14ー蝶ー
ミノルからの連絡は、前日土曜日の夕方にあった。
バイトの最中であったが、合間を縫ってメッセージを確認し、簡潔に返信も済ませた。
岡崎公園で催される蚤の市に、十時半ごろから行ってみようとのことである。先日、彼の家に訪ねた際に、その約束を聞いていたので、予定は真っさらに空けている。断るはずもない。蚤の市はミノルの趣味である。ソウタには用はない。ただ、人混みの中に紛れるには嫌いではない。家に居る方がソウタにとっては無為に思えていた。
モーゼルの客の出入りは多かった。近所の洋菓子店より仕入れているケーキも午後五時を前にして完売となっている。コーヒーとともに甘味を味わいたかった客に対して、ソウタは幾度も頭を下げていた。
それでもバイトは滞りなく終わった。コーヒーの抽出だけは佐伯の領域だが、皿洗いや軽食準備、机の片づけ、清掃――そういった仕事はこの半年間にしっかりと仕込まれている。
久しぶりに母の顔を見たような気がした。ちょうど、夜勤から帰ってきたところであった。玄関を鍵が開き、無言のままふらふらとリビングに現れた。カマキリのような尖りのある表情で、ああそういえば、こんな顔だったとソウタは思い出した。
ただいまなどのやり取りはない。母は半眼で見下ろすような視線を向けて、「何かあった」と尋ねてきた。ソウタは一瞥だけして「別に、なにも」とだけ返した。母はそのままシャワーを浴びて、寝室に入っていった。夜勤明けである。すぐにでも眠りにつくのだろう。冷蔵庫に貼ってある予定表を確認する。今日の晩も夜勤を入れている。寝て起きて、支度を済ませればすぐに出勤する。そんな生活サイクルなのだろう。ソウタと噛み合うはずもない。ただそれでも母である。バイトから帰ると、がらんと広がる食卓の上に、一週間分の食費として一万円が用意されていた。
土曜日はバイトの時間まで、ソウタも自室に籠って、スマホをいじるなりして午前中を過ごしていた。同じ情報、同じ音ばかりを繰り返すのは、どこか心地よさを覚えた。チカチカと光るスマホの画面をぼうと、文字も絵も拾うわけでなく、流れる音も聞くこともなく。ただただ情報の波に身を任せるだけである。しかしそれだけでも、時間は確実に進んでいく。午後からのバイトでよかったとも、感じていた。
その日の夜は、自室の椅子に腰を掛けて、膝を抱えて丸まっていた。バイトに失敗をして叱られたわけではない。面倒な客に絡まれたわけではない。ただ帰り道に夜風に吹かれるたびに胸の内が、やすりがけをされるような心地がした。――これでいいのかな。このままどこに向かうのか。面上げて正面を見る。
目に入るのは街灯のマンションの共用廊下の白い蛍光灯。真っ暗の闇の中では目を刺すようであり、膝を抱えながらも、ちかちかと目の奥が明滅しているようだった。今の生活に不満があるわけではない。食う寝るが確保されている生活を送っている。それだけで十分じゃないかとは、高校の第一志望に落ちた際によく聞かされた。ただそのまま、どこまで歩み続けなければならないのか。ずっとこのままなのだろうか。そんなどうにもならないことばかりが頭の中をぐるぐると巡り、そうしている内になかなかの時間が経っていた。
日曜日になり、ミノルからの連絡通りに、岡崎公園へと向かった。春らしい薄曇りの天気。雨の気配はなかったが、ソウタはショルダーバッグに傘を忍ばせていた。
東山駅より白川を越えて、神宮通より北へと向かう。真正面に赤い大鳥居がそびえている。この道そのものが参道であり、真っすぐ平安神宮へと繋がっている。
疎水にかかる橋を渡る。つつじが赤白の花を咲かせていた。そしてふらふらと蝶が待っていた。白い羽は紋白蝶か。ソウタは橋の欄干に手を置いて、自由に舞い飛ぶ蝶をぼうと見やった。
――小学校の頃に林間学校で花背の青少年の家に行ったんだけどさ。夜中にトイレ行ったらモスラみたいなのが座った真正面にいたんやけど。それはまあもう、アレよ。アレ。叫びたいけど、叫べないし、どうしたもんやろうってヤツでさ。デカいし、毛はふさふさだし。腹とかぶにぶにしているしでさ。背後とかにも虫がうじゃついているんやないかって。おちおち用も済ませられんてさ。そういえば、モスラって、クジャクしかり、カワセミしかり、カブトムシしかりでさ、アレよ、ああいう派手なのってのはさ、やっぱりオスだよね。大地母神みたいに描かれて奉られているやん。けどさ、あの羽はオスやんな
生物の授業の後にだらだらと無節操に喋るユメミを、ソウタはっ辻の周りをひらりひらりと飛ぶ蝶を眺めながら思い出した。その時はソウタは苦笑いを浮かべながら、ユメミの喋りには雑な相づちをうって流していた。
つつじの花に紛れてひらりひらりと舞っていた蝶は、ひとたび高く浮いたと思えば、草木の中へと潜り消えて、離れたところからひょっこりと飛び出すを繰り返していた。
そういえばと思い、スマホの画面を確認する。金曜日の夜に送ったメッセージについてである。ソウタがスタンプの返信をした後、既読もついていなかった。一方通行なやりとりに思うところがあった。改めて確認すると、既読の文字が記されている。ただ新たなメッセージが来ているわけではない。
――まあ、そういうヤツだよな。と鼻で息を吹いた。
いい気なもんだと、ソウタは欄干から手を放して、大鳥居から平安神宮の石碑に向かって歩を進めていった。
近代美術館に京セラ美術館、図書館と行政の文化施設が並ぶ通り。人は多かった。日差しは弱く、吹く風に冷たさの芯を覚えるも、身体に堪えるほどではない。街路樹はいよいよ青みを増している。着る物も長袖とはいえ、ダウンやコートではなく、すっかり薄くなっている。
二条通りの信号を渡り、「平安神宮」と石碑の前にたどり着く。左近の桜と右近の橘の神紋が施されているとは、まさにミノルから聞いていた。
当のミノルは未だのようであった。――珍しい、と息を吐いて、最寄りの街灯の柱に背を預けて、スマホを取り出した。ミノルからの連絡はなかった。これも――珍しい、とソウタは首を傾げさせた。
人通りは多かった。晴れてはいない。それがちょうどよかったのかもしれない。雨が降るような気配はなく。風は穏やかである。薄手のコートを羽織りながらも、歩くのにはちょうどいい。
杖をついて歩く老人に、駆けていく子どもたち。腕を若いカップルも入れば、ベビーカーを押す夫婦の姿もある。視界は行きかう人で先まで見通せないほどだ。二条通りをみやれば、自転車とともに緑に黒と色とりどりのタクシーが走りいく。
ミノルとこうして外に遊びにいくのは、中学の頃からしばしばあった。集合の五分、十分前を意識して場所に向かうも、季節に合わせた着物姿のミノルが必ず居た。なんなら、関係のなく話しかけられている最中であったりする。女ものの華やかな着物を、それに合わせるように化粧をして、髪をウィッグなどで整えて、完璧主義な彼らしくおめかしをかっちりと決めてくる。背を丸めた老婦にも、なんなら大学生ぐらいの男からも声をかけられていた。「これから時間はありますか」と。
女ものの着物を愛しているが、彼は女装家のつもりも何もない。奥域のある低い声に驚き、郷里を取られるのが常だった。たまにむしろ興味津々とばかりに質問を重ねてくるような者もいたが、ミノルは頬を引きつらせながら、優しく答えていた。その様も、首を傾げさせて咲く花のように様になっていたのをソウタは覚えている。
「すまんな、遅くなった」
黒いセダンが停まるや着物姿のミノルが現れた。黒の着物に鉄紺の羽織を羽織っている。男物の着物であった。がっしりと硬さのある体格が誂えられたように整っている。
スマホで時刻を検めると、確かに十分ほど集合時間から経っていた。
「どうにもやっぱり、似合わなくてな。新緑の季節だ。色も柄も、帯も小物も遊びたい放題だってのに。鏡が見られないんだよな」
くしゃと表情を歪めさせながら、ミノルは言った。この前にミノルの自宅を訪ねた際、そんなことを言っていた。実際にぎりぎりまで試してみたのだろう。
「なに、カネはないけど、時間は売るほどある。気にすんな」
ソウタは手を振りながら答えた。どうすれば彼の気が休まるか。それが気がかりだった。ただ、「気を遣わせてすまんな」と、気遣いはミノルにお見通しだった。
「われ童子の頃は語ることも童子の如くってヤツかな。やっぱり、身体がこうなってしまっては、どうしようもない」
どこか寂しさを含ませた笑みでミノルは言った。ソウタと比べて拳一つ分大きな背と、やや厚みのある身体つき。ソウタには彼には尊敬しかなかった。
「まあ、ここでくさくさしていたもしゃあない。じゃあ行こか」
言いながらミノルが首を振った。テントがならぶ蚤の市が広がっている。皿や椀、くすんだガラス細工や、色褪せた時計、人形、椅子、書籍。甲冑具足まで飾られている。テントごとに店構えが違い、棚組みも変わっている。
「やっぱり、古裂か」
「そうやな。着物と帯――あとは小物が見たいかな」
平安神宮が目と鼻の先に控えているが、ミノルは眼もくれずに、ぐるぐると蚤の市の各店構えと棚に並ぶ品々に見回っていた。ソウタは彼の後についていく。
手足の欠けた仏像に、ウズラの卵のような器。ブリキの玩具とともに、コカ・コーラのガラス瓶、すっかり褪色してしまった――土塊も置いてあった。「瓦やね。ぱっとみだと、元興寺やろうかね」と淡々とミノルは応えた。風が吹けば飛んで行ってしまいそうなほど軽い口調に驚いた。
「そんなモノまで売っているのか」
「売れるモンなら、何でも売るやろう。なんせ蚤の市やからな」
「ああいうものは、博物館行きかと」
「博物館はいっぱい持っとるやろ。それに必要ならカネ出して買うだろうさ。そのための予算なんやから」
東寺の弘法市や北野天満宮の天神市にも、ミノルに連れられて見回ったことを思い出す。その頃も目を見開いて驚くような物がガラクタと同じように売買されていた。幾度見ても、ソウタは身を引かせるような驚きであった。
古着の並ぶテントにミノルは立ち止まり、懸けられた着物を確認していっていた。ソウタも同じテント内にある小物を見て廻っていく。
「え、これ、江戸後期の化政の頃でしょ。形は良いし、味もの良いけれど――」
覚えのある声だった。ソウタが振り返ると、髪の薄い老人に向けて、ミニのデニムスカートと白いアウタージャケット。染めた色がまばらに混じった髪をくるりと簪でまとめた後ろ姿――ユキカが鼈甲の櫛を手にしていた。
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