もう泣きそうだった
相思相愛となれる相手を見つけなければ、この世界から私は消えてしまう。
そんな大事なことが分かった矢先に。
とんでもない出来事起きる。
それは……。
「た、大変です、ジョシュ様、ダイアナ様。すぐにリビングルームへお越しくださいませ」
ヘッドバトラーが、サンルームでアフタヌーンティーを楽しむ兄と私のところへ駆けてきた。
歳の頃、40代前半のヘッドバトラーは、いつも冷静沈着なのに。
その彼がこの慌てよう。
何かとんでもないことが起きたとすぐに理解できた。
兄と顔を見合わせ、素早く席を立つ。
リビングルームに行くと、そこには母親がいる。
父親は近隣の森まで狩りに行っていたが、すぐに帰って来るように、連絡をしたということで、母親が神妙な顔で兄と私を迎えた。
「大変です。ダイアンが家出をしました」
「「えっ」」
「しかも、今朝出発した船に乗り込んだことは分かっていますが、行き先は明かしてくれていません。無事、到着したら手紙を送ると書かれていました。勿論、一人ではありません。まさかと思いましたが……」
母親は震える手で紅茶を飲み、深呼吸を繰り返す。
「母君、大丈夫ですか。無理はなさらず」
兄の言葉に母親は「ええ、大丈夫です」と何度か頷き、口を開く。
「あ、アーロン先生と共に、た、旅立ったのです……」
つまりはこう言うことだった。
ダイアンは8歳から始まった王太子妃教育で、13歳の時にアーロン先生と出会った。音大を出たばかりのアーロン先生だったが、天才として知られ、王太子妃教育を任されたのだ。
美しく賢いアーロン先生に、ダイアンは一目惚れ。熱心に彼の授業を受けた。王太子妃教育が終わった後も、ダイアンはアーロン先生を慕い、交流は続く。ただ、二人はあくまで教え子と教師という立場を貫き、そこに恋愛の要素は一切感じられなかった。
「でもアーロン先生が独身で、婚約者がいない点を考慮すべきでした。まさか王太子様と婚約しているのに。あの子は、何てことを……」
母親は明言していないが、これは間違いない。
駆け落ちなのだ。
悪役令嬢ダイアンは、まさかのアーロン先生と駆け落ちをしてしまった……!
これは別に断罪回避のための行動ではないと思う。
だってダイアンは転生者ではないのだから。
それに本人は婚約破棄上等、国外追放上等という考えをしていた。
つまり。
純粋な恋心で駆け落ちをしてしまった――ということだろう。
なんとなくではあるが、ダイアンが駆け落ちすることになったきっかけ。
それは……私にあると思う。
予言書などという名前で、ダイアンの未来を知らせてしまった。
そこでダイアンは、自分が王太子と結婚しないで済む未来を知ってしまったのだ。
ダイアンとしては「断罪されたくない」ではなく、むしろ「断罪してほしい」になってしまった。いや……そうではない。私が現れる前から、フランツ殿下から婚約破棄して欲しいと思っていたのだろう。だからオペラも貸し切りにしろなどと、無理難題をふっかけていた。
何しろ王太子との婚約を、ダイアンから破棄するなど許されない。だから王太子から嫌われたいと、ずっと思っていたと思う。彼から婚約破棄してほしいと、ずっと願っていた。
そう考えると、ダイアンと話をした時の彼女の言動の意味が、今さらよく理解できてしまう。さらにここ最近、銀行や役場に行っていたことも、この駆け落ちにつながる行動だったのだと理解できる。駆け落ちした後の、資金準備をしていたのだろう。
ダイアンが急に駆け落ちに向かったのは、私がフランツ殿下の相手を始めたからだ。これは間違いないだろう。彼女としては、殿下とうまくやっている私を見て「だったらダイアナがフランツ殿下と結婚すればいいのよ」と思ったはずだ。
これは……兄も気づいていると思う。
何せ私がダイアンに代わり、ダイアンのふりをして殿下と会っているのを知っているのだから。私がフランツ殿下と過ごすことで、ダイアンが暴走――駆け落ちしたと、兄も分かっただろう。
ローズ家の平和を願ったのに。
とんでもない激震を引き起こしてしまった。
同時に。
ダイアンの片想いは実ったわけだ。
つまり。
ダイアンは大好きなアーロン先生と結ばれたいと思い、フランツ殿下に冷たく接していたが、婚約破棄される気配はゼロだった。それは殿下の寛大さと、現王室とローズ公爵家のつなりの深さゆえだったと思う。
焦燥感をダイアンが募らせた結果……。
ドッペルゲンガーを生み出した。そしてなんの因果か私が、そのドッペルゲンガーに転生してしまった。
さらには私がよかれと思ってとった行動、いやもしかすると兄の教えてくれたドッペルゲンガーが担う役割がそうさせたのか。私がダイアンに代わり、フランツ殿下の相手をしていた。そこでダイアンは駆け落ちを計画し、実行に移したわけだ。
アーロン先生と結ばれたのなら。
ドッペルゲンガーである私は存在する理由がない。
いつ、この姿が消えてもおかしくなかった。
「ダイアナ。自分を責めるのではないよ。お前はお前なりで頑張っていた。仲の悪いダイアンと殿下を見て、仲良くなってほしいと思ったのだろう? そして約束を反故にするダイアンの代わりになろうと奮闘した。兄はよく分かっている。お前は悪くない」
駆け落ちの件を兄と私に話した後、母親は力が抜け、今はベッドで休んでいた。相当ショックだったようだ。それも当然だろう。王太子の婚約者が駆け落ちなんて。きっと母親は「ローズ家は終わった」と思っているだろう。
そんな母親を見て、落ち込む私にかけられた兄のこの優しい言葉。
もう泣きそうだった。