序ーハナノチルラムー
――なら、殺したいヤツの顔を的に重ねて射てみれば?
ユメミは掠れた声で、確かにそう言った。
――意志の勝利や。ほれ、精神が肉体を凌駕するっていうんやろ。
目尻と口端で円を描くユメミの表情が、ソウタの脳裏を過ってきた。その顔の嫌らしさに苦みを覚える。ソウタは肺腑の底から息を吐き出した。
うらうらとした春の日差しが射している。矢道に活けられた緑もいよいよ色を深めんとしている。桜の花はまさに見どころで、薄紅に咲き満ちていた。
四月。桜は花を溢れさせ、道場には春の匂いが満ちていた。三月の審査で弐段に合格したソウタは、昇段の祝射会に臨んでいる。青い空と薄紅の花々のあいだで、答射の矢を番えんと、執弓の姿勢を整え、本座に立った。
師範、師範代らが背後から睨むように観ている。祝射を終えた他の会員たちは、矢道の外れから視線を向けている。――試されている。身体は硬く重かった。成果を示さなければとの気持ちが強くあった。
京都。三条と四条の狭間に構えられた新宮八幡神社の境内にソウタの通う道場はあった。境内の石畳を渡る風にのって、桜の花びらがはらはらと落ちていく。その奥に、弓正会との看板を掲げられていた。二年前からソウタはここで稽古を始めていた。
呼吸に合わせて、確かめるように体配を済ませて、ソウタは射位に立ち、弓を構えた。腿を締めて背筋を伸ばし、胴を造る。真正面には鏡がある。自身の背後には、肩まで伸ばした黒髪を一つに束ねた――コトノがいた。弓構えて眦厳しく、硬質は気を負っているようだった。
――心は総体の中央に置き……。
胸の中で射法訓を諳んじながら、取り掛ける。それでもソウタの頭の中にはユメミの言葉が響いていた。
――殺したいヤツ。
視線の先には安土に霞的が据えられている。真っ白な図星に矢を納めさせる。ただそれだけ。それだけができない。現に、ソウタは甲矢を外している。乙矢はこそはという欲と焦りがあった。
――而して弓手三分の二弦を推し、妻手三分の一弓を引き……。
射法訓の続きを胸の中で唱え続けながら、大三の型から弓を引き分けていく。下唇をぐっと噛んでいた。弐段に昇段してから一か月、その間幾度も稽古をしているが、ソウタは一射も的中を出していない。そもそも審査の際も的中を出していなかった。
――射型・体配共に整い射術の運用に気力充実し、矢所の乱れぬ程度に達した者。それが弐段の資格基準。会の仲間からは「レギュレーションに救われたな」と囁かれていた。
――中てたい。
その気持ちは強かった。
――殺したいヤツ、殺したいヤツ。
頭の中ではユメミの言葉が空回っていた。射型所作は身体が覚えている。緊張はいよいよ満ち足りて、矢が頬についた。握りが手の皮を捻るように食い込んでくる。
――胸の中筋に従い、宜しく左右に分かるる如く……。
――殺したいヤツは、誰だ?
引分より会に至り、ソウタの頭の中と胸の中でいよいよ言葉が交錯する。的を捕らえていた視界が滲み始めていた。離れはでそうにない。滑りそうな妻手の親指を、中指の爪先をくっと食い込ませる。
風が吹いた。矢道に桜が渦紋のように舞った。淡紅と白が視界を覆った。
――きれいだ。
思うが先か、ぱあんと弾音が響いた。霞的の図星には矢が一本刺さっている。ソウタはようやく自身の身体が大の字を描いているのを発見した。
――中った?
感情は殺さなければならない。まばたきを堪えて眼を見開いたまま、口を噤んで表情を固めて、息をゆっくりと吐いて整える。残心より徐に弓を倒して、ソウタは射位から離れた。神棚に揖をしてから、退場線を超えていく。
――中ったのか。
脳裏には春の青空の下に吹き乱れる桜の花が見えていた。離れも的中の応えも体にはなかった。花霞の舞の他は、なにも見えていなかった。
「今の射はよかったな。続けられれば夏にでも参段やな」
弓を直して、弽を外していると、白髪交じりの師範代はしゃがれた声でそう言った。ソウタは「ありがとうございます」と返答とともに鶏のように首を前後させた。
「松谷さんは、力み過ぎやな。矢が踊っておった」
「はい」
嚙み圧した返事が頭上より聞こえた。見上げれば、表情を厳しく固めたコトノが居た。切れ長な眦の鋭さはいつにもまして尖っている。彼女もソウタと同日に審査を受けて、弐段を合格していた。今日の射会の答射ではソウタは御前にして、コトノは落ちに立ち、二人立ちで射を行した。コトノは甲矢乙矢ともに中てることができなかったようで、表情を険しくとがらせていた。
――矢飛び直く的中やや確実な者。
参段審査からは的中が求められる。それは道場で稽古する際は何度も耳にしていた。的中しなければ審査の俎上に上がらない。審査を挑んだ先輩方が、的中が出なかったと悔やんでいる姿を、ソウタは幾度も見聞きしている。
久しぶりの的中だった。ただ実感はない。弽を外した右手をじっと見る。平板な自身の掌にソウタは眉根を寄せた。
弓は再現性が肝要と習い始めの頃に教わった。師範代ではなく、会の先輩方だった。的中の射を体に覚えさせて、それを再現させればいい。そういいながら、その先輩は的中を立て続けに出していた。問答無用の説得力だった。自身の身体を自身の意思でその通りに動かすだけ。――その、それだけが、難しいんだ。ソウタはまたも下唇を噛んでいた。
「ねえ、新見くん」
コトノが声をかけてきた。彼女の細いフレームの眼鏡の奥に控えた細く尖った瞳が刺してくるように思えた。
「やっぱり、部活に――」
「――ないよ。それはない」
コトノの言葉を遮るようにして、ソウタは首を横にふって答えた。コトノとは同じ私立洛外望都高校に通っている同級生である。もっとも、教室内ではめったに会話をしない。同じ高校に通っているのも、教室で顔を観て初めて知ったぐらいの関係である。そして今は目も合わせることもほぼほぼあり得ない。そういった関係であった。
「そう」
冷たい嘆息が混じったような返答だった。表情を変えずに、彼女は靴を履いて射場のある奥屋から離れていった。ソウタは彼女のまっすぐに伸びた背中を追いながら、靴紐を結わえなおした。
入学当初から段持ちとして、弓道部の主力とされていた。見学会ではソウタはコトノの二人で射場に立ち、定座をとり、一手坐射を行した。コトノは入部し、ソウタは断った。
――どうして。
入部を見送った旨をコトノに告げた際の呟きは、今でもソウタの耳に残っている。以来、同じ学校、同じクラス、同じ弓道場に通いながらも、視界に入ればソウタは眼を伏してしまうようになっていた。
ただ、仮入部として参加して、――違う、とソウタは直感した。理由はソウタの中で納まっていない。ただひたすらに的に向かい矢をかけて射を続ける風景を目にして、足が止まっていた。入部届は空白のまま、机の奥にくしゃくしゃのまま残っている。
矢数をかけて射込むのはソウタも好きだ。そこで中れば、楽しい。続けている理由でもある。それでも弓道部の景に対して、踏み出して中に入る気になれなかった。それに従ってソウタは入部を断った。ただ弓は続けるため、弓正会には週二で通っている。
――もったいない。
弓正会の会員からはそう顔をしかめられた。ソウタに返せる言葉はなく、いつも苦笑いを浮かべて、射位に立ち、矢を番えていた。
「調子ええなあ」
目の細い中年の会員――墨田が声をかけてきた。ソウタの答射の際に、彼が薄くなった後頭部にタオルを載せて、射場を見つめていたのを覚えている。
「これならすぐにでも参段や」
「いや、まあ」
ソウタは頬を引きつらせながら、苦笑いで応えた。言葉の裏に、彼はソウタの射を酷薄な視線を向けていたような気があった。
「まあ弐段からがスタートやからな。がんばれや」
にやにやと唇を歪ませながら、そう吐いた。彼は参段保有者で、ソウタが入会してから一度も昇段はしていない。社会人になってから弓道を始めて、十年かけてようやくここまで来たと、ソウタが弓正会に通いだした頃に訊いていた。
「これからの段位は結果が求められるからな」
――的中やや確実。
的中しなければ、審査の俎上に上がらない。これからは的中が前提となる。的中の上で体配、射型の正しさ美しさが問われる。
行射が終わってからこそ、汗が拭いて出てくるような気がした。肌にべったりと貼りつく道着が鬱陶しい。胸元に風を入れ込もうと、衿元をつまんで仰ぐ。春の陽気とはいえども、暑さはしっかりと籠っている。
「おい、新見君。甲矢も乙矢も妻手、握っていたやろ。かっちりと」
ぼそっと耳元に呟きが聞こえてきた。低く重い声色だった。白と黒の斑な髪に皴と襞が刻まれた範士――大岩からの声掛けだった。線が細く、鉄の糸を想起させる。
ソウタは大岩からの言葉に、ぐっと噛み込んでから頷いて応えた。
「乙矢は巧く消力ができたから中りがでたけど、要注意やぞ。それが判っているんなら、今はそれでええ。後は試行錯誤。考えて稽古しなあかんけど、考えすぎて硬くなったらあかんぞ」
そう言い残して大岩は翻して、ふっとソウタの前から消えていった。ソウタはしばらく大岩の消えた先を目で追ったが、すぐにわからなくなった。
射会が終わり、空は赤みをさしていた。射場や安土、神社の境内の掃き掃除などを終えて、会は解散となった。
コトノは道着袴の弓道着姿のまま、弓と矢筒を以て境内から去っていた。用事もなければ話しかける義理もない。でも、ふと彼女の黒髪を探してしまっていた。ソウタも着替えることなく道着袴姿のままで、荷物を整理して、弓矢は道場に置き、弽や手拭をしまい込んだリュックを背負って後にした。
――さて、どうしようか。
阪急大宮駅に向けて、西方に歩を進めていく。眩むような赤光を放つ夕陽に、ソウタは眼を細めさせた。
――コンビニで晩御飯を買って、道着袴を洗濯して、明日の教科をカバンに詰めて。
これからやることを確認していく。同じことを先週も、先々週も、一か月前も巡回させている。
父はドイツに単身赴任に出ている。母はソウタが高校に進学したことを期に看護師として、長岡京の総合病院に復職していた。今日も夜勤と聞いている。射会に出る前に千円札三枚ががらんとした食卓に置かれていた。いつものことだと、ソウタは財布に入れて言葉なく玄関を出ていっていた。
――今日は、的中が出た。
四条大宮にたどり着き、地下に降りていく。改札をくぐり、蛍光灯が白く光るプラットフォームに降りていくと、猛烈な風を受けた。首を傾けスマホに視線を向けて並ぶ人の列に倣って、だらだらと歩き続ける。ソウタの瞼には春風に任せて舞い散る桜の花の景が、まだ焼き付いている。
――これで少しは変わるだろうか。
特急列車が轟音を立てて過ぎ去っていく。ソウタはどこに焦点をあわせることなく、白線の際に立って次の準急の到着を待っていた。
地下鉄を照らす蛍光灯は、くすんだ色をしていた。
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