第二話 正気と共にある日常
僕、佐藤誠が狂気という夢、もしくは悪夢から覚めた翌日。二年C組の教室は、いつもとは少し違う、妙に静かな空気に包まれていた。いや、教室自体はいつも通りなのだが、決定的に違う存在が一人。他ならぬ、僕自身だった。
あれほど熱中していた「限界突破」への意欲は綺麗さっぱり消え失せ、僕はごくごく平凡な、むしろ以前よりさらに真面目な高校生に戻っていた。
朝、静かに席に着き、教科書を開いて予習を始める。「脳神経直結型・反復記憶術」とかいうふざけた方法ももう使わない。あんなもので点数が取れるわけないじゃないか。久しぶりによく寝たおかげか、今日は内容がすらすらと頭に入ってくる。
クラスメイト達が僕のことを見ているが、僕は特に気にせず過ごす。昨日まで狂っていた人間が突然普通の振る舞いをしているのだ。気持ちはわかる。綾羅錦繍院瑠璃華さんの姿はまだなかった。
昨日はあの後、駆け付けた担任の増田先生、そしてクラスメイト達と共に彼女を病院に送った。幸い大きな問題は見つからなかったそうで、彼女は昨日そのまま家に帰ったらしい。らしい、というのは、僕は彼女を病院に送ったあとにすぐに家に帰ったため、彼女が病院から帰るときにはいなかったからだ。昨日プールで彼女が目を覚まし安堵の抱擁をして以降、会話はしていない。
「佐藤さん……おはようございます」
もはや自分の生活の一部といえるほどに聞きなれた、鈴を転がすような麗しい声。綾羅錦繍院さんだ。登校してきた彼女はどこか気まずそうで、控え目にあいさつをする。今日、僕は彼女にきちんと伝えなければならないことがある。そのことを意識すると僕は彼女と目を合わせることができず、僕は彼女に体を向けつつも中途半端な空間を見ながら、しかし当然のごとく常識的な挨拶を返す。
「……おはようございます。綾羅錦繍院さん」
「あやにしきぬいん……あら、名字を覚えてくださいましたのね……?」
彼女は戸惑いを見せる。昨日まで僕は彼女のことを彼女の下の名前、つまり「瑠璃華」と呼んでいた。狂気の中で、気が付いたらそう呼んでいた。彼女は上品で、美しくて、なにより善意の塊で、皆の完璧なお嬢様。
僕にとって特別でも、彼女にとって僕はそうでないし、そうであってはいけない。彼女の善意はみんなに振舞われるべきもので、僕が独占し、崩してしまって良いものではない。そんな彼女に僕が馴れ馴れしく接するだなんて、彼女を独占することにつながる、狂気にかまけた自分勝手な行為だったのだ。
だから僕は、これからは彼女のことをちゃんと「綾羅錦繍院さん」と呼ぶことにした。名前を間違えることも、彼女を傷つけるようなことももうしない。これはけじめだ。
彼女は不安と、そして微かな期待を込めた顔を僕に向ける。
「さて、今日はどのような練習を……どのような限界突破をいたしますの?」
「しません。僕の限界突破は、昨日で終わりです」
「あら……そうでございますのね……?」
彼女は、僕のあまりの変化に戸惑いつつも、どこかホッとしたような表情で僕を見ていた。僕は昨日まで、彼女を朝から晩まで巻き込んで、限界突破と称した半ば自傷行為ともいえる奇行をしてきたのだ。彼女の驚きも不思議ではない。僕は意を決して立ち上がり、彼女の正面へ立つ。そして、深く、深く頭を下げた。
「綾羅錦繍院さん。昨日のこと、そして……今までのこと、本当に、本当に申し訳ありませんでした」
顔を上げられない。自分の愚行を思うと、恥ずかしさと後悔でいっぱいだった。
「あなたの優しさや善意を、僕は自分勝手に解釈して、とんでもない迷惑と、数えきれないほどの心配をかけてしまいました。あなたの貴重な時間を奪い、心も体も疲れさせてしまった……。どんなに謝っても足りません」
言葉を続ける。
「もう二度と、あんな馬鹿な真似はしません。普通の、まともな生徒になります。だから……本当に、ごめんなさい」
僕の心からの謝罪に、綾羅錦繍院さんは一瞬驚いたようだったが、すぐにふわりと、以前のような穏やかな微笑みを浮かべた。それは、僕が狂気に囚われて以来、久しぶりに見る、心からの安堵の表情に見えた。
「……いいえ、佐藤さん。あなたが、その……ご自分を取り戻されたのでしたら、それが一番ですわ。わたくしの方こそ、あなたの『覚悟』を真に受け止めきれず、適切なサポートができなかったのかもしれません」
彼女はそう言って僕を許し、そして続けた。
「これからは、普通のクラスメイトとして、改めてよろしくお願いいたしますね」
顔を上げた僕に、彼女は悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。彼女が転校してきた初日に見せた、彼女との出会いを思い出させる懐かしい仕草。彼女のその言葉に、そしてその仕草に、僕は心から救われた気がした。同時に、もう彼女を絶対に傷つけてはいけない、負担をかけてはいけない、と強く心に誓った。
その日から、僕と綾羅錦繍院さんの関係は、単なる「隣の席のクラスメイト」へと変わった。僕は意識的に彼女との距離を置き、必要最低限の会話しかしないように努めた。それが、僕にできる唯一の償いだと思ったからだ。
彼女自身も、最初は僕の変化を喜び、心からの平穏を味わっているようだった。彼女の顔からは険が取れ、目の下のクマも薄くなり、以前の輝きを取り戻しつつあった。
彼女は以前のように、クラスメイトの困りごとを解決していくようになった。
例えば、今日の「巨大たこ焼き事件」。最近刺激がないとぼやいた生徒のために、タコパと称してタコ一匹が丸ごと入った巨大タコ焼き(大きければ大きいほど良いという彼女の理論によるものだが、球形が崩れこんなものはたこ焼きではないと本人は納得していなかった)をすべての生徒に振舞っていた。
例のごとく少しやり過ぎでどこかずれているが、それが彼女なのだ。増田先生もさすがにもう危険なことをさせられないと思ったのか、綾羅錦繍院さんの暴走の気配を察すると早期に止めに入るようになった。教室には、少し騒がしくて、しかし平和な日々が流れていた。
僕はといえば、恐る恐る話しかけてきたクラスメイトたちと、昼休みに当たり障りのない会話を交わす。授業中は真面目にノートを取り、奇妙な呼吸法も、アクロバティックな掃除術も、もうやらない。まるで、体育祭以来の数ヶ月間が、長い夢だったかのようだ。今では友達ともいえる人たちもでき、僕はごく普通の、真面目で健全な男子高生として日常を過ごしていた。
しかし、その平穏が数日続いた頃からだろうか。綾羅錦繍院さんの様子に、微かな変化が見られ始めた。
ふとした瞬間に、彼女はぼんやりと窓の外を眺めていることが増えた。僕が他のクラスメイトと話しているのを、どこか寂しげな目で見ていることがある。そして、僕と目が合うと、以前ならにっこり微笑んでくれたのに、今はどこか戸惑ったように、すぐに視線を逸らしてしまうのだ。
彼女の変化に気が付いていた僕だったが、僕から距離が離れることは、彼女にとっても良いことだと僕は軽く考えていた。綾羅錦繍院瑠璃華、彼女の心情に今までとは異なる変化が訪れていたことを、その時の僕はまだ知らなかった。