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10ー無色の朝ー

 特に何もない、朝であった。


 くらくらする頭を掻きながら、ソウタがリビングに入る。当然のように誰もいなかった。父は海外へ単身赴任。母もまだ夜勤先だろう。やかんに水を入れて、コンロに火を入れる。


――さてどうしてくれようか。


 カーテンを開ける。北側窓な上に、手を伸ばせば届きそうな近さに別のマンションが設けられている。朝でも昼でも、八階のこの部屋は仄暗い。十五畳ばかりあっても、畢竟、使うところは、キッチンに程近いダイニングテーブルぐらい。三十二インチのテレビも、二人掛けの皮ソファーも、高校に入学してから一度も使っていない。


 インスタントのコーヒーにミルクと砂糖を入れて、冷蔵庫の中の菓子パンを一つ。ソウタのいつもの朝食である。もそもそと食しながら、さてどうするか、と息を吐いた。


 カバンの底からくしゃくしゃになった進路希望調査書を取り出していた。提出せずに無視を決め込められるほど、自身は強くない。そのことに鉛のような溜息を吐いていた。


 父にも母にも、誰にもこのことを言っていない。自身の将来は自身で決めるとか、そんな殊勝な心意気があるわけではない。


 この一週間、両親の顔は見ていない。真っ暗な家に帰ってきて、誰にも声をかけずに晩御飯を食べて、眠りに入る。起きても、誰にも挨拶しないまま、支度を済ませて、誰の顔を見ずに学校に行く。慣れた生活である。


 べったりとした甘さの菓子パンはすぐに食べ終えた。コーヒーもいつの間にか、空となっていた。洗い物を済ませて、自室に戻っていく。


 網戸の向こうに格子が設けられている小さな窓が西側に設けられている。マンションの自室とはいえ、八畳はあるだろう。机とベッドと、クローゼットに書棚。越してからほとんど動かしていない。増えたのも、弓具ぐらいか。昨日、帰宅後に洗濯機に放り込んだ道着をハンガーでつるして干している。ついでと学校してのシャツや運動着も洗濯機でまわしていたので、それらも適当にひっかけて干していた。


 机に広げた進路希望調査書に、改めて相対する。三つの欄はどれも空のままである。書いて消した痕もなどもない。これを前にして何かを書こうとする気もまるで起こらなかった。なので、ペンすら持っていない。


 未来はなるようにしかならない。それをソウタは痛感している。


――意志が弱いんだよ。

――肉体が精神を凌駕する。意思の勝利だよ。

――その意思を叶うように、自身を追い込んだかい。努力したのかい。


 ユメミの声か。それにしては掠れ声のほかに濁れてしゃがれた、だみ声も混ざっているように、ソウタの耳奥に響いていた。


――歴史とは未来への補助線である。過去の点を抑えて、今へと線を引く。そこから未来の方向が見える。


 ぼそぼそとした抑揚のない声も聞こえてきた。


――過去の点は変えられない。未来を変えたいなら、今の点の位置を変えるしかない。


「うるさいな」


 声が出ていた。傷みを感じるほど爪を立てて、がしがしと頭を掻いていた。


 ままよ、とばかりに積んでいた紙の中から、三月末の全国模試の結果書を取り出して、そこに書かれている大学名を、書き写していった。どこに設けられた、どんな大学の、何学部であるか。それも無視をした。適当に書いて提出すればいい。それしか、ソウタに考えはなかった。


 殴り書きで、自分でも読めないような文字が記載されている。是で好しとした。書き終えた勢いそのままにカバンに押し込んで、家を出た。


 西空を望む長い共用廊下。そこにはランドセルを負った少年がいつも一人、ぼうと空を眺めていた。黒い短髪に、すこしこけた頬。ただ服装や身だしなみに乱れはない。ただぽかんとだらしなく口を開けて、西の空に向けているだけである。ソウタは彼の背面を通り過ぎて、エレベータに乗り込んだ。少年に動く気配は見当たらない。彼はいつもそこでそうしている。


 未だ四月。もう四月。風に暑さが籠っているようにソウタは感じた。上着を脱ぐほどではないが、どうにも背中に汗が流れる心地があった。カバンを片手に駅まで向かう。背広を着た男女、年齢に関わらず、駅に近づくに連れてごそごそと増えていく。足取りは静かで、重たそうにソウタには見えていた。


 洛西口駅より阪急で四条に出る。そこから市営地下鉄線に乗り換えて、竹田駅まで。目を閉じても歩ける、そんなどうしようもない確信に、自身に向けて嘲笑の鼻息を吹いていた。


 京都駅を過ぎた頃より、同じ制服を着た男女が増えてくる。竹田駅を降りる頃には、視界に必ず二、三人は入るようになっていた。


 竹田駅を降りる。近鉄線として、伏見の繁華街へと列車は向かっている。そのため、そのまま乗り続ける者は多い。それでも京セラといい企業もそれなりにあるために、背広のサラリーマンと、ソウタと同じ制服の男女がだらだらと降りていく。


 高架がどうしても目に入る。名神高速と第二京阪道路のインターが交差している。ソウタは高架の影を頼りに、とぼとぼと南下していく。洛外望都高校は城南宮と名神高速の間に設けられている。


 ばらばらと登校する生徒たちは、或るは制服をオシャレとして崩し、或るはソウタのように無造作に着、或るは七五三のスーツのようにぴっちりと着――同じ制服ながら、思い思いの恰好で歩を進めていた。


 教室はすでに開いていた。数人の生徒の中には、ユメミも居た。


「おはよう。ちょい席、借りているね」


 染めた髪を斑に入ったユキカが、ソウタの席に座り、ユメミの方へと身体を向けていた。

 ユメミは本ではなく、手を机の上に広げていた。その手の――爪に向けて、ユキカが施しをいれいる。


「バイト先のババどもが好きでねえ」


 どうやらユキカにネイルを頼んだみたいだ。見下ろす形で、ユキカが丁寧にユメミの手に細工を入れていた。ただ、彼女のファッションとして、緩めているシャツの胸元も目に入り、白い肌と谷間が覗き見えるようであり、ソウタは眼をすぐさま視線を外した。彼女自身、ネイルはしていない。髪にガラス玉のついた簪を挿して、制服もスカート丈を短く、胸元を緩めるなど手を入れている。ただ、手首にブレスレットやミサンガのようなものもしていなかった。


「ゴメンねえ。あまり凝ったことはできないんやけど。ガチのジェルとか、デコったモンはムリなんや」

「ええねん、ええねん、それは。ちょっとオシャレできているぐらいで平気や。そんなガレとかコトブキヤみたいなもんまで求めはせえへんよ」


 ユキカは眼を鋭くさせて、ユメミの爪を見つめる。ちょんちょんと小瓶から楊枝のような筆を出して、装飾を施していく。


「明日はちょっとね。長丁場で、ジジババの相手をせなならんとなっていてね。無防備の徒手空拳で行くと、もうアレだから。そういうところがホント、アレなんだけどさ。それがアレよ。ちょっとおめかししていくと、それが話題になって相手するんが、すっと楽になるんや」


 代わりとばかりにユメミが口を開いた。ソウタは、自身の机にカバンを置き、ネイルを施すユキカの後ろに立つしかなかった。


「オンナはモンペでいいって旦那さんが死んで、特老に入ったバアさんがおってね。ネイルみせたら、キレイやねぇ、オシャレやねぇって、もうずっとそればっかなんやよ」


 からからと笑い声を立てていながら、ユメミの顔は閉じているように見えた。


「ヘップバーンが好きそうでねぇ。よく『ローマの休日』の話になるんよ。どうにも舶来もんが好きらしくてねえ。でもまあ、十分間で十回同じ話をしなならんのは辛いものがあるけれど。ほらあれよ、あれだそうだから」

「よく相手できるな」

「そら仕事やもの。それに究極的には赤の他人。時間つぶしのお話相手しとったら、おカネがもらえる。それだけやからな」


 口は相変わらず回転するが、彼女自身は冷静そうだった。いや、集中しているユキカの手前、熱を堪えているように、ソウタは見えた。


「はい、できた。でもしばらく触らんといてね。乾かさないかんから」


 ふうと息を吐き、ユキカは額を腕で拭った。ユメミの爪には白を基調にした薄紅の桜を描き込んでいる。ユメミは手を広げたまま、机より頭上に手を上げていき見上げるようにしていた。


「ええやん。キレイや。ありがとうなあ」

「ええって。いつものお礼や。マジ助かっているんやから。それに比べれば、これぐらい」


 珍しくおっとりとした口調で、ユメミが礼を言う。ユキカはポーチにネイル道具を片づけながら、返答した。顔はポーチの方に向けたままであった。ソウタには彼女の顔が僅かに赤みがかっているように見えた。


「私、なにもしてへん。なにもできてへんよ」

「こうやって話してくれる。それでええやん。まあ、その、なんやろうな――」

「アレか、アレ。あの、アレよ。このお礼は、後で精神的にってやつか」

「そうやな。それやな。よろしく頼んますよ」


 ようやくけらけらと軽い笑い声が漏れ出るようになった。


「新見君も悪かってね、席、使っちゃって」


 そう言いながら、ゆっくりとユキカが立ち上がった。


「いや、別にかまへん。珍しいもん見せてもらった」

「――そらまあ、他人にネイルなんて、プロでもないのに、せえへんもんな」


 どうやら、昨夜に相談を受けて、急遽決まったそうだ。ユメミはそういうのに興味がないように見えていたのだが、しっかりと押さえるところは押さえているのだろう。


「でも筧さんはしとらんね。ネイル」


 ボソと漏れていた。ユキカの細内外指の先の爪は、短くきれいに切り揃えられていて、何の色も施しもされていない。


「それはまあ、ね」

「アレよ。骨董を触るからや。文化財を傷つけるわけにはいかんやろ」

「文化財って。でもまあ、そういうことやね」


 そう言いながら、眼差しを細くして、ユキカは自身の指の爪を見つめた。ただすぐににゅっと足を上げた。すらりと伸びた白い脚がソウタの視界を奪う。黒い革靴と白いソックスをツンと突き出すようであり、白桃のような甘い色した長い脚が、どうしても視界に入ってくる。


「ペディキュアはしているんや。観るか?」

「いや、それは結構」


 妙に色をつけた視線をユキカが送ってくる。わかっていて揶揄っているのは、さすがのソウタにもわかった。


「おい、むっつり。濡れたシャツはさっさと脱ぐもんやで。アレやで、アレ。リープオブフェイス。ソープに行けって。こういうしどけなさはいつ嗅げなくなってくるんやから」

「そういうところが、アレってヤツ。ちょっとヤバいっていうかねぇ」

「やかましいわ」


 呆れ半分に声を放つ。苦笑いなのか、照れ笑いか。ソウタは頬の引きつりが気になった。ただ――悪い気はしなかった。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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