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1ー試みの地平線ー

「いや、違うんですよ」


 後ろの席の彼女――ユメミは、糸のように細い眼をくしゃくしゃに歪めながらそう言った。ソウタは首を回して彼女を見ていたが、いつものことかと、すぐに姿勢を直した。教壇では半眼の教師が腕を組んで立っていた。廊下側の隅の席。右手で頬杖をつき、授業が進むのを待つしかない。


「あのアレよ。あの、その、なんや。そう、これはそうアレ。アレよアレ。鞍馬から牛若丸が出でまして、その名を九郎判官っていうの。せや義経にしておくれっていうか。なら弁慶にしておけというべきなんか」


 まくしたてるようにして、ユメミが言葉を紡ぐ。ただ彼女の口から吐き出された言葉は空を虚しく踊るだけで意味はない。舌に任せて喋っているのが、傍で聞いているソウタにもよくわかった。


「ほらアレや。あの、アレ。ファイルの添付を忘れて報告書のメールを送ってしまって、翌日の朝一、タイムカード推す前に再提出するっていうの、ほらよくあるヤツやん。先生もあるやろ、そういうこと。稀によくあるってヤツや、これは。これはそのアレやねん。誰もが通る通過儀礼や。オセアニアのバンジージャンプと同じ。台湾新高山の首を刈って帰ってきて顔に墨をいれるような誉れ高き部族の行為。中坊がエロ本を買いに、そのなにね、隣町のコンビニまで自転車とばすのと同じやな。行き行きて進軍。行きて帰りし物語の型構造。オデュッセウスは王になり、親戚の叔父さんは子どもを抱えて一人帰ってきた。計らずもなべて人生の通り道。願わくば七難八苦を――」


 振り返らずとも、ユメミの身の振り様がみえた。皴のよったブレザーと撚れたタイリボン。無造作に伸ばした髪を掻きながら、左の利き手は忙しなく形を変えて空を動き回っているのだろう。


 初めて出会った時からそうだった。一年前の入学式の後、彼女はソウタの後ろの席に座って、本を読んでいた。


 おろしたてのカーキ色のブレザーに直線を維持した緋色のタイ。長くもそれなりに整えられた髪。口を噤んで文庫本に視線を落としている様は、おしとやかに見えた。


 ただブックカバーは仕掛けていなかった。厳めしくしわを寄せた高年の男の顔の表紙をむき出しにしていた。著作名は『試みの地平線』。著者は北方謙三とあり、表紙の渋い男が著影となるのだろう。帯に「うじうじ悩むな、小僧ども。ソープへ行け」との記であった。ソウタがかける言葉を失っていると、ユメミはにやとほくそ笑んで、「おう、どうした」と彼女から声をかけてきた。無造作に伸ばし散らかした髪の奥に、糸のような瞳を携えた。不揃いな歯をちらと見せての笑みを浮かべていた。それ以来の縁ある。


「そういうのはいいですから。明日には必ず宿題を出してくださいね。よろしいですね、韮山さん」


 英語の教師はこれ見よがしに溜息を吐き出しながら言った。東に位置する窓より、まだたっぷりと陽光が刺し込む午前の二限目の授業というのに、聞いているだけのソウタすら疲れを覚えてきて、ふうと息を吐いた。


「まだファーストストライクやねんな」

「フェアゾーンアウトのリクエスト審議中。オーロラビジョンに大写しされて、ため息ばっかりや」

「それはもうアウトやん。リクエスト失敗やんか」


 わずかに苛立ちを含めた教師の言葉に、ユメミはしゅんと調子を落として返事をした。それでようやく授業が再開された。これで彼女は授業料免除の特待生であるのを知っている。


 私立洛外望都高校はその名の通り、京都の外れに設けられた新設の高校であった。市営地下鉄の竹田駅より徒歩十五分。第二京阪の高架下をしばらく歩いた先にある。


――進学校からこぼれたヤツが転がり込む先。それが開校以来のこの高校の評価であった。現に東大京大といった名門校への入学者をまだ排出していない。早慶が年に二、三人。関関同立もせいぜい一桁程度。それを大々的に鼓を叩いて鳴らして喧伝してまわる。専門学校や就職斡旋も選択肢として明確にあり、その道に進む生徒も珍しくない。進学校と銘打ち開校されながらも、それがせいぜいの学校である。


 ご多分に漏れず、ソウタもその口である。洛中の公立高校を目指していた。――都落ち。中学校の卒業式でそんな陰口が聞こえてきた。誰の囁きだったのかはわからない。そもそも聞こえた瞬間にソウタは周囲を見渡したが、誰もいなかったのを覚えている。風に運ばれてきた音だった。


「じゃあ、この英文を日本語訳に――韮山さん、答えてみてください」


 教科書をすらすらと読み進めていた教師が、ソウタの後席のユメミを刺した。ガタと椅子を引く音が聞こえた。


「これはアレやね。ハルキの訳なら「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」やね」

「――正解」


 教師はユメミには目もやらずに、やれやれといったような、流石と呆気を混ぜた声で応えた。クラスメイトからもおおと唸りが教室に響く。ソウタはわざわざ声に出さずとも、感心を抱いていた。


「ちなみに――」「座りなさい」


 口を開こうとしていたユメミに対して間髪入れずにぴしゃりと制して、着席を促し、口を噤ませた。彼女のつんのめったような漏れ息がソウタにも聞こえてきた。ユメミはそのまま大人しく席に腰かけた。「さよならをいうのはわずかのあいだ死ぬことだ」との羽虫の鳴き声のような呟きが耳を擽ってきた。言わずにはいられなかったのだろう。


 一事が万事、彼女はこんな様である。一年の頃から変わらない。


――童貞というのは濡れたシャツみたいなもんなそうや。べたべたと貼りついて、こらかなわんのわんわんにゃんにゃん。だから、さっさと脱いだ方がええってさ。だからソープへ行けってさ。


 初対面のソウタに向けて、ユメミは『試みの地平線』の文庫を片手にそう言い放った。絶句のあまりに、ユメミの糸より細い眼の奥をソウタは確かめられなかった。反論もなにもない。そもそも言葉が出てこない。頭の中も胸の内も虚にして空となっていた。


 口を開けばかくの如く、ユメミは問答無用に言葉を選らばずにめっぽうでたらめにぶつけてくるので、質が悪い。その上、彼女から悪気はみじんも感じられない。


――最近の女の子は、お股の力がゆるいんや。電車で座っていると、こうふわぁと開いてくる。ちゃんと膝小僧を締めて座らな、座席の幅をよけいに使ってしまうのにな。でも、そこはほらその湯気みたいなしどけなさを吸っている輩もいるそうやん。どうなんじったい?


――よくあるあれよ、アレ。読書家な美少女が清純無垢だったりするやん。カマはトトですかっていうの。そんなワケあらへんやろうって。そんなおまえ、ちっちきちーやで、ホンマ。一体全体、何の本を読んどるんやって。澁澤龍彦ドラコニアか? 偏っているんちやうか? それは果たして読書家なんかって。


――この世の全ての者は相似形を内包しているっていうやん。鯛の鯛があるように。宇宙が薔薇の形をしているように。人間は喉仏で坐禅を組んで合掌している姿があるそうなんやそうだ。だから、ちょっとそれを見せてくれへんか?


 誰に対しても、この態である。その上、口から出てくる言葉は玉石混合もいいところで、どこで仕入れた知識なのかはほぼほぼ不明である。思いついたら口に出さずにいられない。相手が効いていようが理解していようが、話調に置いてきぼりを食らっていようが関係なしに、一気呵成にまくしたてる。そして、クラスから、いや学校中から否応なしに浮いていた。


――傍にいる自分も、つられて浮いとるんやろうな、きっと。


 頬杖をつきながら、ソウタは溜息しかできなかった。陰ひなたに転がっていたであろう高校生活が、どうにもへんな轍に落ちた気がしていた。それが陽のものか陰のものかは、ソウタには判断つかない。


「――以上で、本日の授業は終わりにします。韮山さん、くれぐれも宿題を忘れないように」


 念押しに教師はそうユメミを睨みつけてから、教室から出ていった。彼女の前席に座っているソウタも、まとめ詰められているようで落ち着かなかった。


「どうする? いちおう、録音しといたんやけど。さっきの授業全般的に。出るとこ出たら、いい結果になるんかな」

「止めなはれ」


 背後から聞こえてくるユメミの掠れ声に対して、手で払うような返事をしておいた。そもそも彼女に落ち度があるし、出るとこに出て何がしたいのかもよくわからない。どうせ小うるさいから黙らせたい、とぐらいしか考えていないのだろう。


――喧嘩は戦う前に終わらせるのが肝や。奥の手は始まる前の相手が無防備な体勢でいる間に仕掛けてこそやな。


 にやにやとほくそ笑みながら、ユメミがそんなことを言っていたのをソウタは思い出した。


「どうせ宿題は終わっておるんやろ。ならさっさと出せばええやん」

「いやあ、持ってくるのを忘れてね。人間ていうのはなべて事象を忘れてようやく生きていけるそうやから」

「そんな大仰な。そんなつべこべ言わんと。面倒は嫌いなんやろう」

「もちろん嫌いや。嫌いも嫌いの、大っ嫌いや」


 ユメミは言葉を跳ねさせるようにして返してきた。


「なら、大人しく口答えも言い訳せず、粛々と宿題を出すしかないやん」

「そらまあ、そうなんやけどな」


――口を開かずにはいられなかった。そう言うことなのだろう。一年足らずの中ではあるが、つくづくユメミという少女の様をソウタは実感していた。


 何か言いたげに唇を尖らせているユメミをしり目に、ソウタは姿勢を直して、次の教科の支度を始める。


 ふと視界の隅には、肩まで伸びた黒髪を揺らして歩くコトノの姿があった。ただ彼女はソウタに一瞥もよこす隙も無い。凛々しくピンと伸びた姿勢で、窓際の自身の席に向かっていっていた。


「ああ、ゴメンゴメン」


 そんな声が聞こえてきた。コトノの席の周りに男女数名のクラスメイトが集まっていた。それでコトノが席に近づけずに座ることができないでいた。両手をちょんと合わせるようにして謝るのは、学級院長のミスズだった。薄く染めを入れた髪をハーフアップにまとめて、スカートも膝頭ぎりぎりまで調整している。似たように制服を着こなした女子が集まって喋っていたようだ。皴なく折り目正しく着ているコトノが固く映えるようだった。


「いや、稲富さん。ええんやで。授業までまだやし」

「いやいや。ここは松谷さんの席やし。ウチらが移るから」


 そうは言うモノの、彼女の席はコトノの前であった。ミスズは両の手を小さく振りながら、教壇の方へとじりじりと移っていく。そうすることで、彼女の仲間もつられるように動いていく。


「なあどこ見てんのや、鼻の下伸ばしちゃって。まったくもっての、このフェイスイーターめが。このおしゃまさんが」


 後ろから夢美の言葉が聞こえてきた。確かに琴乃とミスズの二人は器量が整っていて、一目を置かれている。


「やっぱ、あの二人が狙い目なんか」

「違うよ」


 淡白にそれだけ返した。余計な言葉をつなげてしまえば、ますますドツボに陥るとソウタは考えた。


「そういえば、休憩時間は本を読むんやないのか」

「『シーシュポスの神話』を持ってきたけど、薄いねん、これ。もう読み終わってしもうたわ」

 銀の背表紙の文庫本をぺなぺなと振りながら、ユメミは応えた。確かに小指ほどの厚みしかない本である。


――次の授業は……。とカバンの中をまさぐっていると」


「人見先生の日本史や」


 そうユメミが言い終わるのが先か、一人の男が教室に入ってきた。灰色のスーツに重たそうな黒縁眼鏡。陰気さをまとった人見であった。


「そろそろ授業を始めるから。席についてください」


 口の中だけで音を発したような小ささ。ざわざわとそれでも教室内はクラスメイトの囁き声が響いている。人見は構わず黒板に体を向けて、授業を始めた。

 ソウタはこの非常勤講師が好きではなかった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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