第三話 限界突破・佐藤・メソッド
僕の狂気的なピアノ練習計画は、宣言したその日から早速実行に移された。もちろん、その傍らには常に、僕の暴走を阻止しようと奮闘する綾西様の姿があった。
ある日の放課後、音楽室。僕はグランドピアノの前に座り、例の自作『指先ニューロン・アクセラレーターVer.2.1』(単三電池と導線と洗濯バサミ製。よりエネルギーを引き出すため、単三電池10本直結に改良した)を指に取り付けようとしていた。その時、扉が勢いよく開き、綾西様が血相を変えて飛び込んできた
「佐藤さぁぁぁん! やはり! あなた、まさかそれを使うつもりでは!」
彼女は僕の手元を見るなり、悲鳴のような声を上げる。
「何をなさっているのですか! それはただの危険物ですわ! 感電したらどうするのですか!」
「これは指の反応速度を限界まで高めるための、必然的なプロセスです 綾西様だって、かつてご自身の肉体の限界に、様々な方法で挑んでいらっしゃったではありませんか!」
僕は、彼女が過去に僕に見せた、あの壮絶な「お手本」を引き合いに出して反論する。これは効果てきめんだ。
「そ、それはそれ! これはこれですわ!」
綾西様は顔を真っ赤にして叫ぶ。
「わたくしが行っていたのは、あくまで安全性を考慮した上での鍛錬であって、このような……このような、ただの自傷行為とは訳が違いますのよ!」
「でも、限界を超えるためには常識を……」
「その常識を捨てていい範囲というものがありますの! これは完全にアウトですわ!」
押し問答が続く。僕が一瞬の隙をつき、装置のスイッチ(ただの接触式の導線だが)を入れようとした瞬間、綾西様の手が飛んできた。バチン! という小さな音と火花と共に、装置は床に叩き落とされた。
「いっ……!」
綾西様が、叩いた自身の手を押さえて顔をしかめる。どうやら彼女も少し感電したらしい。
「ほ、ほら、ご覧なさい! やはり危険極まりないのですわ! これは没収です! それよりも! わたくしがお手本を見せて差し上げますから、真似してくださいまし!」
彼女は床に落ちたガラクタ同然の装置を拾い上げ、僕の手の届かないところに隠してしまった。それから綾西様は、まるで水面を滑る白鳥のように優美な手つきで鍵盤を操る。その彼女が奏でる旋律は、透明な真珠の粒が零れ落ちるかのような美しさ。僕は思わず身震いする。さすが綾西様だ……!
しかし、デュエットを試みた僕によってその旋律は無惨に破壊される。綾西様は僕のあまりにもでたらめな打鍵に絶句してから、取り繕うように硬直した笑顔を浮かべた。
「ま、まあ! なんといいますか、その、大胆な……心意気は良いですわね! ですから、まずは運指の練習から、してみましょう? 今は、16時……あと6時間は練習できますわね。明日は朝4時に集合して……指先を鍛えるために懸垂100回も必要ですわ!」
「いいえ! 大丈夫です! 僕には『覚悟』がありますので! むしろ、余計な知識は限界突破、魂の表現を阻害します!」
「いえ、わたくしの方法で——」
「いいえ!! 心配ご無用です!! 今の僕にはあなたから受け継いだ『『覚悟』』がありますので!! 綾西様の手を煩わせることはありません!!! 任せてください!!!! きっと綾西様も『佐藤・メソッド』に満足していただけるはずです!!!!!」
「け、決意は素晴らしいですわ。ですから、いったん、わたくしの……」
「覚悟おおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉおおおっ!」
「ひぇっ……!」
綾西様は頭を抱える。ふむ。綾西様ですら手を焼くとは、やはり、次の計画に移るしかないようだ。
週末。僕は宣言通り、市内の公園にある、申し訳程度の人工の滝に向かった。防水仕様の安価なポータブルキーボードを持ち込み、滝壺(というほど深くもないが)の近くに陣取る。冷たい水しぶきを浴びながら、鍵盤を叩く。
「うむ、これで精神が研ぎ澄まされ、魂の演奏に近づくはずだ!」
「佐藤さぁぁぁん! だぁかぁらぁ! ピアノと滝行は、全くもって、何の関係もありませんと言っているでしょうが!」
すぐ隣で、僕と同じくびしょ濡れになった綾西様が、半泣き状態で叫んでいる。呆れ果てた顔をしているが、僕を一人でこんな場所に置いておくわけにはいかない、という責任感(あるいは監視義務?)からか、律儀に付き添ってくれているのだ。
「いいえ、関係あります! このマイナスイオンと水圧が、僕の芸術的感性を刺激するのです! 大いなる自然、その力までもを取り込む! これが『佐藤・メソッド』です!」
「まあ、それは素晴らしゅうございますわね! でも風邪を引いたら、元も子もありませんでしょうが! 音楽祭本番に出られなくなりますわよ!」
「それもまた試練!」
「試練にも種類がありますの! これはただの無駄な苦行ですわ!」
公園を通りかかる人々が、滝の前でびしょ濡れになって言い争う高校生二人を、奇異の目で遠巻きに見ている。僕たちの攻防は、もはや場所を選ばない。
そして極めつけは、台風が関東地方に接近し、激しい雨風が吹き荒れていた日のことだった。「佐藤・メソッド・その先へ」。僕は「この逆境こそが魂を揺さぶる!」と、河川敷にキーボードを持ち出した。もちろん、綾西様も駆けつけてきた。
「佐藤さんっ! あなた、正気ではありませんわ! 今すぐ避難してくださいまし! 警報が出ているのですよ!」
彼女は、今にも折れそうな一本の傘で、僕とキーボードを必死に守ろうと奮闘している。だが、横殴りの雨と風の前では、ほとんど意味をなさない。
「この嵐のエネルギーこそが、僕の演奏に必要なのです! 聞いてください、綾西様! ゴッホの『ペンテスト』のような……!」
「命あっての物種ですわー! そもそも『ペンテスト』ではなく『テンペスト』! 『テンペスト』の作者は『ベートーヴェン』!! 『ゴッホ』は音楽家ではなく画家!!! 何をどう覚えたらそうなりますの! あなた、本当に、わたくしの苦労も少しは……うわっ!」
突風にあおられ、傘はあらぬ方向に飛び、僕たち二人はあっという間にずぶ濡れになった。綾西様の悲鳴は、轟音にかき消された。結局その後、彼女に文字通り引きずられるようにして、避難場所へと退散することになった。