3ー春の日の夕暮は静かですー
「新見さんは、後でちょっと職員室にきてもらえますか」
午後の授業もおわり、ホームルームも終わりがけ――担任教師がそう声をかけてきた。亜麻色に染めた髪と輪郭柔らかな童顔の――南川は、昨年より大学卒業からそのまま赴任してきた。この高校の卒業生でもあるそうだ。鈴のような声色に妙な湿りがあり、端正のとれた容姿からクラスを超えてに人気があるそうだ。
ソウタは「はあ」との生返事をする。返事をしながら眉間に皴を寄せて、首を捻った。ただ南川は顔をこちらに向けながらも、視線はどうにも自身に向けられたものではないような気がした。
「おっ、よう、てめぇ。どうしたん。いったい何したん」
後席のユメミが話しかけてくるが、ソウタは眉間に皴を寄せるしかできない。手元には先ほど南川より配布された進路希望調査書。よく考えて今週中までに提出するようにとの指示があったが、それより深い意味があるようにソウタには思えなかった。こんな薄いA4ペライチがどれほどの意味があるのだろうか、と。
宿題を忘れて抗弁したユメミではなく、自分が呼び出された理由が思い当たらない。
挨拶を終えると一礼して南川はクラスから出ていった。ざわざわとざわめきを起こしながら、或るは帰路につき、或るは部活へとクラスメイトも三々五々と散っていく。コトノもきゅっと尖らせた眼差しを携えて教室から出ていっていた。まっすぐに弓道部に向かうのだろう。彼女が他の生徒より一回り大きめのカバンを提げているのは弽や道着袴を入れているからだろう。
机の中の教科書ノートをカバンの中に納めながら、憮然と口をへの字に曲げて、ソウタは、――なぜ呼び出された、と思考を巡らせていた。
「一緒についていこうか? どうせあれやろ、アイツ、箸より重いもの持ったことないとか、こむさいこと抜かして、教材の持ち運びでもさせるつもりやろ」
嘲笑を含ませて、唇を歪ませるユメミが居た。担任の挨拶が終わってから、南川に対してユメミは当たりが強かった。
「暇なのか」
「家には帰りたくない。寄り道するにはおカネがない」
「バイトを始めたって言っていなかったか」
昨秋待つぐらいから、ユキカのツテのツテを頼って、岩倉だったか鞍馬のあたりの特老や養護施設でお話相手やイベント補佐をするようになったと耳にしている。遊ぶカネ欲しさと彼女は嘯いていた。
「こんな遅い時間からはないよ。それにそらなんだ、毎日バイトがあるとは限らんやん」
「そらそうよ」
「――ねえ」
ユメミとの会話の最中に、澄んだ声が挟まれた。ぱっちりとした目元に、染めを交えた髪の――ミスズがソウタとユメミの間に立っていた。
「私が代ろうか? 先生からの呼び出し。ほら、私、委員長だし」
ちらちらと二人の顔色を窺うようにして、ミスズが言葉を紡いでくる。身体を窄めている様は、どこか小鳥のような怯えが潜んでいるとソウタには見えた。
「ああ、ええねん。大丈夫や。独りで行く」
ひらひらとミスズに手を振って、ソウタは答えた。彼女は大きな瞳を丸くさせていた。やや紅潮している頬が気になった。
「そもそも先生は、自分を敢えて指名してきていたんや。だからもうこれはしゃあないやろって。ぐだついて申し訳ない」
「――そう、ですか」
彼女の声音が落ちていたような気がした。気を張っていた分、空かされたがために、それが返事として出てきたのだろうと、ソウタは気に留めなかった。
「カッコつけちゃって。せっかく一緒すればええやん」
「委員長は優しいから。あんま迷惑をかけるわけにもいかんやろ。ありがとうな」
ちょんと頭を下げて礼を言う。ミスズは頬を掻きながら表情をくしゃと和らげさせた。照れ笑いだろう。白い花のような柔らかさがあり、ソウタは自身の頬が熱くなるのを感じた。
「気遣わせて悪いね」
言い終わるのが先か、席から立ち上がり、ソウタは教室の外へとつま先を向けた。
「カバンは?」「教室に戻ってくるからそのままで」「さよか。ならいってらっしゃい」
振り返らずとも、手を振っているユメミの姿が見えていた。一年だけでも、ほぼほぼともに行動してい
るので、そういう彼女の癖が嫌でもわかる。
空はまだまだ青が広がっている。日はじりじりと長くなっているのがわかる。ひょいと廊下の西側に設けられた窓から外を覗いてみると、制服姿の男女が校門へと向かっている。視線を上げていけば、城南宮の青々と繁る社叢の景の向こうに細長いビルがあった。京セラの本社ビルである。伏見区に位置されているが、区の中心はもっと南であり、千本鳥居の伏見稲荷はもっと東である。第二京阪の高架と東海道で知られる国道一号に挟まれた半端な位置に設けられている。
――まあ市内は市内やけど……。
入学当初は、広がる空を刺すようにそびえるビルにぼうとそんなことを思った。もう見慣れた景である。
長い廊下を歩き、階段を昇る。職員室は四階の隅に設けられていた。「失礼します」と声を出して扉を開ける。職員室は教室を三つ四つぶち抜いたような広さがあった。視界を広げて、左右に首を動かす。中腹の窓際端で、机に向かってもぞもぞと動く南川の姿をようやく見つけた。
「――遅くなりました」
並ぶイスとデスクと教師陣を縫うようにして進み、南川のもとにたどり着く。彼女は授業計画でもたてようとしていたのか、国語の教科書のノートを広げていた。
「ああ、ありがとうね。ちょっとここに座って」と近くに放られていた空の椅子を手に取って、ソウタに促した。ソウタは首だけ動かして感謝の示し、腰かけた。
南川が身体をソウタの方に向けた。脚を組んでいるのは癖だからか。すらりと伸びた脚を黒いタイツで包んでいた。パリッと皴のない紺のスーツと童顔な顔のつくりがアンバランスに思えた。――でもこんなの今出川とか北大路の駅でいっぱい見かけるよな、とも思えた。同じ黒いビジネスバックに、同じ紺のリクルートスーツに同じ髪形、同じメイクで集って、スマホの画面ばかりを見つめる。そんな様子をソウタはしばしば見かけてる。
「ゴメンなさいね、呼び出してしまって。でもどうしても、ちょっと相談したいことがあってね」
南川はそう言いながら、上目遣いで微笑んできた。そして、膝上で手を組んで、やや前のめりの姿勢となった。ちょうどソウタをのぞき込むような態勢でもあった。妙に甘い匂いが鼻を突いてくる。ソウタはちょっとだけ背を反らせるような姿勢となっていた。
「――韮山さんのことなんだけど」
「はあ」――自分を呼び出しておいて、どうしてユメミとソウタは首を傾げながら相槌をうった。
「これからの進路について、何か聞いていないかしら」
「え? いや、その――別に」
「韮山さんと一番仲良くしているし、よく話している姿を見るから。付き合っているんでしょう。もしかしたらって思って」
「――」
南川の軽やかな口調に対して、ソウタは返す言葉が出てこなかった。中指で眉間をもんで、ぐるぐると乏しい語彙を回転させた。
「そういうの、辞めてもらえますか」
担任教師を前にしていたが、ため息は押さえられなかった。先ずはと噛みしめるようにしてじっくりとそう言った。南川は目を丸くしていた。
「後、進路については特に何も聞いていません。話題にもなっていません」
胸の内に黒いざわつきを覚えていた。それを抑え込むようにして、ユメミとの会話を思い出していく。書籍やら映画、絵画――他愛のない話を幾つもしてきているが、進路の話はまったく覚えがなかった。
「そう、そうなの」
ふうと息を吐いてから、南川はデスクの一角から書類を取り出してきた。緩んでいた表情をきゅっと鋭くさせた。眼差しも尖鋭を帯びている。
「彼女、東大に興味ないかしら」
「はあ?」と大きな声が漏れた。しかし南川は冗談でそう言っているわけではないのだろう。眼差しには鋭さがあった。
「テストの成績は優秀だし、年度末の全国模試も学年1位。それも歴代の生徒の中でも最高の成績だったの」
――この高校は進学校だが、東大京大に入学できた生徒は未だいない。ソウタは肺腑の中の息を入れ替えて、口を結んで南川を見た。
「東大を目指していないかしらって――。いえ、目指してほしいって」
「それをどうして自分に?」
抑揚なくソウタは言葉を絞り出した。南川も整った表情を硬くしたままである。
「そういう大切なことは、韮山さんに直接、お伝えするべきだと思いますが。無責任です」
「それはそう。わかっているけどね。でも、韮山さんに私から直接言っても、どうせまともに受けないでしょう、きっと。彼女なら」
――アレはいったい何しに大学に通っていたんやろうな。
南川の初の授業を受けた際に、ユメミは荒っぽい鼻笑いを吹きながら、そんなことを言っていたのを思い出した。そんなことを言うのは珍しい、と胸に引っかかっていた。
――オモシロくない。
そして、ユメミは南川をそう言って切って捨てていた。
「そうかもしれませんね。でも韮山はああ見えて、素直で正直ですよ」
「……そうね。そうかもしれないね」
言いながら南川は視線を外して息を吐いた。嘆混じりのようにソウタには見えた。負の感情ともいうべきか。さすがに引け目を覚えているのだろう。
「彼女も担任しているのでしょう」
「それはそうなのだけどね」
四月二週目。担任教師としてまだ十日も経っていない。国語の授業として教壇に立った回数も、指折でじゅうぶんに足りる。ソウタが一対一で会話するのも、これが初めてである。
「何か有ったんですか?」
「いえ、何もない。何もないんだけどね。ほら、ああいう子だからね」
そう南川は頬を引きつらせていた。
「一応は聞いてみますよ。タイミングをみて。でも期待しないでくださいよ」
徐に立ち上がり、ソウタは座っていた椅子をもとの場所に戻した。
「ちなみに――新見君は、進路をどう考えているの」
ぼそと囁きのような南川の声が、耳に入ってきた。自身の頬が固まっていくのがわかった。
「――これから考えます」
鳩尾よりその言葉を絞りあげてソウタは答えた。
一礼してから踵を返す。ここら辺の体配は弓の稽古での賜物で、自然とふるまえた。内心には蠢くものがあった。
職員室を出る。廊下が淡く色づいている。窓の外より夕陽が射しこんでいた。カツカツと自分の靴音だけは響いている。
――進路なんて。
考えていない。洛外望都高校に入学が決まって以来、考えることはなかった。
――考えても意味がない。どうせ成るようにしかならない。
第一志望の高校に落ちて、ここに流れ着いた。がんばった所で、畢竟、成るようにならない。
――昨日なんて昔のこと忘れたよ。明日なんて先のこと判らない。
にやつきながらそう言い放つユメミを思い出した。その通りだと、ソウタもその言葉に薄ら笑いを浮かべて応えていた。配布された希望調査は用紙へは、過去にAかBの判定がでた大学名を書いて出そうと決めた。
階段を下りて、長廊下に戻ってくる。仄かに朱く染まっているようだった。ちらちらと煌めいているように見えるのは埃の反射か。足が止まっていた。
――火の色は愉しかった。
そんな言葉を思い出した。強張っていたはずの唇が歪む。どこで聞いた言葉だったか。それとも自分で読んだ見つけたい。
――いづれにしても、ユメミにあてられたか。
にやにやとほくそ笑みながら、ちらちらと朱く煌めく廊下を歩いていく。
これから夜が来るか。それにしては夕陽射す廊下がソウタにはいやに長く思えた。
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