11ー白昼の声ー
始業のチャイムとともに、担任の南川が教室に現れた。初々しさすら残る皴のないスーツ。タイトスカートから伸びる脚にも、ソウタは無意識的に目がいってしまっていた。そんな自分がバカらしく思えてならなかった。
皴だらけの進路希望調査書をカバンから取り出した。南川は挨拶もそこそこに、提出を求めてきた。
ばらばらとクラスメイトが紙切れを片手に立ち上がり、教壇の上に置いていく。リョウジやミスズ、コトノも提出していっていた。ソウタは重たい溜息を吐いて立ち上がり、まぎれるようにして提出をした。南川の顔は見なかった。――どうせ、気にしてもいまい、との確信が心の中にあった。
ユメミはずっと席に座っていた。
「出さないのか」
戻りかけにソウタが尋ねる。ユメミは窓の外ではなく、廊下側の、コンクリート剝き出しの壁に顔を向けていた。
口を噤んでいる。一瞬だけ、視線をソウタに寄越した。そして、ふんと鼻息を吹いて、また壁に視線を送る。
ほかにも未提出の者がいるようだった。南川は「忘れたならば、予備の用紙を持ってきますので、放課後までには必ず提出してください」と丁寧な口調で発した。声色は清澄であった。ソウタにはそれがとても軽々しく聞こえた。
伝達事項を事務的に発して、南川は教室から出ていった。途端に、ざわざわと教室が蠢きだした。彼女に威厳があったとは、ソウタは思えない。童顔で甘さが障るような声。クラスメイトが静かにしていたのは、めんどくさいだけだったような気が、ソウタにはしていた。
「どうするんだ」
軽く振り返り、ユメミを覗く。彼女は次の授業である数学の教科書を開いて、頬杖をついていた。
「どうもこうもせえへんよ。後で直接、手渡ししてくるだけや。南川に勝負や」
研ぐような言葉であった。
「またそんなことして。面倒は嫌いなんだろう」
「嫌いも嫌い。大嫌いや。でも、この面倒を避ければ、もっと面倒になるんは見えている」
ユメミの声には確固としている。
「なら戦ってどうするんや。結局は、自身のことなんやろう」
「知っとるよ。自身のことだから、だからこそ私は自分で決めたいんや」
そう言いながら、ぴらぴらとユメミは指で挟んだ自身の進路希望調査書を振って見せた。欄はすべて空であった。ソウタはユメミの細い眼に不敵な尖りを覚えた。さきほどユキカにしつらえてもらった、白を基調にした薄紅の桜を描き込んだネイルが鮮やかであった。
「先のことなんて、成るようにしかならへん。だから選択肢は、できる限り私が選ぶんや。煙草の煙は戻らない。マッシュポテトとケチャップを混ぜてしまえば、二度と分離はできない。一度選んだ選択肢は、もう元には戻れはしない。並行世界も、別世界の私も、そんなの在りやしない。あんなの嘘や。何が量子力学や。たとえマトリクスの裂け目の向こう側に滑り落ちてしまったとて、それは私足りえるのか。コギトの思考の慣れの果てやないか。もし誤ったとしても、それは疑いようの余地もなく、自分の正なんだと、確実にそれでも自分が選んだ道なんだと、そうするために、私は私が選びたいんや。東大も京大も関係あらへん」
やがて数学の教師が教室に入ってきた。ソウタは姿勢を正して、教科書とノートを慌てて取り出した。進路希望調査書は、もう過去のこと。そしてユメミのことはユメミが決まることとして、この授業に意識を絞ると決めた。
幸いなことに、数学は未だ何とか追いついている。虚数というモノに対して、まるでわけがわからなかったが、とりあえず言われた通りに処理を進めていき、今のところ、ソウタは、数学の評価として赤点は免れていられている。
――でも、これを大学で学ぶって、果たして何をするのだろうか。
板書と教師の言葉を適当に拾うようにペンを動かしながら、ソウタは授業を受けた。頭で覚えるのではなく、身体で覚えさせる。反復によってこそ。実際にそれで、一学年期末も赤点一つなく過ごせている。
――なんと意思のない。
そう自嘲が思考を過る時も確かにある。だからといって、意志を強く持ったところで空振りをして痛い目をみた記憶は濃くある。
――そうでなければ、自分はここに居ない。
その言葉が肺腑の底より湧き上がってきた。同時に身体の内側から寒気を覚えた。
教師は教壇に両手を置いて、生徒の方を向いて何か口を動かしている。しかし、ソウタの耳には何も入ってこない。自身の脳裏を沸いた言葉が澱となってコロコロと転がり引っかかっている。
眉間にしわが寄っていた。
――虚しいだけ。愚かなだけ。
そう言って、澱を失くしてしまおうと試みる。
――意志のない奴。弱い奴。情けない奴。
失くそうと思えば思うほどに、右から左から、上から下からと声が聞こえてくる。誰の声なのか。掠れた感じはユメミに思える。墨田やユキカの声も混じっているか。思えば、その声に寄っていく。父の声にも母の声にも、ソウタ自身の声にも聞こえていた。
――ではだれの声でもないのか。
右手で頭を掻いていた。爪が皮膚に抉り込むようにして、何度も何度も掻いていた。
そうしている内に数学の授業は終わっていた。くらくらと揺れる頭を堪えながら、ソウタは教室を出ていった。
トイレで顔を洗い、腹の底から息を吐き出す。面上げて鏡を見やると、顔にたたきつけた水がしたたり落ちている。――情けなく、何度見ても不細工な顔。蛍光灯の光のせいか、一層青白くみえている。
ソウタは眉間の皴を深めさせた。ポケットからハンドタオルを取り出して、表情まで擦り消すように、水気を拭い取った。
「おい、大丈夫か」
トイレから出てみると、リョウジとミスズが居た。リョウジは馬みたいな長い面をのぞき込むように近づけてくる。
「稲富さんが、心配そうに話しかけてきたもんやからさ」
「ほら、頭抑えながら、ふらふらって出ていったから。顔も真っ青だよ」
ミスズもじっとソウタの顔を覗き込んでくる。ソウタはタオルで顔の半分を隠しながら、「ありがとう」と小声で返した。頬のあたりが熱くなってくるのがわかった。
「保健室、付き添う?」
石鹸のような香りが鼻を擽る。ミスズの柔らかに整った顔立ちが近くにあった。上目遣いで、眼元のほくろがよく見えた。
「いや、大丈夫や。ただの寝不足。平気や、平気」
背を反らせて、両の手を振りながらソウタは答えた。「そう」とミスズは小さく呟いてから、「ならいいけど」と下から覗き込むような姿勢のまま、首を傾げさせる。
「そろそろ時間や。教室もどろか」
ソウタはこめかみの辺りを押さえながら、歩み始めた。
「本当に大丈夫?」
改めてミスズが覗き込んでくる。
「次の授業でちょっと眠れば、なんとかなるやろう」
ソウタはミスズに引き攣った笑みをみせながら、廊下を進んでいく。次の授業は日本史の人見である。机に突っ伏していたところで、あの教師が気にするとは露にも思えなかった。
教室に戻り、席につく。「お、よう。平気か」と後席のユメミが声をかけてきた。「平気や」とだけソウタは返しておいた。
「アレか。夜更けまで悩んでおったんか。アレやぞ。無理しない、怪我しない、明日も仕事。コレ。これこそ要の理念やねん。それにな、自分の内側を見つめても、まっさらでなんもあらへんよ。中心は常に空洞や。深淵なんて、カッコいいもんもあらへん。空っぽや。なんもない。ほれアレや、アレ。ドーナツやで。ドーナツはアレや、カロリーゼロや。カロリーのないもんは何の足しにもならんのや」
くつくつとユメミの変な笑い声が聞こえてきた。さしずめ、チェシャ猫のごとくの表情をしているのだろう。ソウタは笑えなかった。先ほどユメミはあまりにも意志強く言葉を放っていた。そして、諧謔を交えてのこの言いようである。いっそう、くらくらと頭が揺れるような心地があった。
ややもすると、人見が教室に入ってきた。あいかわらず俯きがちで、猫背にひょこと首を突き出した姿勢。教壇の前に立つとかくんと首だけ動かしての礼をした。
そのまま教科書を開き、人見は黒板の方に身体を向けて、板書を始めた。ソウタはじりじりと傷みが響く頭をおさえながら、机に立てた教科書の影に隠れるようにして、突っ伏した。人見の言葉は念仏よりも眠気を誘うものであった。
「新見君。大丈夫かね」
眠ることはできなかった。頭痛がずっと響いていたのと、それより先に人見に声をかけられた。抑揚なくだらだらと教科書を読むだけの筈が、この時ばかりははっきりと音が拾えた。
「辛いのなら、保健室に行きなさい。まず君の身体に障るし、こちらも気が気でない」
そう言われてしまっては、身体を起こして授業を受けるか、教室から離れるかの二択しかない。ソウタはちかちかとする眼を擦りながら身体を起こして、「平気です」と小声で応えて、授業を受け続けることにした。
鎌倉末から建武の新政が終わり、足利義満と花の御所についての話を人見はしている。室町幕府としての場が設けられた足利尊氏邸も花の御所も、今は碑と址が僅かに残るだけであるとのことを、相変わらず抑揚なく、板書しながら黒板に向けて話していた。
痛みが響く頭を時おり撫でさすりながら、それでも授業を受けた。嫌に長い一時間に思えた。
チャイムが鳴り、人見が教壇で礼をして去っていく。ようやくの心地であった。このまま昼休みまで、やり過ごす。だらだらと、しかし確実に時間は前に進んでいく。深くゆっくりと深呼吸をしている内に、痛みはまぎれていくような気がした。
そのまま昼休みの時間となった。食堂に行こうと腰を上げる。その脇をすっとユメミが通り過ぎていった。手には進路希望調査書があった。
「昼メシはどうするんだ」
「先に行っといてや。ちょっと、南川の所に行ってくる」
無造作に伸ばした黒髪にだらしなく着こんだ制服。くったりと丸まった姿勢の彼女だが、ソウタには嫌に力強く見えた。
「じゃあ、食堂で」
ソウタはそう返す。ユメミは手を振りながら教室を出ていった。
「ねえ、新見君。だいじょうぶ?」
そっとミスズが鈴の音のような声をかけてきた。眉をひそめて、じっとこちらを見ている。
「ありがとう。落ち着いてきた。これで昼メシ食べれば、何とかなるやろ。心配かけさせてゴメンな」
財布とスマホを確認しながら、素直にソウタは礼を言った。「それならよかった」と、ミスズの表情がふわりと鼻のように綻んだ。
――バイトもあるし、今日はローギアでやり過ごそう。
「ねえ、お昼、一緒にしない」
ミスズからの突然の提案にソウタは眼を丸くした。
「せっかくだから、さ」と続けられて、ソウタは頷くしかできなかった。
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