第三話 脳筋・綾西様・メソッド
僕が不用意な「覚悟」を口にしてしまった、その次の日の早朝。人通りも車の通りも少なく、静かで鳥の鳴く声が目立つこの空気、まさに朝。僕は眠い目をこすりながら学校のグラウンドへ向かう。
なんでこんな朝早くに……と多少の後悔はあれど、それでも完全無欠お嬢様であらせられる綾西様と二人きりで練習できるという期待感がまだ勝っている。
グラウンドへ近づくと、その真ん中にぽつんと一人、人影があった。綾西様だ。本当にいた……綾西様は僕に気が付くと、あら、と小さく手を振る。それから、彼女は肩の力を抜き、蝶が羽を休めるような静かな動作で軽やかに頭を下げた。ああ、お嬢様!
「おはようございます。佐藤さん。清々しい朝ですわね!」
白い体操服を着ていて、髪を下ろしているいつもと違い、後ろで結んだポニーテールのスポーティーな綾西様。美しい……
「まずは現状を把握し目標を決めましょう。佐藤さんの現在の全力疾走タイムを計測いたしますわ」
彼女はどこから取り出したのか、真新しいストップウォッチを手に、きびきびと言った。頼もしい。やはり彼女なりの必勝法、すなわち「綾西様・メソッド」(僕が今勝手に名付けた)があるのだ。さすが綾西様。
僕は言われるがままに100メートルを走った。結果は19弱秒。……まあ、予想通り、平凡というか、かなり遅いタイムだ。
「ふむ……なるほど。では、体育祭までの目標タイムは、これくらいに設定しましょうか」
「17秒ですか……」
まあ現実的だ。彼女がスマホにメモして見せた目標タイム。こんなもんだよね。
「ちゃんと見てくださいまし」
あれ、「7」に見えていたのは「1」か……え、「11秒」? そんなわけはない。僕は彼女のスマホを横にしてみる。11秒。逆さまにする。11秒。角度をつけて薄目で見てみる。11秒。彼女はスマホの画面をあらゆる角度から眺める僕を見て、なんかノートに大きく「11秒」と書いて見せてきた。ああ、確かに「11秒」だ。……え?
「あのぅ、これ……どういう基準で……」
「高校生男子の日本記録でございます。それより少し遅いくらいですわね」
「にほんきろくっ……!? む、無理だよ、こんなの……!」
「あら、始める前から弱音はいけませんわ。大丈夫。わたくしに任せてくださいまし」
そんなこと……いや、綾西様だぞ? あの、何でも解決してくれる綾西様だぞ? 「綾西様・メソッド」を信じろ。おそらく僕なんかでは思いつかないような、運動神経のない僕でも日本記録レベルまで早く走れるようになる奇跡的な何かを彼女は考えているはずなんだ……
彼女は自分のジャージの袖をまくり上げると、僕に向かってにっこりと、しかし強い決意を秘めた瞳で言った。
「まずは、わたくしがお手本をお見せしますわ。あの目標タイムで走る、ということがどういうことか、その目でしっかりとご覧になってくださいまし」
そう言うと、彼女はスタートラインに立ち、深く息を吸い込んだ。次の瞬間、美しいフォームで、風のようにタータントラックを駆け抜けていく。速い。僕なんかとは比べ物にならない。
……しかし、ゴールした彼女が表示されたタイムを見ると、わずかに眉をひそめた。目標には、まだ届いていない。これから「綾西様・メソッド」が披露されるのだろう。そのはずだ。
「……まだですわね」
息を整える間もなく、彼女はスタートラインに戻る。そして、二本目。彼女は再びゴールして、やはりタイムが目標に達していないことを確認する。さすがの綾西様でも、男子の日本記録と同じ速さで走るのは無理だ。でもそれは織り込み済みのはず。はずですよね? しかし綾西様は、またスタートラインに立つ。あれ?
「あ、あの、メソ……作戦は……目標が難しいのはわかったので、そろそろ作戦を……」
「作戦?」
彼女はきょとんとして僕を見つめる。それから、キリっと、そして自信満々に言い放つ。
「目標を超えるまで……走ることですわ!!」
「え……」
どういうこと? 綾西様? 困惑する僕をよそに、彼女は走り始める。走り続ける。三本目、四本目、五本目……と、何度も何度も、彼女は目標タイムを目指して全力疾走を繰り返した。
回数を重ねるごとに、あの完璧に見えたフォームは乱れ、息遣いは荒くなり、陶器のようだった白い肌には汗が滲み、苦痛の色が浮かび始める。見ている僕の方が辛くなるくらいだった。
「あ、綾西様、もう十分です! 無理しないで……!」
僕が思わず声をかけると、彼女は膝に手をつき、ぜえぜえと肩で息をしながらも、僕を睨みつけるように顔を上げた。
「いいえまだですわ……! 限界は……こんなものでは……ありません…! わたくしは! 佐藤さん、あなたに! お手本を示さなければなりませんの!」
そして、十本目だっただろうか。ゴール手前で、ついに彼女の足がもつれた。バランスを崩し、派手に転倒する。土と汗にまみれ、膝からは血が滲んでいた。
「綾西様っ!」
僕は慌てて駆け寄ろうとした。しかし、彼女は僕を手で制した。
「大丈夫……ですわっ!」
歯を食いしばり、震える脚で、彼女はゆっくりと立ち上がった。髪は乱れ、体操服は汚れ、顔には苦悶の表情が浮かんでいる。痛々しい姿だ。それでも、彼女の瞳だけは、尋常ではない光を放っていた。彼女は、ボロボロの体で、再びスタートラインへと歩き出す。そして、僕に向かって、喘ぎながらも叫んだ。
「ご覧なさい、佐藤さん! これが……限界を超えるということですの! 苦しくても……! 痛くても……! 諦めなければ……! 道は、必ず開けますのよっ!」
その鬼気迫る姿に、僕は言葉を失った。綺麗で、優しくて、完璧だと思っていた転校生のお嬢様。その彼女が、僕の(不用意な)言葉のために、ここまで自分を痛めつけている。でも何が彼女をここまで突き動かしているんだ?
「わたくしはあなたに、リレーで勝って、胸を張ってクラスメイトと、接することができるように……なってほしいのですっ!」
その美しい顔を土と汗で汚しながら叫ぶ彼女。彼女の目には一点の曇りもない。本気だ。善意。そう、彼女のこの行為はすべて僕のため。彼女は善意の塊。僕のその見立ては正しかった。
恐怖と、申し訳なさと、期待、そして理解を超えた何かに対する畏怖が、僕の心をぐちゃぐちゃにかき混ぜた。……僕はここまでやらなくてもいいよね?
「さあ……佐藤さん! あなたも、限界を! 限界を超えるのです! あなたの覚悟、見せてくださいましっ!!」
「え」
傷だらけな彼女の純粋無垢なまなざし。断れるわけがない。感情の整理をする間もなく、僕は彼女同様、力尽きるまで走るはめになった。
その日の放課後も、次の日も、土日も、祝日も、雨の日も、特訓は容赦なく続いた。体育館で、延々と続くラダートレーニング。悲鳴を上げそうになる筋力トレーニング。増田先生はといえば、生徒の自主性を重んじるとかで、止めるどころかグラウンドや体育館を正式に提供する始末。
綾西様は、僕と同じメニューを、いや、明らかに僕以上の負荷を自らに課し、限界に挑み続けていた。汗なのか涙なのか分からない液体で顔をぐしゃぐしゃにしながら、歯を食いしばってバーベルを持ち上げる。そして、僕に向かって叫ぶのだ。
「さあ、佐藤さん! わたくしに続いて! 諦めたら、そこで終わりですわ! あなたの覚悟は、その程度のものではなかったはず!」
彼女は超人ではない。苦しんでいる。痛がっている。それでも、異常なまでの精神力だけで、自らを奮い立たせている。その事実が、彼女の言葉に、恐ろしいほどの重みと、一種の狂気的な説得力を与えていた。僕が「もうやめてくれ」と言い出せないのは、彼女が僕以上に苦しんでいる姿を、目の前で見せつけられているからだった。
綾西様のメソッド。それは、決して相手に無理を強いるのではなく、まず自らが限界を超えた手本を示すこと。自らの肉体を犠牲にしてでも、「諦めない心」と「やればできる」という精神論を叩き込む、壮絶なものだった。
僕はようやく、自分が完璧お嬢様だと思いこんでいた彼女の脳筋過ぎる本質、そしてその「善意」の対象になってしまったことに、気づき始めていた。そして、その気づきは、これから始まる更なる日々の、ほんの序章に過ぎなかったのだ。