9 侍女ミリア
ソマリア王子の部屋でシャンテの悪口をまくし立てた王妃が、シャンテに気づかずにコップを受け取った。
激昂して喉が渇いたのか、一気に煽る。
カップを口から離し、怪訝そうに整えられた眉を寄せた。
口の端から、細く鋭いものが突き出ている。
王妃は、口の端から突き出た固く細いものを引き出した。
口が開き、中から黒くわしゃわしゃと動く昆虫が、暴れながら引き摺り出された。
「キャーッッッ!」
顔中が口になるような絶叫をあげ、王妃がのけぞる。
侍女に視線を向け、手を挙げた。
その手をシャンテが払い除け、逆に王妃を張り倒す。
「死罪よ!」
「できるものなら、してごらんなさいよ! 引業ババア!」
「なんですって! あなた……シャ、シャンテ?」
地獄の閻魔に遭遇した罪人もかくやという変りようで、王妃は明らかに狼狽えた。
「おーほっほっほっほっ! ようやくお分かりのようですわね。ここに書かれているのは、すべてが真実ですわ! あなたの不倫相手は、見つからない場所に匿ってありますのよ。私の記事は、国王陛下に直接奏上してありますわ。観念しますのね!」
「し、死刑囚の記事なんて……」
王妃が唇を震わせる。
「今回私が文章にしたのは、武器職人の弟子のことだけですわね。どうしてあなたが私を死刑にしたかったのか、思い出してごらんなさいよ。私は、自分が死刑になるだなんて思っていなかったですわ。だから、以前は集めた情報をまとめたり、検証したりもしなかったですわよ。私に罪を被せる。でも処刑できない。これが、どういう事なのか理解していらっしゃるの?」
「母上、どういうことですか? シャンテ、お前はいつ、どうやって私の部屋に入った?」
ソマリア王子がシャンテに詰め寄ろうとする。
王子の腕を、王妃が掴んだ。
「ソ、ソマリア、王族特権よ。今すぐ、その女を殺して! 裁判所では生ぬるかったのよ。その女、いますぐに殺さなくては王家が崩壊するわ」
「し、しかし……」
ソマリアは戸惑っていた。シャンテは顔をしかめた。
「殿下、まさか、迷うんですの? あんたの母親がどんな女か、もうわかったはずですわね。それでも、従う価値があるとお思いなの? 迷うんですの?」
信じられない。シャンテはその想いを顔で表現した。
「……シャンテ、私は君を誤解していたかもしれない。私が思うほど……世の中は綺麗にはできてないんだろう。でも、だからこそ……守るのに、手段を選べない時もある」
ソマリアが、テーブルに置いてあったナイフを取った。
シャンテに飛びかかる。
シャンテは動かなかった。モブ化の能力では、対処できない。
シャンテは舌打ちをし、生死をかけざる得ない状況を覚悟した。
その時、視界が遮られた。
ソマリア王子が床でひっくり返っていた。
「駄目だよ。シャンテを殺したら」
勇者マリアだった。
シャンテは、自分より背が低く、華奢な少女の背中を見た。
強そうには決して見えない。だが、魔王を倒せる者は他にいないのだと言われる。
特別な力を確かに持っているのだろう。
だが、何よりも、強くなくてはならない。
シャンテは、声を荒げた。
「マリア、なんの真似ですの?」
「き、君は、オレに意地悪した。でも、オレは君の婚約者を奪ったんだ。恨まれるのはしかたない。それなのに、君はオレを守った。君のことは嫌いだけど、死んじゃ駄目だ」
「ふん。私のことが嫌いだとわかってよかったですわ。はっきり言って差し上げます。私は、この世の誰より、マリアのことが嫌いですわ!」
「うん。ありがとう。逃げて。ここは、オレが引き受ける」
「大きなお世話ですわ」
「だって……えっ? シャンテは?」
シャンテは、協力してくれた王宮付きの侍女を犠牲にしたくなかった。
シャンテ1人では逃げられない。
侍女の背後に隠れ、気配を殺すよう意識した。
結果として、その場にいる全員が、シャンテを見失った。
強力な存在感を放った直後であるからこそ効果が大きいのだと、シャンテは確信していた。
「おい、シャンテはどこに消えた?」
魔術師カラスコが侍女に尋ねる。侍女は小さく首を振る。侍女は、シャンテのことをわかっているはずだ。
侍女に裏切られ、差し出されれば、シャンテのスキルは効果を失うだろう。
「……君は、シャンテが入ってくるのを見た?」
神官のクロムが侍女に尋ねる。侍女は、再び小さく首を振った。
「わかった。もういい。シャンテの奴……転移の魔法でも身につけたのか?」
「あるいは、ゴーストじゃないか?」
大商会の番頭であるセイイが言った。カラスコとクロムが視線を交わす。
「あり得るな。ひょっとして、本当は処刑されたのかもしれない」
「ゴーストが、これを書いたっていうの?」
王妃が指し示したスキャンダル記事に、魔王討伐部隊の5人が首を捻った。
シャンテは、侍女の袖を引いて王子の部屋から退出した。
通路に出る。誰もいないことを確認し、シャンテは侍女に礼を言った。
「ありがとうございます。助かりましたわ。あなたも、大したものですわね」
シャンテは、王宮付きの侍女の能力を評価した。侍女は笑う。
「これだけいただければ、王族の暗殺でもいたします。それに、王妃様の男癖の悪さは、侍女たちならみんな困っていますから。胸がすくようでした」
「ふふっ。ありがとう。あなた、名前はなんて仰いますの?」
「ティレン子爵の3女、ミリアと申します」
「さすが、王家に仕える侍女は一流ですわね。また、助けてもらうかもしれないですわ」
「はい。ご贔屓にお願いします」
ミリアと名乗った侍女は、シャンテが握らせた金貨入りの巾着袋を見せて、にこりと笑った。
※
シャンテは公爵邸に戻ると、広い敷地内にある小さな塔に登った。
昔から公爵邸に建っていたと言われる塔で、寂れて誰も近づかない。
シャンテの命令で時折食べ物を置きに来る使用人がいるが、それ以外には唯一の例外を除いて誰も塔には入らない。
唯一の例外とは、シャンテである。
シャンテは塔に登り、最上階で目的の人物と会った。
「おばば、元気でした?」
塔の最上階で、腰の曲がった酷く年老いた姿の女が、巨大な鍋を掻き回していた。
「おやおや、シャンテお嬢様ではありませんかや。シャンテお嬢様ですかや? また、奇妙な力を手に入れましたかや」
「流石ね。見ただけでわかりますのね。魔王だって気づきませんでしたのに」
「……『魔王』ですかや? お会いになったのですかや?」
「ええ。ちょっとね」
シャンテはかつて、王子に対して、情報源は孤児院の子どもたちだけではないと言ったことがある。
シャンテにとってのもう一つの重要な情報源が、目の前の老婆である。
「マリアと王妃のことは助かりましたわ。言われた通り、調べれば調べるほど悪事が出てきますもの。特に、王妃は酷いですわね。愛人に国宝をあげて、誤魔化すために国費で似たものを買い取るなんて……」
「そんなことまでしてましたかや。よくお調べになりましたな。この魔法の鏡は、真実を映しますが解読が難儀でしてな。お嬢様、りんごを食べられませんかや?」
老女は、自らを魔女と名乗っている。
かつてはこの国一の美女だったと自称しているが、王族に毒リンゴを食べさせた罪で処刑されそうになり、公爵に助けられたらしい。
「いらないですわ。毒のリンゴなんて。武器職人の若い子、生きていますの?」
「はい。お嬢様にお手紙でご指示頂きましたとおり、毒リンゴで眠らせておりますかや。解毒剤を飲ませるか、毒の呪いを解除するお姫様の口づけで直ぐに目覚めますかや」
「毒が呪いって不思議ですわね。でも、どんなに長く眠っても歳を取らずに起きるのだから、普通の毒ではないのでしょうね。おばば、魔王を知っていますの?」
シャンテは、空いていた椅子に腰掛けて曇った鏡を覗き込んだ。
老女が『魔法の鏡』と呼んでいる鏡だ。いつも曇っていて、鏡のはずなのに自分の顔すら映らない。
「知っているも何も、あたしゃの昔のご主人さまでしたかや。奴隷だったあたしゃが人間と結婚したいと言い出さなかったら、いまでもお支えしていたはずですかや」
「こんな顔?」
「まあまあ、お嬢様は似顔絵がお得意で……この男ですかや。ああ……数日前、災厄が降り注ぐような影が鏡にうつりましたかや。お嬢様が処刑されるためかと思いましたが、魔王様がいらしたのですかや」
「やっぱり、魔法の鏡ですわね。どっちも正解ですわ。この魔王って……信用できますの?」
老女は、シャンテをじっと見た。
「仕える者が誠意をつくせば、誠意で答えてくださるお方ですかや」
「ふうん。財力は?」
「魔王様にとっては価値のないものが、魔王城にはたくさん転がっていますかや。あのうちの一つでも持ってきていたら、もっと楽な生活ができていたでしょう。いえ、今の生活に不満はございません。ですが、お嬢様はあたしゃが忠告したのに……本当に死刑になってしまわれたんですかや? お嬢様、どうして生きておられるんですかや?」
「おばばは全てお見通しかと思っていたけど、そうでもありませんのね。私の力に気づいたのでしょう? どんな力か、私にもはっきりわかりませんのよ。『モブ化』っていうらしいけど、おばばは知りませんの?」
シャンテは、牢の中で黒衣の何者かからスキルを与えられた。その時『モブ化』と言われたのだ。
「ふむ……あたしゃにもわかりませんかや。ただ……奇妙な力ですな。あたしゃでも、お嬢様のことを常に心配して夜もろくに眠れないのでなければ、目の前にいるお嬢様に、気づかないかもしれませんかや」
「ふうん。やっぱり、特殊な力みたいですわね。役に立っていますわよ。お陰で、処刑されませんでしたもの」
「それはようございましたかや」
シャンテは、目的があって老女を訪れたわけではない。時々訪問して、たわいない話をする。
そのたわいない話の中で、シャンテは通常では知り得ない情報を得ることが何度もあった。
そのために、この名も知らぬ老女を度々訪問しているのだ。
老女が顔を上げた。
窓に黒い鳥が止まる。
「おや、伝書カラスが来たようですかや」
「カラスを伝令に使えるのは、おばばだけみたいよ。どこから来たの?」
カラスが片足を上げる。老女が、カラスが掴んでいた紙を受け取る。
「この子は特別ですかや。手紙を受け取るのではなく、あたしゃが受け取るべき手紙を見つけると、自分で判断して盗んでくるのですかや。手紙を書いた人はもう一通書くことになりますかや」
老女はひゃひゃひゃと笑う。笑いながら、シャンテに手紙を渡した。
「お嬢様宛ですかや。どうやら、この子はお嬢様も主人と認めたようですかや」
「そう。私の魅力はカラスにもわかるのに、人間の男たちの目は、なんて節穴なのでしょう」
「もっともですかや」
老女が再び笑う。
シャンテは渡された紙に目を通した。
「おばば、ちょっと行って来ますわ」
「お嬢様、どうされましたかや?」
「魔王はまだ、街にいるみたいですわね」
手紙は、孤児院の院長が書いたものだった。