第四話 狂気の攻防
綾西様による、身を削るような「お手本」を見せつけられる日々が始まった。最初の数日は、僕、佐藤誠も彼女のその凄まじい努力に圧倒され、「僕も頑張らなきゃ」と素直に思っていた。だが、一週間、二週間と経つうちに、その感情は徐々に変質していった。
毎日、自分の限界を超えようと、文字通り血の滲むような努力を続ける綾西様。転んで怪我をするのは日常茶飯事、時には過度の疲労で気を失いかけることすらあった。
それでも彼女は決して「やめる」とは言わない。その姿は、もはや感動を通り越して、異常であり、正直に言って、怖い。そして何より、彼女がここまで苦しんでいるのは、元はと言えば僕の不用意な「覚悟」のせいなのだと思うと、重い罪悪感がのしかかってくる。
ある日の放課後、またしてもグラウンドで倒れ込み、肩で息をする綾西様の姿を見て、僕はついに耐えきれなくなった。
「綾西様! もう、もういいです! 本当に!」
僕は彼女に駆け寄り、必死に訴えた。
「俺、もう速くならなくてもいいですから! だから、綾西様がそんなにボロボロになるの、もう見てられないんです! やめてください!」
僕の言葉に、綾西様は一瞬、傷ついたような、悲しそうな表情を見せた。だが、それも束の間。彼女はすぐにいつもの、あの強い意志を宿した(そして少しも笑っていない)笑顔に戻ると、静かに首を横に振った。
「いいえ、佐藤さん。あなたは、あの時、覚悟を決めたではありませんか」
「でも……!」
「わたくしの体の心配は無用ですわ。これは、わたくし自身が望んで行っていること。それよりも、佐藤さん。あなたは今、自分の限界に挑戦することから、壁を破ることから、逃げようとしています。それではいけません」
諭すような口調だが、その瞳は有無を言わせぬ力強さで僕を見据えている。僕の抵抗は、彼女の純粋で、しかし完全にズレている「善意」と「覚悟」論の前には、全く通用しなかった。
こうなったら、もう逃げるしかない。僕は、あの手この手で特訓から逃亡を図るようになった。
まず試したのは、定番の仮病だ。「すみません、綾西様。今日は頭が痛くて……」と朝、力なく連絡を入れた。半分演技で半分本当。だってここ数週間、綾西様が頭痛の種なんだから。
とにかく、これで今日の地獄は回避できる……はずだった。しかし放課後、インターホンが鳴った。モニターを見ると、そこには満面の笑みを浮かべた綾西様が立っていた。手には、禍々しい紫色をした液体がなみなみと注がれた、怪しげな瓶を持っている。
『佐藤さーん! お見舞いにまいりましたわ! わたくし特製の回復促進・滋養強壮ドリンクですの。近所のお店に売っている全てのエナジードリンクをミックスしたものですから、これを飲めば、明日の練習までにはきっと全快ですわよ! さあ、開けてくださいまし!』
この人、何でも混ぜれば良いと思ってるのか? 僕は青ざめて、居留守を決め込むしかなかった。(翌日、なぜか体調を完璧に見抜かれ、倍のメニューを課された)
次に、練習時間直前にトイレに駆け込み、個室に立てこもる作戦を実行した。しばらくすれば諦めてくれるだろう、と高を括っていた。
甘かった。数分後、ドアの外から「佐藤さーん! 佐藤さーん!」と僕を呼ぶ声が。そして、遠慮のないノックと共に、心配そうな(しかし周囲には丸聞こえの)声が響く。え、ここ男子トイレだぞ?
「大丈夫ですかー? もしかして、精神的な壁にぶつかっていらっしゃるのでは? よろしければ、わたくしがお話を聞きますわよー! さあ、遠慮なさらないで!」
原因はあなただよ!!! とは言えず、奇異の目に晒され、僕は耐えきれずにドアを開けるしかなかった。
わざと練習で手を抜いて、失敗を繰り返してみたこともある。「才能ないんだな、この人」と諦めてくれれば、と。しかし、綾西様は「あらあら、スランプですのね」と事もなげに言うと、こう続けたのだ。
「そういう時は、気分転換と精神の鍛錬が必要ですわ。明日の早朝、一緒に近くの山へ登りましょう。大自然の中で己と向き合えば、きっと新たな活路が見いだせますわよ!」
早朝登山!? 勘弁してくれ! この辺りに山はないはずだが、彼女なら隣の県まで行く、いや、山を作り出すとすら言いかねない。僕は必死で言い訳を考え、なんとかその追加メニューを回避した。
僕の逃亡作戦は日ごとに巧妙になり、それを追う綾西様の激励方法も、どんどん斜め上の方向にエスカレートしていった。
校内放送で呼び出されたり、僕の精神状態を分析した(と彼女が主張する)長文の手紙を渡されたり、果ては、親を懐柔し僕の部屋に泊まり込み朝まで僕への叱咤激励スピーチをしたり(眠くて内容は全て忘れた)……。
攻防は、傍から見ればギャグのように見えたかもしれない。
しかし、僕は少しも笑えなかった。逃げたい。やめてほしい。その気持ちは日に日に強くなる。だが、同時に、逃げるたびに、練習で苦悶の表情を浮かべ、それでも歯を食いしばって立ち上がる綾西様の姿が、罪悪感となって僕を苛むのだ。
「僕のせいで、あの人があんなに苦しんでいる……」。その思いが、僕の抵抗を鈍らせ、彼女から完全に逃げ切ることをためらわせた。
恐怖、後悔、罪悪感。そして、あの常人離れした精神力に対する、もしかしたらという微かな期待と歪んだ畏敬の念。様々な感情が僕の中で渦巻き、僕は確実に、精神的に追い詰められていった。
彼女という存在は、僕にとって、もはや憧れの対象ではなく、ましてやお嬢様という枠組みに収まるような生ぬるい存在では到底ない。僕の中のそれは、理解不能な、そして抗いがたい「何か」へと変貌していた。