第六話 狂気の後継者
体育祭当日。抜けるような青空の下、陽乃高校のグラウンドは熱気に包まれていた。
綾西様はあの後病院に運ばれたものの、幸い大事には至らなかった。今日は体育祭には来ているものの、さすがにリレーには出場することを禁じられ、観客席で体育祭を観戦している。瑠璃華が担当する予定だった第三走者は、他の人が走ることになっている。
増田先生は教頭と校長にとんでもなく怒られたらしく、魂の抜けた顔をしている。明らかに常軌を逸している綾西様を止めなかったのだから自業自得では?
様々な競技が進行し、ついに最終種目、クラス対抗リレーの決勝が始まった。僕たちのC組は、予想外の健闘を見せ、僅差で上位を争っていた。
「誠! 頼むぞ!」
ついに来た。第三走者から、バトンが僕の手に渡される。トップとは数メートルの差。アンカー勝負だ。
走り出した瞬間、僕の中で最後のタガが外れた。これまでの弱気な佐藤誠はもういない。いるのは、綾西様の狂気を、歪んだ形で受け継いだ存在だ。うおおおおおおおおお!
「うおおおおおおおおおおっ!!」
うおおおおおおおおおああああ!
「うおおおおおおおおおおぐぎゃああああああいえええええええいいいいいわっしょおい!!!!!!」
獣のような雄叫び(というか奇声)を上げ、僕はターフを蹴った。普段は大人しい僕が突然に発した常軌を逸した咆哮に、周囲の生徒、観客、教師はぎょっと僕を凝視する。冷たい視線が突き刺さるが、それがどうした! 綾西様! 見ていてください!
観客席で心配そうに見守る綾西様に僕は手を振る。彼女は僕の咆哮をやる気の表れだと思ったようで、小さく手を振って応援してくれている。
最後のコーナーが迫る。前を走る選手との差は詰まらない。それどころか広がっていく。綾西様とのあの文字通り血のにじむ練習は無駄だったのか?
否! 「覚悟」だ。意志の力があれば何でもできる。それを僕は彼女から学んだ。しかし、僕の実力で追いつくことは確実にできない。だが、あきらめるという選択肢は地獄に落ちてもありえない。ならどうする? 簡単なことだ。すなわち——!
「見せてやるぜ! これが俺の編み出した、勝利への最短ルート! 『限界突破・インフィールド・ダッシュ』だッ!!」
僕は叫びながら、コーナーの内側の芝生エリアへと、一直線に突っ込んだ! 明らかなコースアウト、ショートカット!
「なっ!?」「おい! 佐藤!」「審判! 審判!」
会場が、一瞬にしてどよめきと怒号に包まれる。審判の笛がけたたましく鳴り響く。教師たちがコースになだれ込んでくる。途中に置かれている旗やらなにやらの障害物にぶつかり、転び、それでも起き上がり、すべてをなぎ倒しながら僕は進む。
観客席の綾西様が、信じられないものを見たかのように、蒼白な顔で立ち上がっているのが見えた。
「さ、佐藤さんっ!? あなた、一体何を……!? いけません! すぐにコースへ戻りなさ——!」
だが、僕の耳にはもう何も届かない。ルール? スポーツマンシップ? そんなものは、綾西様の求める「強い意志」の前では些末なことだ!
僕は、周囲の混乱など一切意に介さず、ただひたすらにゴールだけを目指して、芝生の上を爆走していた。その顔には、満足げな、狂気に満ちた笑みが浮かんでいた。
これが、僕の覚悟だ。僕の、諦めない意志の証明なんだ——!
ついに一着でゴール……の直前で、僕の常軌を逸した暴走は、駆けつけた教師たちによって物理的に阻止された。芝生の上で数人の大人に取り押さえられながらも、僕はまだ興奮冷めやらぬ状態で叫んでいた。
「離せ! まだゴールしてない! 俺は諦めてないんだ!」
レースの結果は言うまでもない。二年C組は、アンカー佐藤誠のコースアウト及び危険行為により、失格となった。クラスメイトたちは、僕を取り囲む教師たちと、呆然と立ち尽くす僕を、信じられないものを見るような目で見ていた。「佐藤のせいで全部台無しだ……」「あいつ、マジで何考えてんだ……」そんな非難の声が容赦なく突き刺さる。
その時、人垣をかき分けて、蒼白な顔をした綾西様が僕の元へ駆け寄ってきた。彼女の完璧に整っていた髪は少し乱れ、その表情には明らかに動揺の色が見て取れた。いつもの凛としたオーラは、今はどこにもない。
僕はずっと彼女を探していた。教師たちに腕を掴まれながらも、綾西様の姿を認めると、満面の、しかし完全に常軌を逸した、狂気を帯びた笑顔を向けた。
「やったよ、綾西様! 見てくれましたか!? 俺、諦めませんでした! 約束通り、最後まで走り切ったんです!」
僕の言葉に、綾西様は一瞬言葉を失い、ただ戸惑ったように僕を見つめ返した。そして、ようやく絞り出すように、いつもの流暢さとは程遠い、たどたどしい口調で言った。
「さ、佐藤さん……その……諦めないという、その精神は、確かに……素晴らしいものだと、わたくしも、思います、けれど……」
彼女はそこで言葉を切り、深く息を吸い込んだ。
「で、ですが……! あの方法は、いけませんわ! ルールに反していますし、何より、危険すぎます! もし、あなたに何か怪我でもあったら……わたくしは……!」
心から心配しているような口調。だが、今の僕には、その言葉は全く響かなかった。怪我? ルール? そんなものは些細なことだ。大事なのは「意志」の力なのだから。
「大丈夫ですよ、綾西様! これが俺の『意志』の力なんだって証明できたんですから! 昔の弱い俺はいなくなったんです! それに、次はもっとすごい方法を考えます!」
僕は目を輝かせながら、さらに続けた。
「例えばですね、スタートからゴールまで一直線にグラウンドを斜めに突っ切るとか! あるいは、走るなんて効率の悪いことせずに、バトンを次の人に投げて渡すとか! きっともっと速くなれるはずです!」
僕が次々と繰り出す、さらに無謀で現実離れしたアイデアに、綾西様の顔からますます血の気が引いていくのがわかった。彼女は明らかに狼狽し、その美しい顔には深い苦悩の色が浮かんでいた。
自分の教えが、自分の善意が、目の前でとんでもないモンスターを生み出してしまったのではないか……? でも、彼のこの異常なまでの「決意」は、自分が求めたものでもある……。彼女の中で、自身の行動原理と目の前の現実が激しく衝突しているのが見て取れた。
しばらくの逡巡の後、綾西様は、意を決したように、しかし明らかに引きつった笑顔で、僕に向き直った。
「……わ、わかりましたわ、佐藤さん」
その声は、震えていた。
「あなたの、その……燃えるような、熱意は……しかと、受け止めました……!」
そして、必死に、懇願するように続けた。
「た、ただ……! その素晴らしい熱意をですね、より建設的で、そして何よりも、安全な形で発揮する方法を……例えば、そう、練習を朝3時からにして時間を増やすですとか……これからは、わたくしと、一緒に……考えていきましょう……? ね?」
それは、もはや僕を導く言葉ではなく、暴走する僕をなんとか制御しようとする、必死の提案のように聞こえた。
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体育祭が終わった後の教室の空気は、奇妙にねじれていた。クラスメイトたちの綾西様を見る目には、これまでの絶対的な畏敬に加え、「この人もしかしてヤバいのでは?」という困惑が明らかに混じっていた。
そして、僕、佐藤誠を見る目は、もはや同情や呆れではない。それは、未知の生物を見るような、あるいは、いつ爆発するかわからない爆弾を見るような、明確な「恐怖」の色を帯びていた。クラス内の「ヤバいやつ」ランキングのトップが、劇的に入れ替わった瞬間だった。
綾西様は、自分の隣の席で、まだ体育祭の興奮(と狂気)が抜けきらず、新たな「限界突破」の方法をぶつぶつと考えている僕を、戸惑いと、ほんの少しの怯えが混じったような、複雑な表情で見つめていた。
彼女の純粋な、しかしあまりにも脳筋な「善意」の集中砲火は、クラスの冴えない存在であった僕を予想だにしなかった方向へと暴走させてしまった。彼女自身をも巻き込む、新たな混沌の始まりを予感させながら、陽乃高校二年C組の、奇妙で不穏な日常は、まだ続いていく。