第二話 賽は投げられた
彼女、綾西様が転校してきて一ヶ月ほどが過ぎた五月下旬。……僕、佐藤誠は彼女の非常に格式高く非常に長い名前が覚えられないので、心の中では綾西様と呼んでいる。
彼女は一ヶ月経ってもなお、僕のイメージに寸分たがわず非常にお嬢様であった。少し強引だな? と思うことはあるが、それもすべて彼女の底のない善意からくるものだ。そのギャップが、むしろ彼女をそこら辺にいるようなコモンお嬢様とは一線を画す、「綾西様」たらしめているともいえる。
そんな僕はといえば、教室の隅の席で、変わり映えのしない自分と、これから始まる一年間に軽い憂鬱を感じていた。クラス替えから1ヶ月以上が経ち、すでにグループが形成されつつあるその様子を横目で眺めながら、今年も特に親しい友達はできず、寂しく過ごすことになるんだろうな……と僕はあきらめている。
でも、綾西様、彼女が隣にいるだけで僕の心は満たされる。しかし僕から話しかけることは決してしない。綾西様という完璧なお嬢様が僕によって穢れてしまうことを防ぐためだ。
この季節の陽乃高校は、間近に迫った体育祭の話題で持ちきりだ。クラスごとにTシャツのデザインを考えたり、応援の練習をしたりと、校内全体がどこか浮き足立っている。僕にとっては、あまり得意ではない季節。運動神経には全く自信がなく、団体競技やリレーなど、足を引っ張るのが目に見えているからだ。
そして、その懸念は最悪の形で現実となった。今日のホームルームで、体育祭の花形競技、クラス対抗リレーの選手決めが行われたのだ。
「次はリレーの選手だけど……足の速さに自信のあるやつ、前に出てくれ!」
体育委員の威勢のいい声に、クラスの俊足自慢たちが次々と名乗りを上げる。第一走者から第三走者までは、比較的すんなりと決まった。ちなみに、第三走者は綾西様。足も速いとはさすがだ。問題は、最も重要でプレッシャーのかかる最終走者、アンカーだった。
「アンカー、誰かやりたいやついるかー?」
シーン、と教室が静まり返る。誰もが目を逸らし、責任重大な役割から逃れようとしているのが見え見えだった。僕ももちろん、気配を消して俯いていた。もともと薄い存在感を、透明人間であるかの如く極限まで薄める。僕の特殊能力だ。
綾西様が「アンカーも兼任いたしますわ」と提案するが、さすがにそれはダメだと担任の増田先生が止める。増田先生はブーイングの嵐を浴びる。かわいそうに。僕もささやかながら心の中でブーイングの意を送っていたのだが、そんなクラスの空気を傍に、僕の隣の席に座っていた綾西様がすっ……と立ち上がる。
「お静まりくださいまし! 決まりですから、先生を非難しても意味がございませんことよ。公平にくじ引きで決めましょう」
水を打ったように静かになる教室。凛とした彼女の姿は、まるで天から降臨した女神……窓から差し込む光が彼女を照らし、それはまるで後光で、そのあまりの神々しさにクラス中の生徒が息をのむ。
増田先生は、彼女が助けてくれたことに感動したのか、涙目で綾西様を見つめている。彼女は教室が静かになったことを確認すると音もなく座り、体育委員に続きを促す。
「……じゃあ、くじ引きにするか!」
綾西様の提案だ。もちろん誰も反対しない。
……うん? くじ引き? 嫌な予感しかしない。名前が書かれた紙切れが箱に入れられ、シャッフルされる。
頼む、当たらないでくれ……! 心の中で必死に祈る。当たらないでくれぇ! 当たらないでくれぇええええええええ!!!
「はい、じゃあ引くぞー! 今年のアンカーは……」
ゴソゴソと箱を探る手。やがて引き抜かれた一枚の紙。体育委員がその名前を読み上げる。僕は念を込める。念写だ。頭に、そして手に意識を集中し、彼が持つその紙に書いてある文字を書き換える。書き換えるんだ。書き換え
「佐藤誠!」
「…………えっ」
時が止まったかと思った。……僕の名前? 嘘だろ? 周囲から、同情とも諦めともつかない、微妙な視線が突き刺さる。「うわ、佐藤かよ…」「ドンマイ」そんな囁き声も聞こえてくる。顔から火が出るほど恥ずかしい。なんで、よりによって運動音痴の僕が、クラスの命運を握るアンカーなんだ……!
その後の授業内容は、全く頭に入ってこなかった。頭の中は「どうしよう」「逃げたい」「辞退したい」という言葉でいっぱいだった。でも、どうやって断ればいい? 一度決まったことだし、代わってくれる人もいないだろう。
ああ、体育祭当日、全校生徒の前で無様に抜かれて、クラスのみんなに白い目で見られるんだ……。想像するだけで胃がキリキリと痛んだ。もうどうにでもなれ……
昼休み。食欲もなく、教室の中で一人、どんよりと落ち込んでいると、ふわりと優しい香りがした。顔を上げると、すぐそばに綾西様が立っていた。彼女は屈んで、心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。
「佐藤さん、大丈夫ですか?」
「あ、綾にしィアァウィ院様……!」
思いがけずにあこがれのお嬢様、綾西様に声を掛けられ、僕は意識が飛びそうになる。かろうじて返事をしたが、緊張で声がかすれる。彼女は僕を安心させるように口に手を当てて微笑む。
「ふふ、『るりか』と呼んでくださいまし」
「はい、綾にしィん様……」
「……ホームルームの後から、ずっと浮かない顔をしていらっしゃるようですが……何か、お悩みでも?」
まさか彼女が僕のことを見ていてくれたなんて。驚きと、少しの嬉しさで、心臓がドキリと鳴る。彼女の透き通るような瞳に見つめられると、なんだか自分の惨めな悩みがちっぽけなものに思えて……いや、やっぱり重大な問題だ。
「あの、その……」
打ち明けるべきか、ためらう。こんな情けない悩み、彼女に知られたくない。でも、彼女の心配そうな、真剣な眼差しを見ていると、ついポロリと言葉がこぼれてしまった。
「……体育祭の、リレーで……俺がアンカーで……」
言いながら、自分の声が震えているのがわかる。恥ずかしくて、俯いてしまう。
「俺、足、すごく遅いから……きっと、みんなに迷惑かけちゃうし……どうしたらいいか……」
そこまで言って、僕はハッとした。そうだ、彼女に相談すれば、何か良い断り方を教えてくれるかもしれない。あるいは、誰か他の人に代わってもらえるように、うまく取り持ってくれるかも……!
そんな期待を込めて、恐る恐る顔を上げる。しかし、綾西様の反応は、僕の予想とは少し違っていた。彼女は、困ったように眉を寄せながらも、その瞳の奥に、何か強い意志のような光を宿していた。
「……それで、佐藤さんは、どうしたいのですか?」
「え?」
「リレーから、降りたいのですか? それとも……」
彼女は僕の目をじっと見つめて続ける。
「……本当は、少しでも速く走れるようになりたい、速く走って皆に胸を張って接することができるようになりたい、と願っているのではなくて?」
その言葉は、僕の心の奥底を見透かしているようだった。そうだ、辞退したい気持ちはもちろんある。でも、心のどこかでは、もし可能なら少しくらいは速く走って、みんなを見返したい、綾西様にかっこ悪いところを見せたくない、そんな気持ちも確かにあったのだ。無理だと初めからあきらめてるだけで……
憧れの彼女を前にして、見栄と本音が入り混じる。僕は、自分でも気づかないうちに、こう口走っていた。
「……できれば、もう少し……ほんの少しでもいいから、速く走れるようになりたい、なって……思って…る……と思います……」
言ってしまってから、後悔した。無理に決まってるのに。何を言ってるんだ、僕は。しかし、彼女は僕の目をまっすぐに見つめ、静かに、しかし有無を言わせぬ響きを持つ声で問いかけた。
「佐藤さん。もう一度、お伺いしますわ。あなたは本当に、心の底から、速く走りたいと願っていますのね?」
その声の真剣さに、僕は思わず息を呑んだ。さっきまでの優しい雰囲気とは明らかに違う。彼女の本質の一端に触れたような、そんな気迫が伝わってくる。「え……あ、うん……たぶん……」と曖昧に答えそうになるのを、彼女の強い視線が許さない。
僕が言葉に詰まっていると、綾西様はさらに一歩、僕に近づいた。逃げ場はない。彼女は、さらに深く、僕の心の奥底を覗き込むような瞳で、決定的な問いを投げかけた。
「人間の限界を決めているのは、その人の気持ち。人は、気持ち次第で何にでもなれるのです。佐藤さん、あなたが覚悟を決めていただけるのでしたら、わたくしは全身全霊、粉骨砕身、わたくしの持つすべてを注いであなたの悩みを解決して差し上げますわ。さあ、選んでくださいまし」
「覚悟」という言葉の重みが、ずしりと僕の胸にのしかかる。彼女の瞳は、一切の揺らぎを見せず、僕の答えを待っていた。全身全霊、粉骨砕身で……? 具体的に何をしてくれるのかは想像もつかない。でも、彼女がこれほど真剣に問うからには、彼女も生半可な覚悟ではないのだろう。
どうしよう。ここで「いいえ」と言えば、きっと彼女は「そうですか」と静かに引き下がるだろう。それが一番楽な道かもしれない。でも……。
この1ヶ月でクラス中のあらゆる問題を解決してきた綾西様なら、僕みたいな運動音痴でも、何か特別な方法で速くしてくれるんじゃないか? 自信がなくて自分自身をあきらめている僕を、変えてくれるのではないか? そんな甘い期待が、僕の心の中でむくむくと膨らんでいた。そして、何より、彼女の前で「覚悟がない」なんて、情けない姿は見せたくなかった。
様々な感情が頭の中を駆け巡り、せめぎ合った末、僕は、ほとんど脊髄反射で叫んでいた。だってこんな美しいお嬢様が僕を助けてくれるって言ってるんだぞ!?
「は、はい! あります! やります!」
声が裏返っていたかもしれない。深く考えた上での返事ではなかった。ただ、彼女の期待に応えたい、その一心だった。……あと、少しの下心。
僕のその返事を聞いた瞬間、彼女の瞳に、一瞬、強い光が宿った。それはまるで、探し求めていた答えを見つけたかのような、あるいは、これから始まる戦いへの決意を固めたかのような光だった。
彼女は、厳粛な表情で、しかしどこか満足そうに、こくりと深く頷いた。
「その覚悟、しかと受け止めましたわ、佐藤さん」
綾西様……! 彼女の目には一点の曇りもない。彼女なら、綾西様なら本当に、こんな僕が日の目を見る日をもたらしてくれる気がした。僕の胸は期待で膨らむ。
「では、明日4時にグラウンドに集合ですわ」
なるほど。明日の放課後から練習を始めるということなのだろう。放課後に綾西様と二人で練習……綾西様と二人で練習! 放課後に綾西様と二人で! 緩んだ僕の顔を見て、彼女は両手を上品に合わせて微笑みながら、しかしきっぱりと付け足す。
「朝の4時でございますから、お間違いなきよう。まずは眠気に打ち勝ち、精神を律するところからですわ」
「はぃ。はぇぁ、えっ……朝の……え……?」
これが、これから始まる想像を絶する日々の始まりの合図だったことを、この時の僕はまだ知る由もなかった。