6 魔王とモブ化
壁の一部が爆発したことにより、従業員たちが集まっていた。
その中を、シャンテは誰にも気に留められずに素通りする。文字通り、モブ化しているのだ。
階段を上がると、203号室の扉が開き、シャンテより先に駆け出していたソマリア王子が剣を構えていた。
「貴様……まさか、本当に魔王か?」
ソマリア王子の余裕のない声に、シャンテが覗き見る。
203号室のベッドの上に勇者マリアが横になり、真っ赤な肌をした筋骨逞しい全裸の男がベッドを降りたところだった。
男であることはわかる。だが、人間ではない。
釣り上がった目は赤く光り、耳まで裂けた口からは牙が覗いている。
耳は魚の胸鰭のように凹凸が激しく、額には3本の捻れた角が天井を指していた。
「勇者はいただく。これで、儂を滅ぼせるものは誰もいなくなる」
がらがらとした聞き苦しい声で、魔王と思われる男が話す。
異色の肌と頭部の特徴から、魔族と呼ばれる種族なのは間違いない。
勇者たちの判断が間違っていなければ、魔王ということになる。
勇者マリアやソマリア王子が、最終的に滅ぼそうとしていた存在だ。
シャンテが到着する前、ソマリア王子が何を見たのかはわからない。
だが、ソマリア王子は剣を震わせ、体から全身の汗を流しながら、動けずにいた。
シャンテは部屋に入る。
「お、おい、シャンテ、何をするつもりだ?」
ソマリア王子は、かつてシャンテの婚約者だったが、おそらく愛してはいない。愛したこともないだろう。
今も、シャンテを気遣いはしても、それは魔王に一般人が向かっていくのだから、当然のことなのだ。
シャンテは魔王の顔だけを見つめて真っ直ぐに進んだ。
魔王はシャンテを視界に捉えているはずだが、まるて見えていないかのように注意を払わない。
シャンテは確信した。モブ化のスキルは、シャンテを知っている者には、シャンテだとわかる。だが、それでも大勢の中にいるシャンテは見失う。
シャンテのことを初めから知らない者にとっては、シャンテが1人でいても、全く興味を引かないのだ。
「勇者マリア、なんて様ですの。それでも、この私から婚約者を奪った泥棒猫ですの?」
ベッドでうつ伏せに倒れていたマリアは、全裸だった。
何があったのか、シャンテは知りたくもない。カラスコと事に及んでいたことは想像できたが、それ以上は知らない。
「シャンテ? オ、オレのことはいいから、逃げて……」
言いながら、マリアの目から大量の涙がこぼれ落ちる。
「勇者だからって、強がるのも大概になさいな。そんなことだから、陰湿な虐めいじめを受けるんですわ」
「やったの、シャンテじゃんか……」
「私が自ら手をくだすほどの大物に、いつからなったんですの? マリアを虐めたいから許可が欲しいって言ってきた子たちが大勢いたから、『好きにしたら』って言っただけですわよ」
「「……えっ?」」
マリアと、話を聞いていたソマリア王子の声が揃った。
シャンテが横を見る。黙っていた魔王の視線が、シャンテに向けられていた。
目つきが悪いというより、目を凝らしているようだ。自分が何を見ているのかわからないような顔つきをしている。
何を見ているのかわからないと言うより、見ているものに全く興味が湧かないが、どうして興味を持てないのかわからないかのようだ。
「いつまでも、汚らしいものを見せないでくださいまし」
言いながら、シャンテは足を蹴り上げた。
魔王の体の中央を捉えた。
魔王は、自らの体の一部を誇示するかのように晒していたが、シャンテに蹴り上げられて悶絶した。
「貴様!」
叫んでから、魔王は再びシャンテを見失った。
シャンテは、蹴りをみまうと距離をとった。
怒れる魔王が闇雲に腕を振り回してシャンテにあたれば、シャンテは即死する自信があった。
シャンテが下がると、同時にソマリア王子が、呪縛から解き放たれたように突進した。
ソマリア王子が振り下ろす剣を、魔王が腕で止める。
魔王の腕が切り落とされた。
魔王の切り落とされた腕から、蛇が生える。
切り落とされた断面からは、すでに別の腕が生えていた。
魔王が下がり、何もない空間から禍々しい歪んだ剣を取り出した。
「シャンテ、下がりなさい。ここは私が」
シャンテは背後から声をかけられた。
振り向くと、全裸に女物のマントを巻きつけた魔術師カラスコが、指を組み合わせて印を結んでいた。
魔王が唾を吐く。
吐かれた唾が空中で燃え上がり、カラスコの長い髪を燃やした。
「うわぁぁぁぁっ!」
「全く、何をしにきましたの? あれ、どうにかできるんじゃありませんの?」
シャンテは、王子と剣を交わす魔王を指差した。
王子の剣の腕は、人間の中では抜きん出ている。しかも王子の剣は、どこにでもある普通の鋼鉄に見えるが、魔力を付与された業物だ。
魔王と互角以上に渡り合っている。
「マリアが戦えれば、勝機はあるが……」
カラスコは、ベッドの上の勇者マリアを見ていた。
シャンテがその視線を追うと、戦いに巻き込まれないよう、自分の体を抱くように小さくなっているマリアがいた。
「戦えるように見えますの?」
「いや……今のマリアには酷だろう。俺の荷物がベッドの下にある。その中に、クロムにもらった聖なる短剣があるんだ。見たところ、あの魔王は魔族の中でも悪魔族よりだ。効果があるだろう」
「なら、早くしなさいよ。これ以上は、ソマリアでももたないですわ」
「お、俺が?」
カラスコがシャンテを見る。シャンテは激怒した。
「当たり前ですわ。他に、誰がいらして?」
ソマリア同様、カラスコは勇者と共に魔王を討伐するための部隊に選ばれている。
シャンテの情報網では、マリアと関係を持った男は複数いるが、そのいずれもが若くして才能を見出され、魔王討伐部隊に配属された者たちばかりなのだ。
一方、シャンテは公爵令嬢であっても、それ以上ではない。
戦いの経験もなければ、訓練を受けたこともない。
「わかった」
シャンテが指摘したように、ソマリア王子が徐々に圧されてきていた。
ソマリア王子だけで勝てるのであれば、勇者を中心にした討伐部隊など編成されない。
カラスコは、息を殺してベッドの下に飛び込もうとした。
その動きを冷静に見ていたのが、赤い肌をした魔王である。
魔王自身は未だ全裸のまま、女物のマントを巻きつけたカラスコを踏みつけた。
蹴り上げる。
カラスコが、部屋の外まで転がされる。
「役に立ちませんわね」
「すまない」
魔法を使っても潰され、近づくこともできないカラスコには、現状できることはない。
シャンテは再び部屋に入る。
魔王の視線がシャンテには全く向けられないことを確認し、そのままベッドに近づく。
「シャンテ?」
シャンテの動きに気づいた勇者マリアが小声で呼ぶが、シャンテは唇の前に指を立てた。
「お黙りなさい」
「……うん」
マリアは体にシーツを巻き付けているが、その下に下着すら身につけてはいない。
シャンテが覗き込むと、カラスコがよく肩から掛けているバッグがあった。
手を伸ばし、引き寄せ、開ける。
「いただきますわよ」
シャンテが背後に尋ねると、意識を失っていなかったのか、カラスコは応じた。
「……頼む」
シャンテはカラスコの頼みを受け、カラスコの財布を懐に入れ、高価な薬剤や魔法の触媒、魔導書を自分のバッグに移し、最後に短剣を取り出した。
金属質の高い音が響き、打ち合う音が止んだ。
シャンテが顔を上げると、ソマリア王子が壁に押さえつけられていた。
王子の手には、根元近くから折れた剣がある。
シャンテは、短剣を鞘から抜いて近づいた。
苦しそうに顔を歪める王子と視線が合う。
王子は口を開こうとした。シャンテはマリアにしたのと同様に、唇の前に指を立てた。
モブ化のスキルをシャンテが持つことは、シャンテしか知らないのだ。
名前を知られることで、効果が弱まるのではないかと危惧した。
王子の喉が締まり、王子が奇妙な声を出す。
シャンテは両手で抜き身の短剣を掲げ、全体重を乗せて振り下ろした。
祝福された短剣は、悪魔族に近しい魔族の肌をやすやすと食い破り、柄元近くまで減り込んだ。
「ぐっ、があぁぁぁぁぁぁっ……」
意味をなさない苦鳴と同時に、魔王が崩れ落ちる。
シャンテは距離をとった。
ひざまずき振り返った魔王は、背後にいたシャンテには気づかず、その先にいた勇者マリアを睨みつけた。
「まだ、我に逆らうか。すでに貴様は、我の者だというのに」
「オ、オレは、誰のものでもない」
必死になったマリアの叫びに、魔王から解放さたれ王子が言った。
「私のものではなかったのか?」
「違うみたいですわよ」
シャンテが笑う。王子と勇者はシャンテを睨むが、魔王はシャンテの存在にすら気づかない。
「楽しみが増えた。いずれ再び、迎えに来るとしよう」
魔王が立ち上がる。シャンテが刺した背中から、大量の黒い血が流れ落ちていた。
「その必要はない。私たちが行く」
ソマリア王子が宣言する。
「ならば、我が城で待つ」
魔王は言うと、体が崩れた。体が溶けたのかと思われたが、勇ましい筋肉が溶け落ちた後に残ったのは、貧弱な肉体をした魔族の優男だった。
「しまった……変化を維持できなくなった。この借りはいずれ返す」
「えっ? それをしたのは私じゃ……でも……それでも……また、逢えるの?」
「マリア!」
まるで再開するのを楽しみにしているかのようなマリアが、王子の一喝で正気に返る。
恐ろしい姿だったはずの細身の青年魔族は、床に脱ぎ捨てた衣服を拾って窓から飛び出した。
魔王が去り、呆然と佇む勇者マリアと、魔王が変化した驚きで言葉もないソマリア王子、魔術師カラスコを見回し、シャンテが言った。
「あなたたち、私に言うべきことがあるんじゃございませんの?」
破壊された連れ込み宿に、公爵令嬢シャンテの高笑いが響いた。