皇太子に見初められた私のファーストキスの相手は第二皇子です
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「皇太子の命、否、望みとして言う。ユイリィ、誰よりも愛おしいユイリィ、どうか私の妻になってほしい」
パーティーの場――壇上から、まさに皇太子が自らの名にかけて私にそう告げ、唱えてくれた。この人となら一緒になってもいい――そう考えた。言ってみれば幼心にもそう感じた。私はぽろぽろ泣いた。だけどそれは皇太子の言葉が嬉しかったからではないと思う。自分に決められた運命――皇太子と一緒になる、ならなければならない――そんな一生を刹那のこととはいえ呪ったのだと思う。
私はやはり、ぽろぽろ泣いた。周りの――特に女性はやはり「そんなに喜んで」と微笑ましげだ。だが一人だけひどく深刻そうな顔をする「男性」がいた。
――第二皇子のルイ殿下だ。
「ユイリィ様、どこかおつらいのですか? であれば、おっしゃってくださいませ。私が対応いたします。兄からそうしろと言われておりますので」
私は寄りかかるようにして、ルイ殿下に抱きついてしまった。ルイ殿下は驚いたような声で、「ど、どうされました? ユイリィ様」と訊ねてきた。
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私はまだ十四になったばかりだ。皇太子のことが好きなのかどうかはわからない。ただ名誉であることはわかっている。私はかわいらしい顔をしているらしい。愛らしい女の子らしい。だから見初められたらしい。外見を認められただけ。あるいはそれは悲しいことなのかもしれない。ただ、私が「皇族に入る」ということについて、両親はとても喜んでくれている。それは私だって喜んでいいことなのかもしれない。
でも――。
そもそも私は恋愛というものがよくわかっていない。興味も湧かない。だけどそう遠くない将来、もっと言うと近い未来に子をもうけなければいけないことくらいはわかっている。皇太子と「それ」が「できる」? わからない。わからないから――むしろ「したくない」から苦しいんだ。
私は馬が好きだ。だから今日も厩舎で過ごしていた。特に大好きな黒鹿毛の馬の前で話したところで解決するわけがない悩み事を打ち明けていた。馬鹿みたいな話だと思う、ほんとうに馬鹿みたい……。
「あっ!!」
それはほんとうに大きな声だった。なんとなくだけれど、それは私を見つけたからであろう声であることがわかった。第二皇子のルイ殿下の声だ。私は慌てて涙を拭い、パッと立ち上がって、ニコッと笑った。
「ルイ様、どうかなさいましたか?」
「ユ、ユイリィ様、いま、泣いていらっしゃいませんでしたか?」
「どうして、そう?」
「だって、目尻から涙の痕が……」
「気になさらないでください。それで?」
ルイ殿下はびっくりしたように目を大きくした。
「それでもなにもありません! 兄上が――だから僕はあなたを探して――」
「皇太子様がお呼びなのね。わかりました」
なにも意識していないだろう。なにも特別な気持ちなど持っていないだろう。だけど、むしろだからこそだろうか、ルイ殿下は私の左手を引いて、ぱたぱた駆けるのだ。
「早く早くっ。兄上に怒られてしまいますっ」
そう言って馬上から手を差し伸べてくれた彼の笑顔が素敵に見えた。
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私は皇太子のことが嫌いというわけではない。だからつらい。申し訳のない思いに駆られてしまう。二人きりの部屋。肌の接触を許した。背を抱かれることを許した。だけど、唇だけは許せなかった。
「ユイリィ……?」
「ごめんなさい、申し訳ありません、皇太子様。私は、私は……っ」
部屋から飛び出した。広い屋敷だ。どこに行けば外に出られるなんかわからないし、外に出ることができたところで、皇太子を拒んだ時点で、私に逃げ道も居場所もないだろう。
そんな折、長い廊下を――暗闇の中、歩いて来る人物に気がついた。ルイ殿下だ。寝間着姿であくびをしながら、ほんとうに眠そうに歩を進めてくる。ルイ殿下は私の姿を見つけると、当然だろう、ぎょっとしたような表情を浮かべた。なにせ私は半裸だ。私と皇太子がどういう状況にあったかは把握していたことだろうし、だからこそ驚いているわけだ。
「ユ、ユイリィ様、どうされたのでございますか?」
それは呆気にとられたような声で、だから私はなかば安心した。頭を両手で抱え、それでも、涙に顔をぐしゃぐしゃにされながらも、そう、安心したのだ。
頼もしい空気、足音、ルイ殿下が毅然とした様子で近づいてくるのがわかった。真面目に話そう、取り合おう、そんな雰囲気が伝わってくる。
「ほんとうにどうされたのですか、ユイリィ様。兄上となにか揉め事でも?」
私は泣きながら微笑んだ。
微笑みながら、泣いた。
「ルイ殿下、お願いします。どうか私を連れて逃げてください」
「えっ」
「お嫌ですか?」
ルイ殿下は目をしばたいてみせた。
「本気なのですか? ユイリィ様」
「えっ」
「いま、あなたがおっしゃった言葉は、ほんとうですか?」
愛の言葉は皇太子から数えきれないほど聞かされた。だけど、これだけ胸が弾む瞬間があっただろうか。胸が躍る瞬間があっただろうか。もっと言うと、単純に、どきどきする瞬間があっただろうか。
「ユイリィ様が兄上と結婚する。だったら、自分を納得させることもできたかなって――」
「えっ、それって、ルイ様……?」
「許されるなら許してほしかった。ユイリィ様、私はあなたを愛しています」
「えっ」
「もはや父上も兄上も関係ありません。私と結婚してください」
ルイ殿下は右の膝をつき、私の右手の甲にキスをした――寝間着姿で。私は左手で口元を覆うようにして押さえた。「ひゃっ」と声を上げてしまいそうになるくらいのびっくりだった。
「待っていてください。すぐに着替えてきますから」
「あっ、でしたら私も――」
「目が眩みそうです。だから、そのままで」
「そんな、恥ずかしい……」
「あなたは綺麗です、ユイリィ様」
涙が止まらなかった。
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ルイ殿下は私を後ろに乗せ、馬を走らせた。ルイ殿下は「真面目」で通すいっぽうで、じつは「やんちゃ」でも鳴らしてもいる。どこに連れて行かれるのかと思っていると、街の酒場だった。「今日は俺の結婚記念日だーっ!」などと高らかに宣言し、私は驚きのあまり目を白黒させる。店内は「わーっ!」と盛り上がった。ごつい男の人も、ちょっと遊んでそうな女の人も、みんな拍手をして、「やったーっ!」と声を上げる。私は先達て皇太子との結婚を発表したばかりだ。なのに、ここにいる人たちは……。
男の人たちはほんとうに楽しそうに笑ってる。
女の人たちは私の肩を抱き、「おめでとーっ」だなんて言ってくる。
そのうち私は場に馴染み、みんなの前でビールを飲んだ。
パスタを食べて、フライドチキンを食べた。
やっぱり涙は、止まらなかった。
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芝生は短く刈られていて、闇夜の草の丘。さんざん飲んで食ってしたあと、私はルイ殿下に連れられ、そんな場所にいた。満天の星空。綺麗、ほんとうに。
「ああ、明日、兄上にはなんて説明しようかなぁ」
なんとものんきな感じで、ルイ殿下は言った。
「あ、あの殿下、でも、私がきちんと皇太子様に謝罪すれば――」
すると、ルイ殿下は振り返って、笑って。
暗闇の中でもわかるくらい、それは気持ちの良い笑顔で。
「もうそういう話ではないと思います。あなたは兄上から逃げてしまった。私はあなたを連れて逃げてしまった。だけど、それは悪いことだとは思っていません。僕は僕の気持ちとして、ユイリィ様、あなたと結婚したいです」
なにか言おうとしたところで、私は背を正し――つまるところ、なにも言えない。
ルイ殿下が近づいてくる。
腰を抱かれた――なにも言えない。
背を抱かれた――やっぱりなにも言えない。
「ユイリィ様、キスをしてもいいですか?」
「……はい」
素直に言えた。
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じつのところ、兄である皇太子より、ルイ殿下のほうが発言権は大きなものであったらしい。彼が「右だ」と言えば皇太子も「右だ」と言わざるを得ないような関係であったようだ。あり得ない? あり得るのだからしょうがない。帝国の王たる父上殿もまたしかり。でも、そうであるからこそ、皇室も常識的なのだなと感じさせられた。世の中、そんなに悪い人はいない。そんなふうにまで思わされたくらいだ。結局のところ王はルイ殿下を許し、私も父に許された。ルイ殿下は言っていた。「父は笑っていた」と。私の父も最後には笑った。「おまえが幸せならそれでいい」と。
たくさん泣いて、たくさん笑った。
この先もずっとずっと、ルイ殿下は――ルイは、私にたくさんの涙と笑顔をもたらしてくれることだろう。
「ああ、でも、僕、そのうち兄上に殺されちゃうかもなぁ」
「ほんとうにそう思っているの?」
「ユイリィは綺麗だから」
「妃殿下は美しいわ」
「だから、なに言ってるの。ユイリィのほうがかわいいってば」
私の夫は単純でちょっとおっちょこちょいで、だから好きなんだ。