森の中での語らい
前回までの三つのできごと!
一つ! テオはアベルと一緒に生贄の儀式に向かったが、それをぶち壊してしまった!
二つ! 伝説の騎士は伝説の騎士でも、裏切りの黒い騎士だった!
三つ! 後藤が誤ってオーズを撃ってしまった!
今回も地獄に付き合ってもらう。
アルガスたちの一行から身を隠すべく入った王都の近くの森で、
俺は朦朧とする意識の中リインを抱えながら歩いていた。
鬱蒼と茂った無数の広葉樹が日差しを遮り、
僅かにその葉の間から漏れた木漏れ日が俺たちを照らしていた。
重い具足が土にめり込み、転がっていた小枝をへし折る音がする。
視界が揺らぎ、足取りが覚束なくなっていく。姿は未だにファレスのままだった。
剣は気付いた時には虚空に消えてしまったが、いつでも呼び出せるという確信が頭の中にあった。
確信というよりは、知識としてあった。ファレスの知識だろうか。
体中が重い。鎧の下の中身に、肉の代わりに鉛でも詰められた気分だ。
リインが何かを言うが、それすらも聞こえない。
やがて揺れていた視界が停止した。代わりに視線の位置が低くなる。
どうやら膝を突いてしまったらしい。立ち上がろうと体を軋ませるが、それすら叶わなかった。
リインが腕の中から飛び降り、ひらりとドレスの裾を翻しながら着地する。
頭の中がぼんやりとした霧に包まれていく。
俺は意図せず目を瞑ってしまい、そのまま意識を手放した。
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瞼を開けると、一面の夜空が広がっていた。小さな星が瞬き、弓張り月が静かに飾られている。
土の上にそのまま寝かされていたみたいだ。上半身を起こし、周囲を見る。
木々の数が若干減った開けた空間だった。
少し離れた場所で、ドレス姿のリインが屈み、何やら小高く積まれた細い枝や葉を相手に四苦八苦していた。
俺の背嚢が彼女の近くに転がっていた。火打石などの道具が地面に乱雑に広げられている。
「何やってんだよ」
「あ、起きた。寒いから火を熾そうとしたんだけど、中々上手くいかないね。全然つかないや」
リインが端正な顔立ちをくしゃりとさせて笑った。
それが強がりだと見抜けぬほど、俺も単純ではなかった。
あんなことがあった後なのに、強い女だ。
感心しながら立ち上がり、リインの傍まで歩み寄って膝を突く。
確かに、こんもりと積まれた枝と葉には火が付いた様子はない。
背の低い若木の枝を折って積んだのだろう。
「冬ならともかく春の生木だからなあ、少し置いて乾かした木じゃないとあんま燃えねえんだよ。
おまけに運良く火がついても煙いだけときてる。
葉っぱも枯れ葉でもねえから火つきにくいし……木が風よけになってくれてるけど、
それでもきついか。無理だな、焚火は。火口もねえし」
えー、と眉間にしわを寄せながら枝葉を指でつつくリイン。
確かに、いくら春とはいえ夜は冷える。薄手のドレスしか着ていないリインには酷だろう。
「魔法は……使えたら、こんなことしてねえよな」
「ごめんなさい、私、白魔法しか使えないの」
リインが申し訳なさそうにうつむいた。
俺は一切魔法が扱えないが、この世には二種の魔法が存在することは知っていた。
一つは白魔法。主にアビスに祈りを捧げることで発現する、治癒の力である。
もう一つは黒魔法だ。こちらは自然に呼びかけ、その現象を限定的に操るというものだった。
他にも系統があったようだが、既に失伝してしまってこの世にはないらしい。
魔法のことは世間一般に知られている知識しかない。基本的にヒュームは魔法への適性がないのだ。
古来から続いている純粋な血族、つまりは王族や名のある貴族であれば話は別だが、
そうでない者には未知の神秘以外のなにものでもなかった。
そのためか、魔法を使った文化もこの世界では未発達らしい。
「白魔法が使えるだけでもすげえよ。
しっかし、どうしたもんかな。ここで着の身着のまま寝ても風邪引いちまう。
飯もねえし……あの時荷馬車の一つでも掻っ攫っておきゃよかったな」
俺の言葉を聞いて、リインが俺の顔を見た。
何か思い出したような表情で、視線を俺の全身に巡らせている。
「もしかして、あなたがテオ?」
「そういや顔見せるのは初めてだったな。
よろしくな、元従士のテオだ。今頃は反逆者かもしれねえけど」
冗談めかして言うと、リインは「ごめんなさい」と小さく呟いた。
途端に表情が暗くなり、目を伏せる。
しまった。もっとよく考えて発言するべきだった。
だが、上手い返しも思い浮かばない。結局、俺たち二人は押し黙ってしまった。
正直、本当に後悔はなかった。
今の今まで何も知らない娘を石棺に閉じ込めて人柱にして、
どいつもこいつものほほんと暮らしていたのだ。
王も結局は家族を差し出すのが嫌で、思い出したように妾に産ませたリインを生贄にした。
言ってしまえば、世界中の人間が寄ってたかって自分たちのためにリインを殺して、
それを何とも思わずに過ごそうとしていたようなものだ。
俺があの時ファレスの名を呼ばなかったら、
今頃こいつは暗い石棺の中で涸れるまで泣いていたに違いない。
それをむざむざ見過ごして騎士団に戻るなんていうのはごめんだったし、
何よりも腹が立った。リインの死を良しとする王や騎士団に、
そして何も知らずに無責任な希望をリインに抱かせた俺自身に。
単純に国への反逆者として追われる身であれば、恐怖と絶望に竦みあがっただろう。
だが、それを怒りが塗りつぶしていた。
「私が大人しくあそこに入ってれば、テオはこんな目に遭わずに済んだんだよね」
「馬鹿言ってんじゃねえ!」
リインの悲壮な言葉を聞き、俺は思わず声を荒げた。
リインの心は絶望に染まっている。それくらい俺にも分かる。
実の父に自分の生を否定され、この世すべての人間に死を望まれたのだ。
今、リインの代わりに怒ってやれるのは俺だけだ。
「いいか、俺は一切後悔してない。決めたんだ、二度と後悔するような生き方はしねえってな。
おまえを見殺しにしていたら、俺はきっとだめになってた。
何も手につかなくて、何食ってもうまくなくて、なんにも楽しくなくなってた。
騎士団なんかさっさとやめて、親元戻って死んだ魚みてえな目しながら土いじりしてたさ」
一気にそこまで言い切ると、リインはきょとんとした顔で俺を見た。
目尻には今にも落ちそうな涙が震えている。
「いいじゃねえか、生きようぜ。どっか誰も知らない場所に行ってよ……
おまえが静かに暮らせるようになるまで、俺も頑張るからよ。
おまえをあの棺桶から引きずり出したのは俺だ。途中でほっぽりだしたりなんかしねえ。
責任取って、最後まで面倒見てやるって」
できる限り自信に満ちた表情を作って見せ、胸を張り右手で叩く。本心だった。
一度助けて、あとは知らないから勝手にしろ、生きるも死ぬもおまえ次第などと言えるほど、
俺の心は腐り切ってはいなかった。
はあ、とリインがどうしようもないものを見たと言わんばかりにため息を吐いた。
前触れもなく肩を軽く叩かれる。
「なんだよ」
「自覚なさすぎ。そういう言葉を女の子に言うときは、もう少し慎重にならなくちゃ。
でも、本当に変わってるね、テオは。言うことも性格も髪も」
「髪? ただの黒髪だろ」
自分の髪をくしゃくしゃとかき分けるように触る。
ファレスの姿になった拍子にぼさぼさになってしまったのだろうか。
「右側の前髪が少しだけ、真っ白になってる。黒い炭の上に牛乳を垂らしたみたい」
リインがくすりと笑う。
髪が白くなっている? 一体どういうことだ。
自分の前髪のうちの数本を掴み、「ここらへんか?」とリインに聞く。
頷くリインを見て、思い切り引き抜いた。痛みに顔をしかめていると、リインが息を呑むのが見えた。
手の内の毛は、確かに白かった。
老化による白髪とは違う。色素がなくなって透明になっているのではなく、
絵の具で染められたみたいにあからさまに白くなっていた。
リインが文句でも言おうとしたのか口を開き、そして閉じた。
俺の後ろを指さし、「ほんと、どうしよう」と呟く。暗く諦観に満ちた表情だった。
振り返ると、木陰からのそりと出てくる何かが三匹ほどいた。
月明かりにその毛並みが照らし出され、俺は立ち上がりベルトから提げた剣の柄を反射的に右手で掴んだ。
それは人の骨格をしているように見えたが、人ではなかった。
実際に二本の足で立っていたが、全身が闇に溶け込むような黒く長い毛で覆われた異形の姿をしていた。
顔に至っては巨大な狼にしか見えない。
黒ずんだ牙を露わにして唸っていた。背を丸めているから分かりにくいが、身の丈は大人の男と大差ない。
足こそ四足動物の細長いそれだが、手は歪な人のような形をしている。
「もしかして、こいつらワーウルフってやつか」
昔故郷の村で暮らしていた時、迷い込んできたワーウルフをアベルの父が退治したと聞いたことがある。
森に棲んでいる魔物の一種とされていたが、この森にもいたのか。
ワーウルフたちは鼻息荒く俺たちを睨んでいた。
琥珀色の瞳には爛々とした敵意の光が宿っている。
大方腹を空かせて森をさまよっていたところに、ちょうどいい肉が二つあったといった具合か。
ファレスを呼ぶべきだ。剣から手を放し、そう判断する。
正直、このまま相手するのは一匹だけだったとしても危険だ。
ワーウルフは獣に類する魔物の中でも上位に位置する。
魔物の中で最上位のドラゴンやデーモンはそうそう人の前に現れ街を襲ったりしない。
実質的に最も危険とされているのは毒と邪眼の魔物コカトリス、
群れで飛行し眼下の獲物を蹂躙するワイバーン、
そして夜になると凄まじい敏捷性を発揮し人間を食い散らすワーウルフの三つだ。
それを三匹も同時に相手どれるほどの剣の腕は俺にはなかった。
なんせ実戦経験などほとんどない元従士である。
ファレスの名を呼ぼうと息を吸い口を開こうとしたとき、何かが風を切る音がした。
次の瞬間にはワーウルフの内の一匹が吹き飛ばされた。
水平に飛び、その背後の木に頭部を乳白色の短槍のような何かで縫いつけられた。
即死だったのか、もがくこともせずだらりと四肢を投げ出す。
ワーウルフたちが未知の脅威に吠える。
最早俺たちは眼中にないらしく、背後の誰かへの威嚇に夢中になっていた。
「何をしている! そいつらから離れろ!」
低い男の声が森に響く。リインの手を取って走り出そうとするも、リインは動かなかった。
腰でも抜けたか。有無を言わさず腰に手を回し、そのまま脇に抱えて踵を返す。
何か抗議の声が聞こえるが、気にしている場合ではない。
後ろには百九十はあろうかという巨漢が立っていた。
恰幅がいいどころではない。体中が筋肉の鎧に覆われ膨れ上がっている。
暗い色の革鎧を着ていたが、最低限の防御しかないように見えた。
装甲も数えるほどしかなく、申し訳程度に籠手や左側に肩当があるくらいだ。
岩を削ったかのような顔面にはところどころに深いしわが刻まれており、
右目は失明しているのか眼帯に覆われている。堅そうな髪は燃えるような赤色をしていた。
背には穂先が広く両刃のついた長槍がある。
そして何よりも衝撃的だったのは、男がその手に持っていた大弓と矢らしきものだ。
最低限木の弓と弦という体は成していたが、俺が知っている弓とはかけ離れていた。
その全長は男と同じくらいはあり、あろうことか下の方で枝分かれしていた。
そこに月光を受けて小さく煌めく二本の弦が交差するように張られている。
矢なんて槍に近かった。骨のようにも見えたが、あまりにも大きい。
一応緋色の矢羽がついていたが、あれが今しがたワーウルフの額を射抜いたとは俄かに信じがたかった。
男が足を開いて地面を踏みしめ、異形の大弓を垂直に構えると、歪な矢を番え弦を引いた。
俺は驚いて足を止め、直角に曲がるようにして横に走った。
あの男の弓の技量がどれほどのものかはワーウルフの屍が物語っていたが、
それでも目の前で弓を構えている男に向かって走っていけるほどの度胸は俺にはなかった。
木の弓がしなり、弦が鳴る。杭のような矢が放たれ、またもやワーウルフを宙に浮かせた。
二メートル近く滑空し、そのまま地面にその身を擦りつけながら倒れ込む。
これも即死だった。血の池を作る仲間の体を見て、残ったワーウルフが吠えるのをやめた。
男から顔を逸らし、おもむろに背後の木々の中に飛び込んでいった。
「ゲイルさん?」
脇に抱えられたリインが人の名前らしき言葉を口にした。
リインをそっと地面に降ろす。やっぱりゲイルさんだ、とリインは驚きと喜びが混ざった声を上げた。
ゲイルと呼ばれた男が弓を片手で持ったまま歩み寄ってくる。
リインの顔を一瞥すると、俺には目もくれずにワーウルフの死体に近づいていった。
大矢をずるりと引き抜き、一振りして血と脳漿を地面にぶちまける。
矢を脇に挟むと、もう一体の死体の矢を回収し、それからようやく俺たちに話しかけてきた。
「無事でよかった、リイン」
ゲイルの表情は変わらず仏頂面だった。
リインと一緒にゲイルの顔を軽く見上げる。
「ああ、テオ。この人はゲイルさん。私の小さいころからの知り合いなの。
お父さんは雑貨屋さんだったんだけど、ゲイルさんは昔からよく珍しい品物を持ってきてくれてたんだ。
でも、どうして? それに、なんでそんな弓矢」
「説明すると、長くなる。今言えることといえば」
ゲイルは目を伏せ、すっと息を吸った。
まるで、この瞬間を、その言葉を継げることを長年待ち続けていたかのように。
「おまえを産んだ女との約束を果たしに来た」