言われているが、的中しなければ、その段にも立てないのをソウタは心得ている。
「射会の時は良いのが出たのにな」
ソウタが射位から外れて、弽を外していると、頭上より墨田がそう言った。無意識かもしれないが、頬に携えた嫌らしい笑みに、ソウタの眼が硬くなった。
「弓は的中した射の再現性。的中した時の射を思い出して、その通りに身体を動かすのが肝要ってね」
ぶつくさとそう言いながら、今度は墨田が射位に入った。でっぷりとした出た腹と短い脚。むしろ安定感は抜群のように見受けられる。呼吸を整えてから、打ち起こし、大三、引分けと型通りの行射を進めていく。
弓をいっぱいにしならせて、矢が頬に付いた。その瞬間に、ぱあんと的がはねた。墨田は大の字の残心をとっていた。鋭い離れがでて的を貫いていたのだ。
「っぱ、矢数よ。試行錯誤。試行回数よ」
二射ともに的中させて、墨田は射位から離れた。ふうと息を吐きながら、ソウタに向けてそう言った。
「思った通りに身体を動かせているか。身体を得ているか。体操選手は何度鉄棒から落っこちているかっ
てことよ。弓道においては、弓も矢も拡張された身体。車のハンドルを握った瞬間、バンパーまでが自分の身体となるのも一緒。突き詰めれば、矢所まで意図したところに納まるように扱えるようになる。だから”道”なんやろうな」
墨田はしばしば得意になって、そんなことを言う。耳がタコになるほど聞いた言葉であった。
――”道”ねぇ。
ふうと息を吐きながら、矢取りのため安土へと向かっていく。ユメミは時々、仏教やらスピリチュアルやらの本を片手にして、”道”についてをソウタに尋ねてくることがあった。ソウタはそんな御大層なこと、彼女に言われるまで一度も考えたことがない。
自分の矢は安土まで届きながらも、的の周囲あちこちに刺さっているのに対して、墨田の矢は4本が的の6時に並んで納まっていた。
墨田の粘り気のある言葉や姿勢はあまり好きではない。でも、この結果を見せつけられると、ぐうの音も出てこない。ソウタは矢を取り、矢道を引き返していく。矢飛び直く的中やや確実な者、とこれから求められる基準を胸の内で何度も繰り返した。
射会の際には満開だった桜であるが、昨日の今日というのにもうほとんどが散ってしまっている。代わりに石畳の上に変色した花弁が貼りついていた。
――風に踊る桜の花びらに意識を奪われて、キレイな射が出た。
――射は再現性が肝要。
下唇に歯を刺していた。的中の射を再現させようにも、記憶も体も全く覚えていない。気づけば離れていた――いや、気づけば中っていた。離れたとの覚えすらなかった。
――あの射はいったいなんだったのだろう。
思い返すようにして稽古に臨んでいるが、結果は散々に終わっている。矢を矢箱に戻して、弽を右手に嵌めなおす。
もう一度と、一手――二本の矢を持って、射位に入る。甲矢を仕掛けて、胴造り、打ち起こし、大三――と、胸の内で型を唱え、頭の中では射会の時の感触を思い出そうと回転させる。
引分けより会に入る。いよいよ弓は強く重くなり、弽の溝だけでは弦がこらえ切れなくなってくる。指先にぐっと力を入れて、あの時の射の感触を思い出そうとする。しかし、淡い紅の花が風に舞っている景ばかりで、他は何も思い出せない。
――離すでなく、離されるでなく、それが離すのですって。いったい全体、どんな感覚なんか。
ふとオイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』を握りしめて頬を赤くしていたユメミを思い出した。
――何を分かって風に。
さらなる力みを覚えながら、ようやく射が出た。矢はぼすっと的から大きく離れて安土に刺さった。
「力み過ぎやで」
ぼそと墨田の声が聞こえてきた。乙矢はさらに力んだ射が出た。白い光に照らされた矢道の上を、矢が蛇のように踊って安土に向かっているのが見えていた。
「イラついとるなあ。カッカしていたら、そういう射になってしまうで。弓は正直やからな」
この言葉に、ソウタはさらに苛つきを覚えて、弽を外して、正座して射位、本座からしばし離れた。
――射は正しきを己に求む。
見上げれば、『礼記―射義―』と『射法訓』が掲げられている。研修会の際にはこれを読み上げてから、稽古に入る。この二つを噛みしめながら行射をしなさいと、師範の一人がそう言っていたのを思い出した。
「一息ついたら、一手坐射をしてみなさい。一人立ち。でも審査の間合いやで」
師範席で胡坐を組んでいた大岩がそう声をかけてきた。ソウタは深く息するように「はい」と頷いた。
「せっかく人がいないのだから、それは活かすべきや。学生弓道ではなく、ここで弓道の稽古をしているんやから。その意味をよく考えて臨みなさい」
大岩の言葉は重たかった。ソウタは噛みしめるようにもう一度、深く頷いて応えた。
人差し指、中指、そして親指の感覚を確かめながら弽を嵌めていく。取り掛けと離れの際の妻手の形。それを意識して、理想の形が出るようにして弽を嵌めて紐で留める。
――部活に入らず、ここで弓道をする。
そう決めたのは確かに自分だ。一年前にコトノと並んで、学校の弓道場で一手坐射を行い、見学を重ねて、違うと感じた。弓道部に入らずに、弓正会で稽古を続けている。
――何が違ったんだろうか。
弓箱より一手を取り、弓を手にする。口をキュッと結わえて、鼻呼吸に合わせて背筋を正す。本座に立ちて、執弓の姿勢をとる。呼吸を整えてから、跪坐に腰を下ろして、体配を始める。
呼吸を意識しながら、挙動の一つ一つを取っていく。矢を番えて、弓矢を捧げ持つように手を添えて、立ち上がる。
体配作法を呼吸に合わせて進めていき、番えた弓矢に取り掛ける。審査を意識した一手坐射。呼吸を意識して一つ一つを丁寧に処理していく。
大三をとり、弓を引き分けていく。ここでも吐く呼吸を意識して、一定のリズムのまま。或るは、手先で引くのではなく、骨で引きなさいと言っていた。或るは弓も弦も握らずに、肘を意識しなさいと言っていた。
弓はしなりにしなり、弦の緊張がいよいよ満ち満ちて、矢が頬に着いた。射法八節の「会」となる。伸び合い詰め合いを行していく。張り合いは厳しくなっていく。その中で、力んではならない。離すでなく、離されるでなく。狙いを向けたまま、――殺したいヤツの顔を的に重ねて射てみれば?
ふとユメミの声が脳裏に響いた。どすっと安土に矢が刺さった。大の字になっている自身の身体とともに、呼吸は乱れていた。
――まだ、乙矢がある。
妻手の薬指と小指で巻握っている乙矢の存在を思い出して、審査体配に意識を戻す。
再び矢を番えて、捧げ持つようにして立ち上がる。胴を造り、取り掛け、打ち起こしと呼吸に合わせて行を進めていく。
――精神が肉体を凌駕するっていうやろ。
――中てたいという意思が薄弱なんやないか。
弓の反発を覚えながら引分けていくと、脳裏には声がいっぱいとなった。ユメミの声なのか、はたまた自分の声なのか。頭中で反響してまわってくる。
――弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴、弱い奴。
耳の奥では言葉にならぬ声が響いている。噤んだ唇に力が入る。視界の中で霞的が二つに割れてきた。ソウタは親指と人差し指の付け根に弓の握りが深く食い込んでくるのを感じながら、妻手は中指と親指の爪がぎりぎりと圧し合っている。
――ほら、また力んどる。
はっと声が過っていった。妻手を広げて離れを出していた。矢はうねうねとしなりながら安土に刺さった。ソウタは黙したまま、顔を戻し、弓倒しをして、射位から離れた。神棚に一揖をして退場線を超える。吐き気のような重たい息が込み上げてきた。
「どうやった」
大岩が師範席に腰かけたままで声をかけてきた。
「酷く力み過ぎ、ですね」
「うん。身体でわかったなら、それでええ。先ずはそこからや」
大岩の返事は淡白だった。
「さ、稽古に戻りなさい」
安直に答えを教えてはくれない。そもそも答えの言葉をもらったところで身体は果たしてその通りに動くのか。歯がみしながら、ソウタはハイと小さく返事をした。
その後、幾度も射位に入った。力んでいる。そのことを意識していても、頭の中ではよけいな囁きばかりが騒ぎたててくるようだった。結局、一中もしないまま、矢数だけを重ねていき、この日の稽古は終わった。
道着から制服に戻り、道場を離れた。すっかり夜が更けていた。いつものことだと、歩を進めながらも、足取りは重く感じられた。
――あかんな。ダメダメや。
そんな溜息しか出てこない。
――昨日も今日も、きっと明日も。
頭の中ではそんな言葉が反響してまわっている。視線はずるずると落ちて行き、真っ黒なアスファルトばかりを移すようになっていた。
――ダメダメな今日がひたすらい続いていく。
昨日の射を一条の光と求めた。
――ひかりはひかり くうをつかんで こたえなし
強張っていたソウタの頬が歪み、息が漏れ出た。
――高校に落ちて、おめおめとここに居て。
――結局、自分は何がしたいんや。
口を噤み、阪急大宮駅までをひたひたとひたすらに歩く。
視界はわずかに滲んでいた。
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