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13ー夜道ー

 バイト先の厨房は狭かった。お腹の弛んだ老年のマスターとすれ違うのも、お腹を引っ込めてようやくなぐらいである。


 業務用の冷蔵庫に見下ろされるような心地を覚えながら、ソウタは手のひらほどのマイセンのティーソーサやカップを洗っていた。彩あざやかや草花が描かれた磁器――この一枚で数万円すると聞いている。バイトを始めてから半年が経った今でも、緊張感の下、ソウタは慎重に手に取っていた。


「後は、机と床の拭き掃除をお願いね」


 白髪の混じった髪を結わえまとめた老年の店主――佐伯がコーヒーマシンのノズルを外して、湯に潜らせながら声をかけてきた。淡々とした口調だった。「かしこまりました」とソウタも落ち着いて返事をしつつも、シンクに溜まった食器類を先に片づけた。「あと、表の看板もひっくり返しておいて。時間までは未だだけど、今日はもう来ないでしょ。お客さん」


 阪急の洛西口より徒歩十分。イオンモール桂川からほど近くに設けられた喫茶店モーゼルは、客席二十もないような小さな店だった。ただモールからの流れや近所の方々がふらりと寄ってくるため、それなりに賑わっていた。


 ただ夜七時も過ぎれば、もう客は来ない。五名ほどの客が残っていたが、しばらくカップに口をつけていない。しばらくすると各々が徐に腰を上げて、会計を済まして店から去っていった。


 赤いテーブルマットを敷いたテーブルがしっとりと並び、艶やかさすら感じる木目調のどっしりとした椅子が据えられている。


 シンク回りを軽く拭いてから、キーコーヒーのスタンドライトを切り、表の扉に下がっている看板を「CLOSE」となるようにひっくり返した。


「いやあ、いつも助かるよ。一人ではどうにもならないからねえ」


 机の拭き掃除に切り替えて、ぞうきんを片手に暖色の灯が照ったフロアに出ると、佐伯の声が聞こえてきた。バイトに顔を出せば、必ず言われる言葉でもあった。


「いえ、こちらこそ、雇っていただき、ありがとうございます」


 ソウタはいつもと同じ返しをした。


 佐伯と同じく、彼の妻も老年であった。その上、昨年夏に大病をしたそうで、店にでることが辛くなった。そのためアルバイトを募集し、日中は子育てを終えた中年の女性をパートとして、閉店作業を含めては、ソウタを雇ったと聞いている。


 時給千円で週に十時間ちょっと。それだけでもいいと佐伯は受け入れてもらった。これで弓道の月謝と消耗品に加えて、遊ぶカネに十二分に賄える。


――何より独りぼっちの家に帰る時間も遅くすることができる。


 掃除機をかけて、水切りラックに立てかけていたマイセンのソーサーやカップを乾いた布巾でさっと拭ってから、指定の食器棚へと片づけていく。口を噤んだまま、考えることなく、手と身体を動かしていれば済む仕事が、ソウタは好きだった。その間、佐伯はキャッシャーから現金を取り出して、売上精算として鉛筆と電卓で格闘していた。


 二十時前にソウタに任されている閉店作業を終わらせる。


「お疲れさん。これ、持って帰りなさい。今日までだから」


 イチゴのショートケーキの一切れが紙皿に乗っていた。セロファンは巻かれたままで、佐伯は洋菓子屋から分けてもらっていた包装箱を取り出していた。


「よろしいですか」

「天引きもせえへんよ。もったいない。ただそれだけや」


 慣れた手つきで箱を直して、ケーキをそっと中にしまい込む。封をすると冷凍庫から保冷剤を取り出して、ビニール袋に包装箱とともに入れ込んだ。


「はいよ。明日も頼むな」

「ありがとうございます。明日は二時からよろしくお願いいたします」


 支給されたエプロンの紐をほどいて、代わりに制服の上着とカバンを手に取った。扉前で、佐伯と店に向けて深く一礼をしながら、挨拶をして――ようやくバイトが終わった。


――晩御飯、どうしてくれようか。


 ショートケーキの入ったビニール袋を見つめながら、そんなことを考える。この格好でイオンモールの総菜コーナーに立ち寄るのは、どこか気が引ける心地があった。


 冷蔵庫の中は朝食の総菜パンと牛乳、ヨーグルトぐらいしか覚えていない。父は不在。母も昼夜ともに仕事先の病院で済ましている。引っ越しのタイミングで買った500Lの冷蔵庫はスカスカでまったく活かせていない。


 空は真っ暗であった。雲が出ているためか、星や月は見られなかった。点々とならぶ白い街灯を頼りに、黒いアスファルトの上をだらだらと歩いていく。


 吹く風はどこか微温く、春らしい中途半端さがソウタの気に障った。


 コンビニの弁当にするか。通り道を少し広げれば、弁当屋があったような気がする。


 信号機の緑が明滅している。ソウタは足を止めた。高架が直線に伸びている。目を突き刺すようなハイビームで道を照らし、赤いテールランプの跡を残すようにクルマが過ぎていく。ごうごうと猛音をたてながら阪急電車が高架を走っていた。


――メンドクサイ。もうメンドクサイ。


 どこに焦点を当てるわけでもない。ぐるぐると無為な思考がぐるぐると回っている。ハムスターに与えられた滑車のように思えてたまらない。


――ああもう、どうでもいいや。


 信号が切り替わった。最後の一台が猛スピードでソウタの前を走り過ぎ去っていった。阪急の高架の下を通り抜ける。ここから先はさらに光は乏しくなっていく。ソウタは空き手で頭を掻きながら、歩を進めていく。


――それでもひとは はらがへる こころのなかに すきまができる……


 こんな時ばかりに、ふいに関係ない言葉がするりと出てくる。これもソウタには腹立たしかった。


――もうどうでもいい。レトルトのカレーでいいか。


 それでも腹は空いている。高架を超えた先の道は、街灯の感覚は長くなり、アスファルトはところどころ隆起し亀裂が走りとがたがたであった。


 慣れた道である。飽きた道でもあった。ただわき道はない。この道をだらだらとまっすぐ行った先に十階建てのマンションがある。共用廊下の白い蛍光灯が横線として整列されて灯っていた。冬はとうに過ぎている。桜も散っていよいよ緑葉の時期というのに、夜闇に浮かぶこの白い列がとても乾いて見えた。


――どうしてくれようか。


 肺腑に溜る澱みを吐き出すように、重い息を吐きだす。薄くちぎれた雲に月も星も見えない夜空に冴えはない。ポケットに震えを感じた。スマホを取り出してみる。液晶の灯りが目を刺してくるようだった。


 ユメミからのメッセージだった。「月曜日は早く来て」とだけ記載されていた。多弁を弄する癖に、こういう処はイライラするからと必要最低限しか送ってこない。――勝手なヤツ。とソウタは案の定な彼女のメッセージに目を細めた。


――もう、帰るのか。


 放課後なった際に、荷物をカバンに押し込めて立ち上がるソウタの制服の上着の裾を、ユメミが掴んできた。無造作な長い髪の裏に控えた細い瞳。ソウタの顔を見上げてくる彼女の視線には、ほつれ糸のような脆さがあった。


「これから学年主任と対決してくるんやろ。それにこっちはバイトがあるし」

「それはそうやけど」と、担任の南川だけではなく、学年主任まで出てきたことに、昼食時は粋がっていたが、時間が経つことでさすがに後悔を覚えたようだった。勇ましさは溶けて消えてしまっているようで、ユメミの表情は沈んでいる。


「愚痴なら週明けにきいたるから」と言い残して、ソウタは教室を出ていった。「約束やで」とユメミの声が微かばかりに聞こえてきたのを覚えている。このメッセージはその督促なのだろう。「はいはい」とつぶやきながら、了承のスタンプを返しておいた。


 自らの意に反するならば、直接立ち向かっていったユメミを、ソウタは素直に羨ましいと思っていた。自身にその体力も勇気もないと割り切っていた。狂犬のように喰ってかかるさまは幾度も見ている。その巻き添えで面倒ごとの仲裁や後始末にまわったことも指折りでは済まないほどである。


――だからこそ、アレはイジメだなんだとは無縁なんだろうけど。


 ただ、激情のユメミを宥め、あるは諫めて、クラスメイトや教師陣に事態を説明してまわっている際は、果たして自分は何しているんだかとの言葉と溜息しか出てこない。思い返してみても、ユメミに振り回されているだけの自分自身ばかりが浮き上がってくる。


――ホント、何しているんやろうか。

――バカバカしい。情けない。しょうもない。弱いやつ。惨めなヤツ。


 ぼそぼそと耳奥でささやく声が聞こえてきた。振り返ってみても、黒いアスファルトに点々と白い灯りが照る道があるだけで、人っ子一人いやしない。


 爪を立てて頭を掻き、とにもかくにもと家路を急いだ。春の夜にふさわしくない、乾いた風が自分をおかしくさせるんだ。そう思い込むことにした。


 マンションに入り、エレベーターで8階まで上がる。風が舞い込む共用廊下。少年が一人、塀に手をかけて、雲だらけの夜空を見ていた。今朝ほども見かけた少年であった。表情に色はなく、半開きの眼に半開きの口で、ただただ風を受けて居るだけだった。


「どうした?」


 思わずソウタは声をかけた。白い蛍光灯に照らされた少年の顔は、どういうわけだか、ソウタには土気ばんでいるように見えた。


 少年は首を傾けて、ソウタを一瞥した。一瞥だけして、視線は夜空へとすぐに直した。


 遠くへ。ひたすらに遠くを眺めているようだった。


 震える心地があった。それが夜風のせいか、少年の顔のためかはわからない。


「早く家に帰りなよ」


 言い訳のように声をかけて、少年を超えていく。数歩進んでは首を傾けて、少年を見やる。彼は塀に手をかけて、空に視線を向けたまま、微動だにしていない。風を受けて、髪が僅かに流れているのを見て、ようやく安堵――とともにますます心内にざわめきが膨らんできた。


――赤の他人。気にする方がおかしい。


 被りをふって、自宅の玄関を開いた。細く真っ暗な廊下があった。靴を脱いであがり、カバンを自室に放り込み、ケーキは冷蔵庫の中にビニール袋ごと入れた。冷蔵庫はやはりスカスカで、白い内壁ばかりが見えている。


 ダイニングにだけ灯りを入れて、椅子に腰かける。制服の上着もそのままで、しばらく深い呼吸を繰り返す。


 真っ暗なリビングが視線の先には控えている。しばらく誰も座っていないだろうソファに、真っ黒な画面ばかりの大型テレビ。音もなく、何もない。


 疲れているのか。はたまた他の因があるのか。ソウタはしばらく動けなかった。リビングとは名ばかりなこの虚ろな空間を前にして、ただただじっと身じろぎもせずに、見つめるだけしかできなかった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。

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