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9ー残心のかたちー

 稽古の狭間に設けられている清掃時間。ソウタは竹ぼうきを片手に矢道の掃いていた。桜の花びらとともに、葉も落ちている。矢道の設けられている大きな桜の樹は、もう歳も歳だしと、伸びすぎて垂れている枝の処理などに、弓正会の幹部たちが頭を悩ませているのを幾度も見かけている。


 午後八時過ぎ。コトノは道着姿で現れた。部活終わりに着替えもしないで、着の身そのもままで、新宮八幡神社に向かってきたのだろう。布を巻いた弓を手に持ち、カバンと矢筒を肩に提げ――たいそうな大荷物の姿だか、背筋をピンと伸ばし、迷いなく確かな足取りをしていた。


 ソウタらが掃除している最中に、彼女は道場の神だなと師範に向けて拝礼をして、弓に弦を張るなりの支度をしていた。人数は少ないが、先ずは準備と言われている。それに途中から参加されても、手持ち無沙汰になるだけだろう。そんなに弓正会に与えられている弓道場は広い場ではない。


 射込み稽古が主となっているが、その前に必ず一手、坐射をする決まりがある。


「新見君。オチに入りなさい」


 大岩が師範席より声をかける。ソウタは黙ったまま頷いた。コトノは正座姿で、眼鏡の奥に厳しい眼差しを携えて、弽を嵌めていた。


 ソウタも弽を嵌めて、自身の弓と矢を手に取った。本座に並んで立ち、執弓の姿勢をとる。ゆっくりと首を捻ると、すでにコトノがこちらを見ていた。呼吸を合わせるために、「お願いします」と声を合わせてから、改めて正面を向いた。


 体配は身体が覚えている。いちいち考えたりはしない。ただソウタは確かめるように一つ一つを正確に進めたかった。御前のコトノと呼吸を合わせて――早い、と、ソウタは息を速めた。御前のコトノは正面を睨んで体配を進めているが、呼吸を一拍間つめているようである。ソウタの知る間合いとは違う。


 それでもソウタは、コトノの速さに落ち着いて対処していく。あくまで御前に従い倣う。それを鉄則としていた。


 矢を番えて跪坐で右ひざを活かす。この姿勢で待つ――のだが、コトノはすでに立ち上がり胴を造っていた。チャカチャカと早送りを見ているような気がソウタにはあった。体配のならいに従ってソウタは弓を捧げるように立ち上がり、胴造りに至る。彼女はすでに大三から弓を引き分けていた。


 彼女のペースに合わせる。取り掛けも、打ち起こしも、ソウタは呼吸を詰めて進めていく。――やりづらい。それでも御前に合わせて行射を進める。


 ソウタもコトノも的中はなかった。四本の矢は安土に刺さっている。


「雑や。どれも粗っぽい。――焦り過ぎや。どうした」


 師範席で半跏姿の大岩師範が嘆息しながら二人の評を伝えた。コトノと並んで正座して、彼からの痛い言葉を聞くしかできない。ソウタは俯き口を閉じたまま。どんな言葉も無為な言い訳になると直感している。何も言えなかった。


「的中がでないのです」


 コトノは膝上に硬い握りこぶしを作ってそう答えた。微かに震えているように、ソウタには見えていた。


「結果が求められているというのに、結果が出ない」

「学生弓道の常、やな」


 茶々のような言葉を墨田が言った。大岩がちらと睨みを利かせると、彼はにやついた唇をきゅっと素直に閉じた。


「過程が大事とは言いますが、果たして過程を見れる者はどれほどいますでしょうか。結局は、結果です。的中です。的中がすべてとは言いません。でも的中しなければ何も始まらない。私の負うている責任も果たすことができない」


 コトノの言葉は明瞭だった。


「二年生になりました。その上、部内で私は唯一の弐段持ちです。見本、手本にならなければならないのです」


 きっぱりと確かな口調で彼女はそう言った。顔はまっすぐに師範に向けて逸らさない。恥も照れもない。眼鏡の奥の瞳はあまりにも綺麗であった。


 大岩師範は両眼を閉じて、腕を組んだ。吽と口を噤んで、一つ間を置いた。


「急がば回れという言葉ある。琵琶湖を船で突っ切るよりも、街道に迂回した方が早いこともあるということだそうだ」


 大岩の言葉に対して、コトノは鋼のような厳しさの面もちのままで、睨むように聞いていた。


「結果に焦る気持ちはわかった。ただここで君に中て射を教えたところで、それでよい結果がでるとはとても思えない。ここは迂回しなさい」


 大岩の説きにたいして、「はい」と歯軋りするようにコトノは応えた。端正な顔に深く寄り彫られた皴が、濃い影を生んでいた。


「それと、新見君は琵琶湖を北に迂回しなさい」

「え?」と素っ頓狂な声が漏れ出た。

「松谷君には明確に試合がある。それを無視するほど私も人は悪くない。でも君は、学生弓道ではなく、この道場での稽古を選んだのだろう。なら、北回りや。何、確かに進んでいれば、いずれ京にたどり着く」


――確かに進んでいれば。とはソウタには重く響いた。しかめ面を刻んでいた。


「さあ、考えるだけでは進みません。稽古に戻りましょう」と、パンと手を叩いて、大岩師範は立ち上がり、自身の弽を手に取った。その動きに合わせるように墨田も弽を取り、右手に嵌めた。


 ソウタとコトノはじっくりと立ち上がった。コトノはメモ帳を手に取り、先ほどの言葉を書きこんでいった。


 ソウタは自身の弽を持って、固まっていた。琵琶湖を北に迂回とは、何を言っているのだろうか。大岩師範の言葉にまるで理解できなかった。


――理解なんてものはおおよそ願望に基づくものだ。


 そう言ってほくそ笑んでいたユメミの顔が脳裏を過った。


 弽を装着した大岩が自身の竹弓と矢を手に取って、巻藁の前に立った。ソウタは手を止めて、師範へと視線を向けた。


 未取り稽古として、正座姿勢で、両の拳を膝に置き、じっと大岩の行射を見つめる。


 大岩の竹弓をいちど引いたことがある。いや、ソウタは引くことができなかった。自身の弓よりも強いものを利用しているとは聞いている。ただ、体格、腕や肩回りは、ソウタと大岩で、そんなに変りない。


 矢を番えて、取り掛ける。ふわりと打ち起こしは軽く大三までよどみなく流れていく。妻手肘がゆらゆらと揺れていた。揺れながら引分けが進みいき、矢が頬に着いた。妻手肘はゆらがぎが小さくなっていき、ぴたりと止まった。その瞬間にドンと矢が巻藁に刺さっていた。大岩の残心の姿勢は教本に掲載されているような見事な大の字をとっている。


「見取り稽古も結構だが、墨田さんの言う通り、矢数も大切だからな。今は的中よりも残心を結果として、逆算するように試行錯誤をしてみなさい」


 巻藁に刺さった矢を引き抜く大岩は、視線をくれずにソウタに向けてそう言い放った。


「見取り稽古で、それで再現ができるようなら、それも一つだ。ただまだその手前の段階なのも自覚した方がいい」


 厳しい言葉であった。射場に目を移すと、すでにコトノが射位に立ち、射を放っていた。強張った厳しい表情は、あからさまなほど力が入っている。弦音もドカンと鈍く響いている。


「松谷さんは一回、外れた方がいいかもしれんな。リセットや」


 ぱあんと心地よい的中の弾音を出して、墨田はそう言った。コトノの唇はへの字に歪んでいた。


 ソウタも弽を嵌めて、自身の弓矢を手にした。数と反芻。矢数と試行錯誤。残心を結果として、残心の理想の方と自身の形の差異から修正していく。


――形而上の型は、形となって形而下に表れる。


 射位に立ち、大三から引分けに入る中で、ごちゃごちゃと声が脳裏に響いている。もはや誰の言葉かわからない。


――弱い奴。情けない奴。どうしようもない奴。負け犬。


 ぼそぼそと壊れたラジオのように素直と混じりに耳の奥で鳴っている。表情には出してはいけない。ソウタは前歯を唇で刺して堪えた。引き分けに至り、妻手肘を意識する。


――而して弓手三分の二弦を推し、妻手三分の一弓を引き……。


 射法訓を胸の内で強く詠じて、矢道の先の霞的に焦点を絞る。しかし、じりじりと滲み始め、二つ、三つと的が分裂しだした。


――離すでなく、離されるでなく、離れる。


 引き分けより矢が頬に着いた。誰の言葉だったか、会に入ってそんな言葉が脳裏を過っていった。


――”それ”が離すのです。

――神前礼拝をするのは神道である。一方で立禅と称されるように仏教的な要素を多分に含んでいる。でも”それ”が離すとしている。神でも仏でもなく、"それ"としている。これは、カント派のヘリゲルに向けての言葉だからなのか。それとも言葉なんて安っぽいものに縛ってはいけないからなのか。


 ゆっくりと息を吐きながら、待つ。キンキンに張り詰め、しなった弓を耐え、むしろさらに歪ませんと体幹の骨より、肩より、両腕をまっすぐに伸ばそうとソウタは試みる。


 ガンと硬い音がした。矢が離れた。的中はしなかった。的より9時の方向に拳一つは反れている。


 残心の姿のまま、顔を安土より正面に戻す。鏡に自身の姿が映っている。大の字とは言いづらい。妻手肘が伸びきれず、自身に向けて握り拳を向けているような姿勢となっていた。


――力んでいる。それは間違えない。


 弓を倒して、射位から外れながら、残心として出た形を振り返る。しかし、ソウタは明確な方針を導き出せないままだった。


 大岩師範は時おり、視線を送りながらも、口出しはしなかった。墨田も茶々以上の言葉は発さない。


 それから五立は一手をとって射位に入った。的中は出なかった。惜しいと思えるような射もなかった。残心の形は、確かに等しく、妻手肘が伸びきらず、硬い拳を作った形となっていた。


「ありがとうございました」


 神前に礼をしてから、改めて師範に礼をする。稽古は終わり、片付けを進めていく。


 コトノは弓から弦を外し、布を巻いていく。顔つきの強張りはさらに濃くなっていた。


――なら自分はどうだ。


 弽をカバンにしまうとともに、ソウタは鏡を見た。眉根を寄せた――情けない顔をしていた。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


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