第五話 限界、そして覚醒
地獄の月日が過ぎ、体育祭を翌日に控えた、最後の放課後練習。グラウンドには夕暮れの長い影が伸びていた。僕、佐藤誠のタイムは、綾西様の地獄のような特訓にもかかわらず、依然として設定された目標には遠く及ばなかった。当然だ。その目標が日本記録なんだから。
隣でストップウォッチを握る綾西様の表情にも、さすがに焦りの色……など全くない。さらなる熱意、そして狂気が宿っている。これは追い詰められればられるほど闘志を燃やすタイプだ。まずい。僕の本能が最大限の危険信号を発する。
「最後のメニューですわ! 気合い入れていきますわよ!!」
彼女がどこからか持ってきたホワイトボードには「ウォーミングアップ:おもり付き縄跳び100回」「本メニュー:100m走目回数指定なし(目標達成まで)」。正気か? いや、彼女は正気だ。正気で狂気なのだ。僕はもはや抵抗することをあきらめていた。彼女は何をしてもあきらめない。彼女からは何をしても逃げられない。それを学んだ数週間だった。
「まずは縄跳び! わたくしがおもりですわ!」
「は……」
「まずはわたくしがお手本を見せて差し上げます!」
「ちょ……」
そう言うや否や彼女は僕をおぶる。そして彼女はそのまま縄跳びを始める。彼女の小さい背中の上で僕の体が跳ねる。彼女は明らかにつぶれそうになりながら、根性だけで100回縄跳びをやってのける。僕という50キロ以上の重りを背負いながらだ。
彼女はふらふらになり、吐きそうになりながら、汗でぐちゃぐちゃの顔を拭いて僕に達成感に満ちた笑みを向ける。狂っている。
「はぁっ……はあっ……おぇっ……失礼……はあ……次は、佐藤さんですわ……」
彼女は僕の背中に飛び乗る。うわっ彼女の胸が思いっきり背中に当たってる! ……けどどうでもいいや。僕は彼女を背負ったまま縄跳びを始める。彼女の体重がどのくらいなのか分からないが、一回飛ぶごとに自分の、そして彼女の体重の全てが足にかかり、足が悲鳴を上げる。
「がんばってくださいまし!」
僕が膝をついても、彼女は僕を立ち上がらせ、また僕の背中に乗る。僕が動きを止めても、彼女は僕が縄跳びを100回やり遂げるまで背中にくっついて離れない。
「ううう……!」
「あと40回!」
「うううううううぅ……!」
「あと20回!!」
「うああああああああああ!」
「あと10回!!」
「うあおえおあおあおあおああああああえええ!?」
「あと5回っ!!!」
「うぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
「あと1回ぃ!!!!!!」
「あ……」
「素晴らしい……素晴らしいですわ、佐藤さん! わたくし、感動しています!」
ついに100回、彼女を背負ったまま縄跳びをやり遂げ、そのまま力尽きて僕は地面に倒れこむ。死にそう。彼女は僕を起き上がらせ感動の抱擁をしてくる。はは……褒めてくれてうれしいな……もうやめてくれ……。
「あとは目標を達成するだけですわ! 大丈夫! あきらめなければいつか必ず達成できます! 佐藤さん、まずはわたくしが走りますわ。しっかりと目に焼き付けてくださいまし!」
彼女はそう言うと、この数週間で何十回、もしかしたら何百回繰り返されたかわからない全力疾走を、また始めた。しかし、連日の無理が祟っているのは明らかだった。フォームは精彩を欠き、スピードも普段より鈍い。それでも彼女は歯を食いしばり、ゴールラインを駆け抜けた。
そして、次の瞬間。
まるで糸が切れた人形のように、彼女は前のめりに崩れ落ちた。ピクリとも動かない。今までとは違う。明らかにダメなやつだ。
「綾西様っ!!」
僕は悲鳴に近い声を上げ、彼女の元へ駆け寄った。ぐったりと地面に横たわる彼女の顔は蒼白で、呼吸は浅く、速い。完全に限界を超えていた。
「しっかりしてください! 綾西様!」
僕が必死に呼びかけると、彼女はうっすらと目を開けた。焦点の合わない瞳で、僕の姿を捉える。そして、か細く、途切れ途切れの声で囁いた。
「佐藤……さん……わたくしに…できるのは……ここまでのよう……ですわ……」
彼女の冷たくなった手が、弱々しく僕の体操服を掴む。
「あとは……あなた、自身の……強い……意志だけ……ですのよ……」
その言葉が、僕の頭の中で奇妙な反響を起こした。「強い意志」。彼女が、身を削り、何度も何度も繰り返してきた言葉。
「諦め……ないで……あなたの…覚悟を……見せて……わたくしは死んでも……あなたを応援して……います……わ……」
そう言い残すと、彼女は完全に意識を失った。
僕は呆然と、意識のない彼女を見下ろした。僕のために、ここまで……。彼女は周りの目を気にせず、自分の時間を削り、それどころかその命すらも削って、僕をリレーに勝たせようと、真正面から向き合ってくれた。他人のためにここまでするとかどう考えてもおかしい。この人は狂人だ。明らかに関わらないほうが良い類の人。
……でも、その狂気は純度100%の善意に満ちていて、彼女は僕に、僕の悩みにいち早く気が付いて、それを解決するためだけに、ただひたすら必死に僕を引っ張ってくれた。ただ、脳筋過ぎて手段と精神力が狂っているだけなんだ。いままで、ここまでして僕にまっすぐ向き合ってくれた人がいただろうか?
それなのに僕は、ひたすら彼女から逃げることだけを考えて……いや、彼女に出会っていなかったとしても、僕は自分に自信がないからと理由をつけて逃げていただろう。今までそういう人生だった。恐怖。後悔。罪悪感。それらが僕の中で渦巻いていた。
『……本当は、少しでも速く走れるようになりたい、と願っているのではなくて?』
『わたくしはあなたに、リレーで勝って、胸を張ってクラスメイトと、接することができるように……なってほしいのですっ!』
『あなたは今、自分の限界に挑戦することから、壁を破ることから、逃げようとしています。それではいけません』
『諦め……ないで……あなたの…覚悟を……見せて……わたくしは死んでも……あなたを応援して……います……わ……』
彼女はそれを変えようとしてくれたのだ。彼女はこんな僕を心から応援してくれている……文字通り狂うほどに応援してくれる……混沌とした感情の奥底で、何かがプツリと、音を立てて切れたような気がした。
——強い意志。諦めない心。覚悟。——
そうだ。彼女は、それを僕に求めていたんだ。結果じゃない。過程でもない。ただ、諦めずにやり遂げるという、その「意志」の強さを。
つまるところ、限界を決めていたのは僕自身なんだ。どうせできない、そんな弱い考えが僕をしばりつけていた。でもそんなものどうでもいいんだ。人からどうみられようが、どんな手段を使おうが、僕が「やる」んだ。そして「限界を超える」。それだけだ。綾西様が命を懸けて教えてくれた。僕は、今まで霧がかかっていた世界がさーっと晴れ渡ったように感じた。
はは。今までずっと悩んでいたのに、答えはこんな簡単だったのか。
僕の目に、いつの間にか涙はなかった。代わりに宿っていたのは、乾いた、狂気的な光だった。
「……わかったよ、綾西様」
僕は、意識のない彼女に向かって、静かに、しかし確信を持って呟いた。
「見てて。俺、やるから。絶対に勝つ。クラスを、一位にする。……どんな手を使ってでも……!」
その言葉の本当の意味を、綾西様はまだ知らない。