第三話 賽を投げつけられたい
青く晴れ渡った空、そこから注ぐ柔らかな陽射しが優しく照り付ける外の景色を、わたくしはダージリンティーを口にしながらぼうっと眺めていました。遠くから聞こえる小鳥のさえずりは、穏やかで平和な一日の始まりを感じさせます。……本当に穏やかで平和な一日。佐藤さんが「普通」の高校生に戻ってからの一週間、彼の狂気でわたくし、そしてクラスの方々が振り回されることはなくなり、わたくしもようやく肩の荷を下ろせたのです。
下ろせたのですが……わたくしはお友達と談笑している佐藤さんを眺めます。これで良いはずですのに……。佐藤さんが普通の生徒に戻り、わたくしも彼を止めるために身を削ることがなくなった。これこそ、わたくしが望んでいた平穏な日常のはず……
「瑠璃華~。ご機嫌麗しゅうございますかー?」
「ございます……」
「……大丈夫? 最近元気ないけど……」
「ございます……元気いっぱいでございまする……」
「もうお嬢様言葉じゃなくて時代劇になってんじゃねーか」
わたくしは心にぽっかりと穴が開いてしまったようで、ここ数日は燃料がなくなってしまったように、こうしてぼうっとしていました。お友達が、おそらく心配をしてわたくしに声をかけてくださるのですが、わたくしの頭の中は得体のしれない感情でいっぱい。ついうわの空で返事を返してしまいます。この言いようのない物足りなさは何なのでしょうか。以前の、あの……破天荒で、目が離せなくて、わたくしが必死で支えなければならなかった佐藤さんとの日々が、妙に……懐かしく感じられるなんて……
常識的で、真面目で、そして自分に対してどこか壁を作っているように見える佐藤さん。その姿は、安心できる反面、わたくしにとって、あまりにも刺激がなく、そして寂しいものに感じられ始めていました。今日は佐藤さんの近況を少し踏み込んでお伺いしようと思い、話しかけてみたのですが……
「佐藤さん、ごきげんよう。今日の放課後、お茶でもいかがでしょう? わたくし、お気に入りのダージリンティーがございまして、ぜひわたくしのお屋敷で……あ、気に入っていただければ、一年分、いえ、百年分のダージリンティーパックを差し上げますわ!」
「え、百年分はいらないかな……それに今日の午後は先約があって……また今度行きます」
「え、ええ……それは仕方がありませんわね。ではいつに……千年分用意することも可能——」
「あ、ごめん、呼ばれてる! また今度決めよう!」
佐藤さんはお友達に呼ばれて行ってしまいました。……避けられている? 佐藤さんが、わたくしを避けていらっしゃる……? わたくし、何か彼を怒らせるようなことを……? 千年分でも足りなかったというの? いいえ、そんなはずは……。でも、この距離感は……
平穏を手に入れたはずの心に見え隠れしていたさざ波は、この出来事を境目に、明確な波紋として広がっていきました。それは、自分でも理解できない、矛盾した感情でした。「これで良いはず」という理性と、「何かが足りない」という本心。わたくしは、生まれて初めてかもしれない、自身の感情の迷宮に迷い込み始めていました。
——いけませんわ……このままでは……!——
わたくしの中で、警鐘が鳴ります。
そう、佐藤さんのあの、常識の壁を打ち破る輝き……あの、限界を超えようとする純粋な魂の煌めきが、失われてしまっている……! あれこそが彼の真の姿のはず。わたくしが、再び彼の眠れる獅子を呼び覚まさなければ……!
これは決してわたくしの個人的な寂しさや物足りなさから来るものではありません。あくまで、彼の持つ類まれなるポテンシャルを、再び開花させるための「善意」なのです。……わたくしは、そう自分に強く言い聞かせます。意志の力です。意志の力、そしてあきらめない心をもって、いままでそうしてきたように、佐藤さんに再び「覚悟」を取り戻していただくのです! そうすれば、わたくしのこの心の穴も消えてなくなる……いえ、気のせいだと明確になるはず。
最初の試みは、数学の授業中でした。難解な応用問題に、佐藤さんが真剣な表情で取り組んでいます。好機。わたくしは、そっと彼の隣に寄り、ノートを覗き込みながら囁きました。
「佐藤さん、その解法ではあまりにも平凡で、芸がありませんわ。意志の力を使うのです。もっとこう……思考の次元を一つ、いえ、三つほど上げてみてはいかがでしょう? 例えば、この数式を一旦、虚数空間に投射し、そこから特異点定理を応用して……あるいは、未来のあなたが解答を導き出している瞬間を、量子レベルで観測するとか……限界突破をするのでございます」
決まりました。佐藤さんの好きそうな言葉ばかりです。かつての佐藤さんなら、「なるほど! やってみます!」と目を輝かせたはず。しかし——。
「え? 綾羅錦繍院さん、何言ってるの……?」
佐藤さんは、心底不思議そうな顔でわたくしを見上げます。
「虚数空間? 未来の観測? これ、ただの二次関数の応用問題だよ? ……もしかして、疲れてる?」
「……………え?」
佐藤さんの思いがけない反応に、わたくしは心臓が止まったかのような錯覚を覚えました。心配……された? 違う。そうじゃない。なぜ、そんな普通の、常識的な反応をなさるの? わたくしの提案の、その革新性が理解できないとでも? 内心で激しく動揺しましたが、表面上は平静を装うしかありませんでした。
しかし、わたくしはあきらめません。ならば、もっと直接的な方法で、彼の「限界突破」への欲求を刺激しなければ。
次の体育の授業。鉄棒が目に入った瞬間、わたくしは閃きました。
「佐藤さん! ご覧になっていてくださいまし!」
わたくしはそう言うと、助走もつけずに軽々と鉄棒に飛び乗り、大車輪を披露……しようとして、少しよろけました。周りから悲鳴が上がります。いけません、最近、佐藤さんの奇行がなくなったせいで、わたくし自身の身体も鈍っているのかもしれません。
気を取り直し、わたくしは鉄棒の上で仁王立ちになり(多少の危険は覚悟でカバーします)、隣の校舎を指差して宣言しました。
「人間というものは、覚悟と、空気力学、そして適切な踏み切り角度さえあれば! この鉄棒から! あちらの校舎の窓枠まで、飛び移ることだって可能なのですわ! さあ、わたくしがその可能性を証明し……」
まさに、その鍛え上げた脚力で跳躍せんとした、その時。
「うわっ! 綾羅錦繍院さん、危ない!! 何してるの!? 本気で!!」
ものすごい剣幕で駆け寄ってきた佐藤さんに、文字通り鉄棒から引きずり下ろされました。地面に尻餅をつきそうになるのを、彼が必死で支えてくれます。
「い、いった……! な、何をなさいますの、佐藤さん! わたくしは今、人間の可能性を示そうと……!」
「可能性とか以前に危なすぎるって! 下手したら大怪我だよ!? これって誰かのためになるの? 最近なんか変だよ、綾羅錦繍院さん! 疲れてるんじゃないの!?」
叱られた……? わたくしが……? 違う……ここは、「すごい! 僕も挑戦します! 瑠璃華の後に続きます!」と言う場面のはず……! これが誰かのためになるか? それはもちろん……もちろん……
期待していた反応とのあまりの乖離に、わたくしは激しいショックを受けました。頭が真っ白になります。なぜ? なぜ、彼は普通の反応しかしないの? わたくしが間違っているとでも言うの?
その後も、諦めきれないわたくしは、手を変え品を変え佐藤さんの覚悟を取り戻そうと奮闘します。お友達はわたくしにやめた方が良いというのですが、わたくしは自分の行動の意義を彼女たちに優しく説明して差し上げ、行動に移します。佐藤さんのお弁当にこっそり世界一辛いスパイスを振りかけてみたり(「うわっ! 辛っ! ……誰かの嫌がらせかな?」と普通に困惑された)、彼のノートの隅に「限界を超えろ!」と熱いメッセージを書き込んでみたり(きょとんとされた後、そっと消しゴムで消された)、果ては彼の家の前に夜中に立ち、「さあ、佐藤さん! 今こそ内なる声に従い、走り出すのです!」と念を送ってみたり(もちろん効果はなく、翌日不審者情報が出ていないか心配になった)。
しかし、わたくしの「狂気再燃工作」は、ことごとく空回りしました。佐藤さんは、わたくしの奇行を心配し、呆れ、時に優しく諭し、そして……明らかに、少しずつ引いているようでした。
何かが、違う……。わたくしがやっていることは、本当に「善意」なのかしら……? なぜ、彼は応えてくれないの……? もしかして、おかしいのは……わたくしの方……?
そんな疑念が、霧のように心を覆い始めます。しかし、それを認めてしまえば、この言いようのない物足りなさと寂しさの理由が分からなくなってしまう。「覚悟」でも「意志の力」でも「あきらめない心」でも解決できない。わたくしは、迷子の子供のように、ただ混乱し、立ち尽くすしかありませんでした。
……普通の人ならばそうなるでしょう。
しかし、わたくしは「覚悟」「意志の力」「あきらめない心」を兼ね備えた女、綾羅錦繍院瑠璃華。わたくしはあきらめません! 「覚悟」をもって佐藤さんにぶつかり、「意志の力」をもって不可能を可能にし、「あきらめない心」をもって困難を乗り越える。そして、佐藤さんに再び「狂気と紙一重の覚悟」を取り戻していただく! うまくいかないのは、ひとえにその程度が足りないだけなのです。
佐藤さん、覚悟してくださいまし! きっと、あなたは「覚悟」を取り戻してくれるはず! またわたくしと共に「覚悟」を共有してくださるはず! そして、わたくしを理解してくださるはず。きっとあなたなら……! あなたなら…… お願いですから……
わたくしはもう、自分の考えていることが、わたくしの信条である善意なのか、わたくし自身の願いであるのかも分りません。いえ、本当は分かって……それを認めてしまうと、わたくしの根底が覆る気がして目を背けているのかもしれません。わたくしは自分の想いを自分にすら隠したまま、今までとは異なる、信念のない行先不明の暴走を始めたのでした。