16ー暮色ー
洛西口駅を出る頃には、夕焼けが広がっていた。ソウタは改札をでると、冷たい風が吹きつけてきた。思わず身を縮めさせて、深いため息を吐いた。
買い物袋を提げた男や、子供に手を引かれた女。阪急列車がガタガタと頭上を走りいけば、車掌のアナウンスが響く忙しない駅前で、ソウタは足を止めて空を仰いでいた。脚も腰もどっしりと重たく感じるのは疲れのせい――それだけだろうか。
結局、昼食は午後三時を過ぎていた。ユキカの納得のいく金彫の蝶の飾りを見つけるのに、だいぶんの時間を要していた。
「ゴメンね。お昼も奢るからさ」とユキカは手を合わせながら、そう切り出したが、ミノルもソウタも奢りは断った。
「いや、勉強になったよ。面白かった」と返したミノルには、ソウタはさすがだなと感心を覚えた。ふわりと柔らかな微笑を絶やさず携えて、ユキカに不快や疑念を与えないよう、それを自然とふるまう。ソウタは断るから先の言葉を知らない。
タクシーを使ってメシ処まで移動しようかと、続けてユキカが提案してきたが、それも断りも入れた。彼女は機嫌よく、彼女なりの誠意を見せようとしていたのだろう。だが、ミノルが主となってこれも断った。ミノル自身も何店も周り、古裂を仕入れていたりする。
「それに、やっぱりただより高いもんはないからな」との言葉が決め手となった。
ミノルとともに、彼女の羽振りの良さに驚きがあった。今回の竹の花入れのように、茶道具、骨董品の買い付けの足替わりとして、頼まれているようで、彼女はそのお駄賃をもらっていた。
「パパ活なんかより、よっぽど稼ぎがええんや」とどこか誇らしげにユキカは言っていた。知り合いの足替わりに市内を回り、気にいる品を見つけて、自ら持って届けに行く。時には彼女が師と仰ぐ、祇園古門前通りの骨董商の所へ、蚤の市で見つけた品を買い取ってもらうこともしているそうだ。
「それでも贋作つかまされたら、大赤字なんだけどね」とユキカは言いながらも、どこか余裕を含んだ言い回しであった。基本的にはそれこそ遊ぶカネ欲しさの、彼女なりの金策であった。このカスリで鼈甲の櫛やら漆の簪の費用を算出していた。
――二人とも、立派な外があるんやな。とソウタは二人の会話から、ますます外にいるような気がした。ミノルも中学校の頃から実家の呉服屋の店頭に立ち、手伝いをしていれば、その繋がりからか、着物の着つけの手伝いとして、市内方々に出向くことがあるのを知っている。小遣いができたから遊びにいこうかと、寺町や京極のゲームセンタ―を渡り歩いたこともある。
――なら自分には何がある。その言葉は肺腑まで込み上げてきた。口には出さなかった。今は丹田の澱みとなっている。
――自分の内側を見つめても、まっさらでなんもあらへんよ。中心は常に空洞や。
ユメミはそう言い放っていた。虚であり、無であり、空となるのか。いやそんなたいそうなものすらもないのだろう。二人の後ろを歩きながら、乾いた笑みだけが沸きあがってきていた。
神宮丸太町駅まで歩いて昇り、鴨川を渡って、河原町にあるとんかつ屋で定食を三人して食べた。戦利品として、蚤の市で見つけた者をミノルとユキカは語り合っていた。ソウタは疲れが多く、二人の会話を聞くに徹していた。
食事を終えると、まもなく午後四時となりそうだった。ミノルは後に用事があり、ユキカも購入した竹の花入れを渡しに岩倉に行こうと思うと告げた。ミノルは最寄りのバス停へ、ユキカは神宮丸太町駅へ向かうそうだ。自然とここで解散となる運びとなった。
阪急京都線の河原町駅まで、だいぶ距離があるな、と二人と別れてからソウタは思った。まっすぐに伸びる河原町通。左右にビルや軒が並びにぎやかな一直線であるが、ソウタには直線の先ばかりに視線をやっていた。
蚤の市で散々に歩き回ったというのに、まだ歩かねばならないのか。そう思うと、苦みが頬の窪みと成って表れる。
――さすがに地平線までは見えないか。
そう嘲笑じみた鼻息を吹いてから、それでも南に向かって歩き出した。走りいく車の騒音も、行き交う人たちのざわめきも、ソウタの耳には入らない。
どこを見つめるわけもなく、ひたすらに足だけを動かす。そうしている内に、丸太町から四条までの間は歩けた。ごうごうと耳奥で流れる空の音が酷くうるさく感じた。
河原町駅にまでたどり着き、地下へと降りていく。気づけばガラガラの準急列車に腰かけていた。列車はすぐに動き出した。
一駅、二駅と停まりながら進んでいく。列車が地下より出ると、見えるのは朱みを帯びた空であった。
ソウタは遠くを、ただただ遠くを眺めていた。深く腰を掛けて、流れる柱の影を、山並みをぼうとしたまま見送っていた。
――呆けている暇なんてない、か。
ユキカの言葉を思い出す。確かにその通りだと、腑に落ちている。それでも身体は動かない。
――果たして、今日は楽しかったのか。
何かの意図があって、ミノルに誘われたような気がした。ただただ歩き回って、終わってしまっていた。中学生の頃からミノルと蚤の市を一緒に見て回ったが、別々の高校に入学するを契機に、先ず誘われることがなくなり、ソウタ自身が蚤の市に行くこともなくなった。
――ミノルのヤツはなんで誘ってくれたんやろうか。
見て回った中、確かに数店興味深いものはあった。ただそれ以上に、ミノルやユキカが手に取った品に意識が寄った。なぜそれに手を取ったのか。浅葱色の線が描かれた陶片。幾何学模様の更紗の古裂。手脚の欠けた木製の仏像。数と反芻。その積み重ねによって、二人は外につながる眼を築いていったのかもしれない。
――それを学べ、と。
ミノルは確かに京都育ちだが、そんなまだるっこしい婉曲な言い方はしない。そんなはずはないと、不毛な結論を頭を振って払い消す。ただ、ぐるぐると無意味な自問自答がソウタの中で始まってしまっていた。
――取り敢えず、帰ろう。先ずは、家に帰ろう。家に帰ってから、考えよう。
駅から出て西に向かって歩いていく。赤い夕陽が目安となった。仄暗さからか、赤いテールランプで線を描くようにクルマが走っていた。
――何もない、家に帰ろう。
休耕地なのか。土がむき出しとなった畑が広がる道をまっすぐに進んでいく。正面には山がそびえているが、夕陽を受けて、吸い込まれるような黒の影として、のっぺりとあった。
――春なのに うらさむしき 夕焼け小焼け たなびく雲は 夜となる
雑然と思いつく言葉をだらだらと意味もなくつなげて遊び、あゆみだけ続けていく。
――先はあれども 一直線 左右は空ぞ なんとなる
もはや自嘲すらも出てこない。ぽつぽつと灯る白い街灯が、次第に頼りとなっていく。前を見ても後ろを見ても、ソウタ一人しかいない。風吹けば、道端の草が揺れた。
――風が見えるほど、寂しいってか。
まだ春というのに、赤黒い空の濃さを覚えていた。ただ、こうして一人、口を閉ざして、風を見ながら歩くのは、初めてではない。
――昨日も、一昨日も、そうだったような気がする。
足が止まった。
――ずっとずっと、同じ道をひたすらに歩いているような気がする。
ゼノンの矢は止まっているかもしれないと、人見が嘯いていたのを思い出した。胸の内にざらざらとした風が吹いていた。巌のような握り拳を作っていたはずが、手は小刻みに震えているようだった。
朱い空にすっと黒い影が通っていく。カラスだろうか。その動きにどこかほっと胸をなでおろしていた。
気がつけばマンションの入り口にたどり着いていた。これもいつもと同じである。枝葉は確かに違うかもしれない。でもそれを味わえられる心地はない。
エレベータで八階に着いた。まだ夕陽は厳しく光を放っていた。
少年が居た。相変わらず、塀に手をかけて、空を見つめている。夕陽に目が灼けないかと思うほど、まばたき乏しく、漫然とした力ない瞳を向けていた。
「どうしたんや」
またしても思わず話しかけていた。少年は徐に色のない顔をそのまま、ソウタに向けてきた。
がらんどうな瞳をしていた。見つめても奥底の計れない、しかし深さも感じられない。ふしあなのようにソウタは思えた。
口を閉ざしたまま、しばらくソウタを見つめてから、再び空へと顔を向けなおした。
――本当に、このマンションの子どもなのか。
ソウタとは頭一つ分小さい身体。くしゃくしゃな上下にボロボロの靴を履いている。頬の具合は、ソウタにはややこけているように見えた。肌が土気ばんでみえているのは、共用廊下の白い蛍光灯のせい――果たして、それだけなのだろうか。
ただ遠くへ。ひたすらに遠くへ。どこに焦点に合わせることなく、じりじりと黒に浸されていく空を眺めている。
遠くに意識を飛ばして、何を見ているのだろうか。時間が経つのを待っているだけなのか。それとももう何も考えたくないのか。
ソウタはちらちらと少年の様子を窺いながらも、通り過ぎることにした。
鍵を開けて、真っ暗な玄関を進む。灯りは点けなかった。まっすぐ進みダイニングにたどり着く。ソウタはいつも腰かけている椅子に腰を下ろして、膝を抱えるようにして丸まった。
昼食は遅めに摂っていた。食欲は薄かった。時計の針は午後六時を越えようとしているところであった。
――これからどうしてくれようか。
何する気力もなかった。ソウタは虫のように丸く小さくなって、暗いイニングでしばらく過ごしていた。自身の小さな鼓動だけが、時間の経過を教えてくれるようであった。
――明日になれば、明日になれば。
呪いのように、ソウタは胸の中でそう唱えていた。まるで明日なんて来ないと確信しているがために、そう繰り返すしかないと諦観しているように、心の隅で祈っていた。
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