第一話:さよならの唐揚げ
この町のはずれ、線路沿いの細い路地を抜けた先に、その店はある。
看板には、ただひとこと。
「おかわり相談室」
昼どきしか開かない小さな定食屋で、メニューは一汁三菜の「本日のおまかせ定食」のみ。
ただし──注文にはひとつだけ条件がある。
それは、「相談事を一つ書くこと」。
メニュー表の裏に、こっそり小さく書かれている注意書きに、誰もが一瞬戸惑う。
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ある火曜日の昼、彼女はふらりとその暖簾をくぐった。
小柄で、黒縁メガネにオフィスカジュアル。肩まで伸びた髪を低い位置で結んでいる。
名を久保田 梨絵、29歳。
彼女はカウンターの一番端に座り、促されるままにメモを取った。
「ご相談をどうぞ」の文字に、ぎこちなくペンを走らせたその一行は──
「別れを決めたけれど、まだ好きです。これでよかったのでしょうか」
無言でそれを受け取った店主は、ちらりと目を通すと、黙って厨房へ戻った。
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10分ほどして、料理が並ぶ。
・ごはん
・しじみの味噌汁
・かぼちゃの煮物
・きゅうりと塩昆布の浅漬け
・そして──揚げたての唐揚げ。
「ごゆっくりどうぞ」とだけ言い残して、店主は奥へ引っ込んだ。
梨絵は、しばらく手をつけなかった。
だけど、ふと鼻腔をくすぐった香ばしさに誘われ、箸を伸ばす。
サクッとした衣。じゅわっと広がる、にんにくとしょうゆの風味。
──ああ、懐かしい。
「……彼の、唐揚げに似てる」
気づけば、梨絵の目に涙が浮かんでいた。
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大学時代から付き合っていた彼と、つい先週、7年の関係に終止符を打った。
理由は明確ではない。「何となくこのままじゃいけない気がした」。
けれど別れ際、彼が最後に作ってくれたのが、唐揚げだったのだ。
「好きだったよ」
「うん、わたしも」
それだけ言って、食卓の唐揚げを半分残して、出てきた。
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箸を止めた梨絵に、いつの間にか店主がそっと言った。
「おかわり、いかがですか?」
──唐揚げの皿に、再びアツアツのひとつが追加される。
彼女は小さく笑った。
「……いただきます」
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午後1時をまわって、梨絵は立ち上がった。
伝票には「定食850円」の文字。そして裏には、もうひとことだけ。
「“これでよかったか”は、明日の自分が決めること。
だから今日は、お腹いっぱいになることだけ考えて。」
梨絵はそっと、その紙を財布にしまった。
帰り道、空は晴れていた。
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