2ー数と反芻ー
午前の授業は淡々と過ぎていった。3限目の授業が終わり、昼休憩の軽快なチャイム音が鳴った。ソウタが立ち上がると、後席のユメミも「はあさて、ろっこんしょうじょう、ろっこんしょうじょうっと」と勢いづけて立ち上がった。
「食堂やろ、一緒ええか?」
糸目でもわかる。上目遣いで自身の顔色を窺うようにして、ユメミが声をかけてきた。ただでさえ、ソウタより頭一つ分小さいのに、前かがみで首を窄めさせているので、さらに低く見えた。
「まあ、ええやないの」
ソウタは返事を残すようにして、別館の食堂へと向かっていった。わざわざ尋ねる必要もないのに、ユメミは必ず確認してきた。
そして、いつものようにいつものごとく、ユメミはソウタの後ろをとてとてと着いてきたようだ。こういうときだけは一年の時から変わらなく、どこかよそよそしくしおらしい。無造作に伸ばした黒髪を掻いたり、自身の二の腕を握って摩ったりと落ち着きのなさはあるが、口は噤んで黙っていた。
小柄で線も細い。椿の枝のような手首が袖より、竹ひごのような脚が裾のよりちらちら覗ける時がある。なによりぺちゃんと平たい身体の薄さである。Sサイズの制服でもぶかぶかと余らせていた。
「『シーシュポスの神話』の他には、本は持ってきていないのか」
ざわざわと騒がしい周囲の中で、黙って歩き続けるのにバツが悪くなったのか、ソウタはそう問いかけていた。
「ん、いや、まあ」
きまりの悪そうな返事をしながら、ユメミが隣に並んだ。
「今日はどうにも、それしか食指にかからなくて。本はエベレストより積んであるし、朝に図書館もよったんやけど、なんかこう、アレなんよ。今日はそういうところがアレ。だからもう一周読み直そうかって」
「同じ本を二回も読むんか」
「そらまあ、基本は読書百遍よ。ミッフィーちゃんの絵本も繰り返し読んだやろう」
へなへなと歪んだ瞳とどこか緩さのある口元。ぼさぼさで無造作に伸ばした髪の下にはのっぺりと平坦な顔のつくりである。顔そのものは視線を逸らせば忘れてしまいそうになるぐらいである。
――それはまあ、自分もそうか。
「そういえば最近読んでないなあ、ミッフィーちゃんの絵本。子供だましは大人を本気にさせてからっていうんかな。アレはアレで実に味わい深くっていいやんねえ、なあ」
ただ髪を掻いたり、人差し指を立てた右手をくるくると回したりと忙しない様と、まくしたてるように話す様が、記憶にこびりついてくる。
「自分、ミッフィーちゃんの絵本、読んだことあらへん」
「ん? あ。あ、そう。あそう。そら仕方ないな、うん」
敢えての抑揚のなさがわかる、どこか芝居じみたような言葉が返ってきた。どこかで見たり聞きかじったことは、外に出力せずにはいられないユメミの質は知っている。
「ならボルヘス。ボルヘスの『円環の廃墟』や。百回読んでもまだわけわからんちんよ」
「それも読んだことないわ」
そうソウタは返答しながら、半眼になっていた。やはり彼女の相手をするのは疲れてしまう。袖擦り合うも他生の縁とは聞くものの、一年生の春からこの調子である。今もソウタに並んで歩きながら、唾でも飛ばしそうな勢いで別の書名を矢継ぎ早に出してくる。どれ一つとてソウタにはピンとこない。『ドグマ・マグラ』も『裸のランチ』も『パプリカ』も『サンタフェ』も。ソウタは読む以前にそんな書名を聞いたこともなかった。そんな空振りな反応にひひっと虚ろな引き笑いをユメミは漏らしていた。
淡白な反応を返しているというのに、それでもユメミはちらちらと視線をソウタに向けて話を続ける。たまにくしゃと歪ませた瞳の奥に迷子の犬のような曇りを帯びる時がある。それを見つけてしまうと、今度はソウタのバツが悪くなる。――さてどうするか、ずいぶんと懐かれてしまったものだ、とユメミの顔を一瞥して溜息を吐いた。
長い廊下を歩き切り、渡り廊下を超えて別館に入ると、すぐに食堂が構えている。入り口前には本日の定食として、豚肉炒めと豚汁の定食が提示されていた。
「あれま、ブタとブタでダブっとるやん」
「そういうのええから」
積み重ねられたトレーを一枚とって、カウンターへと向かう。
「衣笠丼、一つ」
「私はかけ。熱いところが欲しいかな。ねぎ抜きでおくれよ」
支払いを終えるとともに、先に頼んだソウタの丼よりも、ユメミのかけそばがカウンターより出てきた。上に何も載っていない、関西のうす出汁にそばがはいっただけのかけそば。
「まいどまいど、ホントにそれで足りてんのか?」
ユメミはいつものように七味唐辛子をたっぷりとかけていた。どこで覚えた食べ方なのかと呆れを覚える。
「足りる、足りないやない。足らすんや」
ユメミはそう決まり文句を返してくるが、マッチ棒よりも細い手首にソウタの視線は向かっていた。ケチをして余剰分を本代にまわすとしても、あまりにも食欲に無関心に思える。
――とはいえ、ねぎ抜きで七味をたっぷりかけるような癖のある喰い方をする。
それに帰り道で学校裏の揚げ物屋で、彼女がメンチカツやコロッケを頬張っている姿をしばしばみている。
まもなく九条ネギと油揚げを卵でとじた衣笠丼が出てきた。トレーに置きなおして、食堂の真ん中辺りにみつけた席に落ち着いた。
「そもそも合うのか、関西出汁でそばって」
「なあんも。合う合わないやない。さっと出てぱっと食える。これよ」
箸の先で円を描きながら、わかったように言い放つ。「さよか」とだけ返事して、ソウタは丼を手に取り、底をすくうようにして食べ始めた。慣れた味にもはや感想も何もない。さすがにユメミも食べているときは話しかけてくることはない。
「ああ、ユメさん。ここにおったか」
ソウタとユメミが箸をトレーに置く頃に、一人近寄る少女――ユキカがサンドウィッチとミルクティーのペットボトルを手にして寄ってきた。金の染めを混ぜ込んだ髪と目鼻や口元をくっきりと目立たせながらも、粉っぽさを感じないメイク。衿元は緩く、スカートも白い磁器のような腿が覗けるほど短いが、柔らかな映えの中で、彼女自身の中で格整の一線を設けているような、どこか隙を感じさせない。サンドウィッチを持つ手の爪は切れに整えながらも、素であることが、ソウタには逆に目に留まった。――そういえば、彼女はネイルをしていないな、と。
「ソウタはん。ええよな、ここ」
ちらとユキカがソウタに視線を向けて尋ねてくる。ソウタは衣笠丼を頬張ったまま、頷いて応えた。
ソウタとユキカの関係は可もなく不可もなく。ただユメミを介して、顔を合わせる程度である。もっとも、今風の派手な装いで、知り合う前から一方的に知っていた。そしてどこか、半分身を退かせて彼女と相対している自分を、つい最近発見していた。二人がおしゃべりしているときは声を発さない。それがマナーとしてソウタは心掛けている。
「それにしてもユメさん。ありがとうなあ。ようやくポロックの絵にフヒってきたよ。やっぱ何事も数と反芻やな」
「そらよかったなあ、ユキカちゃん。それにしても、ジャクソン・ポロックでフヒれるって、なかなかやるやん。やっぱり線か、色彩か」
「なんやろうね。線というか筆づかいというか。なんていうんやろうなあ。チカチカする色もそうなんやけど――」
ユキカは首を何度も捻りながらあれでもないこれでもないとブツブツと呟く。彼女のこの癖はなんどもみたことがある。首を左右に捻りながら、ユキカはユメミの隣に腰かけて、サンドウィッチの包装を破いた。
二人とも言語化というもの対して、既知の語彙と相手への理解共感といった配慮を超えて伝えようと、あれやこれやと言葉を巡らせる傾向があるとソウタはおしゃべりを聞きながら思った。結果として、あれこれそれだらけの靄のような会話が出力されてしまっているのだ、と。
「パッと観た時に、ふふって。なんかこうフヒってきたんや。なんやオモシロって」
「そうか。そらええなあ」
「コンテンポラリーってホント、イミフで興味なかったんやけど。改めて観てみるとなんかこうええねえ。うん。うまく言えんでゴメンやけど」
「そんな謝らんでええんやで。それだけ言葉にこだわってピンポイントな感想を伝えようとしている。その努力が、自分は聞いてて嬉しいんや。ありがとうなあ」
いつもの掠れ声そう言いながら、ユメミは背筋を伸ばして、ユキカの頭を撫でさすった。悪い気をしなかったのだろう。ユキカはわずかに目を細めていた。
「いったん、深呼吸。ほら、ミルクティーを飲んでさ。息を整えて、ふっと出てきた歌でも口にしてみたらええ。どうせ感性も言葉も今まで得たものからしか出力できへん。なら、出力できる言葉を使えばええんや」
――賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶっていうそうやん。なら愚者で結構けっこう、こけこっこーてなもんや。そう嘲笑を浮かべて吐き飛ばすユメミの姿をソウタは思い出した。
ユメミはそばはもう食べ終わっている。ユキカの頭をなでながら、そう言い放つ。二人がいつから仲良くなったのか。ソウタはあまり記憶がない。一年の夏か冬かもおぼろげである。ただ、ユキカはユメミの姿を見かければ、手を振って声をかけて、おしゃべりをするのである。
ペットボトルに口から離して、ふうとユキカは息をつく。薄くひかれた紅が妙な艶があるようにソウタには見えた。彼女はユメミの傍にいると無防備になる。
「そうやねえ――迸る熱いパトス、を感じるのかな」
「ええねえ。少年が神話になるやないかってヤツやね」
ソウタは衣笠丼を食べ終わり、自販機で買ったお茶をゆっくりと飲んでいた。昼休憩はまだまだある。食堂はまさに歓喜笑声の混ざりあった騒がしさ。ざわめきの中で、ユメミとユキカの会話も紛れ込まれていく。シシガタニやオチャカイ、マダラガラツなどいよいよ自身には関係のない単語が飛び交っているとなると、気を遠くに飛ばしたくもなる。
――ようやく落ち着けるか、とソウタは息を吐く。向き合ってお喋りを続けている二人を視界から外すよう、視線を上げていく。春の陽光が射しこんできている。窓が僅かばかり開けられているようで、微温く優しい風を感じる時があった。
ざわめきはいよいよ言葉としての態を溶かしていく。視線の先にはうっすらと黄ばんだように見える天井が控えている。
――これからどうしようか。どうしてくれようか。
耳奥でぱあんと破裂音が響いた。途端、ソウタの脳裏には桜の花が風に舞っている景が流れ込んできた。昨日、見た景色だ。
――キレイだ。その言葉しか出てこない。他には感触も実感も出てこない。的中の矢が出た。大三から引分け、会に入り、その後は何の覚えもない。
――自ら離れるのではなく、弓に負けて離されるのではなく、それが離すのですってどういう感覚なんや。やはり弓道の離れは悟りと等しく弾指の間にあるのか。
ユメミの興奮した声を思い出した。その時は確か、彼女は『弓と禅』という書を手にしていた。
――身体とは修練の果てに体得できるもの。型の空手や、歌舞伎なんかも、型があり、その通りに身体を動かすして初めて形として出力されるそうやん。
ソウタがユメミに自分が弓道をやっていると話した時、彼女は頬を微かに紅潮させて、身を乗り出して喋り掛けてきた。
――どうなんや。やはり心技体は分離できない、いったいのモノなんか。ゴーストインマシーンなんて、机上の空論で、やっぱり心技体ありて初めて人を為すんか。
そんなん知るか、と返したかったソウタだが、ユメミの勢いに飲まれてしまい、自分でも記憶に残らないようなどうでもいい返答をしてお茶を濁していた。
――あれはいったい、なんだったんやろうなあ。
また溜息を吐く。視線を窓の外にやると、桜の花はいよいよ風に抱かれて、舞い散り落ちて行っていた。
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